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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(陸奥国と出羽国)
陸奥国
と出羽国 天武・持統朝の準備段階を経て、大宝(だいほう)元年(七〇一)に施行された大宝律令(りつりょう,太平洋側については、大化改新後の孝徳朝には
陸奥国
が成立していたといわれている。,仙台市の郡山(こおりやま)遺跡が、当時の
陸奥国
府所在地であったらしい。,やがて神亀(じんき)元年(七二四)に多賀城(宮城県多賀城市・写真39)が創建されると、
陸奥国
府はそこに,持統朝には、越(こし)国が、越前・越中・越後に三分割され、
陸奥国
とともにこの越後国が律令国家の北の最前線 /
陸奥国
と出羽国
通史編2(近世1)
(二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう))
二五
陸奥国
津軽郡御検地水帳(みずちょう) 藩政時代の津軽領内の検地帳。 / 二五
陸奥国
津軽郡御検地水帳(みずちょう)
資料編1(古代・中世編)
([九世紀])
●弘仁二年(八一一)四月四日、
陸奥国
人に授位。,●弘仁二年(八一一)十月四日、
陸奥国
軍士を増援。,●弘仁五年(八一四)正月十九日、
陸奥国
人に授位。,●承和七年(八四〇)三月、
陸奥国
奥地の民、庚申を称して騒動。
陸奥国
司ら援軍を要請。,
陸奥国
奥地の俘囚、内紛、警備に兵士差発。同月二十七日、さらに援兵を請う。また
陸奥国
に賑給。
資料編1(古代・中世編)
([八世紀])
●天平六年(七三四)尾張国正税帳に
陸奥国
進上馬の飼糠米。,●宝亀八年(七七七)三月、
陸奥国
夷俘、相次ぎ投降。,●宝亀十一年(七八〇)二月十一日、
陸奥国
、長岡攻略。,●延暦七年(七八八)三月二日、兵粮を
陸奥国
に蓄積。,●延暦十年(七九一)二月五日、
陸奥国
従軍者に贈位。
通史編1(古代・中世)
(糖部郡での論功行賞)
甲斐国波木井郷(山梨県南部町)を本領としていたが、
陸奥国
内にも所領を有していたらしく(現在地は不詳)、,甲斐国も
陸奥国
もともに名馬の産地である。師行は根城にその根拠地を定めた。
通史編1(古代・中世)
(延久蝦夷合戦の実相)
一つは延久二年(一〇七〇)十二月に
陸奥国
守源頼俊が提出した当該合戦の報告書(
陸奥国
解)に対する回答として,これらに当該合戦の最中に起こった
陸奥国
在庁官人(散位藤原基通)による国司印鎰(やく)奪取事件を記した『,しかも、前九年合戦を契機に出羽城介が任命されなくなり、
陸奥国
胆沢城に置かれた鎮守府が出羽国秋田城をも管轄,ちなみに延久二年十二月二十六日に頼俊が提出した
陸奥国
解には、「又、荒夷兵を発し、黎民騒擾す。,事件は、追討使頼俊の出陣直後、
陸奥国
在庁官人の一人である藤原基通が「国司印鎰」(国司の印と国正倉の鍵)
通史編1(古代・中世)
(曽我貞光の奮戦)
曽我貞光の奮戦 しかし翌暦応二年には、
陸奥国
内では南朝方が必死の巻き返しを謀(はか)ってくる。,もっとも
陸奥国
府多賀城は石塔義房が固めていた。,顕信が具体的に
陸奥国
のどこの地に拠点を置いたのかについては、なお明確ではない。,顕信としては
陸奥国
府を奪回するのが最重要課題であって、南部政長に対して、それに関連してさまざまな指示を,これは右に述べたように、当時北畠顕信の
陸奥国
府奪還作戦に協力中であった南部政長を、いやおうなく糠部へ引
通史編1(古代・中世)
(「津軽」の地の独自性)
八世紀前半に編纂された東北地方の地誌である『
陸奥国
風土記(むつのくにふどき)』は、残念ながら現在ではその,ここでは
陸奥国
