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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(考古編) (第7節 出土遺物と生活)

第7節 出土遺物と生活 中世の遺跡や遺物によって、文献には現れない当時の人々の生活を復元をしようとする,時、精神生活に深く関わる遺物及びその出土状況を把握しなければならない。,例えば、仏教関係の遺物を抽出しようとすると、中世以前の資料から見なければならない。,硯として使っていたらしい)や、尾上町下安原遺跡出土の錫丈、など古代・平安時代の段階から仏教に関連する遺物,また形代(かたしろ)といった特殊な遺物も、木器で作成した刀形・斎串などがあり、呪術的な生活に対しても示唆 / 第7節 出土遺物と生活
資料編1(考古編) (-製鉄関連遺物-)

-製鉄関連遺物- 製鉄関連遺物には、精錬炉・鍛冶炉で使用する羽口(送風管)、各作業工程で出る鉄滓を中心 / -製鉄関連遺物-
通史編1(古代・中世) (原エミシ文化・エミシ文化の祭祀遺物)

原エミシ文化・エミシ文化の祭祀遺物 原エミシ文化の時代には、古墳文化の特徴的祭祀遺物である剣形(つるぎがた,また、天間林村森ケ沢遺跡では、続縄文文化系の墓壙に、古墳文化系の遺物を主体としながらも、続縄文文化系の,この時代の類例は決して多くはないが、全般的には古墳文化系の祭祀遺物が主体といえそうである。 / 原エミシ文化・エミシ文化の祭祀遺物
資料編1(考古編) ((8)馬産と関連遺物)

(8)馬産と関連遺物 古代において、東北地方で多くの馬が生産されていたことは、当時書かれた文書によって / (8)馬産と関連遺物
資料編1(考古編) (12.牧野Ⅱ遺跡)

経緯  遺跡は、昭和53年(1978)11月に土地所有者がビニールハウス建設のため整地した際、多量の遺物,出土し、それを伝え聞いた県立弘前工業高校岡田郁雄教諭の調査を経て、弘前大学教育学部考古学研究室が出土遺物,(4)遺構・遺物の概要  前述のような事情により発掘調査は行われず、したがって遺構は確認していない。,採集遺物は、縄文時代晩期終末の大洞A・A’式と、当地方の弥生時代前期に当たる砂沢式土器であり、中でも大洞,土器以外の遺物は当時土地所有者が保管していた。
資料編1(考古編) (資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)

図108 古代の祭祀遺物(土馬・斎串・土鈴) 図109 古代の祭祀遺物(土玉・土製勾玉) 図110,図5 大森勝山遺跡大竪穴住居跡実測図 図6 大森勝山遺跡出土遺物(旧石器)、弘前市大沢出土遺物,(イノシシ) 図10 十腰内遺跡出土遺物(1) 図11 十腰内遺跡出土遺物(2) 図12 十腰内遺跡出土遺物,(3) 図13 十腰内遺跡出土遺物(4) 図14 十腰内遺跡出土遺物(5) 図15 十腰内遺跡出土遺物,(土師器甕) 図95 小友遺跡出土遺物(土師器甕・小型土器) 図96 小友遺跡出土遺物(土師器坏)
資料編1(考古編) (6.十腰内遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  11本のトレンチを設定し、4か所に集石遺構が発見され、中には弧状を呈した列石,標式土器〈十腰内Ⅰ群(式ともいう)~十腰内Ⅵ群(式)〉出土遺跡であり、当該期の研究には欠くことのできない遺物,その他の遺物では、土製品に土偶・動物型土製品(イノシシを写実的に表している。,図9 十腰内遺跡出土動物型土製品(イノシシ) 図13 十腰内遺跡出土遺物(4) 土偶・土製品,) 環状土製品(縄文後期) 匂玉ほか各種垂飾品(縄文後期)  図版に示した遺物
資料編1(考古編) (7.小友遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  調査の結果、縄文時代・弥生時代・平安時代後期の遺構・遺物が発見されている。,なお、縄文時代及び弥生時代のものはわずかにすぎず、主体は平安時代の遺構・遺物である。,発見された主体的な遺構内外の遺物は、全て平安時代に属するものだけである。,(土師器甕) 図95 小友遺跡出土遺物(土師器甕・小型土器) 図96 小友遺跡出土遺物,(土師器坏) 図97 小友遺跡出土遺物(須恵器・17は同転用硯) 図98 小友遺跡出土遺物
資料編1(考古編) (例言)

