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通史編4(近・現代1)
(第五十九銀行と黒石銀行・弘前銀行の合併)
第五十九
銀行
と黒石
銀行
・弘前
銀行
の合併 第五十九
銀行
は大正八年(一九一九)七月二十五日、黒石
銀行
を合併,加藤は、
銀行
条例改正により小規模
銀行
の整理が進められると、黒石
銀行
の存続は次第に困難になると判断し、また,、株主としての立場から第五十九
銀行
の大増資計画を知り、他の黒石
銀行
の株主らに諮り、黒石
銀行
への投資を第五十九
銀行
,さらに第五十九
銀行
は、黒石
銀行
を合併した直後の大正八年十月二十六日に弘前
銀行
を合併する(合併契約書は資料近,(青森
銀行
行史編纂室『青森
銀行
史』青森
銀行
、一九六八年)。 / 第五十九
銀行
と黒石
銀行
・弘前
銀行
の合併
通史編5(近・現代2)
(弘前相互銀行と青和銀行の合併)
弘前相互
銀行
と青和
銀行
の合併 弘前相互
銀行
は青南信用組合を吸収合併すると、今度は青森市に本店を持つ普通
銀行
,青和
銀行
は青森貯蓄
銀行
(大正十年十二月設立)が昭和二十三年(一九四八)十二月、普通
銀行
に転換して発足した,
銀行
で、その後、三十三年九月に青森商業
銀行
と合併し、県下における普通
銀行
は青森
銀行
と青和
銀行
の二行体制,弘前相互
銀行
と青和
銀行
の合併に向けた話し合いは、弘前相互
銀行
の青森市への本店移転計画がきっかけと言われ,過去には日本相互
銀行
が太陽
銀行
となり、その後さらに神戸
銀行
と合併したケースがある。 / 弘前相互
銀行
と青和
銀行
の合併
通史編5(近・現代2)
(弘前銀行と第五十九銀行の休業)
弘前
銀行
と第五十九
銀行
の休業 昭和六年(一九三一)十月中旬、第五十九
銀行
で大蔵省の
銀行
検査が行われた,写真37 弘前
銀行
そして、弘前
銀行
休業のあおりを受け、翌二十五日に第五十九
銀行
が休業のやむなきに,弘前
銀行
の休業は、遂に県下の親
銀行
たる第五十九
銀行
に影響を及ぼし、二十四日、行員の帰宅後徹宵重役会を開,は弘前
銀行
の最大の債権者(営業資金の貸し付け)であり、弘前
銀行
が休業に踏み切ったのは、第五十九
銀行
が融資,第五十九
銀行
の休業に引きずられ、その子
銀行
たる三戸
銀行
、尾上
銀行
などが休業すると県内各行は次々と休業に / 弘前
銀行
と第五十九
銀行
の休業
通史編4(近・現代1)
(銀行政策の展開と私立銀行の設立)
銀行
政策の展開と私立
銀行
の設立 我が国における私立
銀行
の設立申請は、明治初年からあったが、政府は国立
銀行
,また、私立
銀行
は多くが普通
銀行
であったが、それ以外に貯蓄
銀行
もあった。,そこで政府は、
銀行
条例と同じ明治二十三年に貯蓄
銀行
条例を公布(同二十六年施行)し、
銀行
の健全化を図るのである,このように、私立
銀行
に関する
銀行
条例や貯蓄
銀行
条例が明治二十六年に施行されると、普通
銀行
は二七〇行から,(朝倉孝吉『新編日本金融史』日本経済評論社、一九八八年および青森
銀行
行史編纂室『青森
銀行
史』青森
銀行
、 /
銀行
政策の展開と私立
銀行
の設立
通史編5(近・現代2)
(銀行合併政策)
銀行
合併政策 金融恐慌が吹き荒れる昭和二年(一九二七)三月に公布された
銀行
法(施行は翌年一月)は、
銀行
経営健全化,本支店を有するものは二〇〇万円、人口一万人以下の地方では五〇万円)として、この資格を満たさない「無資格
銀行
,その猶予期間は施行後五年、すなわち昭和七年末であり、その間、
銀行
合併が進められていった。 ,広田内閣の馬場蔵相は、預金争奪による資金コストを引き下げること、一行当たりの資金量を増大し、低利の国債の
銀行
受,『青森
銀行
史』青森
銀行
、一九六八年)。 /
銀行
合併政策
通史編5(近・現代2)
(青森銀行の誕生)
の条件として第五十九
銀行
専務の引退と新
銀行
が第五十九
銀行
主導で運営されないことを提示し、交渉は難航した,結局、合併の勧奨に応じたのは板柳・八戸・第五十九・津軽・青森
銀行
の五行(佐々木
銀行
は佐々木家の帳場
銀行
,取締役 苫米地義三(前八戸
銀行
頭取・板柳
銀行
