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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
出陣していた時、尾崎喜蔵(おざききぞう)・板垣兵部(いたがきひょうぶ)・多田玄蕃(ただげんば)の三人の
重臣
,この記述によれば、堀越城内に
重臣
尾崎らの屋敷があったこと、武器・弾薬を置く櫓が本丸にあったことがわかる,堀越城は、堀・土塁・塀という設備によって防御すると同時に、
重臣
の城郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を
通史編2(近世1)
(信政の襲封と黒石分知)
図86.津軽信政画像 信英は、分知を受ける領地について津軽信隆(のぶたか)ら宗家
重臣
に選定を委,これに不足分として上州大舘領分二〇〇〇石が加えられ、八月七日、本藩
重臣
の連判による知行目録が出された。
通史編3(近世2)
((三)住居)
を囲むような形でその周辺に配置されているが、身分・格式の高い者は通常、城の近くに置かれ、特に家老級の
重臣
,(ひゃっこくまち)) 城南――侍町(現在府町(ざいふちょう)) がみられ、郭内の二の丸・三の丸に
重臣
通史編1(古代・中世)
(「嘉元鐘」)
その冒頭にある「皇帝万歳
重臣
千秋」「風調雨順 国泰民安」という銘文や、この鐘の寄進の大檀那(崇演。,111・112)と一致することから、地元ではその「姉妹鐘」であるとして親しまれてきているが、「皇帝万歳
重臣
千秋
通史編3(近世2)
(学校落成式)
家老牧野左次郎をはじめ
重臣
列席のもと、総司は染帷子(そめかたびら)に長袴の礼装で従者九人を、小司は染帷子
通史編2(近世1)
(近世初期海運)
図82.北国船絵馬 寛永七年(一六三〇)に、同姓の茂左衛門とともに
重臣
の乾と服部の両名に宛てた,なぜならば、前述の
重臣
宛ての書状において、御蔵屋敷の修理などは、自分の費用で行うとし、同藩から扶持を下賜
資料編1(古代・中世編)
(五 東目屋地区の中世城館の特徴)
だったのか等々、現時点では具体的にしがたいが、『封内事実秘苑』の文禄四年(一五九五)の条は、津軽為信の
重臣
,津軽郡中名字」)、この「目屋澤館」こそ問題の坂本館であった可能性があり、そこから、為信の津軽統一戦の過程での
重臣
兼平中書
通史編3(近世2)
(廃藩置県後の処理)
この際、旧執政西館融(とおる)・山中逸郎(いつろう)ら
重臣
一一人が座視しがたしとして、進退伺いを提出したうえで
通史編2(近世1)
(舟橋騒動)
をふるっていた舟橋(ふなはし)半左衛門と乾(いぬい)四郎兵衛に対して、津軽美作(みまさか)・津軽伊豆ら
重臣
,、十二年三月十二日には幕府から朝鮮への国書改竄(かいざん)事件により処罰された、対馬の宗家(そうけ)
重臣
柳川調興,このうち国書改竄事件は、藩主宗義成(そうよしなり)と
重臣
柳川調興の対立によるお家騒動であるが、一歩間違
通史編5(近・現代2)
(山鹿学の影響)
四代藩主信政は素行の弟子で、素行の娘亀の夫岡八郎左衛門(津軽大学)と鶴の夫喜多村源八(津軽監物)は信政に仕え、
重臣
通史編2(近世1)
(支配機構の整備)
津軽政朝・津軽為玄(ためもと)・梶川政順(まさより)という藩主信政の弟たちが命じられ、馬廻組頭は家老・
重臣
層,一方で、組頭の人事から、依然として一門・
重臣
層による軍事組織の掌握が図られていることや、また家老と組頭,なお、これ以降の家老就任者と用人就任者を比べると、家老は門閥・譜代
重臣
層が登用されるのに対して、用人職
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
この間の状況を実季は、徳川家康
重臣
阿部伊予守正勝に宛てた慶長四年(一五九九)の申状で以下のように報告している,後の片山氏ら
重臣
の安東方への寝返りは、浅利氏帰還の時からすでにその伏線が存在したのである。
