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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (討庄応援兵の派遣)

討庄応援兵の派遣 西館宇膳は四月七日に飛脚をもって応援出兵命令等を弘前へ申し送った(資料近世2No.,これに対して国元では、早速家老杉山八兵衛の仙台派遣を決め、応援兵派遣へと準備しはじめることになる。,杉山八兵衛の仙台派遣は、西館宇膳より諸藩が次々と総督府に使者を送っている様子が伝えられたことに基づく判断,さらに四月二十日には、先遣隊として松野栄蔵隊へ急ぎ出兵を命じた。,久保田甚之進隊、閏四月二日には対馬仙蔵隊、石山真太郎隊の砲隊二組、八日には白取数馬隊の各隊をそれぞれ派遣している / 討庄応援兵の派遣
通史編4(近・現代1) (第八師団のシベリア派遣)

第八師団のシベリア派遣 シベリア出兵が弘前市民にとって最も身近な問題となったのは、やはり第八師団自体,が派遣されてからだろう。,大正十一年四月十九日、第一一師団と交代するため、第八師団がシベリアに派遣されることになった。,郷土師団の派遣、とくに軍都弘前を象徴する第八師団の出征ということで、弘前市民の関心は一気に高まった。,撤兵が決定するとともに派遣されていた各師団は凱旋を果たした。 / 第八師団のシベリア派遣
通史編2(近世1) (銀遣いへの変更と商人の活用)

銀遣いへの変更と商人の活用 藩は上方商人から大きな借金を抱えていたが、それが累積していく大きな要因として,との関係ができ、領内の金銀を上方(かみがた)に送って銭と替え、それを領内で通用させたことから、領内は銭遣(,つまり、江戸への送金も領内の銭遣いも上方銀主を通して行われており、上方銀主に支払う手数料・両替料の出費,藩は、この問題を解決するため、領内の銭遣いを銀遣いとする方針を固めた。,銀遣いへの変更は、このような商人統制のもとになされたのである。   / 銀遣いへの変更と商人の活用
通史編1(古代・中世) (夷千島王の朝鮮遣使)

夷千島王の朝鮮遣使 文明十四年(一四八二)四月、足利義政の使者栄弘(えいこう)と夷千島王(えぞがちしまのおう / 夷千島王の朝鮮遣使
通史編4(近・現代1) (日露開戦と第八師団の派遣)

日露開戦と第八師団の派遣 明治三十七年(一九〇五)二月十日、日本はロシアに宣戦布告した。 / 日露開戦と第八師団の派遣
通史編2(近世1) (地方支配機構の確立)

また、寛文十二年(一六七二)までに一五から二二に遣が増加していたこと(寛文六年までには二二遣となっており,その後、延宝四年(一六七六)に下の切遣から四ヵ村が分離し、五所川原遣が成立して一六遣となった(「平山日記,前期の行政区は、基本的には一五ないし一六の遣からなっていたことがわかる。,遣には、代官所が置かれ、一遣に二人ずつ任命された代官のうち、一人がその任地、一人が弘前で職務に当たっていた,・同小遣四人・同三口二二人となっており、これらの遣ごとの人数・職務の具体的な内容については不明であるが
通史編2(近世1) (情報収集活動)

情報収集活動 津軽弘前・盛岡・秋田の三藩は、松前へ藩士を派遣して戦況等に関する情報を入手する一方、それぞれの,城下へ公式・非公式に藩士等を派遣することによって、他の二藩の動静を調査していた。,、藩御用達の松前町人工藤忠兵衛に状況を報告させること、小身の侍一人を松前に派遣し情報を国元へ伝えさせること,、そして盛岡・秋田両藩の対応をうかがうために両藩への使者の派遣すること、これらを指示した。,さらに、足軽目付・小知行組頭のうち、一月に二、三度、二人ずつ松前に派遣するように、また青森・鰺ヶ沢の両浜
通史編2(近世1) (町役)

人足役を地子銀納にしたことにより、地子銀で町人足を雇用し、それを小遣と称し、約一〇〇人を常抱えとして百人小遣,百人小遣は、支配頭二人のもとに小頭五人、ほかに小遣一〇〇人が所属した。,給禄は、小頭が切米一二三匁三人扶持、小遣は一〇〇匁二人扶持であった(同前)。,百人小遣となった者には、農村出身者が多く、その出身地域もさまざまであって、城下出身者には町端(まちはな,そのとき、人夫の割付は、貞享三年(一六八六)のそれにすることが定められ、百人小遣は解雇された。
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

