機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 47件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
通史編3(近世2)
(野辺地戦争の経過)
野辺地
戦争の経過 以下、各戦争報告書・記録に基づき、
野辺地
戦争の経過をみていきたい(同前No.五五〇,いよいよ戦闘が
野辺地
川付近で開始されると、小銃・大砲による砲撃戦となり、盛岡藩は退却の様子をみせた。,弘前藩側は、盛岡藩兵が退きはじめるとさらに追撃したが、
野辺地
を目前にしたところで、盛岡藩兵の待ち伏せを,図64.明治元年9月23日の
野辺地
戦闘図 この戦いでの弘前藩側の死傷者は一八〇人中実に四九人に,図65.
野辺地
戦争戦死者の墓 敗戦の原因は、弘前藩の統率性の欠如、認識の甘さに集約されるであろう /
野辺地
戦争の経過
通史編3(近世2)
(野辺地戦争の動機)
野辺地
戦争の動機 盛岡藩攻撃を命じられてから、弘前藩は佐賀藩出身の総督府参謀前山精一郎らと軍議を重ねていた,海軍力を誇っており、西洋艦船等近代設備の所持とともに、人材の充実という、両面を兼ね備えた自信により、
野辺地
攻撃,結局この日も「難風浪強進退不自由」のため、
野辺地
へは進撃できず、無人となっていた脇野沢から大砲などの分捕品,図63.佐賀藩船から発射された砲弾 実は、弘前藩首脳部では九月五日の段階で、中牟田隊が単独で
野辺地
,今度は、弘前藩兵が九月二十二日、
野辺地
馬門口へと攻め入ったのであった。 /
野辺地
戦争の動機
通史編3(近世2)
(野辺地戦争の開始)
野辺地
戦争の開始 弘前藩庁より家臣一統へ盛岡藩征討の布告がされたのは、八月二十九日のことであった(資料近世,これが
野辺地
戦争である。弘前藩からの砲撃で、戦闘は始まった。,では、両藩の本格的な衝突が起こる前夜を中心として、
野辺地
戦争の動機を探ってみたい。 /
野辺地
戦争の開始
通史編3(近世2)
(戦場に駆り出された民衆)
姓は後日のもの 3 (木村)清蔵 23歳 軍夫 南部
野辺地
祭祀米 毎年5俵 松森町平民,永世15俵 家督は息子久清へ 12 森山勝三郎 66歳 諸手足軽 1石2斗1升 南部
野辺地
永世15,1升 南部
野辺地
永世15俵 家督は息子常吉へ 19 大川元太郎 30歳 諸手足軽 5石2人扶持 南部
野辺地
,南部
野辺地
永世15俵 永世禄は兄与惣平へ 41 小野政之助 22歳 三等銃隊 無足 南部
野辺地
永世,無足 南部
野辺地
永世15俵 永世禄は父新五郎へ 46 佐々木良作 27歳 三等銃隊 無足 南部
野辺地
通史編3(近世2)
(東北戊辰戦争の終結)
東北戊辰戦争の終結 前述のように、
野辺地
戦争は、弘前藩の惨敗であった。,しかし、この
野辺地
戦争は、弘前藩にとって、必要不可欠の戦いだったといえるのである。,盛岡藩は、
野辺地
戦争に勝利したものの、秋田藩を通じて嘆願交渉を続行し、九月二十五日、秋田水沢口において,盛岡藩は、秋田戦争・
野辺地
戦争の代価として、家老楢山佐渡の切腹と七万両の賠償を支払うことになった。
通史編3(近世2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
青森県弘前市) 学校法人東奥義塾(青森県弘前市) 東京大学史料編纂所 藤先寺(青森県弘前市)
野辺地
八幡宮,(青森県上北郡
野辺地
町)
野辺地
町歴史民俗資料館 平賀町教育委員会 弘前市教育委員会 弘前市立図書館
資料編3(近世編2)
(第二節 戊辰戦争と弘前)
第二節 戊辰戦争と弘前 一 戊辰戦争下の奥羽地方 二 軍制改革の展開 三 庄内出兵と
野辺地
戦争
資料編3(近世編2)
([口絵])
平尾魯仙筆(弘前市立図書館蔵一般郷土資料) 平舘台場跡(青森県東津軽郡平舘村)
野辺地
戦争戦死者墓碑,(青森県上北郡
野辺地
町) 青海波雲龍蒔絵文庫(弘前市立博物館蔵) 青海波文月千鳥蒔絵長手箱
通史編3(近世2)
(捕虜となった庶民)
一町田村(現中津軽郡岩木町)の松という郷夫(ごうふ)は、運悪く元年九月二十二日夜から行軍が開始された
野辺地
攻,同日、馬門(まかど)村(現上北郡
野辺地
町)の湯小屋という所にさしかかった時、突如銃声が響き、恐怖で度を,敵前逃亡の罪で類は家族にまで及ぶから、戦場に戻ってくれと諭され、二十九日に狩場沢(かりばさわ)村(現上北郡
