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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編2(近世編1) (第一節 殖産政策の展開)

第一節 殖産政策の展開 一 交通の整備  (一)交通  (二)関所 二 鉱山 三 漆仕立
通史編2(近世1) (大問屋制の導入)

これに伴い、大問屋には関所を出入りする荷の管理の役目も担わされた。,荷物は関所の役人が確認した後、扱いの問屋が「出入目録」を作り勤番目付へ提出し、勤番目付が印を押して大問屋,この目録は、さらに勘定奉行・勘定元方と回覧されたから、大問屋が関所と藩の幹部との間で、交易の確認をする
通史編3(近世2) (宗教と交通統制の低下)

街道の宿場や関所は諸藩や幕府の兵士・役人で混雑し、物資や伝馬(てんま)なども大量に領内を通過して蝦夷地,本来、関所ではそこを通過する旅人を詮議(せんぎ)し、行く先や宿泊地・滞在日数などを確認し、早継(はやつ,)ぎで次の関所に書類を送付しなければならなかった。,書類を受けた関所では本人であることを確認し、領外に送り出すのである。  ,津軽領最大の関所は羽州街道沿いの碇ヶ関(いかりがせき)(現南津軽郡碇ヶ関村)であったが、ここでは形式的
通史編3(近世2) (抜参り)

嘉永三年(一八五〇)には、関所・町・在・寺院に対し抜参りを厳重に取り締まる布令が出ているが、これは関所
通史編2(近世1) (流民の発生と施行小屋の設置)

「藤田権左衛門家記」(資料近世2No.五五)によると、碇ヶ関関所から三万人を越える飢民が通過し、逃散を,差し止める藩の指示も無力で、関所も解放され領外への移動は勝手次第という状態だった。,また、大間越の関所からも数千人が逃亡していった。,同書は「関所の外に出た段階で皆餓死してしまったという」と結んでいる。  
通史編3(近世2) (藤先寺)

中岳は為信の使者となって庄内(現山形県)の大山義信のもとに赴き、帰途、秋田盲ヶ鼻(めくらがはな)の関所
通史編2(近世1) (他領者の入領規制と流通統制)

その後、弘化元年(一八四四)十二月二十二日には惣問屋たちの要望により、旅人が入領した関所以外から出領する,してもらう、急ぎの旅人の場合、出印紙の発行を待つために一泊させるのも迷惑をかけるので、問屋側で申請して、関所,藩庁の回答は、基本的にはそれでは出印紙が名目のみになってしまうと、否定的であったが、青森・深浦など関所口,かんどう)から出国をする輩が出る可能性があるので、あらかじめ印紙を野内(のない)・大間越(おおまごし)の関所
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

この国吉館跡がこの地域の中心となり、その区域内の東西の端には関所(木戸)のような性格をもった城館として,そのようなことから考え、この二つの館跡が関所(木戸)のような役割を担っていたと思われる。
通史編5(近・現代2) (第一回小学校連合体育大会)

一、第一ラジオ体操・五年男七八〇人、二、第二ラジオ体操・五年女七〇〇人、三、関所ボール・六年男女三二〇,人、四、関所ボール・五年男女三二〇人、五、制定体操・六年男八〇〇人、六、ギャザリング・ビー・スコッチ・
通史編3(近世2) (飢餓の状況)

(のない)(現青森市野内)・碇ヶ関(現南津軽郡碇ヶ関村)・大間越(おおまごし)(現西津軽郡岩崎村)の関所
通史編3(近世2) (伊勢参り)

宝永二年(一七〇五)には伊勢参宮の女人の関所通行が停止され、女人の伊勢参りは禁止となった。,(曹洞宗)の寺請証文から、近くの曹洞宗鎮徳寺(現福井市)に頼んで土葬にし、女房は福井藩から秋田までの関所手形
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

八月になると、秋田領へ逃散する飢民が発生し、四〇〇〇人を越える飢民が碇ヶ関の関所を越えていった。
通史編2(近世1) (安政期の蝦夷地警備と交通問題)

蝦夷地警備のため、津軽領では幕府役人や東北諸藩の警備兵が大挙して通行し、街道筋の関所や宿駅の疲弊は未曾有,さらに、交通量の激増は碇ヶ関(いかりがせき)・大間越(おおまごし)などの関所の機能を麻痺させていった。,碇ヶ関は羽州街道最大の関所であったが、山中にあるため、早瀬野口など他の間道から通行手形を持たない旅人の,では旅人に対して下之切(しものきり)街道や木造方面への枝道を通行しないように指導したが、前述したような関所機能
通史編2(近世1) (近世大名と大名課役)

(ぐぶ)、改易大名の領地受け取り・在番、江戸城の門番、江戸市中の火消役、他領検地、普請役、全国各地の関所番
通史編3(近世2) (子供を池に投げ殺害)

「文化律」の項目「御関所忍通候者御仕置」の中の規定では、他領へ逃亡した者は鞭刑一八鞭と所払(ところばらい
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

弘前藩兵は残らず帰藩し、藩内の関所や海岸の警備を仰せ付けられており、藩内が殊の外騒々しくなっている」と
通史編3(近世2) (キリシタン改め)

この年、野内・大間越・碇ヶ関の三関所へもキリシタン改めを命じた。  
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

こうした立地から考えれば、乳井茶臼館が街道を押さえる「関所」としての性格を持っていたことは確実と言ってよい,したがって、もし曲輪Ⅱが存在したとしても、それは乳井茶臼館の「関所」としての機能を強化するために、合戦
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

かう旧目屋街道は、この高館城跡の直下を通っていて、高野館跡(城館というより、切通しを設けて街道を押えた関所
資料編1(古代・中世編) (二 各城館の位置)

したがって、この遺構が城館跡であるのか、街道の要所を押さえる関所のような施設なのかについては、結論が出
資料編2(近世編1) (【解説】)

第一節「殖産政策の展開」では、領内産業振興の基本である交通の整備をとりあげ、領内交通体系の確立と関所の
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

図77 三ッ目内城跡の見取図  唐牛城跡については、地図などから見て街道を押さえる関所のような性格
通史編3(近世2) (出開帳)

一行は野内の関所から領内へ入り、正覚寺(現青森市)で開帳した。
通史編4(近・現代1) (運輸事業)

しては、明治政府は明治元年五月に商工業の自由な発達を図るため、商工業の株仲間制を廃止し、さらに同月には関所
資料編2(近世編1) (新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次)

(一)交通  ………………………………………………………………………………  九〇五     (二)関所
資料編3(近世編2) (【解説】)

郡中の問屋を彼らの指揮下に置き、領内の流通を取り仕切らせるもので、諸湊・三関所の出入り荷物についても把握
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