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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (一 伏見杉板の賦課)

一 伏見杉板の賦課 天正十九年(一五九一)九月の九戸一揆鎮圧から間もない十二月、豊臣秀吉は関白(かんぱく,秀次への関白職譲位は、この年の八月五日、愛児鶴松がわずか三歳で早世したことがその要因と考えられている。,秀吉は、翌文禄元年(一五九二)早々に関白の政庁としての聚楽第(じゅらくだい)を秀次に譲り渡し、自らの隠居
通史編2(近世1) (伏見指月城の普請)

伏見城は、これ以後関白秀次の居城である聚楽第の規模をはるかに上回る城として規模が拡大されていった。,いしだみつなり)・増田長盛(ましたながもり)らから謀反(むほん)の疑いについて詰問を受けたうえ、八日に関白職,その後、十五日、秀次は高野山において切腹して果て、関白秀次の居城聚楽第はその年の八月中にあとかたもなく,豊臣政権内の分権派である徳川家康・前田利家をはじめ東国の大名たちと人的な関係が深かったことや、秀吉が関白
通史編2(近世1) (三 鷹献上と鷹保護)

徳川家康の家臣松平家忠はその日記に、「関白さま御鷹すきにならせられ候て、此方より御たかまいり候」(「家忠日記,天正十六年三月晦日条)と記録しており、徳川氏も秀吉の鷹好きにこと寄せて、豊臣政権への友好の証(あかし)として関白秀吉
通史編2(近世1) (秀吉による朝鮮出兵の背景)

秀吉による朝鮮出兵の背景 秀吉は、すでに関白就任直後の天正十三年(一五八五)九月に、日本はいうまでもなく,惣無事令と大陸侵略は、秀吉が関白に就任した直後からともに切り離すことができない豊臣政権の最重要政策であり
通史編1(古代・中世) (後三条天皇の登場)

の登場 前九年合戦が終了してから六年後の治暦四年(一〇六八)、藤原道長の外孫であり、道長の子頼通を関白
通史編3(近世2) (草創期三代)

草創期三代 藩祖津軽為信は十代のころ、近衛尚通(ひさみち)(関白、名は前久(さきひさ)、龍山と号す)
通史編2(近世1) (鷹献上による豊臣政権との折衝)

伊達政宗によれば、徳永寿昌は豊臣秀次に仕える「出頭第一」の人であり、関白秀吉へも直接ものごとを言上できる,なお秀吉は、天正十九年(一五九一)十二月、甥の豊臣秀次へ関白職を譲るに際して、同月二十日、四ヵ条の誓書
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

その後、文久二年(一八六二)四月に参朝を許され、関白内覧に再任されるが、翌三年正月には尊皇攘夷派に排斥,されて関白辞職に追い込まれ、警備兵が上洛した時点では公私ともに低迷し、身辺の危機にもさらされていたのである
通史編1(古代・中世) (異類の来襲)

える必要がある。  出羽からの反乱についての第一報が届くと、時の最高権力者であった太政大臣藤原忠平(関白基経
通史編3(近世2) (幕末期近衛家との関係)

)で、鎌倉時代に近衛・鷹司(たかつかさ)・一条・二条・九条家の五摂家(ごせっけ)に分かれ、歴代の摂政関白
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●永正十六年(一五一九)四月七日、本満寺僧某、蝦夷島へ渡り、土産として昆布・夷筵を前関白近衛尚通に進上,●天正十四年(一五八六)十二月、関白豊臣秀吉、「関東・奥両国惣無事之儀」を命じ、違反者は成敗すべきことを,●天正十五年(一五八七)六月二十九日、前田利家、血判誓紙をしたため、南部信直を関白秀吉に取成すことを約束,●天正十五年(一五八七)八月二十二日、前田利家、関白秀吉への取成しに成功し、南部氏が豊臣大名として認定
通史編1(古代・中世) (平泉藤原氏)

毛越寺本尊の薬師如来があまりに見事なもので、鳥羽上皇が京から持ち出すことを禁じたとき、上皇を説得したのは関白藤原忠通
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

…………… 御堂関白記・本朝世紀 100 ●長保元年(九九九)七月、出羽守藤原義理の貢上馬。,………………………… 御堂関白記 101 ●寛弘元年(一〇〇四)十二月、陸奥交易御馬御覧。,………………………… 御堂関白記 102 ●寛弘三年(一〇〇六)三月九日、平八生、押領使。,………………………… 御堂関白記 105 ●寛仁元年(一〇一七)十二月三日、陸奥交易御馬来る。,………… 慈眼院関白白馬節会次第 107 ●永承四年(一〇四九)十二月八日、陸奥交易御馬。
資料編2(近世編1) (【解説】)

りしてからは、朱印状ではなく判物が下付された)を、また陽明文庫所蔵の津軽家の家譜家系、四代藩主信政と関白近衛基煕
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

これに対して近衛家の当主で前関白近衛信尋は、津軽家の系図が近衛前久の筆によること、そして津軽家の祖大浦政信
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●文禄元年(一五九二)正月、関白豊臣秀次、条書を下し、唐入りにつき大名の名護屋参陣を命じる。,●文禄二年(一五九三)五月二十五日、関白豊臣秀次、津軽為信へ朱印状を下し、名護屋在陣の労をねぎらう。,信建、前関白近衛前久にも、進物を贈る。,●慶長七年ヵ(一六〇二)九月七日、津軽信建、関白近衛信尋へ祗候の希望を、参議西洞院時慶へ伝える。,ついで、時慶、前関白近衛前久の津軽への返信を遣わす。
通史編2(近世1) (信義の襲封)

「寛永諸家系図伝」の編纂に当たって幕府から出された近衛家と津軽家の関係に対する疑惑を、前関白近衛信尋(
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦の実相)

正月二十三日、頼俊自身が、かつてのその合戦での功績を強調して新たに讃岐守の欠員に任官されることを望んで時の関白藤原師実
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

目的はいうまでもなく中国征服であるが、秀吉はその途中にある朝鮮は対馬の属国と考えており、当然朝鮮は関白
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

東北大学附属図書館蔵秋田家文書能代市史編さん室写真提供 38 大阪城天守閣蔵 39 伏見桃山御殿太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣朝臣秀吉公御城並大小名御屋舗之図
資料編1(古代・中世編) (出典・典拠一覧(第一章・第二章))

………………………………………………………………………………………………… 北海道立文書館本 慈眼院関白白馬節会次第,………………………………………………………………… 広島市立中央図書館浅野文庫本(写真版) み 御堂関白記
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