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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) ((五)野球)

(五)野球 野球が日本に紹介されたのが明治五年(一八七二)とも、六年ともいわれるが、青森県には十一年,十一年にアメリカ人の宣教師が東奥義塾に伝え、十九年には青森師範で樋口亮教諭が校庭で生徒に野球を指導したと,そして、二十五年、その東奥義塾と青森師範が初めての野球対校試合を開催、三十六年には青森県立第一中学校(,迎へられ、児玉の打撃は之れ身の為ならずして八木橋易々と本塁に侵入せり (「弘前第一中学対大館中学の野球試合 / (五)野球
通史編4(近・現代1) (第一回少年野球大会)

第一回少年野球大会 大正十一年(一九二二)、全国的な野球流行の中で、弘前市にも大日本少年野球協会弘前支部,当時の少年野球大会はA組とB組に分かれていたが、A組は高等小学校生徒と中等学校二学年以下の生徒対象の試合,大日本少年野球協会弘前支部主催の第一回大会は十一年十月二日から五日間にわたって、第二大成小学校校庭を会場,本市最初の少年野球大会の第一日目はあいにくの雨で順延、十月三日から開催された。,翌四日は、朝陽対時敏、城西対富田(清水村富田小学校)の二試合が行われたが、少年野球の人気ものすごく、会場 / 第一回少年野球大会
通史編4(近・現代1) (城西小野球部全国大会出場)

城西小野球部全国大会出場 大正十四年(一九二五)八月、城西小学校野球部は弘前で初めて全国大会に出場した,大日本野球協会弘前支部第四回大会は十四年六月十四日、新装なった南塘球場において初めて開催された。,全国少年野球大会の第二次予選は、これまで東北第二次予選として仙台で行われていたが、大正十四年に規則が改正,全国大会出場の城西小学校野球部の指導監督は同校訓導成田敏衛。,城西小学校の全国大会出場は、本市少年野球関係者に大きな刺激を与え、しかも世は滔々たる野球ブームで、少年野球 / 城西小野球部全国大会出場
通史編5(近・現代2) (白取朝陽小学校長の奇禍)

白取朝陽小学校長の奇禍 これまで弘前市少年野球大会で最下位を低迷していた朝陽小学校野球部は、大正十五年初,これを契機に、以後、朝陽小学校野球部は昭和二年、三年、五年と実に四回にわたって全国大会に出場、東北はもちろん,このように朝陽小学校野球部が黄金時代を迎えるようになったのは、当時の白取清一校長の尽力によるものであった,白取は野球部コーチに同校先輩の木村長四郎を迎え、さらに二年三月青森県師範学校新卒の乳井春雄訓導を招聘(,へい)し、野球部強化の万善の策をとった。
通史編4(近・現代1) (県内中学校の概況)

運動部では剣道、柔道が古く、舶来のスポーツでは野球が最も早く採り入れられ、ほかに、庭球なども行われていた,写真109 明治時代の中学校野球部  第一中学校では、三十五年七月、県内各中学校に先駆けて校旗を
通史編5(近・現代2) (部活動の推移)

四十五年ごろになると、硬式野球部が第二の黄金時代を迎えた。,そして、四十六年春、ついに宿願の甲子園への道が開け、春季高校選抜野球大会への出場権を獲得した。
通史編5(近・現代2) (輝く弘前工高のスポーツ)

昭和五十一年、創部五十年目にして硬式野球部が甲子園初出場を果たした五十一年春の選抜高校野球選手権大会では
通史編5(近・現代2) (運動公園の建設)

あえて施設群、といったのは、野球場、球技場、克雪トレーニングセンター、テニスコート、陸上競技場、運動広場,写真214 あすなろ国体きょ火リレー(昭和52年9月・上土手町)  野球場 昭和五十四年三月完成
通史編5(近・現代2) (スポーツ王国義塾)

硬式野球も、甲子園に限ってみても、三十三年夏、一回戦で高知商と対戦、六対一で敗退。,この戦績は、かの三沢高の死闘に次ぐ名勝負として、野球ファンばかりでなく、青森県民の熱い興奮と感動を呼んだ
通史編4(近・現代1) (弘中のスポーツ)

弘中ではすでに明治のころから柔道・剣道・野球・庭球などの運動部が発足し、東奥義塾・青森中学・青森師範・,当時の弘中対青中の種目別の対戦成績は、剣道が七対三、柔道が一〇対四、野球が八対四、庭球だけは八対八と引
通史編5(近・現代2) (県立工業から弘前工業へ)

スポーツの活躍については、昭和四年、誕生間もない野球部が県下少年野球大会において初優勝を遂げ、明治神宮外苑,グラウンドで行われた全国少年野球大会への出場権を得たことがまず挙げられる。,この大会では、一回戦の厚い壁を破ることはできなかったが、野球部として最初の全国大会への出場となった。
通史編5(近・現代2) (第一回小学校連合体育大会)

第一回小学校連合体育大会 昭和二十八年九月四日、弘前公園三の丸市営野球場において、第一回弘前市小学校連合体育大会,写真129 第1回弘前市小学校連合体育大会(公演三の丸市営野球場・昭和28年)  第一回小学校連合体育大会
通史編4(近・現代1) (実業補習学校)

野球部の創設は、大正十一年に誕生した弘前少年野球大会の優勝旗争奪戦と時を同じくし、第一回から三年連続優勝
通史編5(近・現代2) (市村合併後のPTA)

市連PTA主催による単位PTA対抗野球大会および卓球大会など、合併以後も継続開催が決められ、スポーツ交流
通史編5(近・現代2) (市立商業高校と市立女子高校)

次に市長と直接交渉した結果、ついに買収させることに成功すると、さらには、PTA・同窓会の協力を得て、野球場
通史編4(近・現代1) (町道場の設置)

なかには従来の武道修練にはこだわらず、運動部を設けて、当時としては新しいスポーツであった庭球や野球を奨励
通史編5(近・現代2) (スポーツ王国弘前実業)

硬式野球も善戦しており、五十四年、五十九年と二度の甲子園出場を経験したが、初戦を突破するのは時代が平成
通史編4(近・現代1) ([付図])

19 第八師団司令部~弘前に設置決定〈明治29年〉 20 師範学校と青森第一中学校の野球試合
通史編1(自然・原始) (住居)

恐らく野球場建設候補地であった北地区の中央近くより、東へ延々と四二〇メートルにわたって続く土壙墓(大人
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

さらに平成四年(一九九二)、県営野球場建設予定地であった三内丸山遺跡に対する緊急発掘調査が開始され、大小,大型掘立柱建物跡などの各種遺構の発見と、膨大な量の遺物が出土し、県は平成六年(一九九四)八月、遺跡の保存を決定し野球場
通史編1(自然・原始) (大規模な海底地滑りの痕跡)

弘前市悪戸(あくど)付近を流れる岩木川の右岸(河川敷に野球場のある上流側)でも、変形したこの東目屋層をみることができる
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