「考古編」は解説・遺跡・遺物集成・図版により編成され、解説は青森県の各時代について概観し、遺跡は弘前市内,なお遺物集成は掲載資料の範囲を津軽全体にまで広げたものもある。,4.遺物の図版は縮尺が統一されていない。また、但し書きのない図版は調査報告書からの転載である。,5.所蔵機関および所蔵者名のない遺物は、弘前市教育委員会の所蔵または所管品である。
通史編1(古代・中世) (五 城館の発掘成果)

しかしながら、前項でもみたように一般集落から出土する遺物に関しては、主として食膳具や生産に関連した遺物,が多いのに対し、城館はそれらとともに防御的な施設や文化的な遺物を出土することに遺跡としての特徴がある。
資料編1(考古編) ((1)祭祀と仏教文化の波及)

以下、各種遺物の概要と出土状況から見た特徴等について略述する。,図107 古代の祭祀遺物分布図 表8 古代の祭祀遺物出土遺跡一覧 番号 遺跡名 所在地 出土遺構,祭祀関連遺物 伴出遺物 時期 備考 1 甲里見(2)遺跡 黒石市大字高館字甲里見 竪穴住居跡 覆土,ブロック 土玉1 土師器 8C前半   番号 遺跡名 所在地 出土遺構 祭祀関連遺物 伴出遺物,図108 古代の祭祀遺物(土馬・斎串・土鈴) 〔鈴〕 鈴には土鈴と鉄鈴があり、県内出土の遺物は表
資料編1(考古編) (5.荼毘館遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  調査の結果、縄文時代(早・中・後・晩期)、平安時代(後期)、中世(13~15,なかでも、平安時代後期(10世紀後葉~12世紀前葉)の遺構・遺物が主体を占める。,なお、呼称されていた荼毘館跡(中別所館跡の一郭)の北側地区であり、遺構・遺物の在り方から、少なくとも、,⑤出土遺物 土師器、須恵器、古銭、鉄鍋、坩堝、羽口、鉄製品、砥石等が出土している。,号土壙(鍛冶遺構)出土遺物 図80 荼毘館遺跡第201号井戸跡・出土遺物(木製品・土師器)
資料編1(考古編) (1.中野遺跡)

(3)遺物発見の経緯  井上健造により、リンゴ園及び蔬菜畑から耕作中に発見されたものである。,(4)遺構・遺物の概要  出土遺物はすべて土師器で、坏6点、片口土器1点、甕12点の総数19点である,いずれも、正規な発掘調査によるものではなく、耕作中の偶然の発見であるため遺物間の共伴関係は明らかではない,遺物は、奈良時代のものであり、坏の一部や片口土器等は8世紀前葉期であるが、ほかは8世紀中葉~後葉に属する
資料編1(考古編) (5.大森勝山遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  当遺跡は、第1次調査により台地の南西部から13.77m×12.80m,大森勝山遺跡発見の環状列石 大森勝山遺跡の大堅穴住居跡床面における遺物出土状態 図,5 大森勝山遺跡大堅穴住居跡実測図 図6 大森勝山遺跡出土遺物(旧石器)、11は弘前市大沢出土,図7 大森勝山遺跡出土遺物 1 円筒下層d2式土器 2 大洞B式土器,6 円盤状土製品 7 円盤状土製品 図8 大森勝山遺跡大堅穴住居跡内出土遺物
通史編1(古代・中世) (十三湊空白の百年)

十三湊空白の百年 十三湊の発掘調査で出土する遺物には、一五世紀末から一六世紀代の遺物がほとんど認められないという,一メートル以上の砂丘が形成されており、砂丘の上面では確実に近世(一六世紀末から一七世紀初頭)の遺構や遺物,ふしょうじ)遺跡(金沢市・写真169)後城(うしろじょう)遺跡(秋田市)なども一五世紀末から一六世紀の遺物,関係が深いとされる北海道余市(よいち)町の大川(おおかわ)遺跡(写真170)に関しても一五世紀までの遺物
資料編1(考古編) ((2)4世紀後半代~5世紀代)

