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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(考古編)
(-鍛冶場遺構-)
-
鍛冶
場遺構- 次に、
鍛冶
段階の遺構について触れる。,これまで、津軽地方において専用の
鍛冶
場遺構として検出されているものは、杢沢遺跡の3例のほかに山元(2),図28 杢沢遺跡
鍛冶
遺構と出土遺物 / -
鍛冶
場遺構-
通史編4(近・現代1)
(新鍛冶町の方円館)
新
鍛冶
町の方円館 第二次世界大戦以前の
鍛冶
町・新
鍛冶
町・桶屋町界隈(わい)は、鉄工所を中心とした町工場 / 新
鍛冶
町の方円館
通史編1(古代・中世)
(鍛冶・鋳物師の道具)
鍛冶
・鋳物師の道具 通常
鍛冶
作業で使用される道具のうち、主に出土する例は鞴(ふいご)の羽口(はぐち),がともに交易の対象となっており、自給的な生産システムというより、より広域な素材鉄の交易が存在して、地域の
鍛冶
/
鍛冶
・鋳物師の道具
資料編1(考古編)
(-製鉄関連遺物-)
-製鉄関連遺物- 製鉄関連遺物には、精錬炉・
鍛冶
炉で使用する羽口(送風管)、各作業工程で出る鉄滓を中心,羽口には、精錬炉用のものと
鍛冶
炉用のものがある。,後者は
鍛冶
跡から出土したもので、形状は円筒型が多く断面が円型の特徴がある。,図30 古代の製鉄用羽口 鉄滓には、製鉄炉から出される製錬滓と、
鍛冶
遺構から出土する
鍛冶
滓とがあり,一方、
鍛冶
滓には碗形滓や鍛造剥片と呼ばれるものがあり、わずかに磁着する。
通史編5(近・現代2)
(飲食業のあり方)
鍛冶
町(スナック)では一〇〇%が個人企業となっている。,
鍛冶
町では男性よりも女性雇傭が多く、一~四人が九七・九%を占めている。,
鍛冶
町も同様四八・九%が借家となっている。,
鍛冶
町でも前述とほぼ同様の訴えである。,
鍛冶
町でも同様の傾向が出ている。
通史編4(近・現代1)
(愛光幼稚園の設立)
愛光幼稚園の設立 明治四十年(一九〇七)四月、弘前教会宣教師ミス・グリフィスが
鍛冶
町の民家を借り受けて,当時桶屋町、
鍛冶
町、新
鍛冶
町一帯には職人が多く住んでいて、それらの家庭は職業柄、幼児の世話に手が回りかねるところが
通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
片堀町(旧古堀町)、茂森派立、新寺町、在府町、相良町、本町、元大工町、塩分町、元長町、森町、覚仙町、
鍛冶
町,、新
鍛冶
町、南北川端町などとなり、和徳小学学区は、和徳町、代官町、南北中瓦ヶ町、田代町、徒町、西川岸町
資料編1(考古編)
(-鉄生産遺構と製鉄炉の性格-)
これらの炉の操業の後に、鉄の純度を高めるために鍛造し、含有する炭素の量を調整して鉄素材を作る段階(大
鍛冶
,)や、この素材から製品を作る段階(小
鍛冶
)のそれぞれの工程が知られている。 ,これらの工程は、すべて基本的に専業集団によるものとの見方もあるが、小
鍛冶
については、場所を異にした一般集落,朝日山遺跡では、平成4年(1992)の調査で、半地下式竪形炉1基と
鍛冶
場跡1基、更に9世紀から11世紀,3基・炭窯3基・井戸跡3基・焼土遺構4基・溝跡6条等のほかに、
鍛冶
集団の竪穴住居跡21軒が検出された。
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
野澤宇一 品川町 山道町 住吉町 新品川町 富田新町 紙漉町 山本勝弥
鍛冶
町, 新
鍛冶
町 北川端町 竹内廣太郎 桶屋町 銅屋町 南川端町
通史編3(近世2)
((三)住居)
