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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(金澤市政の財政)
金
澤
市政の財政 平成四年(一九九二)の市長選挙において、第三一代(~第三四代・現在)弘前市長に就任した,
金
澤
隆
(かなざわたかし)市長は、就任にあたり市民一人一人の声を聞き、それを真摯に受け止め、公正で能率的,(一)市政における重点施策
金
澤
市政における施策は環境問題への取り組みとともに、高齢化社会に対する,また、福士市政から受け継がれてきた弘前駅前再開発事業は
金
澤
市政において完了する。 ,写真160 市政懇談会での
金
澤
市長 /
金
澤
市政の財政
資料編1(考古編)
(第6節 金属製品)
第6節
金
属製品
金
属器の出土の特色は、数の多さと特異な出土状況にあり、素材鉄(鉄鋌(てい))の出土,
金
属器の中で貨幣は興味深い事例を示す。,奈良 760 1 神功開珎 奈良 765 1 4
隆
平永宝,3 1 16 1 149 紹興通宝 南宋 1131 1 1 16 正
隆
元宝,1 3
隆
興元宝 南宋 1163 1 乾道元宝 南宋 / 第6節
金
属製品
通史編5(近・現代2)
(新編弘前市史 通史編5(近・現代2))
新編弘前市史 通史編5(近・現代2) 題字 弘前市長
金
澤
隆
通史編1(自然・原始)
(草創期)
とされる草創期は、旧石器時代において述べたごとく、大平山元Ⅰ遺跡で発掘された無文土器→六ヶ所村鷹架発茶
沢
(,たかほこはっちゃざわ)の表館(おもてだて)(1)遺跡およびその近隣にある発茶
沢
(1)遺跡で出土した
隆
線文,また発茶
沢
(1)遺跡では破片となって一二点ほど出土した。,ただしこの土器は器面を飾る
隆
線は、表館(1)遺跡のものに比べて太形である(5)。,爪形文土器は、一〇〇点を超える破片で出土し、土器の器体を構成する粘土(胎土(たいど)と称する)のなかに
金
雲母
資料編1(考古編)
(協力機関及び協力者一覧)
青森県立郷土館 青森市教育委員会 八戸市教育委員会 八戸市博物館 黒石市教育委員会 鰺ヶ
沢
町光信公,南茅部町教育委員会 名久井農業高等学校 熊野奥照神社 東奥日報社 赤平智尚 阿部義平 市川
金
丸,宇野
隆
夫 宇部則保 岡田康博 岡村道雄 葛西励 菊池徹夫 木村高 木村鉄次郎 木本元治,千田嘉博 辻秀人 冨樫泰時 豊島勝蔵 七崎修 奈良昌紀 成田盛 畠山昇 林謙作 半
沢
紀
通史編1(自然・原始)
(第四節 注および引用・参考文献)
垂柳遺跡発掘調査報告書』(青森県埋蔵文化財調査報告書八八) 一九八五年 (5)弘前市教育委員会 『砂
沢
遺跡発掘調査報告書,』図版編 一九八八年 弘前市教育委員会 『砂
沢
遺跡発掘調査報告書』本文編 一九九一年 (6)「日本書紀,『新訂増補 國史大系 日本書紀』後篇 吉川弘文館 一九九〇年(普及版一二刷) (7)A 須藤
隆
「東日本,における弥生文化の受容」『考古学雑誌』七三-一 一九八七年 B 市川
金
丸・木村鉄次郎 「青森県松石橋遺跡
通史編3(近世2)
(信政の文治)
信政の文治 文運
隆
盛の礎は、「中興の英主」として仰がれた四代藩主信政(一六四七~一七一〇)の治世下において, 和学 十河能登、湯浅律斎 書学 佐々木次郎(養和流)、乙部喜八、松浦治左衛門、大橋彦左衛門、小
沢
久左衛門,、佐々木宗寿、小山内三益、八郎兵衛(歯科医)、豊田検校、十河能登、湯浅律斎、渋江道陸 算術測量
金
沢
勘右衛門,西岡三四郎、砂川伝八(以上、笛) このほかにも紙漉(かみすき)師、蒔絵(まきえ)師、養蚕織物師、
金
具,する国元の技能者からの羨望や反発を配慮しながら、招聘した諸芸百工の知識・技術指導による殖産興業と文化興
隆
を
資料編1(古代・中世編)
(参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く))
