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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (陸奥国と出羽国)

陸奥国と出羽国 天武・持統朝の準備段階を経て、大宝(だいほう)元年(七〇一)に施行された大宝律令(りつりょう,太平洋側については、大化改新後の孝徳朝には陸奥国が成立していたといわれている。,仙台市の郡山(こおりやま)遺跡が、当時の陸奥国府所在地であったらしい。,やがて神亀(じんき)元年(七二四)に多賀城(宮城県多賀城市・写真39)が創建されると、陸奥国府はそこに,同時に陸奥側でも陸奥鎮東(ちんとう)将軍に巨勢麻呂(こせのまろ)が任命されている)。 / 陸奥国と出羽国
通史編4(近・現代1) (陸奥立憲帝政党の結成)

陸奥立憲帝政党の結成 明治十六年(一八八三)一月の『東京日日新聞』は弘前の反自由民権グループの動きと,きげき)論者の為に我国体を過られん事を憂へ、慷慨忠憤の士を団結し大に漸進の主義を拡張せんとて、同地に於て陸奥帝政党,陸奥立憲帝政党盟約  我陸奥立憲帝政党ハ我文武叡哲ナル皇帝陛下ノ衆庶ニ諭(さと)サセ給ヒシ大御詔ヲ奉戴,分限資格国会議員陸海軍人司法官ノ権限ハ総テ憲法ノ制ヲ遵法スベキ事  一、理財ハ交換紙幣ノ主義ヲ持スル事  この弘前の陸奥立憲帝政党 / 陸奥立憲帝政党の結成
通史編1(古代・中世) (陸奥・出羽の在庁官人たち)

陸奥・出羽の在庁官人たち 九世紀まで、北の世界は、ついに律令国家体制には組み込まれなかったのであるが,現地には下向しない「遥任(ようにん)」国司に代わって、在地で実権を握った人々を連想するかもしれないが、陸奥,陸奥側では胆沢城(田村麻呂の時代に鎮守府が多賀城から移された)の鎮守府将軍が、出羽側では秋田城の出羽城介 / 陸奥・出羽の在庁官人たち
通史編2(近世1) (二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう))

二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう) 藩政時代の津軽領内の検地帳。 / 二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう)
資料編1(古代・中世編) ([十一世紀])

陸奥国の北を蛮夷という。,●寛弘五年(一〇〇八)十二月四日、陸奥国交易御馬御覧。,また三日、陸奥守藤原貞仲、藤原道長に貢馬。,十二月、征夷続行のため頼義、陸奥守再任。,●承保三年(一〇七六)二月六日、陸奥交易御馬。
資料編1(古代・中世編) ([十世紀])

●延喜十六年(九一六)三月五日、陸奥国交易進御馬。,陸奥・出羽国についての規定(抄)。,●天徳五年(九六一)正月十七日、陸奥所進鷹犬御覧。,●貞元元年(九七六)十二月二十一日、陸奥貢馬の交易価直。,●長保元年(九九九)五月、陸奥交易御馬御覧。
資料編1(古代・中世編) ([八世紀])

陸奥・出羽国についての規定(抄)。,●天平九年(七三七)正月二十一日、陸奥出羽直路開設をもくろむ陸奥按察使の奏言により、持節大使ら派遣。,●天平神護二年(七六六)四月七日、陸奥城柵の修理。,●宝亀八年(七七七)三月、陸奥国夷俘、相次ぎ投降。,●延暦十五年(七九六)正月二十五日、坂上田村麻呂、陸奥出羽按察使・陸奥守。
資料編1(古代・中世編) ([九世紀])

●弘仁二年(八一一)四月四日、陸奥国人に授位。,●弘仁二年(八一一)十月四日、陸奥国軍士を増援。,●弘仁五年(八一四)正月十九日、陸奥国人に授位。,●承和七年(八四〇)三月、陸奥国奥地の民、庚申を称して騒動。陸奥国司ら援軍を要請。,陸奥国奥地の俘囚、内紛、警備に兵士差発。同月二十七日、さらに援兵を請う。また陸奥国に賑給。
通史編1(古代・中世) (将門の乱との関係)