なお四月の派遣人員とは別に、七月二日にも加勢人数として国元から人数が派遣されている。,表14 越後高田領検地派遣役人表(江戸から派遣) No.,またこの他にも、江戸から派遣された算者五人全員、竿奉行は九人のうち三人、江戸から派遣された物書一〇人のうち,表15-1 越後高田領検地派遣役人表(国元から派遣) No.,(国元から派遣) No.
通史編2(近世1) (領内アイヌと寛文蝦夷蜂起)

老中奉書のような幕府の意志決定を伝える重要文書の運搬に当たっても、和人の飛脚に混じって、領内のアイヌが派遣されている,また、加勢人数として派遣された杉山吉成の隊には九人のアイヌが飛脚として従っている(同前No.八三三)。,また寛文十年の蝦夷地探索に際しては、上蝦夷地に派遣された牧重清の隊に、「狄の通し(詞)候には宇鉄の四郎三郎
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

津軽弘前藩では一五八二人を救援隊として組織し、七〇〇余人を松前に派遣した。,その内容は、異国船の万一の来航に備えるために番頭一組を箱館に派遣し、松前藩に加勢するというものであった,また、藩校の教師である学頭などが派遣軍に組み込まれており、藩校の開設を蝦夷地警備との関連でとらえる必要,毎年、継続的に多数の藩士を蝦夷地に派遣していくということは、藩財政はもちろん、それに伴う藩の制度のありようや,(3)は寛政九年から同十一年までの勤番が、同十一年の蝦夷地直轄化によって、勤番地や派遣人数を変えながら
通史編2(近世1) (検地の実施)

11年  2月26日 3月13日 8月   外浜 在々 高杉・広須・西浜・三千石の各遣。,7年  3月13日 10月 1日 寛文11年以来の残り,藤崎・浪岡・下ノ切の各遣検地,大光寺遣四ヵ村検地目録提出。 天和元年  2月28日 例年の通り,検地役人任命。,そして、翌二十七日には、大光寺遣(だいこうじけん)本田舎館村・上田舎館村・小杉村・柏木村四ヵ村の検地目録,検地目録は、検地奉行が派遣された地域ごとに作成され提出された。
通史編2(近世1) (貞享検地への影響)

「貞享検地」のおもだった役人は、高田領検地の派遣役人、ないし高田領検地と何らかのかかわりを有する者であり,、「貞享検地」が高田検地に派遣された役人たちによって実施されたという側面を持っていることは明らかである,とされた(実際には派遣されなかった)。,検地奉行の太田茂左衛門と今次兵衛は、高田検地にはともに竿奉行として国元から派遣された。,また竿奉行一〇人のうち六人が、高田検地の竿奉行その他二人も検地役人としてそれぞれ派遣されている。  
通史編2(近世1) (「分領」体制下の警衛と政策の実態)

、安政期の警衛同様、箱館千代ヶ台に元陣屋(もとじんや)、スッツに出張陣屋が置かれ、そこに勤番人数が派遣される,明治新政府に対して提出された書付では、蝦夷地の警衛体制について、スッツに一〇〇人、箱館には二〇〇人を派遣、
通史編1(古代・中世) (阿倍比羅夫の登場)

七世紀後半から八世紀初めには、北ばかりでなく奄美方面の南島にも覓国使(くにまぎし)が派遣され、中央政府,、いわゆる「四道将軍(しどうしょうぐん)」(写真28)のうち、北陸に派遣された大彦命(おおひこのみこと,)の子孫であると伝えられ、また崇峻二年(五八九)に北陸道に遣わされて「越等の諸国」を視察したのも阿倍臣,また越国守としての軍の派遣であるから、決してこれは私軍ではない。,中央政府の命、少なくとも諒解を得ている正規の派遣である。
資料編1(古代・中世編) ([七世紀以前])

●景行天皇二十五年、武内宿禰を北陸・東国に派遣。同二十七年、東夷の状態を報告。,田道を派遣するも敗死。 ●清寧天皇四年、蝦夷等内付。,●斉明天皇五年(六五九)七月、遣唐使、陸奥蝦夷を引き連れて唐高宗に謁見。津軽の蝦夷等を説明。
通史編3(近世2) (操人形芝居)

