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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

奥羽鎮撫総督府については、さらにその後、参謀には薩摩藩士の大山格之助(おおやまかくのすけ)、長州藩士世良修蔵,尊皇攘夷派の精忠組に属しており、世良は、高杉晋作(たかすぎしんさく)率いる奇兵隊(きへいたい)に参加し、長州藩,三月に入って九条総督は、薩摩・長州・福岡の藩兵およそ五〇〇人を率いて京都を発し、大坂から海路奥州に向かい,早速、総督府は奥羽諸藩に会津征討を命じたが、仙台藩をはじめどの藩も動く様子はなかった。,その間、弘前藩が、戊辰戦争の勃発から奥羽列藩同盟結成に至る過程の中で、仙台藩や秋田藩などの周囲の動向にどのように / (一)東北諸藩と弘前藩
通史編3(近世2) (各藩使者の来弘)

各藩使者の来弘 明治元年一月二十四日、弘前藩では藩主諭告を出し、旧幕府側からの出兵催促についての対応,・方針を藩士たちに示した(『弘前藩記事』一)。,図46.弘前藩記事の藩主諭告 目録を見る 精細画像で見る  津軽弘前藩が武備充実と藩論統制に努,しかし、一方で、政府陣営の核となっている薩摩・長州藩らの姿勢を指弾する性格を内包させていた。,とはいえないのではないかという疑惑があること、慶喜は恭順の意を示しており、かつて御所へ向けて発砲した長州藩 / 各藩使者の来弘
通史編3(近世2) (大政奉還時の状況)

孤清(こせい)と名のり、翌三年の帰田法など藩の重要政務を担当した)と同役赤石礼次郎であろう。,出頭すると、武家伝奏(でんそう)の飛鳥井大納言と日野大納言が長州兵の入京可否について書面に意見をしたためて,これは幕府による長州戦争失敗後、長州藩主に官位復旧と同藩兵力の入京差し止めを解除するための措置であり、,事態は緊急の極みにあり、飛鳥井・日野両卿は弘前藩一藩の決議が遅れると全体が進まなくなるとして、怒気をあらわに,そこで西舘らは深夜までかかり、長州兵の入京を可とする答えを出している。  
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

神奈川で英国人を殺傷する(生麦事件) 文久3年 1863 3月4日 将軍家茂,京都に上洛 5月10日 長州藩,,関門海峡通過の米船に砲撃 8月18日 公武合体派クーデター,三条実美ら長州に走る(8月18日の政変),3月27日 藤田小四郎ら筑波山で挙兵(水戸天狗党の乱) 7月19日 禁門の変起こる 8月2日 第一次長州征伐,慶応元年 1865 1月2日 長州藩高杉晋作ら馬関を攻撃,占拠 慶応2年 1866 6月7日 第二次長州征伐開始,,大政奉還の建議 10月13日 薩摩藩に倒幕の密勅,長州藩主の官位復旧 10月14日 長州藩に倒幕の密勅
通史編3(近世2) (箱館の攻防)

から三手に分かれて進軍をはじめた政府陸軍は旧幕府軍の必死の防御に遭いながらも、山側を進んだ福山・岡山藩等,弘前藩からも大砲隊司令士神豊三郎(じんとよさぶろう)隊が臼砲(きゅうほう)一門をもって福山藩の応援に加,また、対馬官左衛門・喜多村彌平治(きたむらやへいじ)一中隊が上山村(現北海道函館市)へと分進して長州藩砲隊,中央から桔梗野(ききょうの)へ向かった長州・薩摩・松前・弘前藩等の諸隊は左右へ布陣し攻撃を開始したが、,さらに箱館方面へ探索の軍勢が出ると、弘前藩の旧陣屋から旧幕府軍の攻撃があり、弘前藩は長州藩の応援を得て
通史編3(近世2) (藩から県へ)

藩から県へ 明治四年(一八七一)七月十四日、廃藩置県(はいはんちけん)の詔勅が発布され、藩体制は名実,この当時、青森県域には江戸時代からの藩領を管轄する弘前・黒石・八戸藩と、盛岡藩の減封に伴って明治二年に,成立した七戸藩、同年会津藩の減転封により、二戸・三戸・北郡を領有した斗南(となみ)藩の五藩が存在した(,図79.弘前藩知事辞令  廃藩置県の断行は新政府内で極秘裏に検討され、万一の反対に備えて薩摩・長州,このため斗南藩は弘前藩に農具購入資金の救助を訴え、弘前藩は一〇〇〇両を拠出している(『弘前藩記事』明治四年二月二十九日条 / 藩から県へ
通史編3(近世2) (政府軍の苦戦)

