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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(開国と箱館警備)
上杉斉憲(米沢藩) 松前崇広(松前藩) 援兵担当大名 津軽順承(弘前藩) 南部利剛(盛岡藩) 元
陣屋
,は、元
陣屋
が箱館千代ヶ台(現函館市千代台(ちよがだい))、出張
陣屋
を西蝦夷地スッツ(現北海道寿都郡寿都町,千代ヶ台の元
陣屋
は、この年十月に落成した。,現在、
陣屋
のあった場所は千代台公園となっている。,表65 蝦夷地警衛持ち場割り当て(安政2年) 警衛担当区域 元
陣屋
出張
陣屋
仙台藩 東蝦夷地シラヲイ
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
為信の
陣屋
は、名護屋城から南西に延びる丘陵上の平坦部に築かれている。,この同じ丘陵上、為信の
陣屋
から約六〇〇メートル南西へ下った所に南部信直の
陣屋
、同じく南東へ約八〇〇メートル,「名護屋の大名
陣屋
配置図」によると、為信の
陣屋
は、名護屋城のすぐ隣(弾正丸の隣)に位置している(現在、,この
陣屋
跡はネギ畑となっている)。,図19からもわかるとおり、信直や為信の
陣屋
の周辺は、ほとんどすべて西国大名の
陣屋
によって占められていた
通史編2(近世1)
(「分領」体制下の警衛と政策の実態)
」体制下の警衛と政策の実態 この時期の津軽弘前藩の蝦夷地警衛は、安政期の警衛同様、箱館千代ヶ台に元
陣屋
,(もとじんや)、スッツに出張
陣屋
が置かれ、そこに勤番人数が派遣される体制がとられた。
通史編2(近世1)
(幕末期の海防体制)
弘化四年・嘉永元年と相次いだ異国人上陸事件を契機として、藩では幕府に対し、平舘村に
陣屋
(じんや)と台場一,五月三日に海防掛老中牧野忠雅に提出された藩主順承名の願書(嘉永二年閏四月十二日付)によれば、平舘に置かれる
陣屋
,は「仮
陣屋
」で、毎年三月中から九月中まで人数を備え、異国船の来航の様子をみて
陣屋
の取り払いや場所替えなどを,さらに、七月十日に再び牧野へ差し出された藩主順承名の届書(六月二十二日付)では、平舘
陣屋
には年々一〇〇
通史編2(近世1)
([口絵])
津軽寧親坐像 口絵12 弘前城天守 口絵13 斜里岳 口絵14 津軽弘前藩シャリ
陣屋
跡,口絵15 北蝦夷地
陣屋
着之図(「忍ぶ草」より) 口絵16 川原岱村古風之図
通史編2(近世1)
(黒石津軽家の大名昇格)
図164.黒石
陣屋
図 文化七年正月、親足は江戸城において、将軍家斉から盃を賜り、時服を拝領。,五月、大名として初の黒石入りをし、蝦夷館(
陣屋
構内)に茶屋を取り建てた。
通史編2(近世1)
(安政期の蝦夷地警備と交通問題)
津軽弘前藩は箱館に蝦夷地警備の本拠地ともいうべき千代ヶ台(ちよがだい)
陣屋
と、西蝦夷地スッツ(寿都(すっつ,)、現北海道寿都町)に
陣屋
を建設し、両所に合計三〇〇人の兵員を常駐させねばならなかった。,当然、これらの
陣屋
建設や藩兵配置には膨大な費用がかかったので、幕府は警備負担の見返りとして警備地に隣接,小泊(こどまり)・袰月(ほろづき)の台場の他にも平舘(たいらだて)(現東津軽郡平舘村)に西洋流の台場と
陣屋
,を、藤島(ふじしま)(現同郡三厩村)にも台場と
陣屋
を築造した。
通史編3(近世2)
(一一代順承の治世)
する一方であり、特に安政二年には箱館千代ヶ岱(ちよがたい)と西蝦夷地スッツ(現北海道寿都郡寿都町)に
陣屋
,両
陣屋
には合計三〇〇人の藩兵が派遣され、その人員を確保するために、家中の御持鑓(おもちやり)・長柄(ながえ,また、領内沿岸の
陣屋
も新設されたり、警備人数や武器が配置されたりと、藩政の遂行課題は北方警備一色に塗りつぶされていった
