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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (郡区町村編制法への移行)

写真6 中津軽郡初代郡長 笹森儀助  この郡区町村編制法によって、第三大区一小区から六小区は中津軽郡,郡には官選の郡長・郡役所が置かれた。郡からは県会議員三人が選挙された。,投票の仕方は、郡長が投票用紙をあらかじめ選挙人へ三枚配付し、選挙人は郡役所作成の被選挙人名簿の中から三人,を記入、糊封(のりふう)し、裏に住所、氏名を記して選挙日に会場で郡長の前の投票箱に差し入れる。
通史編4(近・現代1) (弘前の紛紜の始まり)

弘前の紛紜の始まり 明治十四年八月十一日、中津軽郡長笹森儀助は、青森県令に自由民権の結社共同会に官吏,ところが、明治十四年十月十二日国会開設の詔が出されたので、県令は前言を翻して共同会員の館山漸之進を東津軽郡長,う彼の気持ちは、この夏の水害、さらに来春の融雪期への対策を差し迫ったものとしている各議員や当事者の各郡長,結局、臨時県会終了から六日目の十一月十四日、合同問題の要(かなめ)にいた中津軽郡長笹森儀助の辞任という,「東津軽郡長館山漸之進君が中津軽郡長に任ぜられ、東津軽郡三浦清一君は当分同郡長心得申付けられ、中津軽郡長笹森儀助
通史編4(近・現代1) (保守派との合同団結)

しかし、青森県では、県庁開設以来官途に就いたのは藩の経歴が物を言って保守派のみで、区長、戸長、郡長みな,お雇いフランス人ボアソナードに法律を学んだ共同会員館山漸之進を東津軽郡長に登用した。,集まった顔ぶれは、県会議長大道寺繁禎、郡長は東郡館山漸之進、中郡笹森儀助、北郡工藤行幹(ゆきもと)、下北郡一町田大江,それは翌十一月中旬の笹森郡長の山田県令批判をこめた辞職と、それに次ぐ大道寺議長の辞職と出京から始まった
通史編4(近・現代1) (郡制の施行)

議長には官選の郡長がなり、名誉職だった。中津軽郡会議員の選挙は五月七日行われた。,また、郡長の任用が府県知事に委されていたものが試験制度になり、従来の工藤行幹、笹森儀助、杉山龍江らの有力者郡長,から官僚的郡長に代わった。
通史編4(近・現代1) (鍋島知事の対応)

また、保守派の大道寺繁禎を南津軽郡長に任命して進歩派弾圧の口火を切った。,キノ姑息(こそく)論ニアラサレハ到底纏(まとま)リヘキ模様ニアラス       故ニ予モ郡吏戸長等ニ郡長,セントノ意ナラハ、宜シク民心ノアル処ヲ察シテ確タル覚悟ヲ定メ姑息ニ陥イラヌ様ニセヨ、故ニ今直ニ車ヲ雇フテ郡長
通史編4(近・現代1) (市制・町村制の公布)

そして、まず郡長が案をつくり、取調委員会が査定し、委員会案を郡下の戸長諮問委員会にかけ、さらに町村総代,の意見を徴した上で委員会に答申、委員会は郡長の実施見込案を実地調査し、支障がないと見なせば決定する。,町村住民は郡長に対する意見申述権が与えられたにすぎないが、手順はそれなりに踏まれていた。  
通史編4(近・現代1) (陸羯南の手紙)

笹森は明治十二年十月、中津軽郡長だったが、菊池九郎、長尾介一郎らと函館の物産会社や七重の試験場を見学して,それは、中津軽郡長に共同会の館山漸之進が任命されたときの混乱で証明されていたということを笹森は羯南に話
通史編4(近・現代1) (若き日の笹森儀助)

明治十四年に郡長を辞して、弘前士族救済のため岩木山麓に農牧社(のうぼくしゃ)を開業、以後一〇年間寝食を
通史編4(近・現代1) (大凶作下の農村)

中津軽郡長は児童教育の財政的困難に際し、各村長に「町村費の大部分を占めるのは教育費となっているが、義務教育,現行制度上やむを得ない」として、「貧困児童学用品ノ補助」などの予算計上を「内訓」として発している(「中津軽郡長
通史編4(近・現代1) (知事辞職勧告)

知事辞職勧告 九月五日、中津軽郡役所は郡長以下吏員が辞職の決意を固め、戸長らも同調の方針を決定した。
通史編2(近世1) (刀狩り)

刀狩り 豊臣秀吉は、会津到着に先立って、天正十八年(一五九〇)八月七日、陸奥国南部の岩瀬郡長沼(いわせぐんながぬま,)(現福島県岩瀬郡長沼町)で、長沼その外在々の百姓らの刀・弓・鑓(やり)・鉄砲、並びに武具類を改め、また
通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

一二人 ヲトシベ(現同郡八雲町)八人 ヤムクシナイ(現同郡八雲町)一二人 ヲシヤマンベ(現北海道山越郡長万部町,また、文化元年から同三年までは、シツカリ(現北海道山越郡長万部町)からレブンゲ間の新道普請が命じられており
通史編4(近・現代1) (行在所金木屋)

郡長の俸給が月額三〇円のときであった。  
通史編4(近・現代1) (行在所の奉迎ぶり)

平尾魯仙や工藤他山、その他地元の画家や文人はそれぞれ絵画や著書などを献上して旅情を慰め、また、中津軽郡長笹森儀助
通史編3(近世2) (第二次藩政改革)

免官,隠棲後M21年没 権 大 参 事 杉山龍江(350俵) M5.7県権典事 M10年後各地郡長歴任,大道寺繁禎(200俵) M4.9免官 郡長歴任後M12年県会議員 西館孤清(330俵) M6家令,年旧県事務取扱 後養蚕事業 正 権 大 属 小山巴(80俵) M8年没 一町田大江(80俵) 各地郡長歴任
通史編4(近・現代1) (市制の施行)

市会議員の選挙及び共有財産処分協議会並びに市会開設までの諸準備は、中津軽郡長大道寺繁禎においてこれを処理,大道寺郡長は五月一日から四日にわたり、それぞれ三級一〇人、二級一〇人、一級一〇人の市会議員選挙を行った
通史編4(近・現代1) (師団誘致運動)

中津軽郡も郡長名で六月三十日、師団の敷地献納願いを提出している。
通史編4(近・現代1) (弘前の紛紜の裏面)

弘前の事態を混迷させたのは、保守派と意を通じ、佐々木高行らに共同会批判の情報を送りながら館山漸之進に郡長就任
通史編4(近・現代1) (帰田法の帰結)

土地を与えられた士族のその後については、明治十三年(一八八〇)一月の中津軽郡長笹森儀助の松方正義宛上申書
通史編4(近・現代1) (東奥共同会の設立)

  14 (1881) 10 山田県令 弘前地方の保守・革新両派に団結を促す 11 笹森中津軽郡長辞職
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

・大区の代わりに郡を置き、小区には旧来の町村の名称を復活 ・弘前は中津軽郡となる   初代中郡郡長
通史編4(近・現代1) (明治二十年度予算審議)

なお、最後の弘前総町聯合会の議長は大道寺繁禎中津軽郡長である。
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

津軽家側は蝦夷地クンヌイ(国縫、現北海道山越郡長万部町)まで出兵することを要望したが、松前家によって拒否
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