天間林村森ヶ沢遺跡を中心として、青森市細越館遺跡・十和田湖町三日市遺跡・平内町槻ノ木遺跡などの古墳文化の遺物,この時期の北海道系遺物としては、続縄文文化の北大Ⅰ式土器と黒曜石製石器であり、古墳文化の遺物としては土師器,採集資料のほか、平成5年(1993)に行われた国立歴史民俗博物館の調査で、集団墓地跡とそれに伴う多量の遺物,また、出土した遺物は、北大Ⅰ式注口及び片口土器、南小泉式後半期(5世紀後半)に併行する土師器坏(2点は
資料編1(考古編) (13.神原遺跡)

水田(低湿地)整地のため、当該遺跡の土を削る工事中に発見され、昭和44年(1969)7月1日に散乱する遺物,(4)遺構・遺物の概要  前述のような事情により遺構は確認されていない。,遺物は、採集された約120片の土器破片と石鏃(有茎1点)・石片のみである。
資料編1(考古編) (6.独狐遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  2次にわたる発掘調査の結果、平安時代では竪穴住居跡・土壙・溝状遺構、中世では,一方遺物では、縄文時代早期・中期・後期・晩期の土器・石器が、また平安時代後半期(10世紀~11世紀代),また、この時期の土壙や溝跡あるいは遺構外の出土遺物には、10世紀後半~11世紀代の土師器甕・坏・須恵器甕,該期の出土遺物は、ロクロ使用の小型皿(かわらけ)・白磁小壺・劃花文(かくかもん)青磁椀・珠洲鉢・渥美壺,(土師器・須恵器) 図89 独狐遺跡出土遺物 図90 独狐遺跡出土陶磁器
通史編1(古代・中世) (かわらけと陶磁器)

かわらけと陶磁器 中崎館遺跡から出土する遺物のなかでもっとも特色のある遺物が「かわらけ」(写真80),一二世紀後半から一三世紀前半にかけての遺物が出土している遺跡を示すと青森県内でも津軽地域の内陸部で卓越,さらに細かくみていくと一二世紀後半代の遺跡と一三世紀前半の遺跡では遺物に相違が認められる。,たとえば、浪岡城跡内館(うちだて)と中崎館遺跡の出土遺物を比較すると、前者は四耳壺(しじこ)の主体が白磁,し、中崎館遺跡の場合は少なくとも浪岡城跡内館以後の遺物群と考えられ、一三世紀前半を主体とした遺物群の可能性
資料編1(考古編) (3.石川長者森遺跡)

一方、埋葬時の副葬品や葬送儀礼における祭祀遺物については、前者が各種玉類を含む多くの鉄製品等の遺物が用,また、祭祀遺物も少ない。,竪穴内からの出土遺物としては、土師器甕・同坏・砥石がある。,遺物は、土師器坏・同甕・砥石2点が出土した。,(土師器・須恵器) 図45 石川長者森遺跡出土遺物
資料編1(考古編) (16.鬼沢猿沢遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  遺跡としては、縄文時代後期の十腰内Ⅴ群(式)土器の竪穴住居跡1軒・土壙27,出土遺物が少ないため時期の不明なものも多いが、明瞭なものは竪穴住居跡と同様に十腰内Ⅴ群(式)土器期である,配石・焼土遺構は伴出遺物がなく、時代時期ともに不明である。出土遺物は、土器及び石器・石製品である。
資料編1(考古編) (11.牧野Ⅰ遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  調査は、柱穴状ピットの周辺を中心に実施したが、竪穴住居跡等の遺構は見られず,遺物は、調査区(40m2)の各所から出土している。,図26 牧野I遺跡出土 板状土偶 図27 牧野Ⅰ遺跡出土遺物(縄文中期) 円筒上層b式土器
資料編1(考古編) ((3)6世紀代)

