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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍秀衡)

鎮守府将軍秀衡 東国を基盤に軍事政権樹立を目指す源頼朝にとって、東北地方への勢力拡大は重大事であり、,本来征夷の伝統のうちにある鎮守府将軍が、その軍を南進させるなど、前代未聞のことである。,ちなみに除目(じもく)の上では、安元二年(一一七六)に鎮守府将軍の地位はすでに陸奥守藤原範季(のりすえ,)に移っていたが、中央政府はその後も秀衡を鎮守府将軍として処遇し続けている。,京都では「奥州夷狄秀平、鎮守府将軍に任ず。 / 鎮守府将軍秀衡
通史編1(古代・中世) (日の本将軍と鎮守府将軍)

日の本将軍と鎮守府将軍 日の本将軍の呼称は、安藤氏だけの呼称ではなかった。,これらの事例の中で、とくに足利直義(ただよし)が「日本将軍」と称され、それが鎮守府将軍を意味していたことなどから,、日の本将軍と鎮守府将軍とは重複視されるものであるという。,そして、この鎮守府将軍については鎌倉期には中断していたが、正慶二年(元弘三年、一三三三)に足利尊氏が後醍醐天皇,鎮守府将軍は、建武政権によってクローズアップされ、蝦夷沙汰と結びつけられたものであるという。 / 日の本将軍と鎮守府将軍
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍清原武則)

鎮守府将軍清原武則 前九年合戦で安倍氏が滅亡した後は、その論功行賞によって清原武則が俘囚出身者としてははじめて,鎮守府将軍になり、清原氏は秋田城在庁に加えて鎮守府在庁の指揮権をも握ることになった。 / 鎮守府将軍清原武則
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍源頼義)

鎮守府将軍源頼義 安倍氏を押さえるため、中央政府は登任に代えて、源頼義を陸奥守とし、また彼に鎮守府将軍 / 鎮守府将軍源頼義
通史編1(古代・中世) (分裂した蝦夷沙汰)

分裂した蝦夷沙汰 もっとも、北朝で征夷大将軍に任命され、幕府を開いた尊氏には、もはや鎮守府将軍に任命,古代においては坂上田村麻呂が陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守府将軍・征夷大将軍の四官を兼ねた例があるが、これは,蝦夷沙汰と深くかかわる鎮守府将軍は南朝方に置かれたままであった。,観応元年(正平五年、一三五〇)、尊氏と対立した足利直義は、南朝によってその鎮守府将軍に任じられている(,秋田小鹿島を安藤孫五郎入道が押領するという紛争が発生しているが(史料七一六)、これは秋田の蝦夷沙汰のため、鎮守府将軍足利直義
通史編1(古代・中世) (蝦夷沙汰職の行方)

すでに述べたように、当初それを掌握しようとしたのは、後醍醐天皇から鎮守府将軍に任ぜられた足利尊氏である,こうして蝦夷沙汰と鎮守府将軍が密接な関係をもつようになった。,しかし尊氏が建武新政府から離反すると、鎮守府将軍の職は北畠顕家に移り、建武政権側に蝦夷沙汰を掌握する法的根拠
通史編1(古代・中世) (狄坂丸の乱)

狄坂丸の乱 天慶の乱の後には、天暦(てんりゃく)元年(九四七)の、「狄坂丸(てきのさかまる)」による鎮守府将軍関係者,「狄」とあることや鎮守府将軍の管轄範囲から考えて、坂丸は米代川上流地域の族長であった可能性が高いとされているが,これは、特別受領官鎮守府将軍・出羽城介体制の確立によって、平和がもたらされたのだとも評価されている。
通史編1(古代・中世) (足利尊氏の離反)

