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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(長勝寺)
長勝寺
長勝寺
(ちょうしょうじ)は、大永六年(一五二六)、大浦光信が種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で死去,慶長十五年(一六一〇)、弘前城築城にあたり、防衛のために
長勝寺
構(ちょうしょうじがまえ)がつくられ、
長勝寺
,しかし、
長勝寺
はこれまで菩提寺として重きをなしていたため、信著は遺言で
長勝寺
へ埋葬させたことから、報恩寺,図214.
長勝寺
/
長勝寺
資料編3(近世編2)
(●長勝寺 西茂森一丁目)
●
長勝寺
西茂森一丁目 (一)本堂--重要文化財 規模が大きく、側廻りには三本溝の窓を配しており,、舟肘木で一軒の垂木を受けているが、当初は、
長勝寺
庫裏や革秀寺本堂と同様の茅葺屋根であったようである。,図2
長勝寺
庫裡平面図・断面図 (三)三門--重要文化財 寛永六年(一六二九)に津軽二代信枚,図3
長勝寺
三門立面図・平面図 (『重要文化財
長勝寺
三門修理工事報告書』より転載) (四)御影堂,
長勝寺
の総門であり、一七世紀の後半には建てられていたとみられる。 / ●
長勝寺
西茂森一丁目
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
為信は、
長勝寺
八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、堀越城下の形成に当たり
長勝寺
を種里から堀越へ移し、後,同十五年、高岡(現弘前市)に築城すると、
長勝寺
も賀田より移転させ、
長勝寺
構の中心に据えた。,寛永五年(一六二八)、為信の正室仙桃院が死去すると、
長勝寺
に廟所を造営した。,そして、
長勝寺
の凌雲台に埋葬され、戒名を雲雄院殿震中無籌大居士とした。,図205.
長勝寺
津軽家霊屋
通史編3(近世2)
(京徳寺)
京徳寺 京徳寺(きょうとくじ)は、「
長勝寺
並寺院開山世代調」(同前No.四〇五)によると、享禄三年(,一五三〇)に
長勝寺
二世秋澗が開山となり、浪岡村五本松(現南津軽郡浪岡町)に創建したとする。,慶長年間(一五九六~一六一四)に
長勝寺
構の中に移った。,
長勝寺
末寺の筆頭であり、
長勝寺
無住の時の末寺住職の葬式や、継目相続の取り次ぎを行った。
通史編3(近世2)
(曹洞宗)
曹洞宗 曹洞宗の僧録所は
長勝寺
であった。,通幻派は、通幻寂霊によって関西・関東・北陸に広まり、領内の派頭は
長勝寺
であった。,、隣松寺は「本寺不詳」、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、「本寺不詳、
長勝寺
配下,」とあって、本寺は明らかではないが
長勝寺
に属していた。,一六六五)二月二十七日には、曹洞宗関東触頭総寧寺・大中寺・龍穏寺よりキリシタン禁止の布令が藩庁を通じて
長勝寺
通史編3(近世2)
(万蔵寺)
万蔵寺 「
長勝寺
並寺院開山世代調」によれば、弘長二年(一二六二)、藤崎村唐糸(からいと)の前(現南津軽郡藤崎町,慶長年間(一五九六~一六一四)
長勝寺
構の中に移った。,なお現在、
長勝寺
にある「嘉元鐘(かげんしょう)」は、万蔵寺にあったという。
通史編3(近世2)
(清安寺)
清安寺 清安寺(せいあんじ)は、天正二年(一五七四)、
長勝寺
三世密田が赤石村(現西津軽郡鰺ヶ沢町)に,後に
長勝寺
構の中に移転した。 ,「
長勝寺
並寺院開山世代調」(同前No.四〇五)は、信義の正室富宇(ふう)が母「心悦清安大姉」の位牌を祀