第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く) (1)中村良之進『青森県中津軽郡船
沢
村郷土史,むつ1輯) (6)竹内運平「長勝寺梵鐘の観察過程に就いて」(陸奥史談14輯) (7)成田末五郎「船
沢
村地内,」(東奥文化9・10合併号) (10)福田以久生「嘉元鐘について」(国史研究70号) (11)戸
沢
武,72号) (13)佐藤仁「歴史地理的に見た弘前周辺の板碑」(年報市史ひろさき2) (14)福井敏
隆
「,15)磯村朝次郎「鹿角地方における中世石造遺物」(秋田県立博物館研究報告) (16)司東真雄『岩手県
金
石志
通史編5(近・現代2)
(総選挙での戦い)
えよ 石渡春雄 △地主政党を征伐せよ 武内完治(日労) △労働農民党の使命 大
沢
久明,一ヵ月後の四月六日、いわゆる四・一六事件が起き、大
沢
・堀江ら先鋭な闘士は根こそぎ検挙され、指導者を失った,支部長 黒石町 鳴海文四郎 △幹事長 青森市 梅村大 △顧問(中弘関係)高杉村 高杉
金
作, 弘前市 工藤五三郎 △幹事 高杉村 高杉
隆
治 豊田村 小山内徳進 大浦村 齋藤晋作,加藤宇兵衛 青森市 阿部政太郎 黒石町 竹内清明 弘前市 石郷岡文吉 同 宮川久一郎 高杉村 高杉
金
作
資料編1(考古編)
(刊行のことば)
刊行のことば 弘前市長
金
澤
隆
私たちの郷土「弘前」は、藩祖為信公が計画し、二代藩主信枚公
通史編3(近世2)
((一)概要)
たかやしげき)・斎藤規房(さいとうのりふさ)・間山祐真(まやまゆうしん)・石川雅朝(いしかわまさとも)・
金
則博,)のころには、斎藤規沖(のりおき)・猪股繁永(いのまたしげなが)・佐野正学(さのせいがく)・小山内清
隆
(,幕末に入ると斎藤規文(さいとうのりふみ)・下
沢
保躬(しもさわやすみ)・小山内清俊(おさないきよとし)・,外崎正風(とのさきしょうふう)・大道寺繁禎(だいどうじしげよし)らが中心となり、各所で歌会が催されて
隆
盛
通史編1(自然・原始)
(刊行によせて)
刊行によせて 弘前市長
金
澤
隆
「新編弘前市史」編纂事業は、平成元年に市制施行一
通史編2(近世1)
(知行宛行状の発給)
伊藤の場合も同様であり、
金
山の内戸
沢
(現五所川原市戸
沢
)を派立させたあかつきに知行地となるものであった,さて、寛永十七年(一六四〇)十一月二日には津軽信
隆
へ高五〇〇石の知行宛行状が発給された(同前No.六二,信
隆
は藩主信義の弟であり、家老を勤めた人物である。,四村で五〇〇石というのは一村平均一〇〇石以上となり、
金
木新田一八ヵ村の一つと考えられる「たも木派村」はこの,二月十三日には津軽信
隆
にまた加増があり、二七ヵ村で高三〇〇石が加増された(同前No.七〇五)。
通史編5(近・現代2)
(東北振興)
これは大正二年(一九一三)七月に渋
沢
栄一ら中央政財界有志によって組織された東北振興会が、昭和二年三月一日,青森県からは、指導奨励機関および寒地国立園芸試験場の設置、雪害による地方税の負担軽減、
金
融における低
金
利促進,、中小商工業者への資
金
融資、中央資本家の資
金
投下、八戸港・青森港の修築、十和田国立公園候補区域の拡張、,そのほか振興会は東京、大阪で名産品陳列会を開催し、産業視察団の派遣を行って東北産業の興
隆
に努めた。,同社は米糠搾油販売事業を行うもので、資本
金
一〇万円とし、それまで操業していた弘前油脂会社(資本
金
二万円
通史編2(近世1)
(烏帽子山紛争)
紛争はしばしば幕府に提訴されたが、
金
銭訴訟とは異なり、現地の慣行に沿って解決することが適切なため、幕府,やたてとうげ)の帰属と日本海側の領境をめぐる境論が、佐竹家が秋田に封じられた慶長年間以降発生している(福井敏
隆
「,一方、津軽領と南部領の領境については、文禄四年(一五九五)、津軽領は狩場
沢
(かりばさわ)村(現東津軽郡平内町狩場
沢
,烏帽子山とは狩場
沢
村の東、馬門村の西にある低い山々の集まりである。,所之畑高五反五畝二拾二歩」という記載が符合し、それが「助しらひ畑」と肩書がある畑高の内であること、争点の一つであった