相談役) 同 渡辺佐助(前青森
銀行
頭取・第五十九
銀行
取締役,2No.二〇六および前掲『青森
銀行
史』) 青森
銀行
の誕生により、県下の普通
銀行
は青森
銀行
のほか、佐々木,十九年六月、青森
銀行
は佐々木、弘前商業
銀行
を相次いで吸収合併し、県下の普通
銀行
は青森
銀行
と青森商業
銀行
/ 青森
銀行
の誕生
通史編4(近・現代1)
(主要銀行の景況)
主要
銀行
の景況 第五十九
銀行
は、大正十四年(一九二五)時点で資本金一〇〇万円を持つ東北諸県で最大の
銀行
,その後大正十年(一九二一)に、弘前貯蓄
銀行
が弘前
銀行
と名称変更した。,この弘前
銀行
は大正十四年に関
銀行
を合併した。,弘前
銀行
の前身である弘前貯蓄
銀行
や関
銀行
は、いずれも弘前市の有力商業者が設立した
銀行
であった。 ,大正期には以上のほかに、弘前商業
銀行
、津軽
銀行
、弘前宮川
銀行
があり、それぞれ、有力商人中心の
銀行
、周辺地域 / 主要
銀行
の景況
通史編4(近・現代1)
(第五十九国立銀行の普通銀行への転換)
第五十九国立
銀行
の普通
銀行
への転換 明治十六年(一八八三)、国立
銀行
条例の改正により、営業年限が満期,の二〇年を超えた国立
銀行
は営業を継続する場合、普通
銀行
に転換することとなり、また、これまで発行していた,次の史料は、第五十九
銀行
が明治末に作成した『当
銀行
誌材料書類』に記録されている、普通
銀行
転換に際して明治三十年五月二日,こうして第五十九国立
銀行
は、国立
銀行
営業満期前特別処分法によって、営業満期の明治三十二年を待たず、三十年九月一日,写真94 第五十九
銀行
本店 / 第五十九国立
銀行
の普通
銀行
への転換
通史編5(近・現代2)
(弘前銀行の解散)
弘前
銀行
の解散 弘前
銀行
は三週間の休業後、昭和六年(一九三一)十二月十五日に再開業したものの、本格的,その後、同行は事件が一段落した昭和九年になってから再建を目指すが、すでに大蔵省は昭和八年の段階で弘前
銀行
,に見切りをつけ、第五十九
銀行
に同行の整理を内命していた。,第五十九
銀行
による整理は昭和十一年から始まり、弘前
銀行
は昭和十三年九月十三日に営業満了を迎えると営業継続 / 弘前
銀行
の解散
通史編5(近・現代2)
(県内銀行合併の推進)
県内
銀行
合併の推進 昭和七年(一九三二)末における県下の本店
銀行
は、表12のとおり、普通
銀行
一四行、,十三年、第五十九
銀行
は三戸
銀行
を買収合併。,第五十九
銀行
はその直後の同年八月に金木
銀行
を買収合併。,十五年、第五十九
銀行
は尾上
銀行
を買収合併。,尾上
銀行
は明治三十三年に設立された
銀行
だが、昭和十三年にはすでに大蔵省から第五十九
銀行
に対して尾上
銀行
/ 県内
銀行
合併の推進
通史編5(近・現代2)
(弘前相互銀行の躍進)
千円 千円 ①弘前相互
銀行
186,747 ①西日本相互
銀行
546,110 ②西日本相互
銀行
,④福徳相互
銀行
138,791 ④平和相互
銀行
371,914 ⑤幸福相互
銀行
120,700,⑤幸福相互
銀行
242,900 ⑥三和相互
銀行
117,927 ⑥日本相互
銀行
216,193 ⑦常磐相互
銀行
,111,485 ⑦弘前相互
銀行
212,550 ⑧第一相互
銀行
103,689 ⑧肥後相互
銀行
,、盛岡市の興産相互
銀行
、仙台市の徳陽相互
銀行
に次ぐ規模の
銀行
へと躍進した。 / 弘前相互
銀行
の躍進
通史編5(近・現代2)
(みちのく銀行の誕生)
みちのく
銀行
の誕生 昭和五十一年(一九七六)一月十日、青和
銀行
と弘前相互
銀行
は合併の基本覚書を結んだ,の役員は合併期日現在の双方役員で構成するが、定数は取締役青和
銀行
九人、弘前相互
銀行
十三人、監査役は青和
銀行
二人,両行は、基本覚書調印を済ませると新
銀行
名を公募し、昭和五十一年二月二十八日に新
銀行
名を「みちのく
銀行
」,ここに表39のように青森
銀行
と肩を並べる規模の普通
銀行
が誕生し、県下金融界は二大地方
銀行
時代を迎えるのである,
銀行
広告(『東奥日報』昭和51年10月1日付紙面) 表39 みちのく
銀行
と青和
銀行
の規模比較 / みちのく
銀行
の誕生