上白銀町)・銀町(しろがねちょう)(後に下(しも)白銀町)・大工町(だいくまち)(後に元(もと)大工町)・
鍛冶
町,(かじまち)(後に本町(ほんちょう)・覚仙町(かくせんちょう)・新(しん)
鍛冶
町(後に
鍛冶
町)・銅屋町
通史編1(古代・中世)
(三 中世の道具と生産)
三 中世の道具と生産 中世社会のなかでは、農業的な生産活動以外にも漁撈・狩猟・採集・鉱業・
鍛冶
・鋳造,しかし、古代以来の
鍛冶
遺構の構造や出土した鉄製品の成分分析によって、素材となる鉄の原料供給を大陸に求めるべきであるとの
通史編1(古代・中世)
(擦文文化圏との交易)
鉄生産遺跡として知られる鯵ヶ沢町杢沢(もくさわ)遺跡(図19)では、半地下式竪形炉(たてがたろ)三四基、
鍛冶
場跡三基,、炭窯三基、井戸跡三基、焼土遺構四基、溝跡六条などのほか、
鍛冶
集団の竪穴住居跡二一軒が検出され、各遺構
通史編3(近世2)
(諸家業と職人)
、亀甲町支配で一〇人、東長町支配で一五人、新町支配で一四人、紺屋町支配で一〇人、親方町支配で三人、下
鍛冶
町,また、医者が本町に九人、下
鍛冶
町に三人、親方町に一一人、和徳町に一人、土手町に七人、新町に五人、東長町,14 内 御用塗師4軒 経師 5 内 御用経師1軒 大工 115 木履大工 6 木挽 58
鍛冶
,1 御馬飼料方取扱 1 町年寄 2 時計師 1 但,御用 御役者支配 7 御用達町人 4
鍛冶
頭,1 御用鞍鐙師 1 御刀
鍛冶
3 御鎗師 2 御弓師 2 御鉄炮師 4 御具足師 3
通史編3(近世2)
(町役負担と御用金)
まで),上長町 中之上役 本寺町(土手より上る一丁目) 中 役 下長町,土手町(土手町大橋より同新土手
鍛冶
町境,土手
鍛冶
町より猫右衛門町(元禄16年2月11日に猫右衛門町を松森町と,新町を富田町と唱えるように仰,町御買物役人が二人、五人扶持の酒屋改役人が二人、板反師二人、御弓師二人、御矢師二人、御鉄炮屋四人、御
鍛冶
七人,40俵 5両3人扶持 2人 御釜屋 7両7人扶持 4両2人扶持 2人 御鋳物師 3人扶持 1人 御
鍛冶
,このうち、名主・月行事・町年寄小遣・御用屋敷・新田会所・能役者屋敷・人馬請払所・
鍛冶
役所・具足役所などが
通史編3(近世2)
(相対死(心中))
相対死(心中) 鶴田(つるた)村(現北津軽郡鶴田町)出生の己之助(きのすけ)と
鍛冶
町の長吉の借屋に住
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
新寺町、北新寺町、新寺町新割町 朝陽 中初 土手学区 三 ○土手町、品川町、山道町、住吉町、新品川町、
鍛冶
町,、○新
鍛冶
町、北川端町、桶屋町、銅屋町、南川端町、○松森町、楮町、新楮町、富田町、富田新町 蓬莱 中初
資料編1(考古編)
(7.小友遺跡)
〔平安時代〕 堀跡・溝跡・柱穴列・井戸跡・
鍛冶
遺構等の各遺構と、土師器・須恵器・擦文土器・鉄製品・羽口,
鍛冶
遺構とされるものは、5m×3mの長方形を呈した範囲にロームブロックの突き固めによる土間を,形成した建物跡で、中央部に白色粘土と切石を用いた
鍛冶
炉を持つ遺構である。
通史編2(近世1)
(諸役と運上)
諸役と運上 慶安二年(一六四九)の「弘前古御絵図」によると、城下の家業は、
鍛冶
九一、銅屋二一、大工三九,このほかにも、塗師(ぬし)・
鍛冶
・桶屋・畳屋などの職人に対する役銀も、多くは同年に定められた。
通史編4(近・現代1)
(寄席・見世物)
また、新
鍛冶
町には川留亭(後に喜楽亭)があり、和徳町にも明治三十三年から米山亭という寄席ができた。
通史編5(近・現代2)
((二)福士幸次郎の影響)
詩「
鍛冶
屋のポカンさん」(明治四十五年七月)のことである。,志功は、自分も
鍛冶
屋の家に生まれたが、眼が悪くて家の手伝いにもならず、絵ばかり描いていたので、まるで自分
