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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(新鍛冶町の方円館)
新
鍛冶町
の方円館 第二次世界大戦以前の
鍛冶町
・新
鍛冶町
・桶屋町界隈(わい)は、鉄工所を中心とした町工場 / 新
鍛冶町
の方円館
通史編5(近・現代2)
(飲食業のあり方)
鍛冶町
(スナック)では一〇〇%が個人企業となっている。,
鍛冶町
では男性よりも女性雇傭が多く、一~四人が九七・九%を占めている。,
鍛冶町
も同様四八・九%が借家となっている。,
鍛冶町
でも前述とほぼ同様の訴えである。,
鍛冶町
でも同様の傾向が出ている。
通史編4(近・現代1)
(愛光幼稚園の設立)
愛光幼稚園の設立 明治四十年(一九〇七)四月、弘前教会宣教師ミス・グリフィスが
鍛冶町
の民家を借り受けて,当時桶屋町、
鍛冶町
、新
鍛冶町
一帯には職人が多く住んでいて、それらの家庭は職業柄、幼児の世話に手が回りかねるところが
通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
片堀町(旧古堀町)、茂森派立、新寺町、在府町、相良町、本町、元大工町、塩分町、元長町、森町、覚仙町、
鍛冶町
,、新
鍛冶町
、南北川端町などとなり、和徳小学学区は、和徳町、代官町、南北中瓦ヶ町、田代町、徒町、西川岸町
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
野澤宇一 品川町 山道町 住吉町 新品川町 富田新町 紙漉町 山本勝弥
鍛冶町
, 新
鍛冶町
北川端町 竹内廣太郎 桶屋町 銅屋町 南川端町
通史編3(近世2)
((三)住居)
上白銀町)・銀町(しろがねちょう)(後に下(しも)白銀町)・大工町(だいくまち)(後に元(もと)大工町)・
鍛冶町
,(かじまち)(後に本町(ほんちょう)・覚仙町(かくせんちょう)・新(しん)
鍛冶町
(後に
鍛冶町
)・銅屋町
通史編3(近世2)
(相対死(心中))
相対死(心中) 鶴田(つるた)村(現北津軽郡鶴田町)出生の己之助(きのすけ)と
鍛冶町
の長吉の借屋に住
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
新寺町、北新寺町、新寺町新割町 朝陽 中初 土手学区 三 ○土手町、品川町、山道町、住吉町、新品川町、
鍛冶町
,、○新
鍛冶町
、北川端町、桶屋町、銅屋町、南川端町、○松森町、楮町、新楮町、富田町、富田新町 蓬莱 中初
通史編4(近・現代1)
(寄席・見世物)
また、新
鍛冶町
には川留亭(後に喜楽亭)があり、和徳町にも明治三十三年から米山亭という寄席ができた。
通史編5(近・現代2)
(子ども会の動向)
紺屋町 桶屋町 下土手町 南横町 笹森町 浜の町 和徳町 馬屋町
鍛冶町
新
鍛冶町
銅屋町 南川端町
通史編4(近・現代1)
(芝居小屋と寄席)
中土手町に蓬萊亭、
鍛冶町
に川留亭、和徳大通りに米山亭があった。
通史編4(近・現代1)
(大成小学校創設)
大成小学校創設 十七年(一八八四)五月布達の学区改正により、これまで土手町、松森町、
鍛冶町
の三学区は
通史編3(近世2)
(宝暦期の城下)
翌六年の「弘前町惣屋敷改大帳目録」(資料近世1No.一一五四)には、本町支配・親方町支配・
鍛冶町
支配・,われる町に武士の居住がみられ、たとえば、土器(かわらけ)町に八四軒、西大工町に六軒、大工町に六軒、下
鍛冶町
川端町
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
百石町小路 田町 田茂木町 禰宜町 笹森町 長坂町 蔵主町 大浦町 亀甲町 小人町 馬喰町 春日町 若党町