通史編5(近・現代2)
(第五十九銀行の復活)
第五十九
銀行
の復活 三週間の休業を発表したのち、第五十九
銀行
の復活へ向けた経営努力が開始される。,それと同時に、西田の後援者である前朝鮮
銀行
総裁美濃部俊吉が相談役となり、中央における第五十九
銀行
の顔役,これまでの経営者は大地主や事業家がほとんどで、
銀行
経営の専門家といえず、また、常時
銀行
業務に就いているわけでもなかった,これは当時多くの地方
銀行
に共通する欠陥でもあった。,なお、金融危機が勃発した昭和五~六年における県下休業
銀行
、開店休業
銀行
の概況は表9のとおりである。 / 第五十九
銀行
の復活
通史編5(近・現代2)
(相互銀行制度の創設)
相互
銀行
制度の創設 日本経済は終戦に伴い戦時経済からの転換を図られるが、金融面では大蔵省において金融制度,二十六年六月の相互
銀行
法の制定に伴い、無尽会社の多くは相互
銀行
へ転換していくことになった。 ,大蔵大臣がその会社が相互
銀行
を営業するのに適当であると認めた場合に免許が受けられた。,無尽会社が相互
銀行
に転換したことは、単に名称を変更しただけでなく、業務を拡張させることになった。,』弘前相互
銀行
、一九七四年)。 / 相互
銀行
制度の創設
通史編4(近・現代1)
(第五十九国立銀行の創設)
)十月十二日に報恩寺(新寺町)で発起人会を開き、新たな
銀行
設立を決定し、同月十五日弘前本町一番地に国立
銀行
結社取調所,『青森
銀行
史』青森
銀行
、一九六八年)。 ,、尤名号之儀は第五十九国立
銀行
と可相唱候事 但、
銀行
紙幣は目下製造中に付、右受取方之儀は創立証書
銀行
定款差出候節, 新設
銀行
が第五十九国立
銀行
として創立を許可されると、同年三月十四日、渋沢栄一は発起人に「青森国立
銀行
創立,このことから第五十九国立
銀行
は、士族授産のための士族
銀行
として設立されたのは明らかである。 / 第五十九国立
銀行
の創設
通史編4(近・現代1)
(第五十九銀行の営業状況)
第五十九
銀行
の営業状況 普通
銀行
転換前後における第五十九
銀行
の営業状況も、『当
銀行
誌材料書類』に記録,(一)営業上の失敗 「私立
銀行
として営業を継続せし以来、遭遇して痛痒を感したる事故は、明治四十年より四十一年,また、政府が郵便為替貯金などの制度を設けて
銀行
業を始めたことで営業が圧迫された。,これらのことで
銀行
経営が厳しくなったと報告されている。 ,この建物は昭和四十七年、国から重要文化財に指定され、現在は青森
銀行
記念館として保存されている。 / 第五十九
銀行
の営業状況
通史編4(近・現代1)
(県下銀行の発展と金融都市弘前)
明治二十五年には第五十九国立
銀行
(明治三十年、株式会社第五十九
銀行
に改称)、第百五十国立
銀行
、階上
銀行
,、弘前
銀行
、高谷
銀行
の五行にすぎなかった
銀行
数は、前述の私立
銀行
に関わる二つの条例が施行された明治二十六年以降三十四年,青森
銀行
史』 注 弘前
銀行
は明治24年創立当時、弘前進新
銀行
であったが、同27年に改称された。,』 注 普通
銀行
、貯蓄
銀行
の合計で農工
銀行
は含まず。,(前掲『青森
銀行
史』) 士族
銀行
と称せられた第五十九国立
銀行
に対して、これらの私立
銀行
は当時台頭してきた / 県下
銀行
の発展と金融都市弘前
通史編4(近・現代1)
(第五十九銀行の大増資)
第五十九
銀行
の大増資 大戦景気によりわが国経済界は増資ブームが起こるが、地方では中央に比べ、少し遅れて,その中でも、資本金を二八五万円から一挙に一〇〇〇万円という大増資を敢行した第五十九
銀行
は注目された。,公称資本金一〇〇〇万円、払込済み四六三万七五〇〇円となり、表57のように東北地方では第一位の規模を誇る
銀行
,に成長した(前掲『青森
銀行
史』)。,9 1,075,000 宮城商業 宮城 7 2,000,000 7 2,000,000 前掲『青森
銀行
史 / 第五十九
銀行
の大増資
通史編4(近・現代1)
(弘前における国立銀行設立計画)
弘前における国立
銀行
設立計画 政府による国立
銀行
設立の奨励で、全国的に
銀行
設立ブームが起きるが(表14,十二年六月頃には新規設立出願が二三一行にも上ったため、政府は国立
銀行