糸操や仕掛けによる人形は、浄瑠璃芝居の三人で遣(つか)う手遣(てづか)い人形になった。
通史編4(近・現代1) (弘前女学校と付属幼稚園)

(現弘前学院聖愛高校)校長M・E・ウィルソンは、弘前においては幼稚園開設の需要が強く、専任の教師を派遣してもらえれば,これにこたえる形でミス・サウザートという幼児教育を専攻した若い女性が早速弘前へ派遣され、翌三十一年四月
通史編5(近・現代2) (日華事変勃発)

・各種団体長による、北支事変に関する協議会が朝陽小学校において開かれ、その席上、内閣四大臣及び北支派遣軍司令官宛,市内各小学校では校長会の決定に基づいて、七月二十七日北支事変に関する講堂訓話を行い、二十八日には鎮守宮に北支派遣皇軍
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

一七九五)五月九日、津軽弘前藩は、幕府に対して、異国船が領内沿岸に姿をみせた場合に、城下から該当地域へ派遣する,それによると、城下からその場所へ早速一番手人数を派遣し、様子をみて二番手・三番手人数を派遣する手はずとなっている,五月二十四日には、青森へ馬廻組頭(表書院大番頭)西館宇膳(にしだてうぜん)を士大将とする一手五五人を派遣し,秋田藩は、当初この依頼を自領の海防と蝦夷地警衛に人数を派遣していることを理由に断るつもりであったが、結局
通史編2(近世1) (寛文十年の情報収集)

上蝦夷地には牧重清(まきしげきよ)、下蝦夷地には秋元吉重がそれぞれ長として遣わされた。,に得た情報は、いずれも松前城下で獲得した、いわば伝聞情報であったが、それに対し、寛文十年に蝦夷地へ派遣された,牧がアイヌから情報を得て帰国したのと前後して、則田安右衛門と唐牛甚右衛門が使者として松前城下に派遣された
通史編1(古代・中世) (「津軽」の地の独自性)

「津軽」の地の独自性 先にも触れたが、斉明天皇五年(六五九)の遣唐使の記録である『伊吉連博徳書』によれば,、時の唐の皇帝高宗の「蝦夷には何種類あるのか」との質問に対して、遣唐使は「日本の蝦夷には三種類あり、遠,(景行)天皇の命にしたがわなかったので、日本武尊が征討のために遣わされた。
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

それは、①庄内征討の件、②会津藩の謹慎と助命嘆願が米沢藩と仙台藩でなされている件、③仙台に山中兵部を派遣するに,秋田藩は翌日、家老戸村十太夫と用人金大之進を使者として仙台へ派遣した。,閏四月十一日付の岡本又太郎ら家老四人が沢副総督との会見した後に戸村十太夫に出した書簡によれば、この使者派遣目的
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

ついで、時慶、前関白近衛前久の津軽への返信を遣わす。,時慶、使者中野弥三郎へ返書を遣わす。,ついで、薬種も遣わす。,呼び戻しに津軽家重臣へ書状を遣わす。,秋田藩重臣梅津政景、信枚の宿所へ使者を派遣する。
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

地子銀で雇用した町人足は小遣(こづかい)と称され、約一〇〇人が常に抱えられたので「百人小遣」と呼ばれた,百人小遣は支配頭二人のもとに小頭五人、小遣一〇〇人が所属し、給料は小頭が切米一二〇匁三人扶持、小遣は一,百人小遣になった者は領内村々の出身者が多く、城下出身者には町はずれの者が多かった。,人) 6人 牢守 2両2人扶持 2人 瀬戸物焼 30俵 1人 御豆腐屋 20俵 1人 町年寄手付并小遣,このうち、名主・月行事・町年寄小遣・御用屋敷・新田会所・能役者屋敷・人馬請払所・鍛冶役所・具足役所などが
通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

これにより、両藩はそれまでの箱館勤番を免除され、ともに重役を二、三人、足軽を五〇〇人ずつ派遣し、元陣屋,なお、派遣された足軽のほとんどは、郷夫(ごうふ)として動員された百姓や職人であり、本来の軍団編成ではなかった,エトロフ三〇人・箱館五七人・サワラ六〇人と、そのほかに前述したシツカリ~レブンゲ間の新道普請に一〇三人が派遣されている,各年度で実際の派遣数に若干の違いはみられるが、寛政十二年~文化三年までの幕府との間で決められた定数は二五
通史編2(近世1) (町方支配)