維扶は貞盛を見捨てて陸奥に入った。 とあって、この年の将門の乱の始まりを伝えている。  ,・出羽両国を襲撃しようとしているという陸奥国からの急使が京都に到着したとある。,将門の父良持は鎮守府将軍経験者であり、そこで将門は陸奥の情勢に通じていた。,出羽天慶の乱に乗じて将門が実際に陸奥襲撃をねらうことは十分に考えられる時代であったのである。,前項でも触れたように、陸奥・出羽関係の要職には関東の武士が、続々と任命されていた。
資料編1(古代・中世編) ([十二世紀])

[十二世紀] ●康和四年(一一〇二)二月三日、陸奥守藤原実宗、貢馬。,●康和五年(一一〇三)十一月一日、藤原基頼、陸奥守。,●嘉承元年(一一〇六)十二月、陸奥交易御馬御覧。,●天仁元年(一一〇八)十二月三十日、藤原基頼、陸奥守重任。,●永久三年(一一一五)十二月、陸奥交易御馬御覧。
通史編1(古代・中世) (北畠親房の政権構想)

元弘三年、一三三三)六月、北条氏滅亡を受けて京都に帰ると、同年八月に北畠顕家(きたばたけあきいえ)を陸奥守,(むつのかみ)に任じ、建武政府の陸奥支配が本格的に開始された。,十月には顕家は義良(のりよし)親王を奉じて、父親房(ちかふさ)とともに陸奥へ向かって旅立っていく。,陸奥守と並ぶ出羽守には葉室(はむろ)光顕が任じられたが、のちにはその出羽も顕家が管轄したという(『梅松論,そのために陸奥国府を「奥州小幕府」的な機構に再建していった。  
通史編1(古代・中世) (糖部郡での論功行賞)

糖部郡での論功行賞 一方、広大な糠部郡では、陸奧守顕家によって郡奉行と郡検断を併せ持つ検断奉行として,甲斐国波木井郷(山梨県南部町)を本領としていたが、陸奥国内にも所領を有していたらしく(現在地は不詳)、,甲斐国も陸奥国もともに名馬の産地である。師行は根城にその根拠地を定めた。
通史編1(古代・中世) (曽我貞光の奮戦)

曽我貞光の奮戦 しかし翌暦応二年には、陸奥国内では南朝方が必死の巻き返しを謀(はか)ってくる。,師助は、関東曽我一族の惣領であると自認しており、弓の名手として尊氏に仕えていたが、このころ陸奥に下向し,もっとも陸奥国府多賀城は石塔義房が固めていた。,顕信が具体的に陸奥国のどこの地に拠点を置いたのかについては、なお明確ではない。,顕信としては陸奥国府を奪回するのが最重要課題であって、南部政長に対して、それに関連してさまざまな指示を
通史編1(古代・中世) (三十八年戦争の時代)

それは天平宝字(てんぴょうほうじ)六年(七六二)に藤原朝獦(猟)(あさかり)によって改修される。ここに陸奥国府,・陸奥国鎮守府(ちんじゅふ)・陸奥国按察使の三官が置かれ、太平洋側の辺境政策の最大の拠点となった。,築地塀(秋田県秋田市)  そしてこの多賀城と秋田の出羽柵とが結ばれたのが、天平九年(七三七)の陸奥按察使,・陸奥守・鎮守将軍大野東人と出羽守田辺難波(たなべのなにわ)とによる、大部隊を派遣し、男勝(おがち)村,時の陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)で、例によって陸奥按察使と陸奥守
通史編1(古代・中世) (文室綿麻呂の登場)

緒嗣はこの地位に就くことを相当渋っていて、一年近く陸奥への赴任を先延ばしにしていたが、大同四年(八〇九,)三月、ついに陸奥国へ向かった。  ,十二月に提出された彼の辞表によると「陸奥国は、事、成熟しがたく」「国中疫病を患って、庶民は死に尽くし、,現在の岩手県盛岡市あたりまでが正式に陸奥国の領域となったのである。,これは律令制下における陸奥国の北限となった。
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦の実相)