の設立を制限し、京都の第百五十三国立
銀行
,を最後に設立許可を打ち切った(西田亮『第五十九
銀行
六十五年史』上、青森
銀行
調査部、一九五七年)。,大道寺らは
銀行
設立にあたり、第一国立
銀行
頭取で、わが国経済界の重鎮である渋沢栄一から教示を仰ぐが、「青森県下
銀行
創立方法大意,それには、第一国立
銀行
が新設
銀行
行員を研修生として受け入れ、
銀行
経営者を養成すること。 / 弘前における国立
銀行
設立計画
通史編5(近・現代2)
(弘前無尽会社の相互銀行への転換)
弘前無尽会社の相互
銀行
への転換 このような事情により、弘前無尽会社も相互
銀行
へ転換する手続きを開始することになった,相互
銀行
転換に際し、新
銀行
名は社員から公募されたが、公募総数二六五票のうち、票数の多い名称には、「陸奥,、弘前市内には青森
銀行
が本店を青森市に移してからは本店
銀行
が一行もなく、特産リンゴをはじめ、各種農産物,を中心に県下
銀行
の大半が合併して青森
銀行
が誕生し、本店を青森市に置くと、弘前市には本店
銀行
がなくなった,だが、弘前に本店を置く弘前無尽が普通
銀行
とほとんど変わらない業務を行える相互
銀行
として発足したことは、 / 弘前無尽会社の相互
銀行
への転換
通史編4(近・現代1)
(日清戦争後の会社、銀行と工業生産)
株式会社の四社は、第五十九国立
銀行
、弘前
銀行
、弘前貯蓄
銀行
、弘前商業
銀行
ですべて金融機関である。,合資会社には、弘前両益
銀行
と立誠
銀行
の金融機関のほかに、弘前農具合資会社、弘盛合資会社、弘前煙草製造合資会社,合名会社関
銀行
弘前市大字親方町
銀行
業 35,000 6 同 小山内合名会社 同 徳田町 雑貨販売,同 親方町
銀行
業 30,000 10 同 仝 上 立誠
銀行
同 土手町 同上 20,000,354 同 仝 上 弘前商業
銀行
同 百石町 同上 200,000 127 同 仝 上 津軽
銀行
/ 日清戦争後の会社、
銀行
と工業生産
通史編4(近・現代1)
(士族授産事業としての銀行設立の奨励)
士族授産事業としての
銀行
設立の奨励 明治新政府による旧体制改革である廃藩置県と、それに続く秩禄処分によって,そこで同年八月、政府は国立
銀行
条例を改正し、公債価格暴落防止のため、その公債証書を資本金とする
銀行
の設立,つまり、華士族が
銀行
事業への投資により、公債の利子金とともに
銀行
事業利益の配当金を得ることで、生活の安定,と
銀行
行員としての就職の機会を持つことをねらいとしたのであった。 ,このように、政府は国立
銀行
条例の改正を行うとともに、内務・大蔵両卿連署で各地方官に内達を発し、国立
銀行
/ 士族授産事業としての
銀行
設立の奨励
通史編5(近・現代2)
(弘前相互銀行と青南信用組合の合併)
弘前相互
銀行
と青南信用組合の合併 昭和三十三年(一九五八)、弘前相互
銀行
は資金量が一〇〇億円を突破し,、従業員が一〇〇〇人を超える東北で有数の規模を誇る相互
銀行
へと成長していく。,する法律の施行により県下ではこれまで信用組合、信用金庫などの合併が三件あったが、四十八年八月、弘前相互
銀行
,なお、相互
銀行
と信用組合の異種合併は県内では初めてのことであった(『東奥日報』昭和四十八年八月一日付) / 弘前相互
銀行
と青南信用組合の合併
通史編4(近・現代1)
(開業時の状況)
営業不振の原因は、新
銀行
制度に対する知識がいまだ庶民へ普及していないため
銀行
利用者が少ないこと。,三井組の三井
銀行
が青森県に進出して官金取扱業務を掌握し、後発である第五十九国立
銀行
の取引範囲がきわめて,また、
銀行
紙幣の交付については第一国立
銀行
が大蔵省に懇請しているという内容であった。 ,この
銀行
紙幣は明治十六年の国立
銀行
条例の改正にもとづき漸次償却されることになるが、それ以外は市場に流通,なお、官公金の取扱いについてはこれまで三井
銀行
が青森県の為替方として独占していたが、第五十九国立
銀行
は
通史編5(近・現代2)
(金融危機の勃発)
・開店休業
銀行
の実態と影響」『地方金融史研究』第18号、1987年 注) この表には貯蓄
銀行
を含む。,そのうち、福島県の福島貯蓄
銀行
と三重県の四日市
銀行
を除く九行はすべて青森県の
