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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(境界の地外浜)
しかし
鎌倉時代
に現実に郡郷制的秩序が施行された地域は、津軽の外にある外浜までであって、夷島にまでそれが,とくに外浜は、
鎌倉時代
になってもなお怪異の出現する場所であったと同時に、怪異を追放する場所でもあった(,すでに触れたように、
鎌倉時代
の領域単位としての「浜」も北奥の地に特有のものであったから、「率土」の周辺
通史編1(古代・中世)
(北条得宗領の形成)
北条得宗領の形成 さてこれら津軽地方の諸地域は、
鎌倉時代
を通じて最終的にすべて鎌倉北条氏の得宗領となった
通史編1(古代・中世)
(後醍醐方につく)
でありながら、北条得宗家によって蝦夷沙汰や地頭代職を受け継ぐ嫡流に取り立てられたのであったが(それが
鎌倉時代
末期
資料編1(古代・中世編)
(二 懸仏)
二 懸仏 市内にある懸仏のうち、
鎌倉時代
から室町時代にかけて鋳造されたものは九体ある。
資料編1(古代・中世編)
(一 銅鐘)
ともあれ、この銅鐘は
鎌倉時代
末期の津軽地方の勢力関係を示す重要な金属資料である。 ,
鎌倉時代
末期に鋳造され移入されたこの鐘は、得宗専制体制の維持や、津軽地方の御家人・御内人の動揺を押さえる
通史編1(古代・中世)
(曽我氏系図の復原)
曽我氏系図の復原 津軽曽我氏については、平賀郡を中心として
鎌倉時代
から南北朝時代にかけての比較的豊富
通史編1(古代・中世)
(その他の城館跡)
ただこれらの館跡には、
鎌倉時代
の大小の板碑群が五一基(公卿塚(くぎょうづか)六基・石仏(せきぶつ)四十五基
資料編1(古代・中世編)
(三 板碑の造立者とその時期)
また、津軽平野内陸部でも、大鰐町や弘前市乳井・国吉などには
鎌倉時代
に造立されたものが多い。,
鎌倉時代
末期に目屋地方を知行したのは工藤貞祐だったが、建武二年(一三三五)には別系と考えられる工藤貞行
資料編1(古代・中世編)
(第三節 宝篋印塔)
また、時代差・地域差が見られ、
鎌倉時代
後期に形が決まり、地域差によって関東型と関西型に分けることができる
資料編1(古代・中世編)
(一 板碑の概要)
時代が下ると、僧侶や豪族が造立した
鎌倉時代
と違って石碑は小型化してゆき、碑面から庶民の信仰が読み取れるようになってゆく
通史編1(古代・中世)
(擦文文化の終末年代)
また、釧路市材木町(5)遺跡では宋代(九六〇~一二七九年)に製造され、国内では平安時代後半から
鎌倉時代
前半
通史編1(古代・中世)
(嫡流と庶流)
また従来の地元の研究では、
鎌倉時代
末期の元弘の乱の過程で曽我氏が後醍醐方と北条方とに分裂し、「大光寺合戦
通史編1(古代・中世)
(曽我貞光とその家族)
曽我貞光とその家族 しかし資光は
鎌倉時代
末期の安藤氏の内紛(安藤の乱・津軽大乱)に参戦して早世し(史料六二三
通史編1(古代・中世)
(仲麻呂鬼伝説)
しかし平安時代の末から
鎌倉時代
初期に成立したとされている『江談抄』という説話集(藤原実兼が大江匡房の談話
通史編1(古代・中世)
(有間浜の所在)
現在の北海道の「渡嶋」は「おしま」と訓(よ)まれているが、『日本書紀』の「渡嶋」は、『釈日本紀』(
鎌倉時代
末期
通史編1(古代・中世)
(安藤系図)
ともかかわる有名な安藤の乱(津軽大乱)の立役者安藤又太郎季長の名が惣領名としてみえることから、学界では
鎌倉時代
通史編1(古代・中世)
(文永の蝦夷の乱)
そのことは、次に掲げるような
鎌倉時代
の著名な僧、日蓮の書き遺した記述のなかに見出すことができる。
通史編1(古代・中世)
(中世の農民)
中世の農民 中世前期の農村経営を全国的な動きとしてみた時には、
鎌倉時代
の地頭や武士などにその原形を求
通史編3(近世2)
(幕末期近衛家との関係)
幕末期近衛家との関係 近衛(このえ)家の先祖は有名な藤原鎌足(ふじわらのかまたり)で、