通史編5(近・現代2)
(子ども会の動向)
紺屋町 桶屋町 下土手町 南横町 笹森町 浜の町 和徳町 馬屋町
鍛冶
町 新
鍛冶
町 銅屋町 南川端町
通史編3(近世2)
(宝暦期の城下)
翌六年の「弘前町惣屋敷改大帳目録」(資料近世1No.一一五四)には、本町支配・親方町支配・
鍛冶
町支配・,われる町に武士の居住がみられ、たとえば、土器(かわらけ)町に八四軒、西大工町に六軒、大工町に六軒、下
鍛冶
町川端町
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
百石町小路 田町 田茂木町 禰宜町 笹森町 長坂町 蔵主町 大浦町 亀甲町 小人町 馬喰町 春日町 若党町
鍛冶
町, 新
鍛冶
町 北川端丁 南川端丁 銅屋町 桶屋町 新寺町 北新寺町 新寺町新割丁 茂森新丁 古堀新割丁
通史編4(近・現代1)
(大成小学校創設)
大成小学校創設 十七年(一八八四)五月布達の学区改正により、これまで土手町、松森町、
鍛冶
町の三学区は
通史編4(近・現代1)
(芝居小屋と寄席)
中土手町に蓬萊亭、
鍛冶
町に川留亭、和徳大通りに米山亭があった。
通史編2(近世1)
(黒石藩の位置)
弘前藩一〇万石内における一万石の内分分家大名として幕府から認知され、それにしたがって、文政四年の江戸城
鍛冶
橋門
通史編3(近世2)
(消防制度)
本町(本町・新寺町(しんてらまち))、
鍛冶
町(かじまち)(
鍛冶
町・桶屋町(おけやまち)・銅屋町(どうやまち
通史編4(近・現代1)
(弘前和洋裁縫女学校)
弘前和洋裁縫女学校 弘前市
鍛冶
町に「造花袋物裁縫教授」の看板を掲げ、裁縫塾が開かれた。
通史編2(近世1)
(町役)
また、同年六月一日付で、弘前町中の伝馬・人足をやめ、町屋敷に居住する者は御用屋敷(役者屋敷・
鍛冶
などの,七七人、中役は四一〇余、出人足は六七人、下役は四〇四、出人足は五〇であるが、能役者屋敷・人馬請払所・
鍛冶
役所
通史編5(近・現代2)
([口絵])
昭和11年) 昭和19年 時敏学区国防婦人会の防空演習(昭和16年) 口絵20 新
鍛冶
町家庭防空団防空演習,り 口絵42 こみせ 口絵43 角巻(かくまき)姿の女性 口絵44 新
鍛冶
町
通史編5(近・現代2)
(ストライキの諸相)
弘前では、昭和五年に、弘前キネマ館(新
鍛冶
町)で不払い賃金即時支給を要求して、四月二十二日、二十三日に
通史編3(近世2)
(町方の軍事負担)
25歳 蕎麦屋藤助倅 9 駒越町 定吉 21歳 大工,周吉弟 10 〃 末之助 35歳
鍛冶
,,別名末吉 11 〃 健次郎 26歳
鍛冶
,勘太郎倅 12 〃 浅次郎 24歳 魚売,長太郎倅 13
通史編3(近世2)
(博奕の判決例)
)の与八(町人と思われるが職業は不明)は、博奕仲間の一人であり、鞭刑三鞭・弘前城下より三里四方追放、
鍛冶
町
通史編3(近世2)
(拡大する風儀・治安の乱れ)
その後の調べで
鍛冶
町の
鍛冶
業源吉という者が刀傷を負っており、虎三郎は見つけしだい源吉を討ち捨てにすると
通史編3(近世2)
(江戸時代前期の建築)
こうしゅう)住――、大工泉州(せんしゅう)住――、小工 勢州住――、同 城州(じょうしゅう)住――、
鍛冶
,されており、伊賀・伊勢・出羽(でわ)・近江(おうみ)・和泉(いずみ)・山城などの出身者で奉行から大工、
鍛冶
通史編5(近・現代2)
(相次ぐ水害と商店街)
- 1 - 3 10,000 下土手町 23 - 23 23 - 23 - - 278,000 新
鍛冶
町,59 - 59 6 - 6 - 53 138,500
鍛冶
町 29 - 29 - - - 1 28
通史編4(近・現代1)
(産業組合の設立普及)