政府軍の苦戦 七月六日より秋田城下から薩摩・長州・佐賀藩など官軍諸隊が、庄内方面へ向け進軍を開始した,そして、十一日には、最初の衝突があり、これに勝利した総督軍は、新庄藩領までを手中に収めたのであった。,しかし、新庄藩の離反を受けた庄内勢は、白川方面へ向けた酒井吉之丞・松平甚三郎の軍を反転させ、新庄攻撃に,し、矢島藩主生駒氏は秋田領へ逃げ延びた。,続いて象潟方面の総督軍陣地が相次いで攻め落とされ、八月一日には官軍諸藩は本荘藩まで退却した。
通史編3(近世2) (清水谷公考の退去)

そして、二十五日から二十六日にかけて、清水谷公考とともに箱館府兵五二人・松前藩兵一一五人・雇兵隊四〇人,・大野藩兵八〇人・福山藩兵四〇〇人の計六八七人と、さらに弘前藩兵や残余兵が蒸気船で青森に退避した(同前,青森から浪岡への転陣には、旧幕府軍の蝦夷地侵攻を許した責任をとっての謹慎の意味があった(『弘前藩記事』,さて、このころには政府援軍が到着しはじめるようになっており、十一月四日、まず秋田藩領船越村から長州藩兵四六
通史編3(近世2) (戦闘の開始)

これは、弘前藩が討庄応援を命じられたが、庄内藩がいよいよ官軍に反抗し、会津と行動をともにするようになっては,庄内藩征討のため、沢為量副総督を将とした総督軍は、参謀大山綱良(つなよし)以下薩摩藩兵一小隊および桂太郎,を隊長とする長州藩兵一中隊が四月十四日、仙台領岩沼から天童城下へ向かった。,庄内藩でも十九日に全藩動員令を出し、総督軍の進路と予想される最上川沿いと秋田方面に当たる北方海岸沿いを,が到着し、秋田藩の動きを統制していた。
通史編3(近世2) (庄内戦争の結末)

庄内戦争の結末 再び秋田藩の南境に目を転じると、新庄落城後、山道より秋田へ向けて進攻していた庄内藩は,同盟軍、総督軍の一進一退の攻防が続いたが、やがて総督軍に佐賀・長州・薩摩・平戸藩などから応援兵が続々と,総督軍の迅速な軍備や人員・物資の補給や活動によって、とうとう八月二十八日、角館を攻めた庄内藩は、西南諸藩,応援兵の参戦とともに、薩摩藩の軍艦春日丸が秋田藩の援護に導入されたことが大きかった。,既に九月十五日には仙台藩も降伏をしており、庄内藩としても孤立した中での戦争続行は不可能であった。
通史編3(近世2) (鳥羽・伏見の戦い)

三日、入京を目指して北上する幕府軍とそれを阻止する薩摩藩の軍勢との押し合いが続き、ついに強行前進を決めた,この日、鳥羽・伏見で薩摩・長州軍四〇〇〇人余りと衝突した旧幕府軍は、数では圧倒的な優位を誇っていたが、,火器で劣り、さらに大混乱を引き起こし、次々と諸藩が離反していく結果となり、敗北を喫することになる。
通史編3(近世2) (農兵の動員実態と要求)

農兵の動員実態と要求 このように、藩権力により強制的に組織された農兵ではあったが、戦線の拡大と長期滞陣,によって藩兵はしだいに不足し、特に明治元年十月の榎本艦隊による箱館奪取以降は農兵の必要も生じた。,時節柄、鰺ヶ沢等の藩の米蔵には年貢米が満杯になっており、これを奪取される心配は十分あった。,・中」『弘前藩記事』弘図八)。,よって弘前藩の農兵隊を、たとえば長州藩の奇兵隊と重ね合わせてイメージすることは誤りといえよう。
通史編3(近世2) (松前城の恢復)

十五日に渡海を命じられた人数は、弘前藩兵四〇〇人を含めて三七一八人にのぼっていた。  ,旧幕府軍は折戸(おりと)の台場で必死の防戦を行ったが、長州藩・徳山藩の働きが大きく、ついに松前城を恢復,げることとなった官軍兵士たちも疲労の極みに達し、また兵糧や武器の補充が緊急の課題となりつつあったことは、弘前藩士和田真吉
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