金
山
通史編5(近・現代2)
(完結に寄せて)
完結に寄せて 弘前市長
金
澤
隆
『新編弘前市史』編纂事業は、市制施行百周年を記念して、平成元年
通史編2(近世1)
(家臣団の成立)
五郎右衛門 4 右筆彦右衛門 5 高坂弥作 6 三畝寺弥三郎 7 中野弥三郎 8 兼平
金
四郎,それを、まとめたものが表13である(福井敏
隆
「元和・寛永期津軽藩の家臣団について」『弘前大学国史研究』,元和年中御家臣姓名大概」と表13を比べると、郡市兵衛・高屋豊前守(ぶぜんのかみ)・戸田茂兵衛・服部長門守・秋田
金
左衛門,・乾(いぬい)四郎兵衛・大道寺隼人(はやと)・柳野織部(おりべ)・戸
沢
勘兵衛・北村久左衛門・青木兵左衛門,それによれば、田中村(現在地不明)の取立者として唐牛(かろうじ)与右衛門・松野大学・森岡采女(うねめ)、中
澤
村
通史編1(自然・原始)
(第五節 引用参考文献)
火道溶岩)の放射年代、青森地学 第四五号、七-九頁 (12)鎌田耕太郎(二〇〇〇) 津軽平野東縁遠手
沢
に,堆積環境、青森県史研究第四号、一一三-一二〇頁 (13)木村方一(一九九〇)青森県西津軽郡深浦町扇田
沢
産,における構造層序概念の有効性、地質学論集 五五、一-一五頁 (24)奈良正和(一九九八) 中部更新統
金
剛地層市野々砂泥互層,東日本中新-鮮新世のナガスクジラ科化石について、日本古生物学会一九九一年予稿集、六六頁 (29)大
沢
穠,地向斜、総研A報告書「日本列島北部における地向斜および構造帯区分の再検討」、二七-三六頁 (36)土
隆
一
通史編3(近世2)
(近隣諸藩の動向)
、先述したように、弘前藩とは連絡が密であったが、京都から仙台藩等が朝敵の対象となった知らせを受けて、
沢
副総督,しかし、その一方では、秋田に転陣した
沢
為量副総督に藩
金
を献上するなど、やはり、日和見的立場を貫いていた,盛岡藩の藩論は、楢山佐渡
隆
吉を中心とする佐幕派と、東中務政図(あずまなかつかさまさのり)を中心とする勤皇派
資料編1(考古編)
((3)縄文時代前期)
昭和31年(1956)と翌年に発掘が行われた三
沢
市早稲田貝塚の出土土器を調査した佐藤達夫は、6分類(1,された八戸市市川町の長七谷地貝塚出土の第Ⅲ群土器*33、六ヶ所村鷹架の表館遺跡出土の表館式土器34*、
金
木町藤枝溜池北岸出土,の芦野Ⅰ群土器35*、昭和62年(1987)に発掘され草創期の
隆
線文土器を出土した表館(1)遺跡で発見,遺跡出土の下層d類土器が2分類(d類と狐岱式)され*37、さらに、同年の八戸市(調査当時は三戸郡大館村)蟹
沢
(,大木系土器) 円筒下層a式土器 円筒下層b式土器 円筒下層c式土器… 青森市・熊
沢
遺跡
資料編1(古代・中世編)
(六 板碑の調査・研究史)
年号并在所を書付可被申出候様(以下略)〈弘前藩庁日記・弘前市立図書館蔵〉 という触を出し、銘のある
金
石造遺物,なお、『撞鐘古碑石調之覚』は、宮舘〈中別所〉・三世寺・外崎(以上弘前市)、藤崎(藤崎町)、関・
金
井ヶ
沢
,明治から大正にかけての板碑の研究者として、下
沢
保躬・下
沢
陳平・佐藤蔀らを挙げることができるが、特に、中村良之進,両書の刊行とともに、戸
沢
武・小舘衷三・福井敏
隆
が県内の板碑を分析し、論文を発表している。
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
仙台市博物館蔵 13 佐賀県立名護屋城博物館蔵 14 同上 15 同上 16 東京国立博物館蔵 17
金
沢
市,と刑罰』90頁 昭和59年 北方新社刊 184 荒歳流民救恤図并略記 国立国会図書館蔵 185 鯵ヶ
沢
町, 種里八幡宮蔵 186 (文久三年)大光寺組
金
屋村当戸数人別田畑共取調帳 弘前市立図書館蔵八木橋文庫,津軽藩における支配機構の一考察」『北奥地域史の研究』46頁 昭和63年 名著出版刊 表15 福井敏
隆
「,津軽藩における支配機構の一考察」『北奥地域史の研究』47頁 昭和63年 名著出版刊 表16 福井敏
