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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(防御性集落の消滅)
防御性集落
の消滅 こうして中央からの力が一気に本州北端まで及んだ結果、
防御性集落
もこの地から消滅していくことになる,もっとも福島城は構造的には
防御性集落
とは明らかに違う。,たとえば土塁と濠の配置が
防御性集落
とは逆で、土塁の外側に濠がある。,あるいはその整然とした中心部の方形の区画は、
防御性集落
には例をみない。,技術的にも設計思想的にも
防御性集落
とはまったく系譜を異にするものであるといえる。 /
防御性集落
の消滅
通史編1(古代・中世)
(防御性集落登場の背景)
防御性集落
登場の背景 中央の記録に東北地方での蝦夷の反乱がみえなくなった、一見平和なこの時代は、しかしそれとはうらはらに,集落を環壕(かんごう)や土塁(どるい)で囲むことを最大の特徴とする、日常的な戦争の存在が前提となる、
防御性集落
,こうした環壕集落を「
防御性集落
」と呼ぶことには、考古学の立場からの反論もあるが(詳しくは本章第四節参照,
防御性集落
には、いろんな類型があるとはいうものの、いずれも日常的な敵の存在を予測させるもので、これまで,こうした
防御性集落
の登場の背景には何かあったのであろうか。 /
防御性集落
登場の背景
資料編1(考古編)
(〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)
防御性集落
〃 10C後~11C 3 中崎館遺跡 〃 中崎字川原田 集落?,〃 11C 4 荼毘館遺跡 〃 中別所
防御性集落
〃 10C後~11C 5 小友遺跡 〃,) 6 石神神社遺跡 岩木町百沢字東岩木山 集落 〃 10C後 7 古館遺跡 大鰐町蔵館字古館
防御性集落
,〃 11C 8 大光寺新城遺跡 平賀町大光寺字三村井
防御性集落
?,〃 21 蓬田大館遺跡 〃 蓬田字宮本
防御性集落
〃 10C後~11C 籾圧痕の土製支脚
資料編1(考古編)
((3)10世紀後半~11世紀)
平野部との比高差数十mという高い位置の丘陵先端部に集落を構え、それを保塞する空堀や柵列などの施設を持った
防御性集落
,砂沢平遺跡(大鰐町)・中里城跡(中里町)などに見られるような、集落全体を諸施設で同時に保塞する「津軽型
防御性集落
,だけを空堀や土塁で囲み、その後背地の平場に十軒~数十軒の竪穴住居を配置する「上北型
防御性集落
」がある。,この時期には、津軽型あるいは上北型の
防御性集落
のほかに、津軽平野の徴高地上に進出した石上神社遺跡(木造町,) 図15 津軽型
防御性集落
(11世紀,大鰐町砂沢平遺跡) 砂沢平遺跡地形図
通史編1(古代・中世)
(特殊な行政区画)
さてこうした建郡を契機に、北奥地域の緊張した社会情勢を示すといわれている
防御性集落
がこのころ姿を消している,建郡によって中央の政治力が北奥に及んだことに伴って社会が安定し、高地に堀をめぐらした
防御性集落
の必要性
通史編1(古代・中世)
(環壕集落の構造と年代)
これは一般的には「
防御性集落
」と呼ばれることが多いが、時代背景から考えても、具体的な防御あるいは戦闘の,対象を明確にしえないこの種の施設に対して、機能が明確に限定されてしまう「
防御性集落
」という名称は、考古学的,いわゆる
防御性集落
と呼ばれるもののすべてが、かつて北奥の地に社会的緊張関係があったことを物語っているわけではないのである
資料編1(考古編)
(3.石川長者森遺跡)
世紀後半~9世紀前半)の終末期古墳群の可能性の高い遺構群、平安時代後半期(10世紀中葉~11世紀前葉)の
防御性集落
,〔
防御性集落
〕 南東から北西方向に伸びる長さ約240m、幅50~130mの独立丘陵は、10世紀後半~11,世紀において、集落全体を空堀で保塞した
防御性集落
として使用されている。
資料編1(考古編)
((2)太平洋戦争後から現代まで)
のもので、西日本の弥生時代の環濠集落のように「外敵に対する備え」としてとらえ、今日の東北地方北部の「
防御性集落
,明前遺跡では古代の
防御性集落
の構造面で、また、十三中島遺跡では奈良時代の土師器が発見され、後の土師器編年,その間、大館森山製鉄遺跡・大平野遺跡・若山遺跡の古代の各製鉄関連遺跡(製鉄炉群)や、大館森山遺跡などの
防御性集落
,なお、古代の
防御性集落
の調査では、早稲田大学による蓬田大館遺跡(昭和59年・1984)*257、八戸市風張
通史編1(古代・中世)
(延久蝦夷合戦と津軽)
これらのことから明らかなように、延久蝦夷合戦以後も一二世紀初めまでの北奥地域は、
防御性集落
の存在が物語
資料編1(考古編)
(-津軽五所川原古窯跡群で生産された須恵器の編年と年代観-)
終末期では、古館遺跡・砂沢平遺跡・蓬田大館遺跡等の
防御性集落
に特徴的に現れる把手付土器などに共伴するが
資料編1(考古編)
((3)10世紀後半~11世紀)
「
防御性集落
」の出現であり、これには集落全体を諸施設で同時に保塞するもの(津軽型高地性防御集落-古館・
資料編1(考古編)
(7.小友遺跡)
この時期、津軽地方を主体にして発達した
防御性集落
の一つであろう。
資料編1(考古編)
(5.荼毘館遺跡)
10世紀後半~11世紀代では
防御性集落
として、また、11世紀末~12世紀前葉期では地方豪族の居館跡としての
通史編1(古代・中世)
(北奥における建郡)
ただ前節で触れたように、「
防御性集落
」が延久蝦夷合戦以後も消滅することなく、津軽地方では一二世紀初めまで
資料編1(考古編)
(資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)
世紀前半期の集落跡(青森市三内遺跡) 図13 10世紀の集落跡(大鰐町大平遺跡) 図14 津軽型
防御性集落
,(11世紀,碇ヶ関村古館遺跡) 図15 津軽型
防御性集落
(11世紀,大鰐町砂沢平遺跡) 図16 7
通史編1(古代・中世)
(延久蝦夷合戦の実相)
の高屋敷館遺跡の発掘調査などによって明らかにされたように、北緯四〇度以北の北奥羽の地に広がっていた「
防御性集落
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