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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) ((三)主要人物)

同十一年、九代藩主津軽寧親(やすちか)の御使者番格和紀伝学頭扱となり、門人養成に尽力し、石山雅朝(いしやままさとも,同三年藩命により平田銕胤(ひらたかねたね)の門に入り、広く歌人・国学者と交遊し、また門人も数百人に及んだ,寛政二年(一七九〇)、門人宮崎露牛・武田玉之らを同道して石黒宗石(いしぐろそうせき)の門に入り、正風俳諧,主人の玉之は、内海草坡の門人で、慶助も草坡について俳諧を学んだ。,門人一〇〇〇余人に及んだという。 図181.志ろう類り
通史編3(近世2) (信政)

信政 四代信政は、寛文元年(一六六一)、十五歳の時に山鹿素行の門人となった。,寛文十一年(一六七一)、信政は二十六歳の時神道家吉川惟足(よしかわこれたり)の門人になった。,保科正之・前田綱紀(つなのり)・稲葉正則(いなばまさのり)・堀田正俊(まさとし)など、諸大名の多くが門人,信政は子信寿・資徳のほか、希望する藩士にも学ぶことを許したため、岩田半次郎・桜庭浜之丞、後藤利卜が門人
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

門人三〇〇余人といわれた。,門人中、小倉藤左衛門(おぐらとうざえもん)・安藤七右衛門(あんどうしちえもん)・松野七右衛門(まつのしちえもん,門人二七〇〇人余にのぼったという。,元禄十五年(一七〇二)江戸で四代藩主信政に召し抱えられ、正徳二年(一七一二)に再び本名に改め、多くの門人
通史編5(近・現代2) (書の伝統)

に学んだ甥の小山内暉山(きざん)は、稽古館副司から明治になって師範学校書道教師になり、著書三十余冊、門人数百人,青森市合浦公園に友人・門人の建てた頌徳碑(しょうとくひ)がある。
通史編3(近世2) (長利仲聴)

長利は歌人や国学者と広く交わり、門人は数百人あったという。 図176.長利仲聴
通史編3(近世2) (信政の教養)

加えて素行の門人磯谷十助が延宝五年に藩士にとりたてられたのをはじめ、素行門人が少なからず藩に召し抱えられた,また、信政は寛文十一年(一六七一)に幕府の神道家吉川惟足(よしかわこれたり)(一六一六~一六九四)の門人
通史編3(近世2) ((一)概要)

信義は宮廷歌壇の中心人物中院通茂(なかのいんみちしげ)の門人であるが、医家の匹(疋)田甫庵(ひきたほあん,その後、化政期(一八〇四~三〇)の俳壇に重きをなしたのは内海草坡(うちみそうは)であるが、門人の鶴舎有節
通史編3(近世2) (神仏分離の準備)

藩は最初社家長を家柄によらず公正に選定するとしていたが、結果的には国学者平田篤胤(あつたね)の没後の門人,である小野と、小野の紹介で平田の門人となっていた長利が、これまでの経験と配下への影響力を買われて任命された
通史編3(近世2) (稽古館の儒学者たち)

伴才助(松軒と号した)は山崎蘭洲に師事し、江戸に上って服部南郭(なんかく)の門人安達文仲に学び、その後昌平黌,唐牛大六も山崎蘭洲の門人で、寛政三年(一七九一)に江戸に上り昌平坂学問所に学び、帰藩後、御用懸として寛政六年,葛西善太も山崎蘭洲の門人で、江戸に上って昌平坂学問所に学び、帰藩後学校小司となり、藩校の学風を古学から
通史編3(近世2) (斎藤規房)

若年より吉川従門の門人後藤善佑について、神道と和学を学んだ。
通史編2(近世1) (乳井貢と先行思想)

加えて素行の門人磯谷十助が延宝五年に本藩に取り立てられたのをはじめ、素行門人が少なからず藩に召し抱えられた
通史編3(近世2) (釈奠)

釈奠 稽古館では先聖先師(孔子とその門人)の霊を祀る釈奠(せきてん)(犠牲(いけにえ)を供えず蔬菜を
通史編3(近世2) (津軽国学社中)

植田平吉、竹田清次郎、笹木淡路、小野若狭、笹木健作、平尾魯僊(ろせん)といった人々が、平田篤胤没後の門人
通史編3(近世2) (山崎蘭洲)

、唐牛(かろうじ)大六満春、伴才助建尹(たけただ)、工藤民助懿文(いぶん)はいずれも彼の薫陶を受けた門人
通史編3(近世2) (草創期三代)

三代信義も書画に長じ、殊に歌道は優れ、堂上の歌人中院通茂の門人となり、「愚詠和歌集」を残している。
資料編3(近世編2) (二 思想)

、三谷大足、増田幸太郎、植田平吉、竹田清次郎、笹木淡路、小野若狭、笹木健作といった人々が平田篤胤没後門人,として展開していった一つの方向性を示す作品と言えよう(これらの作品の成立年代は、魯僊が正式に篤胤没後門人帳
通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

信政の後見を勤めた津軽信英は素行の門人になっており(入門時期不明)、やがて信政自身も思想的な支えをそこに,取り続け、延宝三年(一六七五)素行が赦免されると、親交はいよいよ深まるとともに、津軽家に素行の一族や門人
通史編2(近世1) ((二)藩士土着政策の展開)

八代藩主信明(のぶはる)が徂徠の門人に講義を受けていたことや、改革意見書を提出した毛内宜応が徂徠学に傾倒
通史編3(近世2) (キリシタン改め)

生死并引越者の書上帳」「馬数改書上ケ帳」(同前No.三九一・三九二)をみると、キリシタン改めの際、宗門人別
通史編3(近世2) (信明の学校構想)

戸沢半左衛門維顕とその子元吉国禎について学び、十五歳の折には荻生徂徠門下の宇佐美恵助(号は灊水(しんすい))とその門人本田章三,「孝公御行実」(弘前市立図書館蔵)によれば、信明自身、灊水の門人、本田章三に就学していた当時『政談』を
通史編5(近・現代2) (郁田流箏曲(いくたりゅうそうきょく))

医学の家柄である、古郡(ふるこおり)家のふぢ女が明治、大正期に多くの門人を輩出した。
通史編5(近・現代2) (錦風流尺八(きんぷうりゅうしゃくはち))

そこには門人や同好の人々五〇人の名を読むことができ、当時の隆盛を知る。
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

1706 宝永3 52 11月,門人後藤利朴と共に京都に行く(3年間)。
通史編5(近・現代2) (見直したい弘前市の記録)

、明治期の庭師で武学流の造園では第一人者といわれた高橋亭山が一五年間かけて造った庭を、昭和期に亭山の門人
資料編3(近世編2) (【解説】)

切支丹改証文」のほか「生死并引越者書上帳」と「馬数改書上ケ帳」が残っていることから、切支丹改めの際、宗門人別
通史編2(近世1) (文久の面改め)

一般的に津軽領には宗門人別帳があまり残存しておらず、寛政の調査の帳簿も四八箱・一三〇〇冊余に及んだというが
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