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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
関ヶ原
の戦いと津軽氏 この慶長五・六年の動乱に際して、津軽氏はどのような動きをとったのだろうか。,しかし、為信の
関ヶ原
参陣は、古くから疑念が抱かれていた問題であった。,の
関ヶ原
参陣を全面的には肯定しない形で記している。,図44.
関ヶ原
参陣を促す徳川秀忠御内書 津軽右京亮宛 また、「
関ヶ原
合戦図屏風」(大阪歴史博物館蔵,)に描かれた幟(のぼり)の図柄から、津軽氏が
関ヶ原
へ参陣したという見方がある。 /
関ヶ原
の戦いと津軽氏
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
関ヶ原
の戦いと奥羽の情勢 豊臣政権は、その天下統一が短期間になされたことにより、豊臣家内部の対立をはじめ,それが、慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉の死を契機に噴出し、慶長五年(一六〇〇)の
関ヶ原
の戦いは、その矛盾,
関ヶ原
の戦いは、慶長五年九月十五日に美濃国
関ヶ原
(現岐阜県不破郡
関ヶ原
町)で局地的に戦われた、いわゆる,
関ヶ原
での西軍の敗報が伝わると攻守は所を変え、上杉勢は最上領内から撤退を開始した。,上杉氏が何事もなく米沢に移ったことから、奥羽における
関ヶ原
の戦いに連動した慶長五・六年の動乱は一応終結 /
関ヶ原
の戦いと奥羽の情勢
通史編2(近世1)
([口絵])
口絵3 伝津軽為信下賜卍船印 口絵4 上野国勢多郡津軽領代官足立氏の墓 口絵5
関ケ
,
原
合戦図屏風 (右隻) 口絵5
関ケ原
合戦図屏風 (左隻) 口絵6 近衛信尹書状
通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
堀越城の限界性 慶長五年(一六〇〇)、
関ヶ原
の戦いの際に為信が遠く
関ヶ原
へ出陣していた時、尾崎喜蔵(,城の留守居(るすい)であった田村・土岐(とき)・浪岡は、この時、為信が
関ヶ原
で使用する武器・矢・弾薬等
通史編3(近世2)
((一)参勤交代)
同年制定の「武家諸法度」の中で、外様(とざま)大名(
関ヶ原
の戦後徳川氏に服属した大名)は毎年四月交代で
通史編3(近世2)
(本行寺)
慶長五年(一六〇〇)、為信が
関ヶ原
の戦いに出陣中、堀越城内の三ツ目内玄蕃等の反乱を日健が和睦させた功により
通史編2(近世1)
(福島正則の改易)
慶長五年(一六〇〇)の
関ヶ原
の戦いでは、秀吉恩顧の大名であるにもかかわらず、家康に属し石田三成攻撃を主張
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
為信は、
関ヶ原
の戦いで分権派の中心であった徳川方に参戦して
関ヶ原
まで兵を進めているが、秋田氏は長束正家,この
関ヶ原
の戦いでの北奥羽の諸大名の行動も、この時期の彼らの対応をみれば当然予測されることであった。,
関ヶ原
の戦いにおいて彼らの行動を決定的に規定したのも、この伏見における「日本之つき合」であったといえよう
通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
げされ琵琶湖を経て伏見へと廻漕されたが、木村重茲は若狭府中城主であり、杉板が集結する敦賀の城主は、後に
関ヶ
,
原
の戦いで石田三成側につく大谷吉継であった。
資料編1(古代・中世編)
((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)
しかも、この堀越城では、慶長五年(一六〇〇)、
関ヶ原
出陣の際の尾崎・板垣・三目内三将の反乱や、同七年の
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
初代為信の動向
関ヶ原
の戦い後、家康の覇権が成立するが、政治の中心地は依然伏見や大坂であった。,図56.津軽為信夫妻画像
関ヶ原
の戦い後の慶長六年から、為信・信建が亡くなる同十二年までの動きを,いずれにしても、
関ヶ原
の戦い以前から為信は津軽地方を治める領主として、領民が求める精神的支柱の重要性を
通史編3(近世2)
(為信)
慶長五年(一六〇〇)、為信が
関ヶ原
の戦に出陣中、板垣兵部らが堀越城で反乱を起こしたのを、日健が和睦をもちかけて
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
為信は慶長五年(一六〇〇)に
関ヶ原
の戦いに出陣したが、このころは南部氏との抗争も影をひそめ、津軽地方を
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」の編纂まで)
この書状は為信に
関ヶ原
参陣を促したものであるが、どういう経緯でこの書状が糸屋の手に入ったのかは不明である
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
その後、石川城は板垣兵部が城代のまま近世を迎えるが、慶長五年(一六〇〇)の
関ヶ原
の戦いに際して、兵部は
資料編3(近世編2)
(3 現存する天守・城門等の考察)
3 現存する天守・城門等の考察 四万五〇〇〇石で始まった弘前藩は、
関ヶ原
の戦いで東軍への加担により二
通史編2(近世1)
(信義の襲封)
信義の出生地上野国勢多郡大舘(正しくは上野国新田郡大舘)は、藩祖為信が
関ヶ原
の戦いでの戦功で加増された
資料編2(近世編1)
(【解説】)
徳川政権にあっては、慶長五年(一六〇〇)の
関ヶ原
の動乱以後、津軽氏による徳川政権や朝廷公家勢力との関係構築
通史編2(近世1)
(公家との関係)
津軽氏にとって、西洞院親子の役割は、政治の中心地であった上方(京・伏見)で、
関ヶ原
の戦い直後の流動的な
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
43頁 昭和60年 山形県刊 44 徳川秀忠御内書 津軽右京亮宛 慶長5年 弘前市立博物館蔵 45
関ヶ
,
原
合戦図屏風 大阪歴史博物館蔵 46 諸将旌旗図屏風 静岡市立芹沢銈介美術館蔵 47 弘前大学国史研究会
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長五年(一六〇〇)八月十九日、徳川秀忠、津軽為信へ書状を下し、
関ケ原
への出陣を催促する。
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