隆
「
資料編1(考古編)
(〈注一覧…第2章〉)
せるエオリス様の石片に就いて」(地質学雑誌36-431) 1929年8月 *7 杉原荘介 「青森県
金
木砂礫層出土,*149 橘善光 『弥生時代』(青森県の考古学 青森大学出版局) 1983年8月 *150A 須藤
隆
,現状と課題 東北地方の弥生式土器の編年について」(縄文文化検討会) 1988年3月 *150C 須藤
隆
,能都町教育委員会・真脇遺跡発掘調査団 『石川県能都町真脇遺跡』(本編・写真図版編) 1986年12月 *229
金
沢
市教育委員会,ほか 『
金
沢
市新保本町チカモリ遺跡-遺構編-』(
金
沢
市文化財紀要34) 1983年3月 *230 *
通史編1(自然・原始)
(太平洋戦争終結後)
昭和二十四年(一九四九)一月二十六日、法
隆
寺の
金
堂が焼失し内部にあった壁画も被害を受けた。,江坂は、下北とともに八戸市方面にも意を注ぎ、音喜多富寿(おときたとみじゅ)(一九〇五~一九七五)や市川
金
丸,わずかに昭和二十六年(一九五一)七月、
金
木考古学会が中里町深郷田遺跡を、昭和二十七年(一九五二)五月、,弘前市の成田末五郎(なりたすえごろう)(一八九五~一九七九)と戸
沢
武(とざわたけし)が鯵ヶ
沢
町長平(ながだい,そのなかでも六月に、明治大学の杉原荘介(すぎはらそうすけ)(一九一三~一九八三)が中心となって実施した
金
木
通史編5(近・現代2)
(戦時生活の諸側面)
しだいに「欲しがりません、勝つまでは」「贅
沢
は敵だ」に代表されるような世相が濃厚となった。,昭和期のりんごは海外輸出も激増するなど
隆
盛期だった。,毎年開催される観桜会やねぷたを楽しむ人々は数多くいたし、「贅
沢
は敵だ」と言われながらも、土手町の角は宮川,しかしすべて中止になったわけではなく、子供たちが担ぎ踊る扇灯籠や
金
魚ねぷたは大目に見られ、ねぷた自体の
資料編1(考古編)
(-文献リスト-)
の最終寒冷期の風成堆積層について.日本地質学会第100年学術大会講演要旨,P.292 ◇88 菊池
隆
志,(1980) 昭和54年度北鹿地域精密調査報告書.通産省,P.160 ◇95
金
属鉱業事業団(1982,火山性熱水対流系地域タイプ③(八甲田地域)調査.火山岩分布年代調査報告書,P.45 ◇128 鈴木
隆
介,米代川流域の河岸段丘と十和田火山噴出物との関係.東北地理,Vol.12,P.33-40 ◇172 古川
隆
治,松野正(1961) 十和田・八甲田火山噴出物.青森県農試研報,No.6,P.1-73 ◇178 松本
隆
・
通史編1(古代・中世)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
弘前市蔵 写真6 宋書倭国伝 百衲本 写真7 山海経 大阪府立中之島図書館蔵 写真8 造東大寺司沙
金
奉請文,写真59 撮影 写真60 仙台市博物館蔵 写真61 後拾遺和歌集 弘前市立図書館蔵 写真62 岩手県胆
沢
郡
金
, 京徳寺蔵 写真189 弘前市 長勝寺蔵 写真190 津軽一統志附巻 弘前市立図書館蔵 写真191
金
沢
家光,弘前市蔵 写真218 撮影 写真219 撮影 写真220 津軽一統志首巻 弘前市立図書館蔵 写真221
金
光上人坐像,青森県教育委員会刊 図23 『碇ヶ関村古館遺跡発掘調査報告書』附図 図24~28 作成 図29 須藤
隆
他
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●天正十七年(一五八九)八月二十日、加賀
金
沢
城主前田利家、南部信直へ書状を遣わし、大浦為信に叛逆の動きあること,●天正十八年(一五九〇)七月、加賀
金
沢
城主前田利家検地のため津軽へ赴く。,●慶長七年(一六〇二)七月十八日、これより先、津軽信枚家臣、加賀
金
沢
城主前田利長の家臣と、洛中にて争闘,●寛永三年(一六二六)四月六日、津軽信枚、伊藤六右衛門へ
金
山の戸
沢
村派立二百石を充行う。,●寛永十四年(一六三七)、この年、津軽信吉の弟津軽信