写真153 足利尊氏像  尊氏は、鎌倉幕府滅亡後、隠岐(おき)から脱出したばかりの後醍醐天皇から鎮守府将軍,こうして蝦夷沙汰の職務と鎮守府将軍の地位とが、密接な関係をもつようになっていった。  ,しかし建武二年八月に、離反した尊氏が建武政府から鎮守府将軍の職を解かれると、北畠氏は後醍醐天皇に積極的,に働きかけて、同年十一月、陸奥守北畠顕家が鎮守府将軍を兼任することとなり、陸奥国府が積極的に蝦夷沙汰を
通史編1(古代・中世) (後三年合戦)

後三年合戦 前九年合戦の戦功により、清原武則は俘囚としては初めて鎮守府将軍に任ぜられた。,延久北奥蝦夷合戦の功により鎮守府将軍になった清原真衡は、その後、独裁政治的な体制を志向していったため、,それは同族的共同支配の段階から、嫡宗である鎮守府将軍真衡による家父長的専制支配体制への急激な転換に伴う
資料編1(古代・中世編) ([十一世紀])

●寛弘元年(一〇〇四)十月二十一日、前鎮守府将軍藤原兼光、藤原道長に貢馬。,●寛弘五年(一〇〇八)正月四日、前鎮守府将軍藤原兼光、藤原道長父子に貢馬。,●長和三年(一〇一四)二月七日、鎮守府将軍平維良入京し、馬等を道長に贈る。,●長和四年(一〇一五)十一月三日、鎮守府将軍平維良、藤原道長に貢馬。,●長和五年(一〇一六)十一月六日、鎮守府将軍平維良、藤原道長に貢馬。
通史編1(古代・中世) (陸奥・出羽の在庁官人たち)

陸奥側では胆沢城(田村麻呂の時代に鎮守府が多賀城から移された)の鎮守府将軍が、出羽側では秋田城の出羽城介,そしてその鎮守府将軍・秋田城介には、次第に源氏・平氏といった軍事貴族が任命されるようになっていった。,歴代の鎮守府将軍を挙げれば、平国香(くにか)・良持(よしもち)・良孫・良文(よしふみ)・貞盛(さだもり
通史編1(古代・中世) (平泉藤原氏)

後三年合戦後に、清原氏に代わって、すでに出羽城介の権限をも吸収していて巨大な軍政権を握る職となっていた鎮守府将軍,また先にも触れたように、上皇の近臣で以降の陸奥守や鎮守府将軍を一族で歴任する藤原基成と婚姻関係を結ぶなど,写真77『津軽一統志』毛越寺の造立  嘉応二年(一一七〇)、秀衡は従五位下に叙せられ鎮守府将軍に,が兼任することになって久しい職であったが、のちに木曽義仲と源頼朝の対立が表面化すると、後白河法皇の「鎮守府将軍秀衡
通史編1(古代・中世) (安部氏・清原氏の登場)

安部氏・清原氏の登場 このような鎮守府将軍の管郡的基盤となったのが奥六郡(岩手・志波・稗貫(ひえぬき
資料編1(古代・中世編) ([十二世紀])

●長治元年(一一〇四)五月二日、藤原基頼、鎮守府将軍兼任。,このころ、鎮守府将軍藤原基頼、北国の凶賊を討つという。,●嘉応二年(一一七〇)五月二十五日、藤原秀衡、鎮守府将軍。
通史編1(古代・中世) (日の本将軍の多面性)

日の本将軍の多面性 以上に述べてきたように、日の本将軍の呼称は鎮守府将軍と重複視され、室町幕府の北方政策
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

になり、一方で現地の政治勢力のあいだでは、相互の合従連衡、あるいは南の「日本国」の勢力である陸奥国司や鎮守府将軍清原氏,延久蝦夷合戦から一三年後の永保三年(一〇八三)、その合戦の戦功で鎮守府将軍に任命された清原真衡と、清原清衡
通史編1(古代・中世) (顕家からの安堵)

蝦夷沙汰は、当時、足利尊氏にかわる鎮守府将軍に予定されていた北畠顕家直轄という意識もあったのであろう。
資料編1(古代・中世編) ([十世紀])

●天暦元年(九四七)三月三日、鎮守府将軍平貞盛貢馬を朱雀上皇に献上。
通史編1(古代・中世) (将門の乱との関係)