吉田松陰は、嘉永四年(一八五一)十二月、仕えていた長州藩の許しを得ないまま、遊学していた江戸をたって、,熊本藩士宮部鼎蔵(みやべていぞう)とともに東北地方を巡った。,松陰が養子となった吉田家は、長州藩における山鹿流の兵学師範の家柄であり、この旅の主目的も兵学的立場における,この日の内に弘前に入った松陰は、翌三月朔日、弘前藩士伊東祐之(いとうすけゆき)(梅軒(ばいけん))を元長町,弘化三年(一八四六)には長州萩で松陰と知り合っていた(家臣人名辞典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』一
通史編3(近世2) (政府軍の乙部上陸)

それによると、先鋒となるのは、長州藩三〇〇人、弘前藩三〇〇人、福山藩三〇〇人、松前藩四〇〇人、大野藩一,〇〇人、徳山藩一〇〇人の計一五〇〇人で、乙部村へ上陸し、松前口・唐沢部口・熊石辺りの探索という三手に分,これを受けて、弘前藩主津軽承昭(つぐあきら)は翌五日、松前へ渡海する藩兵へ激励書を送った(資料近世2No,ヤンシー号に乗り合わせていた弘前藩兵は、福山藩の次に蝦夷地へ降り立った。  ,政府軍の対応は素早く、上陸を終えた松前・大野藩兵などが直ちに布陣して反撃した。
通史編3(近世2) (宮古湾海戦)

この時、陸奥湾周辺へ詰めていた官軍諸藩の兵力は次のように把握されている(『弘前藩記事』二)。   ,長州藩兵 七七六人 岡山藩兵 五〇〇人   津藩兵 一八〇人 久留米藩兵 二五〇人   福山藩兵 六二一人,徳山藩兵 二五五人   大野藩兵 一六六人 松前藩兵 五五二人   弘前藩兵 二八八六人 黒石藩兵,さらに、三月、四月と薩摩・水戸・熊本藩等の兵が続々と送られ、その他軍夫などを合わせると、最終的には総勢一万二,明治元年十一月、松前藩攻撃の際に座礁させ、沈没した開陽の損失が大きな痛手となった旧幕府軍は海軍力の回復
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

軍事情勢の膠着 明治元年(一八六八)四月から七月上旬にかけては、藩論の統一問題をめぐって政治・軍事情勢,奥羽列藩同盟への参加の是非をめぐる藩内の対立についてはすでに前節で述べたが、五月十一日に秋田藩に身を寄,出陣したが、総督府付き参謀の長州藩士世良修蔵(せらしゅうぞう)が高圧的態度で仙台藩士に奥羽鎮撫を命じたため,その後、沢は仙台を脱出して勤皇色の強い東北諸藩を頼り転々としていたのである。,特に閏四月下旬に列藩同盟が形成されると、会津・庄内征討を命じられていた諸藩は続々と解兵を実施し、軍事行動
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

〇〇〇人以上の動員計画がなされ、七月に藩論が勤皇に統一されてからは、挙藩体制での鶴岡藩討伐が行われ、同藩,藩 名 藩兵人数 夫卒人数 計  1 鹿児島藩 263 263  2 山口(長州,)藩 694 694  3 水戸藩 226 226  4 津藩 165 165,福山(備後)藩 609 609  8 徳山藩 252 252  9 大野藩,162 162 10 福山(松前)藩 531 531 11 熊本藩 118 38 156 12 黒石藩
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

発し、藩主自筆書・家老口達をもって諸士に示した(資料近世2No.五一二・五一三)。,それが蝦夷地警備の関係から幕末期にはしだいに洋式化されてはきたが、長州藩の奇兵隊のように封建軍隊の枠を,両にのぼり、藩財政はこうした戦費負担により決定的な打撃を受けたのである。  ,彼らはいずれも修武堂において藩兵訓練に携わってきた番方上士であり、軍制改革といっても西南雄藩のように、,賢才の家臣を思い切って藩の枢要部に据えたものではなかった。
資料編3(近世編2) (【解説】)

その一方で、当初より勤皇色が強かった秋田藩と、反対に戊辰戦争は薩摩・長州藩の私怨から出たもので、朝敵とされた,会津・米沢藩らの寛典処分を主張する仙台藩や盛岡藩よりの使者が来弘し、弘前藩を自陣に引き入れようとした。,以後、七月の藩論統一まで弘前藩は奥羽列藩同盟への帰属をめぐる賛否、庄内藩征討応援命令への対応、奥羽鎮撫総督府,ここに至りようやく藩論は勤皇に確定し、以後堰を切ったように弘前藩は庄内藩討伐応援のため派兵をしていった,秋田藩は盛岡藩によって大館を陥落され、その落人が大挙弘前藩に逃げてきた。
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