機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 45件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
通史編1(古代・中世)
(糖部郡での論功行賞)
糖部郡での論功行賞 一方、広大な糠部郡では、陸奧守顕家によって
郡奉行
と郡検断を併せ持つ検断奉行として,山梨県南部町)を本領としていたが、陸奥国内にも所領を有していたらしく(現在地は不詳)、それがきっかけで糠部の
郡奉行
通史編1(古代・中世)
(北畠親房の政権構想)
郡奉行
所は国府の支庁として地方支配の要(かなめ)であり、郡地頭職さえもそのなかに包摂(ほうせつ)しようと,また軍事警察権を持つ郡検断も置かれて、
郡奉行
の輔佐に当たった。 ,
郡奉行
所へ登用された武士は、関東武士団の庶流中、白河(結城)宗広(しらかわ(ゆうき)むねひろ)・伊達行朝
通史編2(近世1)
(二七 ためし草)
著者は
郡奉行
山形宇兵衛。弘前市立図書館蔵。
通史編2(近世1)
(土着策実施への布石(Ⅱ期))
郡奉行
と勘定奉行を土着策の担当としたのは、この理由からである。 ,こうして、同三年一月、赤石安右衛門が
郡奉行
(勘定奉行兼帯)に、菊池寛司が勘定奉行(
郡奉行
兼帯)に登用され
通史編3(近世2)
(猿賀神社より盗み)
すなわち庄五郎は「国日記」文化八年十一月七日条にみえる四奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行・
郡奉行
)の命令
通史編3(近世2)
(農兵の組織)
たとえば六月十四日に藩は
郡奉行
(こおりぶぎょう)に対して演説書を発し、家中兵隊の数は多いが、海陸数十里,んでいなかった明治元年二月にも、あり合わせの和砲・西洋砲三〇〇挺と三文目(もんめ)五分(ぶ)玉筒三〇〇挺が
郡奉行
,まず、農兵隊を統括するのは
郡奉行
とされ、実際の小隊長には農民の事情に詳しい代官が起用された。,不十分とはいえ、以前に訓練の経験があったことから、農兵隊の精度はしだいに高まっていき、八月十二日には
郡奉行
小山内清之丞
通史編3(近世2)
(入学式)
」は、その状況を伝えて、当世、何事も「唐流」になり、家老を「唐風」に「国相」と、勘定奉行を「司会」、
郡奉行
通史編2(近世1)
(大庄屋制の成立)
従来の
郡奉行
―代官―庄屋―五人組体制から、郷士身分の大庄屋の設定によって、
郡奉行
―代官―大庄屋―手代―
通史編2(近世1)
(異国船打払令の発令と津軽弘前藩)
打払令の発令を受けて同藩では、三奉行(
郡奉行
・町奉行・勘定奉行)が今後の処置について検討し、藩庁へ申し,作事奉行に命じて立て札を作らせ、設置については八浦がそれぞれの町奉行、金井ヶ沢・小泊・平舘・油川については
郡奉行
通史編2(近世1)
(在宅制度廃止後の廃田・新田開発)
まず「御郡内開発御用掛」に藤田権左衛門が任じられ、翌享和三年正月二十八日に、家老喜多村監物など御用人・
郡奉行
通史編3(近世2)
(商業の農村進出)
そのため、農業が衰微しないように注意すべきである、という藩から
郡奉行
(こおりぶぎょう)への訓令が出されている,さらにその後元治元年(一八六四)には、三奉行(町奉行・寺社奉行・
郡奉行
)から次のような申し出があった。
通史編2(近世1)
(農村部での騒動)
騒動に参加した者は約一〇〇〇人で、弘前郊外の石ノ渡の川原で、
郡奉行
三上理左衛門・勘定奉行石郷岡徳左衛門
通史編2(近世1)
(天保期の人返し)
らせて手仕事等をさせ、「老幼之者共」は田畑の刈り取りの時期に合わせ残らず帰らせて在方で養育させるよう、
郡奉行
通史編2(近世1)
(乏しい国産品)