一つは延久二年(一〇七〇)十二月に陸奥国守源頼俊が提出した当該合戦の報告書(陸奥国解)に対する回答として,これらに当該合戦の最中に起こった陸奥国在庁官人(散位藤原基通)による国司印鎰(やく)奪取事件を記した『,しかも、前九年合戦を契機に出羽城介が任命されなくなり、陸奥国胆沢城に置かれた鎮守府が出羽国秋田城をも管轄,この戦争で動員された兵力の規模や編成の詳細は不明だが、前九年合戦など同時代の例から考えれば、①陸奥守頼俊,ちなみに延久二年十二月二十六日に頼俊が提出した陸奥国解には、「又、荒夷兵を発し、黎民騒擾す。
通史編1(古代・中世) (安倍氏の柵)

『陸奥話記』にはこれらの柵の名前が一二ほど記載されている。  ,陸奥守藤原登任(なりとう)にしたがって陸奥国へ下向し、そのまま亘理郡に拠点を置いて「亘理権大夫(わたりごんのたいぶ,)」「亘権守(わたりごんのかみ)」と呼ばれていた、陸奥国府の高級官僚の一人である。,誉田慶信作図)  ちなみに安倍頼良のもう一人の娘婿であった平永衡(ながひら)も、やはり登任の郎従として陸奥国
通史編1(古代・中世) (奥州惣奉行制の確立)

頼朝は朝廷から陸奥・出羽両国を知行する「奥州羽州地下(じげ)管領」権=奥州総地頭職権を獲得した。  ,一一九〇)三月十五日、平泉と並ぶもう一つの東北支配の要衝多賀国府に、新たに伊沢家景(いさわいえかげ)を陸奥国留守職,それまで多賀城にいた陸奥国留守所の長官(「本・新留守」)は、先にも触れたように、兼任の乱に加担したことによって
通史編1(古代・中世) (青森県下の情勢)

(のしろ)湊」を「賊地」と呼んでおり(史料一二〇)、また『日本後紀』弘仁五年(八一四)十一月己丑条の陸奥国,津軽の狄俘(てきふ)の野心は測り難い」ともみえ(史料二九三)、文室綿麻呂による平定以後もなお、当時の陸奥国司,このころには北奥の地は、出羽からも陸奥からも意識される存在であったのである。
資料編1(古代・中世編) ([七世紀以前])

●斉明天皇五年(六五九)三月、陸奥と越の蝦夷を饗応。,●斉明天皇五年(六五九)七月、遣唐使、陸奥蝦夷を引き連れて唐高宗に謁見。津軽の蝦夷等を説明。,●文武天皇元年(六九七)十月十九日、陸奥国蝦夷、特産物を貢上。,●文武天皇二年(六九八)十月二十二日、陸奥国の蝦夷、特産物を貢上。
通史編1(古代・中世) (鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏)

後醍醐天皇は、同八月、北畠顕家を陸奥守に任じ、ここから建武政府の陸奥支配が本格化した。,十月には顕家は義良(のりよし)親王を奉じて、父親房とともに陸奥へ向かって旅立っている。  
通史編1(古代・中世) (平泉藤原氏)

結果としてこの清原(のちに藤原)清衡が、清原氏の遺領陸奥出羽両国「一万余之村」を継承し、以後、黄金かがやく,当時、奥六郡の東と北には閉伊・久慈・糠部といった新たな郡が設けられており、出羽国北部は陸奥国の管轄となって,また先にも触れたように、上皇の近臣で以降の陸奥守や鎮守府将軍を一族で歴任する藤原基成と婚姻関係を結ぶなど,、のちに木曽義仲と源頼朝の対立が表面化すると、後白河法皇の「鎮守府将軍秀衡」宛の下文で「陸奥出羽両国の,平家とつながりが深く、その強い後押しで養和元年(一一八一)には地方武士としては初めて国主・陸奥守に任ぜられた
通史編1(自然・原始) (第一節 注および引用・参考文献)