銀行
であった(拝司静夫「昭和恐慌期,このような経済状態が、
銀行
預金の減少や不良債権増加となり、その結果、
銀行
経営を悪化させ、信用不安を蔓延,表7 県内本店各
銀行
主要勘定(昭和7年下期末) (単位:千円)
銀行
名 資本金 払込資本金 積立金 預金,『青森
銀行
史』青森
銀行
、1968年より作成
通史編4(近・現代1)
(金融関係法規の制定・改正)
①貯蓄
銀行
条例の改正
銀行
類似会社や弱小
銀行
の中には、積立預金や据置貯金の名称で預金の吸収を図るものがあり,まず、業務分野の拡大であるが、貯蓄
銀行
の業務に新たに定期積金と据置貯金を加え、貯蓄
銀行
以外のものがこの,条例改正は、貯蓄
銀行
に新規預金業務を認め、いかがわしい金融機関をこの条例の対象として規制し、また、貯蓄
銀行
,③
銀行
条例の改正 第一次世界大戦中の産業の発達とともに普通
銀行
の資金量も増大すること、また、弱小
銀行
の,
銀行
が他の事業を兼営し、また、支店を開設する場合、もしくは
銀行
事業を営む会社が合併する場合には大蔵大臣
通史編5(近・現代2)
(県債五〇〇万円の成立)
県債五〇〇万円の成立 県内の財界・政界は、第五十九
銀行
の休業により深刻化した金融危機打開に向け一斉に,を始め、有力なる三、四の
銀行
は已に閉店し、其の他の
銀行
と雖も資金枯渇し、為に県内外に於ける各種の取引関係,前者は
銀行
が所持している不動産抵当債権を県が肩代わりするものであり、後者は
銀行
が地主に対して設定していた,の県債はすべて現金で
銀行
に入るようになっており、
銀行
の支払い準備金を潤し、
銀行
救済に役立った。,それは、県下における金融界の安定には、県下の親
銀行
たる第五十九
銀行
の復活がなければありえなかったという
通史編4(近・現代1)
(会社企業の増加)
大正十四年版『弘前市商工案内』によれば、
銀行
を除いた会社数は三八社である。,これに対して
銀行
は、大正十四年時点で一二行あり、このうちの八行が明治期の設立で、四行が大正期の設立である,
銀行
を含め、会社の経営者には同一人物が重複して関与する事例が多い。,宮川久一郎は弘前商業
銀行
、宮川
銀行
の頭取を務め、宮川呉服店、弘前無尽株式会社、大黒倉庫株式会社の社長を,兼務するほか、第五十九
銀行
、角弘銅鉄店、桝五関商店の取締役となっている。
通史編4(近・現代1)
(協力機関一覧(五十音順))
協力機関一覧(五十音順) 青森
銀行
(青森市) 青森
銀行
記念館(弘前市) 青森県 青森県議会図書室,弘前市) 弘前市内各県立高等学校 弘前市立郷土文学館 弘前市立図書館 弘前市立博物館 みちのく
銀行
通史編5(近・現代2)
(凶作と小作争議)
本県に恐慌の影響が本格的に現れるのは昭和五年末からで、ついに昭和六年、凶作の不安や不祥事で第五十九
銀行
,が十一月に三週間の休業となり、弘前
銀行
、尾上
銀行
、三戸
銀行
も休業、県下経済界や人心の動揺は言語に絶した
通史編5(近・現代2)
(見直したい弘前市の記録)
第二には、青森県では青森
銀行
とみちのく
銀行
が二大
銀行
として県内を席巻しているが、
銀行
の発祥地はすべて弘前,青森
銀行
は当初第五十九
銀行
だったが、その建物は現在青森
銀行
記念館として残っている。,青森
銀行
の旧津軽支店も、現在は弘前市立百石町展示館として改築され保存されている。,みちのく
銀行
は最初、弘前無尽という庶民金融機関として始まったが、その建物は現在三上ビルとして、部分的にではあるが
通史編4(近・現代1)
(弘前無尽株式会社の設立)
津軽無尽会社 大正12年 100,000 板柳町 弘前無尽会社 大正13年 100,000 弘前市 『弘前相互
銀行
五十年志,』弘前相互
銀行
、昭和49年より作成 大正十二年三月、唐牛は無尽会社設立のため、県庁に設立認可申請書,そして、弘前無尽会社は同年六月二十四日、設立登記を完了して発足するのである(『弘前相互
銀行
五十年志』弘前相互
銀行
通史編5(近・現代2)
(東門会の佐藤正三)
昨日今日弘前
銀行
の休業にともなひ五十九(
銀行
)も三日目の休業に至った。,昭和七年五月十五日 叔父(第五十九
銀行
勤務)は日曜なのに
銀行
へ、叔母、母は神様へ、敏彦と僕とが留守。,警視庁、首相官邸、日本