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●元和五年(一六一九)四月二十一日、津軽信枚の
重臣
乾・高屋両名から秋田久保田藩
重臣
へ書状あり、上洛費用,呼び戻しに津軽家
重臣
へ書状を遣わす。,
重臣
服部康成等の、秋田藩家老梅津憲忠への書状あり。,秋田藩
重臣
梅津政景、信枚の宿所へ使者を派遣する。,ついで
重臣
乾安儔・服部康成よりの書状も秋田へ来る。
通史編2(近世1)
(信枚の築城)
大小諸武士の屋敷、職人・商人の居宅が城下に移され、城の内部の二の丸・三の丸・西の郭(くるわ)・袰(ほろ)町に
重臣
通史編2(近世1)
(秋田安東実季の名護屋参陣)
浅利氏の突然の上洛計画といい、豊臣秀次の
重臣
木村重茲の調停といい、浅利氏はすでにこのころより中央政権内
通史編3(近世2)
(一一代順承の治世)
困り果てた順承と家老大道寺族之助(やからのすけ)ら
重臣
は津軽家が宗家と仰ぐ近衛家に事態打開を求め、近衛忠熈,南溜池(現南塘(なんとう)町)が拡張されて盛んに軍事調練が実施され、藩主や
重臣
による武芸高覧が行われたのもこの
通史編3(近世2)
(帰田法の発令)
帰田法は少参事西館孤清(こせい)が計画を発案し、
重臣
たちと協議のうえ、実施されることとなった。
通史編2(近世1)
(文教政策の展開)
まず信政自身が六月五日に
重臣
・近侍を相手に兵書を講じている。
通史編3(近世2)
(出発)
家老・用人・城代が御目見(おめみえ)し、続いて山水ノ間・梅ノ間・浪ノ間で次々と
重臣
が御目見する。,文政五年(一八二二)三月の「御参府御供登調帳」(弘図津)によれば、家老津軽頼母(つがるたのも)以下
重臣
通史編3(近世2)
(白石会議)
嘆願書」と、仙台・米沢藩主連名の「会津藩寛典処分嘆願書」、そして、白石会議の結果、連名で作成された「諸藩
重臣
副嘆願書
通史編2(近世1)
(宝暦―天明期の借財)
見返りに藩から扶持を受けており、安永四年の段階では茨木屋万太郎が七〇〇石、鴻池新十郎が五五〇石余など、
重臣
通史編3(近世2)
(農民と藩士の出会い)
○農民が弘前城下で藩士と出会った場合 ①農民が
重臣
はもちろん、一般の藩士に出会った時には、かぶっているものを
通史編3(近世2)
(金木屋日記にみえる衣服)
それより以前六月七日には、弘前城下の他家を訪問した際に、絹羽織を着ており、金木屋は家老大道寺や藩の
重臣
通史編1(古代・中世)
(東目屋地域に見られる城館跡)
そして、国吉館といった大浦氏の
重臣
居館であっても、さらにその居館を中心としたネットワークが存在していたであろうことも
通史編2(近世1)
(大浦城の構造)
津軽家の一門・
重臣
である兼平・一町田両氏などの発祥の地とされる地名や村名が存在し、在地領主を糾合して南部氏
通史編2(近世1)
(「出頭人」の台頭)
この四人の家老は藩成立時の譜代
重臣
層の家系ではなく、藩成立以後、新規に召し抱えられて
重臣
層にまで到達した
通史編3(近世2)
(信政)
内容は
重臣
が藩主に政務を報告するものと同じであり、信政の生前に行われたことが、死後もそのまま引き継がれてきたようにみえる
通史編2(近世1)
(浅利騒動と津軽氏)
一方、浅利氏
重臣
片山氏・八木橋氏の実季方への寝返りや、浅利方から秋田領への侵入による稲の刈り取りが行われたと
通史編2(近世1)
(二度の高直り)
大広間詰(おおひろまづ)めとなり、城中の待遇も従来とは異なって世間の目も違うことから、藩主と側近にいる
重臣
通史編2(近世1)
(意見書提出の奨励)
とりわけ、農政や廻米策をめぐっての家臣団内部の対立は藩の
重臣
同士の対立にまで発展し、藩庁内部の動揺は著
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
信直は、子の利直(としなお)に
重臣
北信愛(きたのぶちか)と浅野忠政を供としてつけ秀吉との謁見を命じた。
通史編4(近・現代1)
(弘前県から青森県へ)
写真3 野田豁道 野田は、箱館戦争の始終から弘前藩の
重臣
や青森・弘前の富豪らと交渉が深く、県内
