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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(行在所金木屋)
行在所
金木
屋 弘前における行在所たる光栄に浴した本町の武田家は、屋号を
金木
屋と称し、藩政時代の豪商で,すでに述べたように、明治九年の御巡幸の際、
金木
屋の当主武田熊七は青森において県参事那須均の付添えをもって,十四年の巡幸に際して、弘前における行在所の御下命に接した
金木
屋は、当主は先代熊七の子清七と代わっていたが,台所には御調理場を設け、その天井を白金巾をもって張り、別に天皇の御手道具置所とされた大座敷には
金木
屋の,写真34 行在所に充てられた
金木
屋 / 行在所
金木
屋
通史編3(近世2)
(金木屋による養蚕と製織)
金木
屋による養蚕と製織 本町の絹・木綿・布商人
金木
屋和吉(初代)は、現金正価、掛け値なしの商法を取り,また
金木
屋武田甚左衛門(二代目)は以前から格別養蚕に意を用いていたが、文政十二年(一八二九)には秋田同様,同じく「封内事実秘苑」天保元年六月条には、在府町の
金木
屋甚左衛門織座の状況について次のように記されている /
金木
屋による養蚕と製織
通史編3(近世2)
(金木屋の生活)
金木
屋の生活 五月二日、お兼が風邪気味で小山内医師が往診。,九日、別家〓(本町の
金木
屋)の先祖の二〇〇回忌などの法要へ、今日・明日妻と悴が参上。,悴が〓の祝言(しゅうげん)に行き、今夜〓(城下本町の別家の
金木
屋)に一泊。,(1)
金木
屋の田圃の田植えと稲刈りの様子。酒の醸造。 (2)掛かりつけの医者で健康管理。,一般の商人とは異なる豪商ではあるが、
金木
屋の日記を通して、町人の生活を垣間(かいま)見ることはできるであろう /
金木
屋の生活
通史編3(近世2)
(金木屋日記にみえる衣服)
金木
屋日記にみえる衣服 この日記の筆録者、武田又三郎敬之(たけだまたさぶろうたかゆき)は、弘前城下の,本町(ほんちょう)で質屋・酒屋を経営し、山一
金木
屋の店名を持ち、城下のみならず領内でも有数の有力商人として,それより以前六月七日には、弘前城下の他家を訪問した際に、絹羽織を着ており、
金木
屋は家老大道寺や藩の重臣 /
金木
屋日記にみえる衣服
通史編2(近世1)
(金木屋日記にみる対外危機)
金木
屋日記にみる対外危機 ペリーの来航という浦賀で起きた事件は、その衝撃がよほど大きかったためか、はるかに,嘉永六年当時、弘前市域の郊外賀田(よした)(現岩木町賀田)に居住していた有力商人
金木
屋又三郎は、「
金木
屋日記,さらに、
金木
屋には秋田藩の郷士日影(ごうしひかげ)八右衛門が陣羽織七枚を買いに訪れ、津軽家の重臣大道寺家 /
金木
屋日記にみる対外危機
通史編3(近世2)
((二)食事)
ただし、有力商人の
金木
屋に残された、幕末期の「
金木
屋日記」によって、富裕な町人の食事を垣間(かいま)見
資料編3(近世編2)
(第四節 後期藩政下の民衆)
第四節 後期藩政下の民衆 一
金木
屋日記に見る民衆の世界 二 町方の構造
通史編2(近世1)
(民兵の登場)
藩では海岸を持つ油川両組(油川・後潟組)・浦町両組(浦町・横内組)・
金木
両組(
金木
組・
金木
新田)・広須両組,
金木
両組では一七八人が二手に分けられ、庄屋・村役人が「伍長」として指揮をとることとされた。
通史編3(近世2)