通史編3(近世2)
(寿昌院)
慶長二年(一五九七)、新里村(現市内)へ移り、元和元年(一六一五)、
長勝寺
構の中に移った。,開山が不明のため、関遶が
長勝寺
一三世在州を開山に推し、自ら二世となった。
通史編3(近世2)
(宝積院)
宝積院 宝積院(ほうしゃくいん)は、「
長勝寺
並寺院開山世代調」によると、天正十四年(一五八六)、中別所,慶長年間(一五九六~一六一四)に
長勝寺
構の中に移った。
通史編3(近世2)
(報恩寺)
津軽一統志」は直ちに津梁院へ葬ったとし、「津軽徧覧日記」(同前No.五〇七)は、火葬にして遺骨は津梁院と
長勝寺
,以後、
長勝寺
に替わって報恩寺が菩提所になったため、六代信著の墓所をめぐって両寺が対立することもあった。,昭和二十九年(一九五四)、弘前高校の校地拡張に伴い、歴代藩主の五輪塔は承祜(つぐとみ)の遺体とともに、
長勝寺
境内
通史編3(近世2)
(慈雲院)
慈雲院 慈雲院(じうんいん)は、浅瀬石村(現黒石市)に
長勝寺
一二世蛇鷹を開山に創建された。,
長勝寺
構の中に移ってから、破損と無住のため廃寺となったが(資料近世2No.四〇五)、廃寺は酉年とあるところから
通史編3(近世2)
(鳳松院)
慶長四年(一五九九)、種里(たねさと)村(現西津軽郡鰺ヶ沢町)に創建され、慶長年間(一五九六~一六一四)、
長勝寺
構,「
長勝寺
並寺院開山世代調」は「鳳勝院」とし、「曹洞諸寺院縁起志」は「鳳松院」としているところから、延宝八年
通史編1(古代・中世)
(「嘉元鐘」)
「嘉元鐘」 現在弘前市
長勝寺
にある、嘉元四年(一三〇六)八月十五日の記年銘をもつ、青森県内最古の梵鐘,写真113 『集古十種』
長勝寺
鐘銘文 元来この鐘は、鎌倉建長寺流の禅宗寺院で関東祈禱所でもある,風調雨順 国泰民安」という銘文は、円覚寺鐘では第二区・第四区にみえるもので、その銘文の一部に過ぎず(
長勝寺
,また円覚寺鐘は大きさ・高さ・厚さとも
長勝寺
鐘の二倍もある、当代関東梵鐘中最大のものであるから、誰しも「,した文化財の木版図集ともいうべき『集古十種』(寛政十二年〈一八〇〇〉刊)に、鎌倉円覚寺鐘とともに、この
長勝寺
通史編3(近世2)
(海蔵寺)
江山は
長勝寺
創建にあたり、師の菊仙を招いて開山とし、海蔵寺をその末寺とした。,堀越村(現市内)・大浦坪貝(現中津軽郡岩木町)へ移転し、慶長年間(一五九六~一六一四)、
長勝寺
構の中に
通史編3(近世2)
(隣松寺)
隣松寺 隣松寺(りんしょうじ)は、津軽における曹洞宗大源派の本寺で、「
長勝寺
並寺院開山世代調」によると,一五五五~五七)に花厳春公が再興し、その後木庭袋伊勢が仏供料を寄進し、慶長年間(一五九六~一六一四)に
長勝寺
構
通史編3(近世2)
(勝岳院)
「
長勝寺
並寺院開山世代調」・「曹洞諸寺院縁起志」・正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、いずれも「,慶長年間(一五九六~一六一四)に
長勝寺
構の中に移った。
通史編3(近世2)
(宝泉院)
宝泉院 宝泉院(ほうせんいん)は、「
長勝寺
並寺院開山世代調」によると、初め中畑村(現市内)にあり、その,慶長年間(一五九六~一六一四)に
長勝寺
構の中に移った。
通史編3(近世2)
(江戸時代前期の建築)
岩木山神社の楼門(ろうもん)が同じく寛永五年の完成であり、同年には
長勝寺
の三門も起工され、翌年の寛永六年,図235.岩木山神社楼門
長勝寺
の三門は、先に挙げた百沢寺の山門ができたすぐ後の寛永六年(一六二九,さらにこれとあわせて
長勝寺
の御影堂(みえいどう)が寛永六年(一六二九)に造られたと伝えられているが、文化二年,図236.