詳細は不明であるが、零細経営の商工業者(商人、建具、
鍛冶
屋など)が相互金融の必要性から、信用組合設立に
通史編3(近世2)
(江戸時代初期の建築)
この時の大工職や
鍛冶
職には、越前や丹波(たんば)の者の名前がみえている。,また、これら二つの熊野神社における棟札が、よく似た字体で書かれており、大工棟梁や
鍛冶
職なども同じ系統の
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
平成六年に弘前市の山車会館が完成し、七町会の山車、張良山(本町・親方町・大根山(茂森町)・道成寺山(
鍛冶
町,土手町)・高砂山(東長町)・神楽山(亀甲町・黒石町)・大根山(塩分町・茂森町)・茶屋山(長町)・太神楽(
鍛冶
町,山車に踊り子五人・音頭二人・笛吹き一人・三味線二人・小鼓一人、土手町の獅子踊りに笛吹き三人・地謡三人、
鍛冶
町
通史編3(近世2)
(憩いの地としての南溜池)
文化十年二月には、在府町・相良町・新寺町・
鍛冶
町・茂森町の子供や家中の召使が、南溜池の「氷渡(こおりわたり
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
同小二区 下白銀丁 元寺町 一番丁 鉄炮〔砲〕町 鞘師町 寺小路 東長町 百石町 同細小路 親方町
鍛冶
町, 新
鍛冶
町 桶屋町 銅屋町 大円寺并元門前町 川端丁 右取扱 右同 三上虎平太 同小三区 土手町
資料編1(考古編)
(5.荼毘館遺跡)
図76 荼毘館遺跡第8号住居跡・出土遺物(土師器) 図77 荼毘館遺跡第27号竪穴遺構(
鍛冶
遺構,78 荼毘館遺跡第101号竪穴住居跡出土遺物(擦文土器) 図79 荼毘館遺跡第224号土壙(
鍛冶
遺構
通史編3(近世2)
(幕末期の市域)
(はだち)の四ヵ所、米倉は和徳町の東御倉、東長町の北御倉、亀甲町の亀御倉の三ヵ所、炭倉・柾木舞土場は
鍛冶
町土場丁
通史編1(古代・中世)
(中崎館の鉄製品)
は鋳鉄(ちゅうてつ)を鋳型(いがた)に流し込んで作る製品であり、古くなって使用できなくなると、精錬・
鍛冶
作業
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
一方、職人集団として
鍛冶
(かじ)九一・銅屋(どうや)二一・大工三九・馬屋および馬喰(ばくろう)一八・鞘師一一,第一は新銅屋町(現銅屋町)と新派(しんはだち)町(現桶屋町・新
鍛冶
町)ができ、万治の絵図にあった銅屋町
通史編3(近世2)
(日雇と松前稼ぎ)
「桶屋町人別帳」には同町だけでなく、隣接する建詰(たてづめ)町(現市内桶屋町の一部)・
鍛冶
町・新
鍛冶
町
通史編4(近・現代1)
(日清戦争後の会社、銀行と工業生産)
陸奥物産合資会社 同 和徳町 藁細工物其他販売 2,350 7 同 弘前桶樽合資会社 同
鍛冶
町
通史編3(近世2)
((二)相撲興行)
享保九年(一七二四)には、盆の三日間に興行が認められたのは、弘前・新町・新町川原・同後川原・
鍛冶
町川原,・新
鍛冶
町川原・田茂木町・蟹田村・石渡村・鰺ヶ沢港・舞戸村・白銀村・境松村の一三ヵ所で、興行主も御旗の,寛政元年(一七八九)、一〇〇石取りの笠井園右衛門が、下
鍛冶
町の相撲宿の前を通った時、透き見(すきみ)した
通史編1(古代・中世)
(住の道具)
最も多いのは釘であり、境関館でも四一本出土し、形態的には断面が角型を呈し、釘で
鍛冶
鍛錬によって一個一個製作
通史編1(古代・中世)
(ムラの建物)
一七世紀初頭の数十年間という短期間だけ成立した集落で、北西側に塀を有する大形の建物五棟、中小規模の建物六棟、
鍛冶
関連遺構一基
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