それでも当藩の場合、上方(かみがた)市場からの自立を目指した宝暦改革の失敗後、
郡奉行
樋口弥三郎の主導により
通史編3(近世2)
((一)農作業と農事暦)
一、桑田忠左衛門(月番の
郡奉行
)申立候者、 一、種浸初 二月廿五日 一、田打初 三月十日 ,右者当酉年耕作初前書之通御座候旨主水(月番家老津軽主水)江、書付江戸江差登之、(傍注筆者) 右の記録によって、
郡奉行
桑田忠左衛門
通史編2(近世1)
(農村の再開発)
元禄十六年(一七〇三)十二月、
郡奉行
から、俵本(たわらもと)(元)村(現五所川原市俵元)に三〇〇〇石の,
郡奉行
からの伺いにもみえる用水路が阿部堰(あべせき)である。
通史編2(近世1)
(飢饉に至るまでの経緯)
たとえば、後年、
郡奉行
山形宇兵衛が記した「ためし草」(資料近世2No.七)によると、この年は正月より折々,九月十六日の
郡奉行
の作柄の調査では飯詰・金木・俵元(たわらもと)新田・広須(ひろす)・木造新田・油川・
通史編3(近世2)
(松森町紙漉)
廃田復興の事業が一段落した寛政十二年(一八〇〇)、楮町の者たちが相変わらず楮仕立てをしないので業を煮やした
郡奉行
通史編2(近世1)
(赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)
この前後、人事の一新が行われて、寛政二年五月信明帰国、同年六月牧野を用人に、翌三年正月赤石を
郡奉行
(勘定奉行兼帯,)に、菊池を勘定奉行(
郡奉行
兼帯)に登用、また同年五月までに、赤石・菊池とともに、いわゆる「寛政七人衆,」として扱われ、「心友」の間柄であった(「喫茗雑話」『伝類』)ことや、寛政三年に赤石・菊池がそれぞれ
郡奉行
,菊池・赤石が勘定・
郡奉行
を兼帯したことにもみられるように、藩士土着策は総合的な政策であったわけである。
通史編2(近世1)
(飢餓対策における殖産政策)
時代は宝暦からやや下るが、安永三年(一七七四)十二月に
郡奉行
樋口弥三郎は凶作の対策として、空き地などへの
通史編2(近世1)
((二)藩士土着政策の展開)
Ⅱ期は、赤石・菊池の建議と、両人の
郡奉行
・勘定奉行への登用期。
通史編2(近世1)
(漆以外の国産品)
、津軽でも狗背を仕入れ製造販売すれば「一方の御国産に相成、御益筋少なからず」と文化八年(一八一一)に
郡奉行
通史編3(近世2)
(キリシタン改め)
これを
郡奉行
を通して寺社奉行へ提出した。
通史編3(近世2)
(紺屋町末紙漉所)
同年四月、新井・今泉両人は、紙業の振興を担当する
郡奉行
戸田左五兵衛・菊池四郎兵衛を同道して楮仕立ての適地検分
通史編2(近世1)
(林政の展開と漆木の栽培)
元禄6(1693).正
郡奉行
,荒地野山への松・杉植林を申し立て、許可される。,元禄7(1694).正.24
郡奉行
の申し立てにより,松・杉・檜・楢の実の採取と松・杉・桐・檜・槻その,他の雑木仕立てを命じ,惣山奉行を
郡奉行
支配とする。
通史編3(近世2)
(二 藩主の日常生活)
着替えて再び山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――勘定奉行より年末に払う金銭調達の件、
郡奉行
,午後一時再び山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――藩士へ手当銭支給増額の件、
郡奉行
提出,ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――藩士へ手当銭支給増額の件は計算違いにつき据え置き、
郡奉行
工藤忠次,い藩政について用談・決裁――大目付(おおめつけ)・山方取締役(やまかたとりしまりやく)など表彰の件、
郡奉行