長勝寺
三門 津軽家霊屋は菩提寺である
長勝寺
の境内に、歴代藩主やその奥方の霊屋が、為信,
長勝寺
の華御堂は、寛永十七年(一六四〇)百沢寺大堂と一緒に完成した。
通史編3(近世2)
(藩主の位牌を盗む)
かいちゅう)の弟子である義道(ぎどう)は、天保十四年(一八四三)五月に津軽家の菩提寺で、曹洞宗僧録所の
長勝寺
,彼は
長勝寺
の副司のポストにつく栄進を望み、現副司龍道(りゅうどう)の陥れを謀ったのである。
通史編3(近世2)
(耕春院)
耕春院 耕春院(こうしゅんいん)(現宗徳寺)は、「
長勝寺
並寺院開山世代調」によれば、曹洞宗現空派に属,慶長年間(一五九六~一六一四)、
長勝寺
構の中に下寺(したでら)の首座として移転した。
通史編3(近世2)
(嶺松院)
れいしょういん)は、天正十年(一五八二)に蒔苗村(現市内)に創建され、慶長年間(一五九六~一六一四)、
長勝寺
構
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
長勝寺
曹洞宗 金沢宗徳寺 大永六 (一五二六) 大浦盛信 種里 (鯵ケ沢町) 西茂森 大浦盛信,隣松寺 同右
長勝寺
不詳 花厳春光 真顛 賀田村 (岩木町) 同右 慶長年間、現在地に移る。,天正年間 (一五七三~九二) 為信の室の清安 密田 同右
長勝寺
三世密田和尚の隠居庵。,海蔵寺 同右
長勝寺
明応年間 (一四九二~一五〇一) 大浦盛信 江山智永 種里村 (鯵ケ沢町),
長勝寺
の「嘉元鐘」は、もと護国寺にあった。
通史編1(古代・中世)
([口絵])
[口絵] 1 嘉元鐘(重文)弘前市
長勝寺
龍頭 紀年銘 撞座,12 絹本著色当麻曼荼羅図(県重宝) 弘前市貞昌寺 13 菊仙和尚倚像 弘前市
長勝寺
通史編3(近世2)
(長徳寺)
享禄年間(一五二八~三一)、高杉(たかすぎ)村(現市内)に創建され、慶長年間(一五九六~一六一四)に
長勝寺
構
通史編3(近世2)
(泉光院)
、慶長十年(一六〇五)、大光寺村籠田(現南津軽郡平賀町)に創建され、慶長年間(一五九六~一六一四)に
長勝寺
構
通史編3(近世2)
(高徳院)
慶長年間(一五九六~一六一四)に
長勝寺
構の中に移った。
通史編3(近世2)
(陽光院)
慶長年間(一五九六~一六一四)に
長勝寺
構の中に移った。
通史編3(近世2)
(月峰院)
その後、堀越村(現市内)に移り、慶長年間(一五九六~一六一四)に
長勝寺
構の中に移った。
通史編3(近世2)
(安盛寺)
安盛寺 安盛寺(あんせいじ)は、「
長勝寺
並寺院開山世代調」によれば、寛永元年(一六二四)に服部長門が
通史編3(近世2)
(照源寺)
照源寺 照源寺(しょうげんじ)は、「
長勝寺
並寺院開山世代調」によれば、初め温湯(ぬるゆ)村(現黒石市
通史編5(近・現代2)
(禅林街・太平高等学校)
昭和二十一年四月、
長勝寺
専門僧堂の本堂を教室として開設された太平中学は、曹洞宗宗務庁が終戦の年の暮れ、,
長勝寺
は第七指定禅林となり、僧門の子弟の教育機関として仏門の後継者育成に当たるのが任務であった。
通史編3(近世2)
(梅林寺)
梅林寺 梅林寺(ばいりんじ)は、湯口村(現中津軽郡相馬村)に創建され、慶長年間(一五九六~一六一四)、
長勝寺
構
通史編3(近世2)
(正伝寺)
「
長勝寺
並寺院開山世代調」、「曹洞諸寺院縁起志」、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、「松伝寺」
通史編3(近世2)
(薬王院)
信政は父信義が明暦元年(一六五五)死去すると、国元に報恩寺を建立し、
長勝寺
に替えて菩提寺とした。,このため、六代信著が遺言で
長勝寺
に埋葬されると、両寺が対立し、報恩寺が津梁院を通じて寛永寺に訴え、その,十一面観音堂無量院と合併となり、昭和二十九年(一九五四)、隣接する弘前高校の校地拡張に伴い歴代藩主の墓石は
長勝寺
通史編5(近・現代2)
(忠霊塔建設)
忠霊塔建設 西茂森二丁目
長勝寺
横の禅林広場(平成十五年四月開園)の隣に建っている仏舎利塔は、昭和十六年,児童たちは玉石を両手に持って、岩木川と
長勝寺
を何回も往復するので、中には疲労のため倒れる子があったり、
通史編3(近世2)
(蘭庭院)
蘭庭院 蘭庭院(らんていいん)は、「
長勝寺
並寺院開山世代調」によると、創建年代は不明であるが、兼平(
通史編3(近世2)
(黄檗宗)
慈雲院を、享保十年(一七二五)、新寺町報恩寺の東側に創建する時は、新寺建立禁止に触れるため、