」『東洋学芸雑誌』九七 一八八九年十一月 (26)A 若林勝邦 「陸奥国上北郡貝塚村貝塚調査報告」『,東洋学芸雑誌』一四六 一八九三年十一月   B 佐藤重紀 「陸奥国上北郡の貝塚」『東京人類学会雑誌』, 一八九六年一月   B 佐藤傳蔵 「陸奥国亀ヶ岡第二回発掘報告」『東京人類学会雑誌』一一-一二四 , 一八九六年八月   D 佐藤傳蔵 「陸奥亀ヶ岡石器時代遺跡地形地質及発見品」『東京地理学協会報告』,』 陸奥史談会 一九二七年五月 (44)中村良之進 『陸奥考古』 陸奥史談会 一九二七年三月~一九三五年一月
通史編1(古代・中世) (足利幕府の奥羽支配)

足利氏は北畠氏の管轄下にある国府の官僚を引き抜いたり、北朝側の除目(じもく)で家長を陸奥守に任じて、現地,北畠氏側が陸奥守から鎮守府将軍へ、足利氏側が奥州総大将から陸奥守へと、それぞれ相手の制度的拠点を奪い合
通史編1(古代・中世) (「津軽」の地の独自性)

八世紀前半に編纂された東北地方の地誌である『陸奥国風土記(むつのくにふどき)』は、残念ながら現在ではその,ここでは陸奥国内の人を「土知朱(蜘蛛)」と呼び、津軽の人についてはそう呼ばないで蝦夷として別扱いして書,風土記の書かれた八世紀には、すでに陸奥国はしっかりと律令国家のうちに取り込まれていた。,しかし津軽の地がその陸奥国のうちに取り込まれるようになるのは、早くても平安時代末期のことで、まだだいぶ
通史編5(近・現代2) (ニッカウヰスキーの進出)

メーカーの二ッカウヰスキーと提携し、アサヒビールからニッカウヰスキーへ販路を委託することになった(『陸奥新報,アサヒビール会社が買い集めて、地元資本と完全に手を切り、資本を一元化して再出発を図ることになった(『陸奥新報,アップルワインなどりんごを原料とした洋酒が製造され、商品は東北地方や関東の一部に出荷されていった(『陸奥新報,写真167 ニッカウヰスキー弘前新工場落成(『陸奥新報』昭和40年7月22日付)  弘前新工場落成式,(『陸奥新報』昭和四十年七月二十三日付)  りんご酒の生産は、これまで県下の企業が何度となく試みたにもかかわらず
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍源頼義)

鎮守府将軍源頼義 安倍氏を押さえるため、中央政府は登任に代えて、源頼義を陸奥守とし、また彼に鎮守府将軍,『陸奥話記』は、「頼時は首を傾けて給仕し、駿馬・金宝の類をことごとく幕下のものに献上した」という(史料四四
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

・陸奥守。,陸奥国奥地の俘囚、内紛、警備に兵士差発。同月二十七日、さらに援兵を請う。また陸奥国に賑給。,…………………………… 陸奥話記 111 ●康平五年(一〇六二)春、陸奥守源頼義任終。,が陸奥国へ向う。,………………… 百錬抄・陸奥話記 115 ●康平七年(一〇六四)四月十三日、陸奥交易御馬再開。
通史編4(近・現代1) (養蚕業の振興)

個々の農家で副業的養蚕が奨励される一方、本格的な製糸業を目指す動きも出ており、大正八年(一九一九)、陸奥製糸株式会社,陸奥製糸は生糸を足利などの主産地に送り、「弘前銘仙」を委託生産した。,南津軽郡五郷村・現青森市浪岡)、鳴海廉之助(西津軽郡車力村・現つがる市)で、合計二四三人が株主となっている(「陸奥製糸株式会社株式
通史編1(古代・中世) (阿久利川事件)