町年寄には、物書三人・小遣六人・人馬割所での小遣四人が付属していた。,そして、これら小遣への給銭を出す町内は、本町(ほんちょう)・東長町(ひがしながまち)・土手町・茂森町・,正徳期、町名主の小遣は、支配の町人から一人ずつ一一町から出され、各町内の屋敷持(町役としては中役)四軒
通史編1(古代・中世) (南北朝の動乱と曽我氏)

、それを妨げた倉光孫三郎を追い払い、八月には光俊(または光時(みつとき)か)を鹿角(かづの)征伐に派遣し,七月には再度、鹿角に若党鱸鎌治(すずきかまはる)を代官として派遣している(史料六七七・六七八・六九九)
通史編2(近世1) (三 貞享検地と地方支配機構の確立)

地方知行(じかたちぎょう)制から俸禄(ほうろく)制に、また、天和三年(一六八三)には、一六からなっていた遣という
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

、三厩詰めの物頭一手が六条之間村の浜先を、さらにその後詰めを勤める物頭一手が藤島村の浜先、弘前から派遣された,引き続き派遣された二番手番頭一備は平舘に赴き、その方面を固める手はずとなった。  ,では、「海岸向固之儀」について宗藩から在所黒石の家来に通達があり、それを受けて物頭一手の人数を平内に派遣したことになる,黒石藩の海防態勢をみると、黒石から二〇人ほどの藩士が平内領の田沢村(東津軽郡平内町東田沢)に派遣されるとともに,希望したようだったので、小舟に六人を乗せたところ、外の船からも小舟が下ろされたため、こちらにも人数を遣わして
通史編1(古代・中世) (渡嶋津軽津司)

』養老四年(七二〇)正月丙子条の、「渡嶋津軽津司従七位上諸君鞍男(もろきみのくらお)ら六人を靺鞨国に遣わして,名前の方の「鞍男」は和人的ではあるが、中央から派遣された人物であるのか、どこか日本海岸の地方の人物であるのかの,やはり諸君鞍男は、出羽国司らとともに中央から派遣された人物で、その地位の高さからすると、かなり広範囲の
通史編2(近世1) (秀吉の東国への停戦令)

に置いたものであったが、のち秀吉の妹旭姫の家康への輿(こし)入れにより回避される)、③関東に使者を派遣し,確定し、それが確定するまでは紛争を停止する、④「京都御使節」として山上道牛(やまがみどうぎゅう)を派遣する
通史編2(近世1) (関東・奥惣無事令)

三河国岡崎(おかざき)にいた家康のもとに届き、そして、家康が朝比奈泰勝(あさひなやすかつ)を北条氏のもとに派遣して,また、天正十六年(一五八八)十月二十六日、家康は伊達政宗に書状を遣わして、最上義光(もがみよしあき)との,一五八五)秋に秀吉の使者として奥羽に下向した経験を持つ、金山宗洗(かなやまそうせん)がその使者として派遣され,使者として派遣された金山宗洗の活動も、相馬・白河・山形・庄内・米沢といった地域であったようである。
通史編1(古代・中世) (蝦蛦)

この時代の中国の歴史書である『新唐書(しんとうじょ)』『通典(つてん)』が、斉明天皇五年(六五九)の遣唐使,この斉明天皇五年(六五九)の遣唐使がエミシを同行したのは、時の唐の皇帝高宗にそれを披露して、日本も異民族,まずそれによって、高宗と遣唐使とのやりとりを紹介しよう。  ,引用しているが、それによれば、このエミシは弓三・箭(や)八〇を持参しており、また中国側の記録によると遣唐使
通史編3(近世2) (道路の整備)

れを前々から命じていたが、徹底されず、往来の者が難渋している、目付(大目付の指揮を受ける監察の官)を派遣し,屋敷方を派遣するから、道路の高低に応じた堰を掘って水の流れをよくし、交通の妨げを解消するように、というものであった
通史編1(古代・中世) (靺鞨とは)

そしてこのときの津司の派遣は、前年の大祚栄の死を受けて、その後の渤海の情勢を探ること、また悪化しつつある,あるいはこの津司の派遣については、古くから王権が行ってきた「覓国(くにまぎ)」と呼ばれる辺境探検の系譜
通史編2(近世1) (「標符(通帳)」の形態と呼称)