銀行
、政友本部等に帝都の要所を襲撃する事件を耳にす。陸海少壮軍人の仕事。
通史編5(近・現代2)
(建築近代化への立ち後れ)
また、商店建築においても、明治十二年(一八七九)に創立された国立第五十九
銀行
、二十年代(一八八七~九六,)に入ってからの新進
銀行
、弘前両益
銀行
など、いずれも商家風店舗で、その後も土蔵造り店舗などを利用した程度
通史編5(近・現代2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順) 青森
銀行
(青森市) , 北門書道会 (弘前市) 弘南鉄道株式会社 (南津軽郡平賀町) みちのく
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通史編4(近・現代1)
(弘前市長らの商業金融に関する意見)
生産調査要項 金融 改善要項 (一)小
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ノ併合ヲ図リ、金融機関ノ整理ヲ為スコト (二)農工
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,メシムルコト (三)地方商工業ヲシテ可成問屋若クハ産業組合ヲ作ラシメテ、信用ノ基礎ヲ鞏固(きょうこ)ニシ、
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通史編5(近・現代2)
(インフレとヤミ経済)
国民の預貯金を封鎖して新円切り替えを強行、国民生活を五〇〇円の枠に押し込め、その手持ち現金を吸収して
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,への切り替えを財政インフレによって行う政策をとり、二十一年度予算の三分の一を終戦処理費に、三分の一は
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通史編4(近・現代1)
(洋風建築と蔵造り)
三十三年に第五十九
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本店(現青森
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記念館)、三十五年には弘前市立病院(明治三十四年設立。
通史編5(近・現代2)
(昭和恐慌の勃発と商工業)
昭和六年(一九三一)には弘前市に本店を置く弘前
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が臨時休業するなど、不況が深刻化した。,窮況を一層悪化するに了るは火を賭るよりも瞭なり、又融通形式と経由機関との関係に見れば、昨年本県が興業
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,に対し普通
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の保証を為せしにも拘はらず、殆んと融通を為し得ざりしに徴するも、今后新令に依り、県は損失,の補償を為すとするも、普通
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が金融を引受け得ざるの状態にあり、従て営利的貸付機関の利用は尠なくとも、
通史編5(近・現代2)
(後藤健次の手紙)
大正十五年三月、日本大学を卒業と同時に第五十九
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に入社。四月、詩誌「北方詩風」を創刊する。
通史編5(近・現代2)
(県の対応)
極度に窮迫した状況に対し、県当局、県会は声を大にして救済を叫ぶが、その実態は凶作救済に名を藉(か)る
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通史編4(近・現代1)
(家禄制度改革)
旧弘前藩士が得た金禄公債は、第五十九国立
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の設立資金に充てられるなど、産業の振興や旧弘前藩士の生活の,つの調査によれば、明治九年に旧弘前藩士が下賜された金禄公債の総額は一四五万六一〇円、そのうち第五十九