石製模造品は、散発的であるが古くから知られており、古墳文化の特徴的な精神文化遺物として注目されていた。,5世紀代同様、この時期も北海道系遺物が相対的に少ない。
資料編1(考古編) (10.弘前城内遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  両遺跡とも遺構は発見されていない。,遺物は、昭和56年度の蓮池護岸工事で、縄文時代前期の円筒下層b式・同d1式土器、同時代中期の円筒上層a,図25 弘前城内公園緑地課前遺跡出土遺物(縄文晩期) ※参考文献 弘前市教育委員会『史跡弘前城跡,はす池発掘調査報告書』弘前市 1982年3月 福田友之「弘前城本丸跡発見の石器時代遺物について」(北奥古代文化
資料編1(考古編) (1.沢部Ⅱ号遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  道路建設予定地域内の調査であり、遺跡の中心部から外れた結果、遺構は検出されていない,出土遺物は縄文時代前期中葉の円筒下層a並びに同b式土器であり、石器には石鏃(無柄が多い)・石槍・箆状石器,小栗山地区遺跡発掘調査報告書』(青森県埋蔵文化財調査報告書11集)1974年3月 図1 沢部Ⅱ号遺跡出土遺物
資料編1(考古編) (3.野脇遺跡)

(4)歴史環境 中崎館遺跡から出土している12世紀後半から13世紀前半の各種遺物は、野脇遺跡からも中世,の遺物も存在するがいずれも中世・近世(ほとんどが近世の遺物を含む)の遺物といっしょに出土していることから,掘立柱建物跡の年代観を溝・堀跡及び土坑の出土遺物年代観からと補正を加えて、遺構変遷を示したのが図126,(6)出土遺物(カラー図17~22) 出土した遺物は、縄文時代(晩期を中心とする)の土器・石器、弥生時代,図129 野脇遺跡出土陶磁器実測図(1)  以下出土遺物の多い遺構を中心に見てみる。  
資料編1(考古編) ((2)県内遺跡の出土工芸品)

漆塗り深鉢)をはじめ、編物・紐(組紐もある)・結び目を有する紐・縄などが製作・使用されており、それらの遺物,木製品製作の技術は、その後も時代の推移とともに継承され、本県では縄文時代晩期に至ると、その存在を証明する遺物,北津軽郡板柳町の土井1号遺跡(低湿地遺跡)出土の同種遺物も原材と作りは同様であるが*139、亀ヶ岡遺跡出土,の縄文館並びにカルコ(縄文住居展示資料館)に展示されている同種遺物は、カヤまたはスゲの類を原材にしているように
資料編1(考古編) (2.天王沢遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  当該遺跡も道路建設予定地域内の調査であり、遺跡の中心部から外れていた結果、,出土遺物は、縄文時代後期終末の十腰内Ⅵ群(式)土器の破片と石匙(2点)・スクレパー(1点)のみであり、
通史編1(古代・中世) (古墳文化と続縄文文化の交流)

青森県内では、この時期の遺物は大半が採集資料であったが、先に触れた天間林村森ヶ沢遺跡では続縄文文化の特徴,をもつ墳墓から、北大Ⅰ式土器と黒曜石の小破片という北海道系遺物と、供献具である五世紀後半の土師器・須恵器,などの古墳文化の遺物が共伴した。,現在のところ、これら北海道系の遺物は、ごく短期間のキャンプ地的性格をうかがわせるものだけではなく、一定期間
資料編1(考古編) (あとがき)

、市の教育委員会が中心になって実施していた、岩木山麓に分布する遺跡の緊急発掘調査が終了し、膨大な出土遺物,資料編1』は、自然に関する分野と、文字による記録のない原始時代、ならびに古代・中世の僅少な記録を遺構・遺物,考古編はかつての岩木山麓や、近年の開発に伴う調査で発見された遺構・遺物を、現状で可能な限り掲載することに
通史編1(古代・中世) (大浦氏関係の中世城館跡)

出土遺物では中国青磁破片一〇点(碗・皿)や中国染付細片一〇点(碗・皿と思われる)、国産品では瀬戸・美濃陶磁器破片一六点,甕)といった陶磁器をはじめ、鉄製品では武器である鉄鏃や刀の破片、釘、木製品でも建築材か容器と思われる遺物
資料編1(考古編) (4.中崎館遺跡)

なかでも、平安時代末期(12世紀後半期)の遺構・遺物が主体を占める。,これらの遺物群の主体は、擦文土器である。なお、本遺跡においては、該期に属する遺構は不明である。,出土遺物には、青磁・珠州焼・かわらけ・鉄器・石製品がある。,⑥出土遺物 平安時代末期(12世紀後半)の遺物が、各種遺構及び遺構外から出土している。,この3期の変遷は、出土遺物から見る限り比較的短期間で行われている。
通史編1(古代・中世) (城館調査の今後)