現存のものがないため、諸史料から想定するしかないが、小額の標符のことで、日々の「小遣」用として用いられたようである,「小通」は日々の小遣いのために員数方へ持参した標符を小札に切り分けたものという。,しずつしか購入ができないことから、「切通帳(きりかよいちょう)」というのができたとし、それを日々の小遣いのために,ただし『平山日記』に、小遣いにしたいときには、標符を切り替えに御員数方へ行けば、何匁何分と記した「横帳面,の小冊」が員数方から出され、それをもって医者への薬代や諸職人への日雇銭の払い方に遣わす、とある。
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

蝦夷地政策 ロシアの南下の実態は、天明五年(一七八五)と翌六年に、老中田沼意次(たぬまおきつぐ)が派遣した,田沼はこれを採用し、蝦夷地開発計画のもと蝦夷地探検隊を派遣した。,多くは飛騨屋によって現地の運上屋や番屋に派遣された支配人・通詞・番人といった出稼ぎ者であったが、飛騨屋手船,最上徳内らがこのために派遣されている。  ,そして、翌十年三月、幕府は蝦夷地直轄を射程に入れた蝦夷地調査隊を派遣した。
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

異国境大切之土地柄」であるから蝦夷地警衛はこれまでのように心得ること、また警衛人数の蝦夷地への現地派遣はやめるものの,三厩詰人数が渡海の際は、まず後詰のうち三〇騎一備(御番頭一手、足軽・長柄までの惣隊をいう)を三厩に派遣し,さらに領内沿岸や蝦夷地での非常事態の際に派遣する「蝦夷地警衛・御領分海岸防禦(ぼうぎょ)平常備組」(総勢一
通史編2(近世1) (東西蝦夷地直轄下の勤番体制)

への増援要請が箱館奉行からあったことから、同年五月、当藩では竹内源太夫を士大将として、総勢五八七人を派遣して,なお,文化5年には高嶋に191人(100)が加わり,同6年には,この外に北蝦夷地に52人を派遣。  
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

検地奉行として木村重茲、津軽の検地奉行として前田利家、仙北の検地奉行として大谷吉継と上杉景勝がそれぞれ派遣された,同年七月二十日には、浅利氏三家老の一人である片山弥伝(かたやまやでん)に対し、太閤検地については秀吉が派遣した,に帰還したとはいえ、いまだ独立的な片山氏を家臣として強固に統制するまでには至っておらず、豊臣政権が派遣した
通史編1(古代・中世) (得宗被官の入部)

そこには、得宗家公文所から派遣された実務官僚が配置されていたようである。  
通史編4(近・現代1) (シベリア出兵と「尼港事件」)

そのため居留民保護を目的として海軍当局は艦隊を派遣し、陸戦隊を上陸させて革命軍勢力を牽制した。,十二月、この演習に第八師団管下の歩兵第一六旅団と工兵第八大隊の一部が派遣された。
通史編3(近世2) (江戸での買い物)

一八六六)五月に弘前を出発、江戸へ登って江戸藩邸に勤務し、翌三年三月に弘前へ帰るまでの費用を詳細に記した小遣帳,髪結いにも支払い回数が多いのは、衣服のほか身だしなみにも気を遣っていたことになろう。
通史編2(近世1) (民兵の登場)

今別では松前稼ぎのものが多く屈強な者が少なかったため、万一の際には三厩詰将兵が派遣されることになった。,大間越では十五歳から六十歳までの男子を総動員しても七〇人余だったため、万一の場合、赤石組の民兵が派遣されることとなった
通史編3(近世2) (信政)

藩が使者を遣わして領内外の吉凶を報告したものであるが、藩主家の吉凶禍福が主な内容である。,信政はすぐに国元の和徳稲荷宮へ代参を遣わし、津梁院境内に和徳稲荷を祀らせた。
通史編1(古代・中世) (津軽惣地頭宇佐美実政)

)には、奥州合戦で北陸道の将として出羽鎮定に功績のあった宇佐美(大見)平次実政を、その惣地頭として派遣した
通史編1(古代・中世) (持寄城の合戦)

またこの間、顕家は各地の有力武士を続々と津軽へ派遣した。
通史編2(近世1) (蝦夷地警衛が藩財政に残したもの)

申し述べるだけで進物は一切なし、したがって諸家からの進物も辞退し返却すること、また諸々の際に使者を派遣してきた
通史編4(近・現代1) (知事辞職勧告)

そして、知事に辞職を勧告する代表が青森に派遣された。
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