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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (関東・奥惣無事令)

関東・奥惣無事令 秀吉による惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣政権による職権的な広域平和令であり、中世社会,その意味で、関東惣無事令は、北条氏のみならず、北関東の諸大名をも対象とするものであった。,ところで家康は、関東惣無事令が発令される以前の天正十二年(一五八四)に、すでに関東の紛争に介入し調停を,すなわち、関東「惣無事」令は、秀吉による関東「惣無事」政策を、家康に委任することにほかならなかったのである,ところが、「関東惣無事之儀、今度家康ニ被仰付候之条」という、関東での惣無事政策が、家康が秀吉に臣従した / 関東・奥惣無事令
通史編2(近世1) (秀吉による朝鮮出兵の背景)

(しらかわよしちか)に宛てた書状で、九州平定により中国の平定がすでに目前であると述べ、さらに秀吉が「関東,(かんとう)・奥両国惣無事令(おくりょうごくそうぶじれい)」を出したため、その命に服すよう伝えた。,秀吉は、惣無事令により奥羽の地に至るまで天下統一を実現させ、さらに中国侵略のために朝鮮と琉球をその先導役,惣無事令によって一切の私戦がなくなり、すべての兵が公権力(公儀)の軍隊に編成された後に大陸侵略が実現できるのであり,惣無事令と大陸侵略は、秀吉が関白に就任した直後からともに切り離すことができない豊臣政権の最重要政策であり
通史編2(近世1) (秀吉の東国への停戦令)

、佐竹氏など北関東の大名と関係が深かった)・下野塩谷(しもつけしおのや)氏・常陸佐竹(ひたちさたけ)氏,など、北関東の諸大名に対して朱印状を発給した。,家康成敗を念頭に置いたものであったが、のち秀吉の妹旭姫の家康への輿(こし)入れにより回避される)、③関東,現在、このときに奥羽の諸大名に発給された秀吉の「御書」は確認されてはいないが、北関東の諸大名に朱印状を,「東国「惣無事」令の基礎過程―関連史料の再検討を中心として―」永原慶二編『大名領国を歩く』一九九三年  / 秀吉の東国への停戦令
通史編2(近世1) (津軽氏の鷹保護)

氏郷は、奥羽地方の大名たちに関東・奥惣無事令の執行者として臨んでいたことを想起すれば、太閤鷹の保護と献上
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

この背景には、秀吉の惣無事令発令以後、全国統一に至るまでの間にみられた対立が尾を引いていたともいう。,これらの各氏は惣無事令が発せられた後、秀吉から自らに有利な裁定を得るためにそれぞれ豊臣政権内部のつてを,そして伊達政宗・佐竹義宣・最上義光・南部利直ら東北・関東の大名が国元に戻った後(「政宗君治家記録引証記,奥羽にあっても、七月七日の家康の指令下達があった一〇日後、前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

であるかをまざまざとみせつけられたのであり、「日本ニ少之けんくわ(喧嘩)」もあってはならないと伝え、秀吉の惣無事令,為信も信直との和睦を画策し、政権下で重きをなし、惣無事令発令以来奥羽の仕置の中心にあった家康に斡旋を依頼,しかし、同じ奥羽の大名である為信は、関東・奥羽の政策に重きをなす家康・利家・長吉らの分権派に接近するしかない,さきに述べたように、秀吉の大陸侵略は、惣無事令により奥羽・日の本までをその掌中に収め、すべての大名を公儀
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

独立大名として公認する一方で、その津軽氏を公権力(公儀(こうぎ))である豊臣軍の一部隊として組み入れ、惣無事令,しかし、政宗のほか上杉氏・佐竹氏・宇都宮氏など北国・北関東の大名衆、そして秋田氏・小野寺氏・最上氏・由利衆,秀吉の真のねらいは単に一揆鎮圧にあったのではなく、惣無事令によってその手中に収めた軍事動員権が実際に実現可能
通史編2(近世1) (鷹献上による豊臣政権との折衝)

に反旗を翻し、天正十七年八月の段階で、豊臣政権から「叛逆之族」として認定されており(同前No.二)、関東,・奥惣無事令に抵触した人物として把握されていた。,同年の家康の関東移封に伴い、信雄も家康の旧領に移封を命じられたが、拒否した。
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

家康は、天正十五年以来、関東・奥羽の惣無事令の中心に位置づけられ、九戸一揆鎮圧直後のこの時期においてもいまだ,関東・奥羽の大名に対する指揮権を保持し、彼らを率いて参陣していたのである。,関東・奥羽の大名衆は、翌文禄二年三月には渡海が命じられる予定であり、南部信直はそのため正月から渡海準備,秀吉は、文禄元年三月十三日の朱印状によって浅野長吉らの奉行や大名に「関東・出羽・奥州・日の本迄」の大名衆
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

……………………  1 第一節 大浦氏の統一政権への接触 …………………………………  2   一 関東,・奥惣無事令と北奥大名の動向 ………………………  2   二 異民族との接触 ……………………………
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天正十年(一五八二)六月二十九日、蠣崎季広、下国安東愛季よりの軍役令に応じ、子息慶広を庄内大宝寺勢との,●天正十四年(一五八六)十二月、関白豊臣秀吉、「関東・奥両国惣無事之儀」を命じ、違反者は成敗すべきことを,令する。,●天正十八年(一五九〇)五月一日、小田原在陣中の豊臣秀吉、大政所に手紙を送り、関東奥羽仕置のことを述べる
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……………… 吾妻鏡・関東御教書 152 ●延応元年(一二三九)三月二十八日、曾我惟重、平賀郡大平賀村,………………………… 南部家文書 168 ●正和五年(一三一六)三月、関東御免津軽船、難破について訴訟,…………………………… 廻船式目 226 ●応永元年(一三九四)ころ、関東諸国・北海夷狄動乱。,… 南部根元記・奥羽永慶軍記・南部系図 235 ●応永二十五年(一四一八)八月十日、「関東大名南部(南部守行,…………………………… 奥瀬文書 340 ●天正十四年(一五八六)十二月、関白豊臣秀吉、「関東・奥両国惣無事之儀
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