通史編2(近世1)
(旅行者のみた領内海防)
村垣はこの日油川・奥内(おくない)・蟹田を通り平舘に宿泊、翌二十二日、平舘を出立して同所の
陣屋
と台場の,なくされたが、その間、四月二十六日には竜飛(たっぴ)岬と藤代(藤嶋ヵ)の台場を、そして五月二日には三厩
陣屋
,一方、堀利煕とともに赴いた三厩
陣屋
では、
陣屋
の坂の下に使番、門外には物頭が、さらに、玄関脇には侍二〇人
資料編3(近世編2)
([口絵])
本文史料二四七号) 忍ぶ草 (本文史料一六一・一六二号) 弘城出立之図 北蝦夷地
陣屋
着之図
通史編2(近世1)
(「分領」と津軽弘前藩)
津軽弘前藩と盛岡藩に対しては、警衛の持ち場は従来どおりとし、さらに
陣屋
のある場所において、それ相応の「,について、四藩に対しては、蝦夷地の一部を「領分」として与えると述べているのに対して、弘前・盛岡両藩には
陣屋
,それにより、津軽家は、
陣屋
附きの「地所」として、従来警備してきた蝦夷地西海岸のスッツ領からセタナイ(現北海道瀬棚郡瀬棚町
通史編2(近世1)
(海防報告書にみる天保期の海防体制)
奥内村 1 油川浦番所 1 1 3 1 青森出張
陣屋
,さらに青森
陣屋
には、海防の指揮官となる物(者)頭が置かれるとともに、兵器装備も他の各港よりも多く備えられていた,平舘浦番所 5 蟹 田 10 蟹田台場 1 3 油川浦番所 5 青森出張
陣屋
通史編3(近世2)
(箱館の攻防)
さらに箱館方面へ探索の軍勢が出ると、弘前藩の旧
陣屋
から旧幕府軍の攻撃があり、弘前藩は長州藩の応援を得て
通史編2(近世1)
(負担の増大による民衆の困窮)
このほか、沿岸警備においても、台場の築造や
陣屋
建設に伴う労力負担や
陣屋
詰めの藩士たちへの賄いの提供が、
通史編3(近世2)
(捕虜となった庶民)
そこで庄内兵も彼を放置し、四日間
陣屋
の前に縛られて置かれた。
通史編2(近世1)
(対外交易の実態)
同年二月には、又三郎は箱館の図を入手しており、弘前藩の千代ヶ岱(ちよがたい)
陣屋
や湾内の異国船も描いている
資料編3(近世編2)
(【解説】)
なお、この期の西蝦夷地警備の拠点であり、北蝦夷地への渡海口でもあった弘前藩宗谷
陣屋
については、瀧本壽史,「弘前藩宗谷
陣屋
をめぐって」(『年報市史ひろさき3』)を参照されたい。 ,弘前藩では寿都から瀬棚までを領地として与えられ、寿都に
陣屋
(通称「津軽
陣屋
」)を建設したが、他藩同様、,なお、寿都の
陣屋
については『寿都町文化財調査報告書』Ⅱ(寿都町教育委員会 昭和五十五年)が刊行されている
通史編2(近世1)
(東蝦夷地直轄下の勤番体制)
これにより、両藩はそれまでの箱館勤番を免除され、ともに重役を二、三人、足軽を五〇〇人ずつ派遣し、元
陣屋
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
その一方で、滝屋はスッツの津軽弘前藩出張
陣屋
の入用品の一部を移送している。
通史編3(近世2)
(松前方面の攻防と青森)
さらに、回天は平舘(たいらだて)(現東津軽郡平舘村)にも停泊したが、同日平舘
陣屋
で旧幕府側の浪士代表四人
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
しかし、為信も信直も、すでに名護屋在陣で極めて近距離の場所に
陣屋
を構えて「少之けんくわ(けんか)」も許
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
、八戸直栄へ書状を遣わし、名護屋の陣にて津軽為信が前田利家の家臣奥村主計に叱責され、浅野長吉、利家の
陣屋
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