弘前城移封までの津軽氏本拠として、数時期にわたる城郭の改修、総構(そうがまえ)的な城郭構造の想定、さらに出土遺物,石川城跡のごく一部ではあったが、大規模な堀跡の検出(写真181)と一三世紀から一六世紀に至る各種の出土遺物, とくに、堀跡から出土した下駄・箸・曲物・箆(へら)・取手などの木製品は、かつて堀越城で出土した遺物
通史編1(古代・中世) (大光寺新城跡)

写真218 大光寺新城跡検出の土橋  出土遺物は武器・武具関係が多く、武器としては鉄鏃(蕪(かぶら,一方、出土する遺物の中にはたとえば建物に使われた釘をはじめ、火打ち金・鉄鍋・鍋の弦・ハサミなどの城館内,図80 大光寺新城跡出土の遺物
通史編1(古代・中世) (一六世紀の湊)

浪岡城跡で出土したもの(写真171)と同類の棹秤(さおばかり)の錘(おもり)など、城館ながら商業関連の遺物,そして、これまでの発掘調査によって出土している遺物からみて、浪岡城跡は一六世紀を代表する遺跡といえ、ここからは,さらに、下北半島の川内町の鞍越(くらこし)遺跡出土遺物、野辺地町周辺の表採品に一六世紀から一七世紀初頭,また、一六世紀末から一七世紀初めの遺物を大量に出土した東通(ひがしどおり)村浜通(はまどおり)遺跡の状況
資料編1(考古編) (8.砂沢遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  当遺跡は、弥生人の居住地と目される高台地区と水田跡の発見された低地帯に分けられ,出土遺物は、竪穴住居跡より出土の縄文時代後期後葉の十腰内Ⅳ群(式)と同Ⅴ群(式)土器(図20)をはじめ,図18 砂沢遺跡出土土器(砂沢遺跡発掘調査報告書-1988年より) 図19 砂沢遺跡出土遺物,砂沢式鉢形土器(二枚橋系) 砂沢式台付浅鉢形土器 図20 砂沢遺跡出土遺物,土偶各種 鑿状石器  砂沢遺跡は、上記の水田跡を中心とする弥生時代の遺構・遺物
通史編1(自然・原始) (人類学会創設~昭和三十三年(一九五八))

(そうま)村湯口(ゆぐち)のハチモリオトス、ならびに下り山などを佐藤蔀らの協力を得て調査し、出土した遺物,なかでも、佐藤蔀の描いた遺物写生図はすばらしく、縄文時代晩期における大洞(おおぼら)A式土器の特徴を巧,また、工藤彦一郎(一八五一~一九〇四)は、古銭と土器等の遺物に熱意を示し、花巻・亀ヶ岡などの出土遺物を,調査報告では、層位と遺物との関係について論究し、第二回の調査報告では、泥炭(でいたん)層内から多数の遺物,しばたじょうえ)(史跡名勝天然記念物調査員)などの研究者が本県の各地を調査し、特に縄文時代晩期の各種遺物
通史編1(古代・中世) (陸の道・海の道)

陸の道・海の道 このような列島的交易の動きは一二世紀代に入ると国内的な変化とともに、出土遺物の面で顕著,さらにこの奥大道の成立とともに、日本海を北上する海の道もまた出土遺物の面から確認できる。
資料編1(考古編) (4.黄金山遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  調査地域が広大のため、遺跡はⅠ号・Ⅱ号・Ⅲ号の3遺跡に分けられている。,発見された遺物はすべて土器であり、Ⅰ号遺跡から縄文時代後期初頭の深鉢形土器並びに破片が、Ⅱ号遺跡からは
通史編1(古代・中世) (三 考古学からみた中世的世界)

とくに津軽地域においては、原始・古代はもちろんのこと中世という時代においてさえ考古学的な遺構や遺物の発見,時代変化の指標である遺構や遺物のうち、もっとも敏感に変化を示すのが食器である。
通史編1(古代・中世) (青森県の古墳文化)

つまり、続縄文文化の伝統をもった墓坑に、古墳文化の影響を受けた遺物を主体とし、北方からの遺物も副葬されていたわけである,ひろさわまきはし)遺跡、野辺地町有戸(ありと)遺跡、八戸市田向冷水遺跡で出土しており、古墳文化の特徴的祭祀遺物
通史編1(古代・中世) (ふたつの広域火山灰)