鍛冶町
, 新
鍛冶町
北川端丁 南川端丁 銅屋町 桶屋町 新寺町 北新寺町 新寺町新割丁 茂森新丁 古堀新割丁
通史編3(近世2)
(消防制度)
本町(本町・新寺町(しんてらまち))、
鍛冶町
(かじまち)(
鍛冶町
・桶屋町(おけやまち)・銅屋町(どうやまち
通史編4(近・現代1)
(弘前和洋裁縫女学校)
弘前和洋裁縫女学校 弘前市
鍛冶町
に「造花袋物裁縫教授」の看板を掲げ、裁縫塾が開かれた。
通史編5(近・現代2)
([口絵])
昭和11年) 昭和19年 時敏学区国防婦人会の防空演習(昭和16年) 口絵20 新
鍛冶町
家庭防空団防空演習,り 口絵42 こみせ 口絵43 角巻(かくまき)姿の女性 口絵44 新
鍛冶町
通史編5(近・現代2)
(ストライキの諸相)
弘前では、昭和五年に、弘前キネマ館(新
鍛冶町
)で不払い賃金即時支給を要求して、四月二十二日、二十三日に
通史編3(近世2)
(博奕の判決例)
)の与八(町人と思われるが職業は不明)は、博奕仲間の一人であり、鞭刑三鞭・弘前城下より三里四方追放、
鍛冶町
通史編5(近・現代2)
(相次ぐ水害と商店街)
- 1 - 3 10,000 下土手町 23 - 23 23 - 23 - - 278,000 新
鍛冶町
,59 - 59 6 - 6 - 53 138,500
鍛冶町
29 - 29 - - - 1 28
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
平成六年に弘前市の山車会館が完成し、七町会の山車、張良山(本町・親方町・大根山(茂森町)・道成寺山(
鍛冶町
,土手町)・高砂山(東長町)・神楽山(亀甲町・黒石町)・大根山(塩分町・茂森町)・茶屋山(長町)・太神楽(
鍛冶町
,山車に踊り子五人・音頭二人・笛吹き一人・三味線二人・小鼓一人、土手町の獅子踊りに笛吹き三人・地謡三人、
鍛冶町
通史編3(近世2)
(憩いの地としての南溜池)
文化十年二月には、在府町・相良町・新寺町・
鍛冶町
・茂森町の子供や家中の召使が、南溜池の「氷渡(こおりわたり
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
同小二区 下白銀丁 元寺町 一番丁 鉄炮〔砲〕町 鞘師町 寺小路 東長町 百石町 同細小路 親方町
鍛冶町
, 新
鍛冶町
桶屋町 銅屋町 大円寺并元門前町 川端丁 右取扱 右同 三上虎平太 同小三区 土手町
通史編3(近世2)
(幕末期の市域)
(はだち)の四ヵ所、米倉は和徳町の東御倉、東長町の北御倉、亀甲町の亀御倉の三ヵ所、炭倉・柾木舞土場は
鍛冶町
土場丁
通史編3(近世2)
(町役負担と御用金)
まで),上長町 中之上役 本寺町(土手より上る一丁目) 中 役 下長町,土手町(土手町大橋より同新土手
鍛冶町
境,五十石町後袋町 山伏覚勝院罷在候町(当時角仙町),川原町 西大工町・本大工町・東大工町,東桶屋町・西桶屋町,
鍛冶町
,土手
鍛冶町
より猫右衛門町(元禄16年2月11日に猫右衛門町を松森町と,新町を富田町と唱えるように仰
通史編3(近世2)
(日雇と松前稼ぎ)
「桶屋町人別帳」には同町だけでなく、隣接する建詰(たてづめ)町(現市内桶屋町の一部)・
鍛冶町
・新
鍛冶町
通史編4(近・現代1)
(日清戦争後の会社、銀行と工業生産)
陸奥物産合資会社 同 和徳町 藁細工物其他販売 2,350 7 同 弘前桶樽合資会社 同
鍛冶町
通史編5(近・現代2)
(相次ぐ火災)
昭和四十二年十二月九日には新
鍛冶町
のバーから出火、一酸化炭素中毒で死者二人、重軽傷者八入の被害があった
通史編3(近世2)
((二)相撲興行)
享保九年(一七二四)には、盆の三日間に興行が認められたのは、弘前・新町・新町川原・同後川原・
鍛冶町
川原,・新