野辺地
町
通史編2(近世1)
(青森以外の町の騒動)
実際に藩領を越えた八戸でも「大南(部脱)
野辺地
一揆、津軽、青森一揆の書付参候而大に驚、風説まち/\なり,
野辺地
での騒動にも同じ陸奥湾岸に面する青森騒動の影響がみられる。
通史編3(近世2)
(戦局の展開と兵員の不足化)
さらに、この時期の弘前藩にとって厄介(やっかい)だったのは、盛岡藩が
野辺地
(のへじ)(現上北郡
野辺地
町,以後、この方面では九月二十三日の
野辺地
戦争まで緊張した対峙(たいじ)が続いていくのである。 ,時局はやがて
野辺地
戦争を経て、会津・盛岡藩も降伏し、十月十八日に鎮撫総督府から東北平定の宣言が出されるが
通史編3(近世2)
([口絵])
弘前八幡宮祭礼絵馬 口絵9 一ノ矢藤太郎 口絵10 源氏山頼五郎 口絵11
野辺地
戦争
資料編1(考古編)
(協力機関及び協力者一覧)
沢町光信公の館 浪岡町中世の館 尾上町教育委員会 板柳町教育委員会 平内町歴史民俗資料館
野辺地
町歴史民俗資料館
通史編4(近・現代1)
(大正期の弘中)
十一年には廃校になっていた東奥義塾、十五年には木造中学校や
野辺地
中学校までが相次いで開校したことでもわかる,大正十五年、それまでの椿校長が新設された
野辺地
中学校の初代校長に転出し、代わって葛原運次郎が第一四代校長
通史編3(近世2)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
口絵7 同上 口絵8 弘前市 弘前八幡宮蔵 口絵9 弘前市立博物館蔵 口絵10 同上 口絵11 上北郡
野辺地
町,
野辺地
八幡宮蔵 口絵12 市立函館博物館五稜郭分館蔵 口絵13 東京都千代田区 出光美術館蔵 口絵14,市立函館図書館蔵 59 作成 60 作成 61 青森県立郷土館蔵 62 青森県東津軽郡平内町 63
野辺地
町歴史民俗資料館蔵,64
野辺地
戦争記聞 弘前市立図書館蔵岩見文庫 65 青森県上北郡
野辺地
町 66 北海道檜山郡江差町
通史編4(近・現代1)
(貴族院議員選挙の概況)
、しかも任期が七年という長期のため、情実が行われやすく、任期いっぱいを勤めたのは第一期の野村治三郎(
野辺地
通史編4(近・現代1)
(学制の実施)
十三、五所川原、板柳 第一五中学区 白銀(現朝陽小学校)、和徳、鰺ヶ沢、深浦 第一六中学区 七戸、
野辺地
資料編1(考古編)
(1.旧石器時代の概観)
図1 旧石器時代の石器 群馬県笠懸町岩宿遺跡の現状 石刃(ブレード)…
野辺地
町・目ノ越遺跡,(
野辺地
町歴史民俗資料館蔵) ナイフ形石器・スクレパー等各種石器… 東通村・物見台遺跡
通史編5(近・現代2)
(学都充実への要望)
また小野議員は
野辺地
分校が非常に不振であるため、八戸市が教育学部の誘致を交渉しだしたことを報じ、これも
通史編4(近・現代1)
(鉄道の開通と運輸事業)
田辺粂吉・福津兼蔵・鹿内友蔵)、碇ヶ関二人、蔵館(現大鰐町蔵館)三人、大鰐二人、小湊(現平内町小湊)一人、
野辺地
一人
通史編4(近・現代1)
(請願建白文の審議)
羯南のこと)、中市稲(とう)太郎(五戸通御給人)、田中眼叟(がんそう)(田中耕一のこと)、角鹿忠四郎(
野辺地
通史編4(近・現代1)
(郵便事業)
甲第三〇号 県下西津軽郡鰺ヶ沢中津軽郡弘前南津軽郡黒石上北郡
野辺地
七戸下北郡田名部三戸郡五戸八戸各郵便局
資料編1(考古編)
((3)10世紀後半~11世紀)
これには、戸鎖館(六ヶ所村)・鷹架沼(たかほこ)竪穴遺跡(六ヶ所村)・明前館遺跡(
野辺地
町)・風張(1
通史編1(古代・中世)
(青森県の古墳文化)
下田町中野平(なかのたい)遺跡、同町阿光坊(あこうぼう)遺跡、三沢市広沢牧橋(ひろさわまきはし)遺跡、
野辺地
町有戸
資料編1(考古編)
(2.青森県の旧石器時代(図1))
下北郡脇野沢村小沢字稲平 小形削器ほか 4 〃 吹越 上北郡横浜町吹越 細石刃ほか 5 〃 目ノ越 上北郡
野辺地
町目
通史編3(近世2)
(戦局の推移と戦費負担の増加)
九月二十三日の
野辺地
戦争は、官軍に頑強な抵抗を続ける盛岡藩を牽制(けんせい)する目的から、奥羽鎮撫総督府付軍監,出兵人数1,870人 5 同上 領内間道出兵 14,900 出兵人数904人 6
野辺地
出兵