降下年代に変更が生じる可能性を考慮しても、津軽地方ではおおむね一〇世紀前半を目安としてその前後に遺跡・遺物,これらふたつの火山灰は、一〇世紀前後の遺構や土器を中心とした遺物に年代性を与えることのできる重要な資料
通史編1(古代・中世) (戦いの道具)

を殺傷する攻撃の武器と、自らの身体を防御する武具の二系統に分類でき、前者には刀剣(太刀・刀)・弓矢(遺物,市内の遺跡では、古代の遺物が出土している小友(おとも)遺跡でも古い形態の小札が一点(写真177)、中崎館遺跡
通史編1(古代・中世) (防御性集落の消滅)

しかしこれだけの規模の中央政府側の施設であるならば、何らかの記録が残るであろうし、それを直接に裏づける出土遺物,も豊富であるはずであるが、史料も遺物もいずれも存在しない。  ,いずれも遺物の分布が希薄であるという点も共通するが、それはおそらく北方交易の場として、限定的にしか利用
通史編1(古代・中世) (竪穴から掘立柱へ)

遺物の出土状況を見ると、Ⅲ期、Ⅳ期と考えた区画施設(溝)から、かわらけや陶磁器の出土比率が高く、Ⅴ期以降,しかしⅢ期・Ⅳ期とⅤ期・Ⅵ期の出土遺物における新旧関係を明確にできないことは、短期間のうちに空間構成の,一三世紀前半を主体年代とする中崎館遺跡は、該時期の遺跡として建物跡の規模・配置と使用されていた各種の遺物
通史編1(自然・原始) (明治時代)

(現浪岡町)の木村又一(きむらまたいち)(一八五三~一九二二)らとともに、亀ヶ岡遺跡を発掘して多数の遺物,を発見し、さらに津軽地方一円を歩いて遺物を採集するとともに、それらを巧みに写生しながら風景画ともども提供,初代の人類学会会長神田孝平(かんだたかひら)(一八三〇~一八九八)に会い、神田によって蓑虫の収集した遺物
資料編1(考古編) (3.尾上山遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  台地上の先端を囲む盛土部と中央平坦部、台地下東側の崖下平坦部に分かれた3地域,岩木山麓古代遺跡発掘調査報告書)弘前市教育委員会 1966年3月 図3 尾上山遺跡(縄文晩期)出土遺物
資料編1(考古編) (-各窯跡の構造と出土須恵器の概要-)

出土遺物が少量のため、器種組成は明らかでない。坏・鉢・大甕が知られているにすぎない。,それぞれの特徴は砂田B-1号窯出土遺物に近い。,また、器形の全容を知り得る遺物はなく、本窯出土須恵器の特徴を把握するには困難である。,ただ、甕の叩き目や長頸壺底部の特徴等は、隣接する砂田D-2号窯灰原出土遺物に共通する。,図63 持子沢B-1号窯と出土遺物 〔桜ヶ峰窯〕 半地下式無階無段登窯。
通史編1(自然・原始) (弥生文化の内容)

弥生文化の特色を示すものとして重要視されている金属器の受容を証明し得る遺物は未発見である。,(8)、とくにクマの頭部彫刻を有する柄杓は金属器(鉄器)なしでは製作し得ない品物と考えられ、出土した遺物,しかしながら、現在までに発見された遺構・遺物の範囲では、農耕の存在と金属器の受容を推定する程度であって
通史編1(自然・原始) (昭和時代)

とこまい)の石神(いしがみ)・藤山、弘前市高杉(たかすぎ)の尾上(おのえ)山等の遺跡から出土した各種の遺物,津軽半島の三厩(みんまや)村宇鉄(うてつ)へ調査旅行を行い、石刀(せきとう)をはじめとする縄文時代の遺物,に勤務していた葛西覧造(かさいらんぞう)(一九〇〇~一九五二)は、村内の遺跡調査に尽力し、東北北部の遺物,(てんぐさわ)の遺物とともに、土器の形態・文様を基に三分類し、当地方における縄文時代後期の編年を公にした,なお同じ号には、吉田格(よしだいたる)と直良信夫が連名でオセドウ貝塚より採集の遺物を報告している(64
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