将門の父良持は鎮守府将軍経験者であり、そこで将門は陸奥の情勢に通じていた。
通史編1(古代・中世) (足利幕府の奥羽支配)

北畠氏側が陸奥守から鎮守府将軍へ、足利氏側が奥州総大将から陸奥守へと、それぞれ相手の制度的拠点を奪い合
通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

具体的にはⅠ延久蝦夷合戦で北海道にまで遠征して武威をふるった鎮守府将軍真衡の時代か、あるいはⅡ摂関家一族,が鎮守府将軍としてこの地に乗り込み、清衡とともに北奥に新体制を築いていった時代か、そのいずれかであろう,また北奥諸郡が陸奥国所管となっていることも、郡郷編成が摂関家出身の陸奥守兼鎮守府将軍の下で平泉藤原氏によって
通史編1(古代・中世) (浪岡城攻略)

北畠氏は、鎮守府将軍兼陸奥守北畠顕家の子顕成(あきなり)を祖として、文中三年(一三七四)ころに閉伊郡船越
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦の実相)

不明だが、前九年合戦など同時代の例から考えれば、①陸奥守頼俊の率いる国司直属軍を中心とした国府軍、②鎮守府将軍清原武則,としての頼俊軍の目的不達成といった一方で、真衡のみが征討に功ありとして、合戦後、祖父武則の跡を継いで鎮守府将軍,合戦後、清原真衡が戦功ありと認められ、恩賞として鎮守府将軍に任命された一方で、「追討使」であり「大将軍
通史編1(古代・中世) (乳井福王寺の伝承)

そして清原真衡軍の征討の対象となった津軽・鹿角・比内などでは、真衡が合戦後鎮守府将軍に任命されていることから
通史編1(古代・中世) (北の富の搾取)

蝦夷の内部でも、その時々の情勢によって、ある蝦夷の村は国司(鎮守府将軍・秋田城介)についたり、また別の
通史編1(古代・中世) (安倍氏の登場)

一〇世紀半ばころ、安倍氏は鎮守府将軍の権力基盤である奥六郡(岩手・志波・稗貫・和賀・江刺・胆沢)を支配
通史編1(古代・中世) (曽我貞光の奮戦)

奥州で南朝を支える南部政長・信政(のぶまさ)親子に対しては、陸奥介・鎮守府将軍北畠顕信(あきのぶ)を再度下向
通史編1(古代・中世) (「東夷征討」祈願)

綸旨」(宣旨)を受けて、陸奥守源頼俊が「大将軍」として「追討人(使)」に任命され、その頼俊の指揮下で、鎮守府将軍清原武則
通史編1(古代・中世) (異類の来襲)

異類の来襲 こうして、鎮守府将軍・出羽城介による支配体制が整備されるなかで、天慶(てんぎょう)二年(
通史編1(古代・中世) (治承・寿永内乱下の秀衡)

前記の鎮守府将軍の地位といい、この陸奥守任官といい、異例ずくめであるが、秀衡が奥州でそれだけ重みのある
資料編1(考古編) (4.中崎館遺跡)

主体的に機能しており、この時期は、奥州藤原氏(3代秀衡の時代)にとって、それまでの中で最も強い公権(鎮守府将軍
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……………………………… 日本紀略 98 ●天暦元年(九四七)三月三日、鎮守府将軍平貞盛貢馬を朱雀上皇,………………………… 御堂関白記 103 ●長和三年(一〇一四)二月七日、鎮守府将軍平維良入京し、馬等,………………………… 御堂関白記 104 ●長和四年(一〇一五)十一月三日、鎮守府将軍平維良、藤原道長,このころ、鎮守府将軍藤原基頼、北国の凶賊を討つという。,鎮守府将軍に任じられ「日本(ひのもと)将軍」と号したと伝えられる。
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

鎮守府将軍に任じられ「日本(ひのもと)将軍」と号したと伝えられる。
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