隆
の屋敷、城の南門の付近に建築を許され、信
隆
、盛岡采女
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
ってみれば、為信出陣、尾崎喜蔵・板垣兵部・三目内多田玄蕃の謀叛(むほん)、三将の堀越城占拠とそれに対する
金
小三郎,、さらに描かれた幟の図柄を仔細に検討すると、諸将旌旗図屏風(しょしょうせいきずびょうぶ)(静岡市立芹
沢
銈介美術館蔵,木村重茲に属する一手として秋田実季、前田利家に属する一手として南部信直と本堂忠親、蒲生氏郷に属して大崎義
隆
、,大谷吉
隆
の一手として由利五人衆といった、伊達氏と津軽氏を除いた大部分の奥羽大名が牧使城の攻撃軍に編成されていたことになる
通史編1(自然・原始)
(発掘調査の成果)
多数出土し(112)、昭和六十二年(一九八七)には六ヶ所村鷹架(たかほこ)の表館(おもてだて)(1)遺跡で
隆
線文,なかでも後者の
隆
線文土器は、完全な形に復元され国内外から注目を浴びている。 ,十五世紀=鎌倉~室町時代)(146)、東津軽郡蓬田村の蓬田(よもぎだ)大館遺跡(一九八一・八四・八六年
金
沢
大学,号遺跡で、縄文時代中期末の大木8b式期に比定される甕棺一個を発掘し(161)、同年十二月には近くの小
金
森遺跡,ほかに、時代は若干古いとみられる組石石棺墓が、同年五月に西津軽郡鯵ヶ
沢
町建石(たていし)町の餅ノ
沢
(もちのさわ
資料編1(考古編)
(新編 弘前市史 資料編1-1 考古編 目次)
目次 ■口絵〈自然〉地形と地質 〈考古〉市内の遺跡と遺物 ■刊行のことば 弘前市長・
金
澤
隆
, 26.黄
金
山層 27.五所川原砂礫層 28, 413 7.陶磁器の組成 …………………………………… 414 第6節
金
属製品,452 3.尾上山遺跡 ……………………………………… 453 4.黄
金
山遺跡, 15.尾上山(3)遺跡 ………………………………… 490 16.鬼
沢
猿
沢
遺跡
通史編2(近世1)
(津軽信枚の越後転封)
以下これらの資料を中心に経過をみてみよう(なお、以下の記述は、福井敏
隆
「元和・寛永期津軽藩の家臣団について,信枚の転封によって貸与した
金
一〇〇枚を取り戻すことは不可能になると思ったらしい。,七、最勝院・長勝寺・百
沢
寺・貞昌寺に国替の通知を行い、末寺までも一緒に越後まで上るという寺は召し連れること,八、荷物のことは、必要なものは道中各自に持たせ、その外の荷物は、よく包ませて鰺ヶ
沢
まで送り、藩の船がありしだいに,酒井忠勝・牧野忠成両人の領地近所に、「津軽之高四万五千石」を下されることなり、正則には七月二日に幕府から寺
沢
広高
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
室町期に開かれたといわれるが、具体像が明らかになるのは近世初頭で、酒田・敦賀の廻船が南部氏の船宿・御用達
金
調達,元和八年(一六二二)の最上氏の改易後は、最上川流域の米
沢
・山形などの諸藩、および天領の米が一層酒田に集積,⑥十七世紀、弘前藩の力により再興されるが、岩木川水系と鰺ヶ
沢
の中継港にとどまった。,そして、中世の十三湊は、東日本の中核港湾都市というべき物資集散の拠点であった(宇野
隆
夫「日本海に見る中世
通史編1(自然・原始)
(第一節 注および引用・参考文献)
工藤白竜(常政) 「乳井大円寺の石器」『津軽俗説後拾遺』(青森県叢書一) 一九五一年十一月 (6)滝
沢
馬琴等, 文化財保護委員会 『埋蔵文化財要覧』 吉川弘文館一 一九五七年十一月 (81)杉原荘介 「青森県
金
木砂礫層出土,橘善光 「第四章 弥生時代」『青森県の考古学』 青森大学出版局 一九八三年八月 (119)A 須藤
隆
,天間・三宅 『宇鉄Ⅱ遺跡発掘調査報告書』(青森県立郷土館調査報告六) 一九七九年三月 (121)市川
金
丸,縄文時代後期集合改葬土器棺墓調査-』 倉石村埋蔵文化財調査報告書一集 一九九八年三月 (164)A 市川
金
丸