((二)日常生活)
(二)日常生活 ここでは前掲「
金木
屋日記」によって嘉永六年(一八五三)五月と九月の二ヵ月における、武田家
通史編2(近世1)
(在宅制度廃止以前の廃田・新田開発)
たとえば、寛政六年(一七九四)で開発が成就した田方はいわゆる新田地方(広須・木造新田・
金木
・
金木
新田・
通史編5(近・現代2)
(全農青森県連合大会)
全農青森県連合大会 昭和八年二月二十五日、全農青森県連合大会が北津軽郡
金木
町(現五所川原市)
金木
劇場,直ちに街頭をいっぱいにした抗議デモとなり、同日スキー県大会に来ていた県知事に
金木
駅で面会を求めたが、知事
通史編5(近・現代2)
(県内銀行合併の推進)
16 普銀:第五十九、津軽、弘前商業、弘前、青森、青森商業、八戸、尾上、佐々木、陸奥、板柳、板柳安田、
金木
,2 16 11年 14 2 16 12年 14 2 16 13年 11 2 13 三戸、
金木
,第五十九銀行はその直後の同年八月に
金木
銀行を買収合併。,
金木
銀行は明治三十年に設立された銀行だが、時局の進展につれ、農村地帯の小規模銀行は将来の経営が困難になりつつあった
通史編2(近世1)
(対外交易の実態)
前出の
金木
屋又三郎は商売上からか、和親条約締結後の箱館開港という比較的早い時期から異人に興味を示し、接触,「
金木
屋日記」によれば安政二年(一八五五)に入ると津軽領内にロシア煙草が入ってきたらしく、外見は黒い千枚漬,安政四年(一八五七)閏五月、
金木
屋ではアメリカから注文があったとして、米三万俵・大豆・大和錦・カンテン・,また、
金木
屋のほか、箱館と地理的に近接する青森でも異国を商売相手と考える商人がいた。
通史編5(近・現代2)
(景気回復後の弘前市の商業)
石川,平賀,猿賀 C 市内各病院,南郡,北郡,市周辺 陶器 A 黒石,大鰐,浪岡,七和,鶴田,
金木
,大館,大岩 D 黒石,板柳,目屋,市周辺 海産物 A 大館,鷹巣,黒石,浪岡,板柳,五所川原,
金木
,の各郡,鰺ヶ沢,五所川原,陣場,鷹巣,大館 理髪美容具品 A 他県には殆どでない,県内では青森,
金木
通史編3(近世2)
(年越しと小正月の料理)
年越しと小正月の料理 前掲「
金木
屋日記」によって、年越しと小正月の料理をみてみたい。,この日に
金木
屋武田家では年越しをしている。
通史編1(自然・原始)
(旧石器時代)
とは認められていない)があり(9)、岩宿遺跡発見以後は、昭和二十八年(一九五三)第四紀研究のグループが
金木
,群馬県笠懸町の岩宿遺跡 青森県
金木
町出土の自然破砕礫(偽石器)
資料編1(考古編)
(64.山田野層Ⅶ)(やまだのそう))
金木
町付近では、下部が礫を含む砂、中部が成層砂及びシルト、上部が細~中礫を含む砂より成る。
通史編4(近・現代1)
(明治十四年の巡幸)
行在所には本町の豪商
金木
屋の邸宅が充てられた。,このようにして、弘前の行在所に充てられた豪商
金木
屋の邸宅跡(現弘前大学附属病院構内)、行幸があった弘前裁判所
通史編3(近世2)
(地蔵信仰)
「津軽俗説選」には川倉地蔵堂(北津軽郡
金木
町)の賽(さい)の川原を、幼少で死亡した子が冥土の賽の川原に
資料編1(考古編)
(2.青森県の旧石器時代(図1))
昭和28年(1953)6月には、明治大学の杉原荘介を中心とする第四紀研究のメンバーによって、北津軽郡
金木
町,大平山元Ⅲ 東津軽郡蟹田町大平字山元 尖頭器・彫器・削器・細石刃核ほか 16 〃 相野山 北津軽郡
金木