通史編3(近世2)
((三)住居)
ここは藩士が勤務したところで、西から東へ上段・御用所上ノ間(家老〈大名の
重臣
で家務を統轄する者〉が詰める
通史編4(近・現代1)
(県内遊説)
第一回衆議院選挙を前にして明治二十年、決然として職を退き、維新以来の時の流れの中になお識見、人望を失わない旧藩
重臣
杉山龍江
通史編2(近世1)
(浅利騒動の停戦命令)
諸事について文禄二年に木村重茲が下した裁定のごとくせよとの秀吉の意志であるので、秋田方に寝返った浅利氏
重臣
三人
通史編4(近・現代1)
(民次郎百年忌)
百姓千数百人連状シテ惨状ヲ君公ニ訴ヘント各実ラザル青稲ヲ竿頭ニ束ネ弘前ニ上リ北ノ御門ニ押寄セタリ城内騒然タリ
重臣
之
通史編2(近世1)
(家中払米の展開)
このように、青森から松前へは、藩の
重臣
から小知行士まで階層を問わず、藩士の米が家中払米として積み出されたのである
通史編2(近世1)
(金木屋日記にみる対外危機)
さらに、金木屋には秋田藩の郷士日影(ごうしひかげ)八右衛門が陣羽織七枚を買いに訪れ、津軽家の
重臣
大道寺家
通史編2(近世1)
(信政晩年の藩政)
消極的な意見を持つ
重臣
層がいる一方、信政の意向に忠実で城普請に積極的な人々もいた。,藩の支配層は、藩主に直結する出頭人グループ、城普請に消極的な門閥層(藩
重臣
)、桜庭が建白書でその存在を
通史編2(近世1)
(青森町の成立と青森開港)
図81.青森の町絵図 目録を見る 精細画像で見る さて寛永六年(一六二九)十一月十三日、
重臣
,さらに、寛永十一年(一六三四)三月二十一日に、津軽信枚が
重臣
乾(いぬい)と服部の両名へ黒印状を発給して
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
の関門に当たる石川・大鰐一帯の地は軍事的緊張が続いたため、為信は、戦略的要地である石川城を重視して、
重臣
板垣兵部
通史編2(近世1)
(土着策と蝦夷地警備)
さらに、渡海を目前とした十月二十五日、士大将山田剛太郎に差し出した
重臣
杉山源吾(すぎやまげんご)の書面
通史編2(近世1)
(高照神社の造営と「名君」信政像の創出)
また、改元、吉凶事、重要な政策遂行の折には、
重臣
を使者に立てて一つ一つをそのつど報告しており、霊社は藩
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
さらにそれから半年を過ぎた十二月晦日、南部信直は、国元の
重臣
楢山帯刀(ならやまたてわき)へ宛てた書状で,為信は前田利家のところへ行ったが、しつこくものをいったので、利家の
重臣
奥村主計(おくむらかずえ)によってやり
通史編3(近世2)
(弘前の民衆)
つぐあきら)は東京横川の邸宅に移住し、西館融(とおる)・杉山龍江・西舘孤清(こせい)・神東太郎(盛苗)などの
重臣
通史編3(近世2)
(鎮撫総督軍の領内通行問題)
には、奥羽鎮撫総督府のうち九条道孝(くじょうみちたか)総督と醍醐忠敬(だいごただゆき)参謀は、仙台藩
重臣
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
二の丸には侍屋敷が六区画あり、
重臣
が居住していたものであろう。
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
津軽氏を含む北奥羽の大名らは、領国での居城移転や反対勢力の抹殺、支城への一族・
重臣
の配置等により、領国支配
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
たのは、慶長十四年正月に出された、前年以来の家中騒動(「津軽大熊事件」)を裁定する津軽年寄中(津軽家
重臣
通史編2(近世1)
(知行宛行状の発給)
同年二月には
重臣
杉山八兵衛に横沢村(現板柳町横沢)・俵升(たわらます)村(現藤崎町俵升)・たも木派村(
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