通史編2(近世1)
(林政の展開と漆木の栽培)
元禄5(1692).4.19 和徳組小
沢
村(現小
沢
など)への松杉苗植林計画の申し立て。,宝永元(1704) 高杉組鬼
沢
村(現鬼
沢
)の野山に松・杉等の植林を命じる。,杉・松等を和徳組小
沢
村へ年2500本ずつ,久渡寺(現坂元)境に年1700本植樹を命じる。,これを各組ごとにみると、横内組・大鰐組・駒越組など、比較的面積が広い山間部に多く、広田・広須・柏木・
金
木新田,かれたが、漆の実は蝋燭にするため城下の蝋燭問屋へと払い下げられ、管轄も蝋燭奉行のもとに属していた(福井敏
隆
「
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
たとえば、嘉祥(かしょう)三年(八五〇)に上野国聖
隆
寺、元慶(がんぎょう)五年(八八一)に信濃国伊那(,いな)郡観音寺、同じく陸奥国安積(あさか)郡弘
隆
寺などがその例である。 , 寺社名 創建年次・創建者 別当(宗派名) 備考 (1) 岩木山三所大権現 延暦十五年 真言宗百
沢
寺,) 長円寺 同右 同右 飯詰村 (24) 正光寺 同右 同右 (25) 雲祥寺 同右 同右
金
木村,一方、百
沢
寺、最勝院、大円寺、そして高伯寺はいずれも移転を繰り返した寺院である。
資料編1(考古編)
(〈注及び参考文献一覧…第3章〉)
古代文化)学生社 1975年 *123 村越潔 『青森県の原始時代』北方新社 1975年 *124
金
子浩昌,132 〃 「下北半島のアイヌ・モシリ」(季刊どるめん11)JICC出版局 1976年 *133
金
子浩昌,本堂寿一 「東北におけるチャシ論史考」(北奥古代文化6) 1977年 *161 竹内正光 「青森県
金
木町出土,土師器と北大式・擦文土器の文化」(下北半島の歴史と民族) 1978年 *163 青森県教育委員会 『
金
木町神明町遺跡,白鳥良一 「多賀城跡出土土器の変遷」(研究紀要』Ⅵ)宮城県多賀城跡調査研究所 1987年 *259 三嶋
隆
儀
通史編3(近世2)
(一〇代信順の治世)
このため信順はひそかに「夜鷹様(よたかさま)」とあだなされるようになり、文政九年には家老高倉盛
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(もりたか,信順(のぶゆき)は足繁(しげ)くここに通い、贅
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(ぜいたく)な生活にふけったため、江戸で再び人々の評判,中止などが中心であったが、一部に寧親の隠居料一万石の藩庫への繰り入れ、奥女中の削減、小納戸(こなんど)
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通史編1(自然・原始)
(新編 弘前市史 通史編1(自然・原始) 目次)
新編 弘前市史 通史編1(自然・原始) 目次 序 刊行によせて 弘前市長
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通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
検地の実施中、越後と弘前の間には飛脚がたびたび往来し、また越後へ御用
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も送られた(「国日記」天和二年六月十五,田口十兵衛 ○ 6 目付 岩田又五郎 目付 7 賄方 長尾戸左衛門 馬廻組士 8 〃 杉山田
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助,中路又助 〃 ○ 19 〃 鈴木惣右衛門 〃 ○ 20 〃 吉田弥太右衛門 〃 ○ 21 〃 塩
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治兵衛,―津軽藩に課せられた公役の分析を中心に―」同編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、福井敏