阿久利川事件 さてこうして頼義が無事に公務を終えて陸奥国府多賀城への帰途に着いたところ、阿久利(あくり,未詳)で夜営中に、陸奥権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞(みつさだ)・元貞(もとさだ)らが襲われるという
通史編1(古代・中世) (頼時の死)

頼時の死 天喜(てんぎ)四年(一〇五六)十二月、頼義は戦闘続行のため、陸奥守に重任(ちょうにん)された,為時の拠点でもある閉伊から海岸沿いに北上させ(このルートは八世紀初めには、閇(へい)村の蝦夷が昆布を陸奥国府
通史編1(古代・中世) (分裂した蝦夷沙汰)

古代においては坂上田村麻呂が陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守府将軍・征夷大将軍の四官を兼ねた例があるが、これは
通史編1(古代・中世) (征夷大将軍 坂上田村麻呂)

征夷大将軍 坂上田村麻呂 延暦十五年(七九六)、坂上田村麻呂は陸奥出羽按察使・陸奥守に任ぜられ(史料二三八
通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

30 北奥の郡郷制  ここで注目されるのは、秋田城と関係の深い河北郡を除いて、他のすべての新郡が陸奥国,の会津・耶麻両郡を陸奥国から分離するとの内容が含まれていること。,であった証拠であって、もし建郡だけが終わっていたのなら、当時の北奥の状況を詳しく伝える、中尊寺建立中に陸奥国,また北奥諸郡が陸奥国所管となっていることも、郡郷編成が摂関家出身の陸奥守兼鎮守府将軍の下で平泉藤原氏によって,その津軽が郡設置とともに陸奥国に編入されたのは、郡の設置が陸奥国側から行われたことを意味すること。
通史編1(古代・中世) (治承・寿永内乱下の秀衡)

そうしたなかで養和元年(一一八一)八月、秀衡は陸奥守に任命される。,前記の鎮守府将軍の地位といい、この陸奥守任官といい、異例ずくめであるが、秀衡が奥州でそれだけ重みのある,『玉葉』ではさらに、その陸奥国について「件(くだん)の国、もとより大略虜略。,しかれば拝任、何事かあらんや」とも述べられているように、事実上、陸奥国はそれ以前から秀衡のものであるという,政権基盤を築きつつある頼朝が、東国の主=「東海道の惣官」として、「奥六郡の主」秀衡をその下に位置づけて、陸奥
通史編1(古代・中世) (持寄城の合戦)

いち早く建武元年四月には、摂津の多田貞綱(さだつな)が(史料六三六・六三七)、また八月には陸奥国岩城郡,の伊賀盛光(もりみつ)が(史料六五三・六五四)、翌九月には陸奥国宮城郡の大河戸三郎左衛門が津軽へと出発
通史編1(自然・原始) (ヤマセの風向性)

太平洋側から内陸または陸奥湾に流入したヤマセは、ちょうど八甲田山系を迂回して吹いている模様が流線から明瞭,津軽平野に流入するヤマセ経路は、太平洋側から陸奥湾を経て青森湾から、北東風で入るのが主流と思われる。
資料編1(古代・中世編) (参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く))

津軽大戸瀬村の古碑と箱舘所在貞治の碑」(むつ1輯) (6)竹内運平「長勝寺梵鐘の観察過程に就いて」(陸奥史談,嘉元鐘について」(国史研究70号) (11)戸沢武「乳井福王寺圏内の板碑と国吉の頓阿銘板碑について」(陸奥史談,・中世文化) (18)司東真雄『岩手の石塔婆-東北型の板碑文化』 (19)山屋道朗「碑めぐり」(陸奥史談
通史編4(近・現代1) (第五十九国立銀行の創設)

