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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏)

鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏 元弘三年(一三三三)閏二月の後醍醐天皇の隠岐脱出に始まり、同年五月の足利尊氏,による六波羅陥落と、新田義貞による鎌倉陥落を経て、鎌倉幕府は滅亡した。  ,こうした鎌倉幕府末期の一連の戦乱から、続く南北朝の動乱に至るまで、この津軽の地でも、そうした中央の政情激変,この年三月までは鎌倉幕府方の年号「正慶二年」を文書に使用していた曽我氏も、六月からは後醍醐方の年号「元弘三年 / 鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏
通史編1(古代・中世) (蝦夷沙汰職の行方)

蝦夷沙汰職の行方 鎌倉幕府滅亡後、安藤氏にとっては、自らの権力の拠(よ)りどころとしてきた蝦夷沙汰職,鎌倉幕府滅亡後のこうした激しい政変のなかで、安藤氏は実に巧みに立ち回り、自らの蝦夷沙汰の職を確保していくのである
通史編1(古代・中世) (足利尊氏の離反)

写真153 足利尊氏像  尊氏は、鎌倉幕府滅亡後、隠岐(おき)から脱出したばかりの後醍醐天皇から,鎮守府将軍に任ぜられており(征夷大将軍には、すぐ後に護良(もりよし)親王が任じられた)、鎌倉幕府の有していた
通史編1(古代・中世) (北方の蝦夷の乱)

蝦夷管領職相続をめぐって一族内部で内紛を引き起こし、かねて北の地に生じていた蝦夷の反乱と重なって、津軽は鎌倉幕府滅亡
通史編1(古代・中世) (安藤氏の所領)

安藤氏の所領 すでに詳しく見たように、平泉藤原氏が滅亡すると、奥羽両国は鎌倉幕府の支配下に入り、頼朝,しかし鎌倉幕府末期の安藤の乱(後述)当時、安藤宗季派が外浜に築城したこと(史料六一七)、外浜の伝尻八館跡,ただ鎌倉幕府滅亡のころ、外浜が闕所地(けっしょち)であったことは確かである(史料六五五)。  
通史編1(古代・中世) (夷島流刑と東夷成敗権)

つまり夷島流刑とは、いったん京都の朝廷内の組織である検非違使庁によって逮捕された「京中強盗・海賊張本」を鎌倉幕府
通史編1(古代・中世) (蝦夷管領)

安藤氏は、鎌倉幕府の北方支配の現地代官に登用されるに際して、古代の「以夷制夷」政策とも共通するような、,129 『保暦間記』 目録を見る 精細画像で見る  のちの江戸時代に成立した『武家名目抄』にも、鎌倉幕府,このように蝦夷を異民族視し、異民族として支配するという新たな体制が、鎌倉幕府の蝦夷管領につながっていく
通史編1(古代・中世) (守護・地頭の制)

守護・地頭の制 源頼朝は、鎌倉幕府の地方支配の要(かなめ)となる制度として守護・地頭の制を整えた。
資料編1(考古編) (2.13世紀の様相)

2.13世紀の様相 鎌倉幕府成立により、13世紀になって、日本海側の製品とともに東海地方の製品が数多
通史編1(古代・中世) (一族の分裂)

鎌倉幕府の現体制が続く限り、庶流では、大きな本領を獲得することは無理である。
通史編1(古代・中世) (奥州惣奉行制の確立)

古代国家の地方支配はついに県下にまで及ばなかったが、鎌倉幕府の統一的な地方制度である地頭制は深く浸透することとなり
通史編1(古代・中世) (討幕の論功行賞)

写真136 陸奥国宣  なお工藤氏も、鎌倉幕府滅亡に際しては、幕府方と後醍醐方とに分裂したが、多
通史編1(古代・中世) (足利幕府の奥羽支配)

北畠氏の国府と同じように、鎌倉幕府以来、奥羽各地を掌握していた得宗御内人(とくそうみうちびと)クラスの
通史編1(古代・中世) (曽我貞光とその家族)

鎌倉幕府末期の元弘の乱に際して、建武方についた光高としては、北条高時の一字偏諱(へんき)であろう「高」
通史編1(古代・中世) (北畠親房の政権構想)

