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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (野本道玄)

野本道玄 信政が上方から招いた技能者の内のひとりに野本道玄(一六三六~一七一〇)がいる。,伝えによれば、道玄は木下長嘯子の第一四子として生まれたという。,育てられ、洛北鷹峯(たかがみね)に住んで漢学や仏学に通じ、長じて赤穂浅野家に仕えていた一樹庵三世野本道玄,道玄は水の良否をよく選別し、油川(現青森市)の水は京都宇治川の水より七分目軽い日本一の名水と評した(『,道玄は茶人、数寄人としてのみではなく、養蚕、機織、製紙等の実業にも指導的役割を果たし、弘前の産業振興に / 野本道玄
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

野本道玄の招聘 津軽信政が藩主だった時代には、数多くの諸方面の人材が招聘(しょうへい)され、津軽領の,図99.野本道玄召し抱えの江戸日記記事 目録を見る 精細画像で見る  道玄招聘の主な目的が彼の,18日,野本道玄,御茶道として江戸で召し出される(医者並150石)。,そのときから,清如堂においてしばしば茶の湯が催され,道玄茶道役を勤める。,高森太郎兵衛,道玄に代わり,織物会所監督。 / 野本道玄の招聘
通史編3(近世2) (織)

手工業としての形態をとりうるようになったのは、元禄六年(一六九三)に京都から招聘(しょうへい)した野本道玄,野本道玄は「江戸日記」(弘図津)元禄六年十二月十八日条によると、家老津軽監物(つがるけんもつ)の口ききによって,「国日記」元禄七年一月六日条では御茶道野本道玄と記されているほか、茶道役としての誓詞を差し出しており(,もっとも、茶道役の野本道玄が絹織物師の斡旋や自ら養蚕の技術指導に当たり、絹織物の生産に資するようになったのは,両人の召し抱えは、野本道玄のかねてからの上申によるもので、織座を取り立て、領内における養蚕と絹織の指導
通史編3(近世2) (繭)

図137.織物会所合印木札の図 目録を見る 精細画像で見る  「蚕飼養法記」は野本道玄が京都で,道玄は桑園の開発や養蚕の実地指導のほか、このような指導手引き書を刊行し、養蚕の改良と普及に貢献した。,なお、「国日記」宝永三年(一七〇六)十月七日条には、野本道玄の願いを受け、永年桑畑の取り立てに従事してきた,〝野本村と称す〟の記載 目録を見る 精細画像で見る  野本道玄の出身地は山城(現京都府南部)で,図139.野本道玄の墓
通史編2(近世1) (染織技術の導入政策)

この招聘に当たっては野本道玄の申し立てがあったことが知られている。,野本道玄が著した「蚕飼養法記(こがいようほうき)」も、このような動きの中で生まれた。,「国日記」宝永元年(一七〇四)二月十五日条によれば、この書物は藩の命を受けた道玄が京都で板行させたものである,道玄がこの著作を著したのは、藩が専売政策をもくろんだ織物の生産に当たって、その原料・製品の製造を支える
通史編3(近世2) (桑の栽培と養蚕)

栽培と養蚕 桑の栽培と養蚕も古くから行われていたが、組織的かつ専門的に行われるようになったのは、野本道玄,と道玄の斡旋で招かれた欲賀庄三郎と冨江次郎右衛門両人の入国以後のことである。,また元禄十四年(一七〇一)には野本道玄が上野(うわの)(宇和野とも表記。,これは欲賀庄三郎が道玄に連絡もなく、織座用には三〇〇間(約五四〇メートル)四方で良いとする判断で、他への
通史編2(近世1) (漆以外の国産品)

養蚕は元禄期に京都の野本道玄を招いて本格的に導入された産業である。
通史編3(近世2) (紺屋町末紙漉所)

殖産興業の方針が野本道玄(のもとどうげん)主導で、養蚕・製糸・織物業に転換したのである。  
通史編3(近世2) (信政の文治)

鈴木定右衛門、勝元水右衛門、加藤新左衛門   諸礼式 横山嘉右衛門(小笠原流)、斎藤長兵衛   茶道 野本道玄
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