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資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
九月、源義家、
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柵を攻める。十一月、落城。十二月、源義家、追討の官符を要求するも認められず。,………………………
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文庫文書 171 ●元応元年(一三一九)十二月二十八日、尼たうしやう、平賀郡沼楯村,………………………… 南部家文書 197 ●建武二年(一三三五)六月、大河戸
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行、津軽での戦闘の功として,…………………… 重建永寧寺碑記 242 ●永享六年(一四三四)十月二十三日、南部(
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)家光、右京亮,… 新羅之記録・福山秘府・八戸湊文書 248 ●宝徳三年(一四五一)三月十八日、南部(
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)家信、右京亮
通史編5(近・現代2)
(新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)
2) 目次 新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次 序 完結に寄せて 弘前市長
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………………………………… ii 監修を終えて 弘前大学名誉教授 乕尾 俊哉 ……………………,………… 87 五 恐慌・戦時下の工業 ………………………………………… 93 六 昭和
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融危機,の勃発と打開 ………………………………… 104 七 戦時
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融統制と青森銀行の誕生 ………………
資料編1(古代・中世編)
(出典・典拠一覧(第一章・第二章))
岩手県葛巻町八幡神社鰐口銘文 …………………………………………………………………………… 『岩手県
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石志, …………………………………………………………………………………………………………… 国文註釈全書
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文庫文書,………………………………………………… 中世法制史料集 佐藤雨山氏所蔵弘前藩記録 …………… 大島正
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氏論文,…………………………………………………………………………………… 『多賀城碑-その謎を解く』 多賀谷
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経家所蔵文書, …………………………………………………………………………………………… 新訂増補国史大系 の 簷迺
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棣棠
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