鎌倉幕府滅亡後、急速に武士勢力を吸収しつつある足利尊氏を押さえるために、関東の背後の陸奥国を重視し、奥州武士
通史編1(古代・中世) (安藤の乱の展開)

、この北辺の地の争乱が、安藤氏一族以外の武士たちにとっても複雑な矛盾関係をそのうちに含むものであり、鎌倉幕府体制,その後、紆余(うよ)曲折はあったものの、まもなく鎌倉幕府体制は終末を迎える。
通史編1(古代・中世) (文永の蝦夷の乱)

これは紛れもなく蝦夷管領安藤氏に対する反乱なのであり、したがってそれはとりもなおさず、蝦夷管領を任命した鎌倉幕府
通史編1(古代・中世) (城館発掘の成果)

防御的な館というよりは政庁的な館で、一三世紀前半の段階つまり鎌倉幕府が成立した時点と同じころ、坂東とつながりのある
通史編1(古代・中世) (「嘉元鐘」)

藤崎や護国寺については、すでに唐糸にまつわる時頼廻国伝説のところでも述べたが、鎌倉幕府による当地方支配
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

四 執権時頼の東国廻国をめぐって 鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』は、正元元年(一二五九)と弘長二年(一二六二,鎌倉時代には、鎌倉幕府-北条時頼-「禅密仏教」という政教図式が、宗教的祭祀権の行使という形で、北奥地域,この事実をもって、鎌倉時代における「鎌倉幕府-北条時頼-禅密仏教」という政教構図の北奥地域への投入を、,ことの本質は、鎌倉幕府の公権力としての宗教的祭祀権の現実的行使が北奥地域になされたか否か、に存するのであり,「鎌倉幕府-北条時頼-禅密仏教」という宗教政策が、政策としての位置づけを保持しながら、量的ではなく、質的
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

曽我貞光は、津軽曽我氏の嫡流で、鎌倉幕府滅亡後、いちはやく朝廷側につき、元弘三年(一三三三)から翌建武元年
通史編1(古代・中世) (湊の始まり)

時はあたかも奥州藤原氏の滅亡から、鎌倉幕府による全国的な開発が進展していた時期であり、奥大道を中心とする
通史編1(古代・中世) (四耳壺の出土)

珠洲経容器(鯵ヶ沢町)  奥州藤原氏の時代は、白磁四耳壺が酒器としての権威性を有していたのに対し、鎌倉幕府成立以後
通史編1(古代・中世) (治承・寿永内乱下の秀衡)

鎌倉幕府についての編年体の史書『吾妻鏡』が記録するその書面には、以下のようにあったという(史料五二八・
通史編1(古代・中世) (かわらけと陶磁器)

この在り方は、一二世紀後半に奥州を支配した藤原氏の拠点であった平泉遺跡群や、一三世紀以降に鎌倉幕府の中枢
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

次に、この鎌倉幕府と護国寺との史的かかわりを中心にして、北奥津軽と鎌倉幕府の間に展開して宗教史的な様相
通史編1(古代・中世) (新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)

…………  192    四 中世前期の交易 ……………………………………………  206 第二節 鎌倉幕府,………  273    七 蝦夷の争乱と津軽大乱 ……………………………………  306    八 鎌倉幕府滅亡
通史編1(古代・中世) (嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)

続く「沙弥道性(しゅみどうしょう)」は、鎌倉幕府滅亡後もなお鎌倉方についた人物の交名(きょうみょう)である
通史編1(古代・中世) (埋納銭の出現)

とくに一三世紀前半・暦仁(りゃくにん)二年(一二三九)の段階で、鎌倉幕府が白河関以東の銭貨流布を禁止する
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

この北奥における古代律令国家や鎌倉幕府の国家権力の行使と表裏一体の形で推し進められた寺社の建立が、まずもって
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

とすれば、津軽地域における中世の修験道世界とは、まさしく、鎌倉幕府の「禅密主義」の宗教政策の延長上に花開
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

すなわち、鎌倉幕府はその幕政前期において、自らの「宗教センター」ともいうべき鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市
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