鍛冶町
川原・田茂木町・蟹田村・石渡村・鰺ヶ沢港・舞戸村・白銀村・境松村の一三ヵ所で、興行主も御旗の,寛政元年(一七八九)、一〇〇石取りの笠井園右衛門が、下
鍛冶町
の相撲宿の前を通った時、透き見(すきみ)した
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
また、新楮町が古御徒町に、横
鍛冶町
が覚仙町に町名変更されているほか、川端町と袋町は武家地となっている。
通史編2(近世1)
(刑の執行)
(えどまち)(誓願寺に通じる南北に走る道路)~荒(新)町(あらまち)~茂森町(しげもりまち)~茂森横
鍛冶町
通史編3(近世2)
(諸家業と職人)
、亀甲町支配で一〇人、東長町支配で一五人、新町支配で一四人、紺屋町支配で一〇人、親方町支配で三人、下
鍛冶町
,また、医者が本町に九人、下
鍛冶町
に三人、親方町に一一人、和徳町に一人、土手町に七人、新町に五人、東長町
通史編3(近世2)
(「ねぷた」の運行)
見物していた場所は明らかではないが、
鍛冶町
(かじまち)の「ねぷた」が大きく、二〇〇人ほどの人夫が担いできたものの
通史編3(近世2)
(ねぷた)
見物していた場所は明らかではないが、
鍛冶町
(かじまち)の「ねぶた」が大きく、二〇〇人ほどの人夫が担いできたものの
通史編2(近世1)
(慶安二年の「弘前古御絵図」)
次に、職人集団であるが、職人町として、紺屋(こんや)町・鞘師(さやし)町・
鍛冶町
・大工町・銅屋(どうや
通史編3(近世2)
(拡大する風儀・治安の乱れ)
その後の調べで
鍛冶町
の鍛冶業源吉という者が刀傷を負っており、虎三郎は見つけしだい源吉を討ち捨てにすると
通史編2(近世1)
(町方支配)
松井・松山両家が世襲しており、その屋敷ははじめは親方町にあったが、宝永二年(一七〇五)に、松井家は長
鍛冶町
通史編4(近・現代1)
(町並みの推移)
鍛冶町
、銅屋町、桶屋町など藩政時代からの職人町も、新たに軍用品の注文を受けて活況を取り戻した。
通史編5(近・現代2)
(空襲を受けなかった弘前市)
そのほかにも
鍛冶町
、桶屋町の家屋を除去し、一番町両側、親方町の大部分を除却、警察署・市役所庁舎から公園堀端
通史編5(近・現代2)
(見直したい弘前市の記録)
土手町、
鍛冶町
をはじめ、代官町、桶屋町、百石町、親方町、紙漉町、紺屋町、若党町、五十石町、元大工町、元寺町
通史編4(近・現代1)
(試験法と地方集合試験)
〇〇 七三・九二 一番小学改め現朝陽校 敬業 一四一 七五 六六 七、〇五 七、五〇 五三・一九 新
鍛冶町
資料編3(近世編2)
(二 町人の住居)
図39 H家住宅梁行断面図 図40 H家住宅1階・2階平面図 ○T家住宅 新
鍛冶町
通史編3(近世2)
(弘前の民衆)
四年九月に
鍛冶町
の勇助という者が近隣の者を集めて博打(ばくち)場を開帳し、杖刑(じょうけい)(杖で打つ
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
第一は新銅屋町(現銅屋町)と新派(しんはだち)町(現桶屋町・新
鍛冶町
)ができ、万治の絵図にあった銅屋町
通史編5(近・現代2)
(戦時下のりんご統制)
中でも、昭和五年(一九三〇)に
鍛冶町
の宮本リンゴ袋店で宮本式製袋機が発明されてからは、生産効率が飛躍的
通史編3(近世2)
(幕末の政情と近衛警備)
禁門の変の舞台となった蛤(はまぐり)御門 慶応三年(一八六七)二月、警備兵に同行を命じられた
鍛冶町
通史編4(近・現代1)
(市制の施行)
ますます)多ク見渡セハ林檎畑ヤ五升芋畑許リニテ火災アルモ近隣ニ移ラヌ有様ニ至ランカ 「ポンプ」ノ使用ハ
鍛冶町
土手町
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