町喜良市字相野山
通史編3(近世2)
(橋雲寺)
弘前城下の民衆にとって、愛宕山は信仰を兼ねた物見遊山の場所としてにぎわった(「
金木
屋日記」弘図八)。
通史編3(近世2)
((一)衣服)
町人の衣服については記録が少なく不明な部分が多いが、「
金木
屋日記」の嘉永六年(一八五三)の一ヵ年間(資料近世
通史編2(近世1)
(農村の再開発)
享保元年(一七一六)から、
金木
・広須・俵元三新田の新規開発・諸普請が停止された。,享保十年(一七二五)においても、
金木
・広須・俵元三新田は諸役御免の地であり、さらに
金木
・広須新田は石盛
通史編2(近世1)
(元文検地の実施)
俵元・広須・
金木
の三新田の検地は、享保二十年(一七三五)九月、実施が命じられた。
通史編3(近世2)
(青森商社と帰田法)
中村佐兵衛 15町歩 百石酒造 南津軽郡常盤村東光寺 10 中村佐之吉 15町歩 百石酒造 北津軽郡
金木
町嘉瀬,11 高橋善右衛門 15町歩 百石酒造 北津軽郡
金木
町 12 次五右衛門 15町歩 百石酒造 五所川原市湊,弘前市大久保 25 市田利助 5町歩余 醤油醸造 西津軽郡木造町 26 七左衛門 5町歩余 醤油醸造 北津軽郡
金木
町小田川
資料編3(近世編2)
([口絵])
文化13年の稽古館暦(弘前市立博物館蔵) 稽古館本(弘前市立図書館蔵岩見文庫)
金木
屋日記
通史編5(近・現代2)
(東京からの集団疎開児童)
疎開児童の第一次受け入れ市町村は、弘前市、板柳、
金木
、大鰐、清水、黒石、尾上、浪岡、藤崎、深浦などである
通史編4(近・現代1)
(養蚕業の奨励)
、養蚕・製糸・製綿・機(はた)織りを勧め、武田家では代々この事業を継承、明治期に入り、後継の六代目「
金木
屋
通史編2(近世1)
(廃田復興・新田開発の進展)
770.383 48.77 94.518 俵元新田 40.10 280.744 16.68 29.179
金木
,276.81 1526.751
金木
新田 102.20 502.001 7.21 9.468 広須,文政六年の段階で「新開の村」として二六ヵ村が挙げられているが(『記類』下)、ほとんどが木造・
金木
・広須
通史編5(近・現代2)
(四 戦後から市制百周年までの津軽選出国会議員)
定員七 三万五八六二票 日本社会党 大沢 久明 青森市 三万二七五一票 進歩党 津島 文治 五所川原市
金木
,弘前市 昭和四十年七月四日第七回参議院議員通常選挙 一八万三四三九票 自由民主党 津島 文治 五所川原市
金木
,昭和四十六年六月二十七日第九回参議院議員通常選挙 二六万〇六三三票 自由民主党 津島 文治 五所川原市
金木
通史編5(近・現代2)
(三 津軽の文学の新たな展開(昭和の文学))
太宰治(明治四二-昭和二三 一九〇九-一九四八 五所川原市
金木
町)が大藤熊太のペンネームで「地主一代」
資料編3(近世編2)
(【解説】)
「
金木
屋日記」自体は、弘前市立図書館八木橋文庫に所蔵されており、天保八年(一八三七)から慶応元年(一八六五,武田又三郎敬之(たけだまたさぶろうたかゆき)、弘前城下の本町(ほんちょう)で質屋・酒屋を経営し、山一
金木
屋,しかし内容は後述するように、これも領内有数の商人であった別家の
金木
屋(屋号カネキ、〓、甚左衛門家)との,〓は弘前本町
金木
屋(別家、甚左衛門家)。〓は鯵ヶ沢菊屋池田氏。〓は板柳(いたやなぎ)井筒屋松山氏。,なお
金木
屋の本家と別家の関係については、吉村和夫『
金木