国立銀行創立願 私共、申合、明治九年八月中御頒布相成候国立銀行条例を遵奉し、青森県管下第三大区一小区陸奥国津軽郡弘前本町一番地,何卒願意至急御聞届相成候様御執達被成下度、此段奉願候也  明治十一年一月〔二十五日〕 青森県士族 第三大区一小区陸奥国津軽郡徒町川端町十五番, 横島彦八 印 青森県士族 第三大区一小区陸奥国津軽郡徳田町九番    蒲田昌清 印 青森県士族,第三大区一小区陸奥国津軽郡相良町二十七番  松野幹  印 青森県士族 第三大区一小区陸奥国津軽郡若党町百一番,   芹川高正 印 青森県士族 第三大区二小区陸奥国津軽郡富田村三番   大道寺繁禎 印          
通史編1(自然・原始) (位置と地勢)

722余km  本県は北に下北・津軽の両半島が各々東部と西部に突き出ており、これらの両半島によって陸奥湾,陸奥湾に入る川に、青森市内を北流する堤川、津軽半島東部の新城(しんじょう)川、蟹田(かにた)川などがある,下北地域では、下北山地の東部を緩やかに南流して陸奥湾に入る田名部(たなぶ)川や川内(かわうち)川がある
通史編5(近・現代2) (「日本一の不潔な町」(新聞の投書から))

「日本一の不潔な町」(新聞の投書から) 昭和二十九年(一九五四)六月七日付の『陸奥新報』に、小さな投書,これに対して翌日の『陸奥新報』は、なぜあんなに汚くなるのかと嘆き、市当局にも対応策を求めている。,投書である以上、たぶんに誇張があり、その投書を材料として『陸奥新報』が社説を書く以上、そこには政治的社会的
通史編3(近世2) (正蓮寺)

『新撰陸奥国誌』は、栄存は伊勢国(現三重県)桑名の出身で、寛永年間(一六二四~四三)に元寺町に創建し、
通史編3(近世2) (浄龍寺)

『新撰陸奥国誌』によると、善覚は越前国(現福井県)敦賀の出身で、正保元年にこの地に至り、慶安元年(一六四八
通史編1(古代・中世) (黄海の戦い)

夷人が「八幡太郎」と名づけたと『陸奥話記』には記されている。  ,これは朱の陸奥国印が押された「赤符(せきふ)」に対する用語らしく、要するに国印が押されていない命令書である
通史編3(近世2) (浄徳寺)

『新撰陸奥国誌』は、越後国(現新潟県)出身の仙休が寛永年間(一六二四~四三)にこの地に至り、慶安元年(
通史編3(近世2) (教応寺)

きょうおうじ)は、正保元年(一六四四)、了春が開基・開山となって創建した(資料近世2No.四〇九)、『新撰陸奥国誌
通史編3(近世2) (明教寺)

『新撰陸奥国誌』によると、玄龍は常陸国(現茨城県)鹿島郡高松の出身で、寛永二年(一六二五)、賀田村(現中津軽郡岩木町
通史編1(古代・中世) (前九年合戦の勃発)

前九年合戦の勃発 永承六年(一〇五一)、陸奥守藤原登任が、安倍氏の勢力伸張を制するために、秋田城介平重,今は昔、陸奥国に安倍頼時という兵がいた。,胡国というところは唐よりもはるかに北にあると聞いていたが、陸奥国の奥の夷の地に隣接しているのであろう。
資料編1(古代・中世編) (第二節 五輪塔)

明治以後、研究は一段と進み、昭和二年(一九二七)中村良之進は『陸奥古碑集』をまとめ、その中に明治から大正,なお、現在では、『陸奥古碑集』に記載されている石造遺物の残存状況を確認することは、極めて困難になっている,こうして見ると、『陸奥古碑集』の記述は後世に残された貴重な記録ということができる。,『陸奥古碑集』に見える五輪塔 二(右上)は中崎,七(右下)は高杉八重の森,十一(左)は乳井の五輪塔
通史編3(近世2) (満行院)

『新撰陸奥国誌』によれば、明治三年(一八七〇)、受源院に合併されたが、同七年、本行寺二八世日熈が復興した
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