,出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――以前に提出の在方の者表彰および町人の年始御目見の件、昨日
郡奉行
通史編3(近世2)
((三)住居)
大目付…用人は家老の補佐役、大目付は監察を任務とし法規典礼を掌る)・三ノ間(三奉行…寺社奉行・町奉行・
郡奉行
通史編2(近世1)
(弘前藩庁日記の開始)
記事内容は、初期のころを除いて、まずその月初めには、その月の月番である家老・用人・大目付・寺社奉行・
郡奉行
通史編2(近世1)
(町役)
この地子銀納は、正徳三年(一七一三)一月に、その徴収に当たって藩当局の出費が大きいという勘定奉行・
郡奉行
通史編2(近世1)
(信政晩年の藩政)
このほか、家老大湯五左衛門、
郡奉行
対馬万右衛門、寺社奉行岡三太左衛門ら四二人がこれに連座し処分を受けた,そして、四月二十九日には、
郡奉行
から農村に対する米四〇〇〇石の夫食米(ぶじきまい)の貸与が申し立てられた
通史編2(近世1)
(貞享検地への影響)
検地奉行の太田茂左衛門が任じられた馬廻番頭の支配機構上の序列は、竿奉行の田村・対馬の役職である勘定奉行・
郡奉行
通史編3(近世2)
(拡大する風儀・治安の乱れ)
嘉永六年(一八五三)十二月、藩は
郡奉行
・町奉行・九浦町奉行へ庶民の詳細な服装・生活規制を渡し、全領への
通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
この年の八月、藩主津軽寧親は青森に赴いたが、その際、用人山鹿高美、
郡奉行
野呂助左衛門、兵学学頭岡本平馬
通史編2(近世1)
(津軽領内のアイヌ民族)
このことからわかるように、アイヌの米購買の構造は、彼らの飯米要求を代官(居住地の関係から後潟組代官)が
郡奉行
通史編2(近世1)
(改革推進体制の構築)
改め、町年寄の一段上に格付けした上で元司支配とし(同前No.九三一)、また同十八日には代官と大庄屋を
郡奉行
支配
通史編2(近世1)
(土着対象地と在宅分布)
油川 0 0 後潟 0 0 注) 天明3年9月16日
郡奉行
調
通史編2(近世1)
(毛内宜応の「秘書 全」)
特に代官は
郡奉行
支配から離し、格上げをして
郡奉行
と同程度の扱いとして人数も減らし、その下に従来の代官レベル
通史編2(近世1)
(負担の増大による民衆の困窮)
寛政十二年(一八〇〇)七月、
郡奉行
は次のような申し出を行っている(資料近世2No.一六三)。
通史編2(近世1)
(元禄の大飢饉と家臣召し放ち)
馬廻組士の二〇人が組士からはずれて代官となり、
郡奉行
の支配に入ったことも支配機構上見逃せない(「国日記
通史編2(近世1)
(農政の転換)
そして、その内容は、①町・在での「勝手」による返済が認められ、
郡奉行
の詮議を経ることにはなるが、「抱地引取
通史編2(近世1)
(その他の諸政策)
に代官の人材をこれまでの「御目見得以下軽キ者」ではなく「御目見得以上之席」から選出した(「要記秘鑑」
郡奉行
被仰出之部
通史編2(近世1)
(廃田復興・新田開発の進展)
嘉永期に至り、
郡奉行
後藤門之丞を責任者として岩木川から二八キロメートルに及ぶ用水路を建設し、十三湖周辺
通史編2(近世1)
(災害の続発とその影響)
郡奉行
や代官の報告(同前)によれば、被害を受けた田は水を落しており、稲一株に一匹から四匹ほどの「栗虫」
通史編3(近世2)
(町役負担と御用金)
それは、地子銀徴収に当たって藩当局の出費が大きいという勘定奉行・
郡奉行
の提言があったからである。
資料編3(近世編2)
(【解説】)
理論的背景とした毛内宜応の意見書がとりあげられることが多かったが、ここでは、寛政改革の推進を図るために、
郡奉行
/ 1ページ