鎌倉時代
に近衛
資料編1(古代・中世編)
(第二節 五輪塔)
弘前市内の五輪塔は、前述の乳井神社に大型で
鎌倉時代
までさかのぼり得るものが一基現存する。
通史編3(近世2)
(弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)
されるのは、寛文五年(一六六五)に弘前城下に滞在して仏像を刻んだ円空作の三体の仏像、および県内で最古(
鎌倉時代
末
通史編1(古代・中世)
(二 津軽の修験道と神社)
古代の坂上田村麻呂に開基伝承を持つ津軽地域の神社の多くは、その当初、天台系密教(台密)を基調とし、
鎌倉時代
,
鎌倉時代
に「蝦夷管領」として北方世界に君臨した安藤氏の権勢は、南北朝に入りますます巨大化していく。
通史編1(古代・中世)
(蝦夷管領)
蝦夷管領 こうした安藤氏の特異な自己認識と密接にかかわるのが、
鎌倉時代
の安藤氏の地位を示すものとして
通史編1(自然・原始)
(発掘調査の成果)
140)、弘前市中別所(なかべっしょ)の荼毘館(だびだて)遺跡(一九八五・八六年発掘、十四~十五世紀=
鎌倉時代
,141)、弘前市中崎(なかざき)の中崎館遺跡(一九八八年発掘、十二世紀後半~十三世紀初頭=平安末期~
鎌倉時代
,東津軽郡蓬田村の蓬田(よもぎだ)大館遺跡(一九八一・八四・八六年金沢大学・早稲田大学発掘、十二~十三世紀=平安~
鎌倉時代
,=
鎌倉時代
)(148)等の調査がある。
通史編1(古代・中世)
(一 中世寺院の建立)
この日尋は、日蓮宗僧として、
鎌倉時代
の宗祖日蓮の高弟日持をこの上なく追慕した結果の北方布教とも伝えられる,
鎌倉時代
に至っては、罪人の追放・流刑という形での渡道も加わり、そこには「渡党」という一定の和人集団が形成
通史編1(古代・中世)
(安藤の乱の展開)
安藤氏自身も、
鎌倉時代
末期に全国各地で生じていた、惣領制をめぐる嫡庶の争いに巻き込まれざるを得なくなっていったようである
通史編1(古代・中世)
(堀越城・石川城を中心とした城館群)
長峰村は
鎌倉時代
から南北朝時代にかけては、大平賀郷の中心の村でもあった。
通史編1(古代・中世)
(三 北奥宗教界の中世的転回)
しかし、その北奥宗教界にも
鎌倉時代
の中後期に予期せぬ大きな変化が起こる。,一三代道珍(寺)、一四代房海(寺)、一五代信忠(東)、一六代顕弁(寺)、一七代有助(東)、というように、
鎌倉時代
通史編1(古代・中世)
(埋納銭の出現)
平安末期・治承(じしょう)三年(一一七九)には『百練抄(ひゃくれんしょう)』(編者不明、平安から
鎌倉時代
通史編1(古代・中世)
(四 執権時頼の東国廻国をめぐって)
にかかわる大聖不動明王・聖観音・国上寺・久渡寺などの天台宗寺院を真言宗寺院として誤認してしまったのは、
鎌倉時代
,
鎌倉時代
には、鎌倉幕府-北条時頼-「禅密仏教」という政教図式が、宗教的祭祀権の行使という形で、北奥地域,この事実をもって、
鎌倉時代
における「鎌倉幕府-北条時頼-禅密仏教」という政教構図の北奥地域への投入を、
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
そして、
鎌倉時代
の末には、小浜や敦賀を拠点として、西は「筑紫船」、東は「津軽船」という航路ができていた
通史編2(近世1)
(本村と新田)
三世寺は
鎌倉時代
から室町時代にかけて、すでに存在していた可能性が高い村である。
通史編1(古代・中世)
(「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)
この地は、
鎌倉時代
から戦国期にかけて夷島への渡海口として栄えた大浜(青森市油川)に隣接している。
通史編1(古代・中世)
(四 中世津軽の宗教世界の特色)
その「線」が、徐々に広がりを持ち「面」として、一定の地域空間を形造るのは、平安~
鎌倉時代
のことであった
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