長勝寺
山内
通史編3(近世2)
(百沢寺)
この時、仏像は
長勝寺
と専称院(現南津軽郡大鰐町)へ移された。
通史編3(近世2)
(常源寺)
常源寺 常源寺(じょうげんじ)は、「
長勝寺
並寺院開山世代調」によれば、永禄六年(一五六三)、開基を為信
資料編3(近世編2)
(はじめに)
さらに慶長年間の後半には
長勝寺
や革秀寺の本堂が造られ、寛永五年(一六二八)には岩木山神社の楼門、東照宮本殿,、そして寛永六年(一六二九)には
長勝寺
三門が建造されている。
通史編3(近世2)
(三代信義)
しかし、寛永十一年の「禅宗法度之条々」(資料近世1No.五五八)は僧侶の酒乱、外泊、在方へ住居することを
長勝寺
通史編5(近・現代2)
(承祜公のミイラ)
俗に承祜公のミイラと称せられ、長く
長勝寺
に安置されていたが、平成七年に至って、津軽家の希望により火葬に
通史編3(近世2)
(二代信枚)
茂森(しげもり)には土居と堀による枡形を備えた
長勝寺
構(ちょうしょうじがまえ)をつくり、
長勝寺
を中心にした,このほか誓願寺(せいがんじ)大堂、
長勝寺
山門の建立や熊野宮(現熊野奥照神社)、神明宮(現弘前神明宮)、
通史編3(近世2)
(弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)
数多くの寺の中で、藩とかかわり深い
長勝寺
・報恩寺・貞昌寺・本行寺・誓願寺などに作風の優れた像が多かったのも,その問題を考えるとき、現在
長勝寺
に安置されている三門楼上羅漢倚像八体、蒼龍窟羅漢立像坐像一〇九体(図186,またもとは寛永五年(一六二八)建立の百沢寺(ひゃくたくじ)山門に安置されていた五百羅漢像が、
長勝寺
蒼龍窟
通史編3(近世2)
(地蔵信仰)
長勝寺
構の黒門わきの夭化(ようけ)地蔵は、さまざまに姿を変えて化けるという(同前No.四四〇)。
通史編3(近世2)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
154 佐藤武司氏蔵 155 弘前市立博物館蔵 156 同上 157 加藤博己氏蔵 158 弘前市
長勝寺
,個人蔵 182 弘前市立博物館蔵 183 同上 184 同上 185 弘前市 大仏院蔵 186 弘前市
長勝寺
蔵,201 作成 202 作成 203 中津軽郡岩木町 高照神社蔵 204 弘前市 革秀寺 205 弘前市
長勝寺
,新撰陸奥国誌 巻30 東京大学史料編纂所蔵 212 弘前市 貞昌寺 213 弘前市 真教寺 214 弘前市
長勝寺
,弘前市 新寺町稲荷神社 234 弘前市 革秀寺 235 中津軽郡岩木町 岩木山神社 236 弘前市
長勝寺
通史編3(近世2)
(江戸時代後期の建築)
普門院(ふもんいん)の本堂は、その創建の事情などは明らかではないが、重(茂)森に観音堂があったのを「
長勝寺
構,
長勝寺
の御影堂は、寛永六年(一六二九)に建てられたが、文化二年(一八〇五)に大規模な修理がなされた結果
資料編1(古代・中世編)
(一 銅鐘)
一 銅鐘 西茂森一丁目の
長勝寺
に伝来する嘉元四年(一三〇六)銘の銅鐘は、県内最古の金属資料である。,なお、「嘉元鐘」は
長勝寺
を中心とする禅林街の形成に伴い同寺に移されたと推定される。
資料編3(近世編2)
(●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)
弘前の
長勝寺
三門と同時期に造られたものであり、構造手法も酷似しており、同一人か同系統の技術者によるものと,現在、
長勝寺
に保管されている慶長八年の棟札には、大工職や鍛冶職に越前や丹波の工人が名前を連ねているが、,岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載) (三)三尊仏厨子堂 西茂森一丁目--県重宝 明治初期に
長勝寺
境内
通史編3(近世2)
(江戸時代初期の建築)
江戸時代初期の建築 慶長八年(一六〇二)の棟札(むなふだ)(
長勝寺
蔵)をもつ岩木山神社拝殿(はいでん,慶長期の寺院建築として、革秀寺(かくしゅうじ)の本堂、
長勝寺
の本堂・庫裏(くり)が挙げられる。,図234.革秀寺本堂
長勝寺
については、本堂も庫裏も、年代を示す調査結果は得られていない。
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