通史編1(古代・中世)
(一六世紀の湊)
さらに、下北半島の川内町の鞍越(くらこし)遺跡出土遺物、
野辺地
町周辺の表採品に一六世紀から一七世紀初頭
通史編4(近・現代1)
(県下銀行の発展と金融都市弘前)
7 北郡金木村 20,000 20,000 11 同 野村銀行 32.10 上北郡
野辺地
町, 五所川原町 125,000 125,000 69 同 上北銀行 29. 7 上北郡
野辺地
町
通史編2(近世1)
(「人寄せ」と人口流出の禁制)
このような措置により、たとえば享和二年九月の「国日記」の記事のように、盛岡領
野辺地
から一家六名が飯詰・
資料編1(考古編)
((1)3世紀末~4世紀前半代)
青森市小牧野 A 弥生後期 269 16 一本松苗A遺跡 東津軽郡平内町松野木 C 17 馬門遺跡 上北郡
野辺地
町馬門
通史編3(近世2)
(松前徳広の領内落去)
ただ、一度は朝敵ではないかという疑いをかけられた弘前藩にとっては、
野辺地
(のへじ)戦争の敗戦がいまだ尾,、近代的武力を誇る官軍諸藩が津軽領に滞陣している中で、当の弘前藩が他藩に勝る働きをしなければならず、
野辺地
戦争
通史編4(近・現代1)
(地租改正の経過)
各郡については、米価、大豆価、稗価を用い、福岡町、一戸町、浄法寺町、五戸町、三戸町、八戸町、田名部町、
野辺地
町
通史編1(古代・中世)
(古墳文化及ばぬ北の世界)
また他にも、三沢市や
野辺地
町有戸(ありと)、下田町阿光坊(あこうぼう)遺跡(写真21)などから、五~六世紀
通史編3(近世2)
(近隣諸藩の動向)
しかし、盛岡藩が同盟遵守を決定したことで、八戸藩は、九月に勤皇を表明した弘前藩と
野辺地
で戦火を交えることになった
通史編3(近世2)
(二等銃隊の補充と特質)
第二次討庄援兵期までを、(第2期)の明治元年八月六日~十月十八日とは盛岡藩との戦闘が激化し、九月二十三日の
野辺地
戦争
通史編2(近世1)
(烏帽子山紛争)
一五九五)、津軽領は狩場沢(かりばさわ)村(現東津軽郡平内町狩場沢)、南部領は馬門(まかど)村(現上北郡
野辺地
町馬門周辺
資料編3(近世編2)
(【解説】)
奥羽鎮撫総督府は弘前藩に盛岡藩征討を命じ、このために引き起こされた戦闘が九月二十三日の
野辺地
(のへじ),弘前藩は死傷四九名を出して惨敗したが、時に会津・庄内・仙台・米沢藩ら朝敵側は降伏しており、盛岡藩からも
野辺地
戦争直後
通史編5(近・現代2)
(弘前無尽会社の相互銀行への転換)
板柳町・金木町(現五所川原市)、西津軽郡木造町(現っがる市)・鰺ヶ沢町、上北郡三本木町(現十和田市)・
野辺地
町
通史編2(近世1)
((二)蝦夷地出兵の諸段階)
戦いは、結局松前藩によって制圧されたため、津軽弘前藩は松前に駐屯しただけで帰弘し、また盛岡藩も一隊を
野辺地
通史編5(近・現代2)
(総選挙での戦い)
△幹事 高杉村 高杉平治 立憲民政党青森県支部の中弘関係者 △支部長
野辺地
町
通史編3(近世2)
(農兵の組織)
まっていき、八月十二日には郡奉行小山内清之丞(せいのじょう)が四小隊を率いて、盛岡藩兵が集結していた
野辺地
方面
通史編4(近・現代1)
(運輸事業)
秋田県下ニ至ル 一線 一 浪岡ヨリ黒石ヲ経テ大鰐ニ至ル 一線 一 青森ヨリ
野辺地
三戸
通史編3(近世2)
(新編 弘前市史 通史編3(近世2) 目次)
165 三 軍制改革の展開 ………………………………………… 185 四 庄内出兵と
野辺地
戦争
通史編1(自然・原始)
(太平洋戦争終結後)
調査し(85)、昭和三十一年(一九五六)と昭和三十三年(一九五八)には、三沢市早稲田(わせだ)貝塚を
野辺地
町
資料編1(考古編)
((2)太平洋戦争後から現代まで)
28年(1953)には、慶応義塾大学江坂輝弥による東通村稲崎遺跡*15*16、東京大学斎藤忠らによる
野辺地
町明前
資料編1(考古編)
(〈注及び参考文献一覧…第3章〉)
208 大橋康二 「Ⅳ章 考古学的考察」(尻八館調査報告書)尻八館調査委員会 1981年 *209
野辺地
町教育委員会
資料編3(近世編2)
(新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)
軍制改革の展開 ………………………………………………………………………… 一四六二 三 庄内出兵と
野辺地
戦争
/ 1ページ