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,換えた部分が二五万九二二五円、明治十四年に各町の戸長が調べた士族所有の金禄公債は三三万一一八〇円で、
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株券
通史編4(近・現代1)
(掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧)
独立行政法人国立公文書館蔵 写真9 『開文雑誌』弘前市立図書館蔵 写真10 弘前市立図書館蔵 写真12 青森
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記念館蔵,「津軽名勝と産業」弘前市蔵 写真27 「青森県弘前市実地明細絵図」弘前市立図書館蔵 写真28 青森
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蔵,写真164 同上 写真166 「津軽名勝と産業」弘前市蔵 写真167 同上 写真168 『弘前相互
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五十年志,』弘前相互
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1974年 写真169 『弘南鉄道五十年史』弘南鉄道株式会社 1977年 写真170
通史編5(近・現代2)
(東北振興)
東北興業株式会社が七万円、その他地元関係者が一万円を出資することで事業が開始された(「昭和十二年六月日本
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秋田支店金融報告,」日本
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金融研究所所蔵)。
通史編5(近・現代2)
(「建築家」の誕生)
工業学校二代目校長・安美賀(やすみが)は、大正四年(一九一五)に黒石
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を、大正十一年(一九二二)には
通史編5(近・現代2)
(棟梁・堀江佐吉)
また、明治三十五年(一九〇二)から三年をかけて第五十九
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(現青森
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記念館)を建築し、その意匠及び構造,当初は、木造二階建て、建坪二〇坪程度の予定で図面も引かれていたが、設計施工を任された佐吉は、第五十九
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本店竣工直後
資料編3(近世編2)
([口絵])
(弘前市・専修寺) 民次郎の墓(弘前市・鬼沢集会所) 天保8年発行の宮崎札(青森
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記念館蔵
資料編3(近世編2)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略) 青森
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記念館(青森県弘前市) 青森県立郷土館
通史編5(近・現代2)
(用途地域の設定)
3.38 計 - - 2,633 100.0 前掲『弘前の都市計画』 このうち、商業地域は、
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通史編4(近・現代1)
(洋服)
明治三十九年には弘前
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で行員の服装を洋服にしたほどであった。
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