屋物語』(北の街社 一九八六年)を参考にした。
通史編3(近世2)
(子供を池に投げ殺害)
大間越(おおまごし)・野内(のない)・飯詰(いいづめ)・板屋野木〈板柳〉・木造(きづくり)・浅虫・黒石・
金木
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
〇六)に家督を継いだ三代目の松井助左衛門のときに、十三湊の再開発に着手し、そのほかにも、小泊・飯詰・
金木
通史編5(近・現代2)
(バス事業の復興・伸展)
津軽鉄道株式会社は、昭和三年二月に会社設立(資本金一〇〇万円)、昭和五年七月に五所川原-
金木
間一二・八
通史編4(近・現代1)
(明治九年の巡幸)
弘前関係では、武田熊七(
金木
屋)が木戸内閣顧問から褒詞を伝達されている。
通史編5(近・現代2)
(津軽三味線)
吉田兄弟もジュニア部門での入賞者である(なお、津軽三味線全国大会は
金木
町でも行われている)。
通史編3(近世2)
(村の変容)
弘前の豪商
金木
屋では万延元年(一八六〇)四月二日の日記で、青森でも火事があり、近頃は所々に不審な苞(つと
通史編1(自然・原始)
(前期)
編年的位置付けが確定した円筒下層式土器のその後の研究も合わせ、さらに六ヶ所村の表館(1)遺跡ならびに
金木
町
通史編3(近世2)
(帰田法の発令)
藩知事承昭(つぐあきら)は前年の凶作により打撃を受けた木造(きづくり)村・羽野木沢(はのきざわ)村・
金木
通史編5(近・現代2)
(弘前手織)
弘前手織が商品として一般に販売されたのは幕末の頃からで、
金木
屋武田甚左衛門が桐生から織布職人を招いて製糸場
資料編1(考古編)
((3)葬制(終末期古墳))
では7~8世紀の古墳群に埋葬されるものと同類の勾玉が、田舎館村境森や平賀町大光寺新城遺跡で、また銅釧が
金木
町
通史編3(近世2)
(学校造営)
間もなく校舎の造営が始まり、久渡寺の杉並木をはじめ、大鰐・
金木
・岩崎・赤石の各地から大木、大石の建築資材
通史編2(近世1)
(津軽地域の確保と蝦夷荒)
さらに、同じ天正期に、喜良市(きらいち)(現
金木
町)にも八重・左助という二人の「狄之酋長(しゅうちょう
通史編1(自然・原始)
(第二節 注および引用・参考文献)
エオリス様の石片に就いて」 『地質学雑誌』三六-四三一 一九二九年 (10)A 杉原荘介 「青森県
金木
砂礫層出土
通史編4(近・現代1)
([口絵])
弘前招魂祭 †町並み諸相† 口絵31 本町・元寺町方面を望む 口絵32 老舗
金木
屋
通史編4(近・現代1)
(日露戦後の商業)
醤油醸造及質屋業)、松木合資会社(酒類醸造)、合資会社盛融商行(貸金業)、合名会社岩見質店(質屋)、合名会社
金木
織物商
通史編2(近世1)
(漆以外の国産品)
養蚕取扱方になったのは御用商人武田甚左衛門(後の
金木
屋)で、彼は文政六年(一八二三)から養蚕の盛んな秋田領
通史編4(近・現代1)
(県下銀行の発展と金融都市弘前)
. 7 西郡木造町 50,000 50,000 5 同
金木
銀行 30. 7,北郡
金木
村 20,000 20,000 11 同 野村銀行 32.10 上北郡野辺地町 100,000
通史編5(近・現代2)
(市民の政治意識の変化)
さらに、政友会から公認の津島文治(
金木
町)と非公認の對馬桑太郎(石川町)、民政党からは公認で藤田重太郎
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