内の人を「土知朱(蜘蛛)」と呼び、津軽の人についてはそう呼ばないで蝦夷として別扱いして書,風土記の書かれた八世紀には、すでに
陸奥国
はしっかりと律令国家のうちに取り込まれていた。,しかし津軽の地がその
陸奥国
のうちに取り込まれるようになるのは、早くても平安時代末期のことで、まだだいぶ
通史編1(古代・中世)
(安倍氏の柵)
陸奥守藤原登任(なりとう)にしたがって
陸奥国
へ下向し、そのまま亘理郡に拠点を置いて「亘理権大夫(わたりごんのたいぶ,)」「亘権守(わたりごんのかみ)」と呼ばれていた、
陸奥国
府の高級官僚の一人である。,誉田慶信作図) ちなみに安倍頼良のもう一人の娘婿であった平永衡(ながひら)も、やはり登任の郎従として
陸奥国
通史編1(古代・中世)
(文室綿麻呂の登場)
就くことを相当渋っていて、一年近く陸奥への赴任を先延ばしにしていたが、大同四年(八〇九)三月、ついに
陸奥国
,十二月に提出された彼の辞表によると「
陸奥国
は、事、成熟しがたく」「国中疫病を患って、庶民は死に尽くし、,現在の岩手県盛岡市あたりまでが正式に
陸奥国
の領域となったのである。,これは律令制下における
陸奥国
の北限となった。
通史編1(古代・中世)
(持寄城の合戦)
いち早く建武元年四月には、摂津の多田貞綱(さだつな)が(史料六三六・六三七)、また八月には
陸奥国
岩城郡,の伊賀盛光(もりみつ)が(史料六五三・六五四)、翌九月には
陸奥国
宮城郡の大河戸三郎左衛門が津軽へと出発
通史編4(近・現代1)
(第五十九国立銀行の創設)
国立銀行創立願 私共、申合、明治九年八月中御頒布相成候国立銀行条例を遵奉し、青森県管下第三大区一小区
陸奥国
津軽郡弘前本町一番地,何卒願意至急御聞届相成候様御執達被成下度、此段奉願候也 明治十一年一月〔二十五日〕 青森県士族 第三大区一小区
陸奥国
津軽郡徒町川端町十五番, 横島彦八 印 青森県士族 第三大区一小区
陸奥国
津軽郡徳田町九番 蒲田昌清 印 青森県士族,第三大区一小区
陸奥国
津軽郡相良町二十七番 松野幹 印 青森県士族 第三大区一小区
陸奥国
津軽郡若党町百一番, 芹川高正 印 青森県士族 第三大区二小区
陸奥国
津軽郡富田村三番 大道寺繁禎 印
通史編1(古代・中世)
(北奥における建郡)
30 北奥の郡郷制 ここで注目されるのは、秋田城と関係の深い河北郡を除いて、他のすべての新郡が
陸奥国
,延久蝦夷合戦以来、占領軍政を続けていたが、戦後一〇年目に行政改革プランが国司から提出され、そこには、
陸奥国
南部,の会津・耶麻両郡を
陸奥国
から分離するとの内容が含まれていること。,であった証拠であって、もし建郡だけが終わっていたのなら、当時の北奥の状況を詳しく伝える、中尊寺建立中に
陸奥国
,その津軽が郡設置とともに
陸奥国
に編入されたのは、郡の設置が
陸奥国
側から行われたことを意味すること。
通史編1(古代・中世)
(奥州惣奉行制の確立)
一一九〇)三月十五日、平泉と並ぶもう一つの東北支配の要衝多賀国府に、新たに伊沢家景(いさわいえかげ)を
陸奥国
留守職,それまで多賀城にいた
陸奥国
留守所の長官(「本・新留守」)は、先にも触れたように、兼任の乱に加担したことによって
通史編1(古代・中世)
(青森県下の情勢)
(のしろ)湊」を「賊地」と呼んでおり(史料一二〇)、また『日本後紀』弘仁五年(八一四)十一月己丑条の
陸奥国
,津軽の狄俘(てきふ)の野心は測り難い」ともみえ(史料二九三)、文室綿麻呂による平定以後もなお、当時の
陸奥国
司
通史編3(近世2)
(正蓮寺)
『新撰
陸奥国
誌』は、栄存は伊勢国(現三重県)桑名の出身で、寛永年間(一六二四~四三)に元寺町に創建し、
通史編3(近世2)
(浄龍寺)
『新撰
陸奥国
誌』によると、善覚は越前国(現福井県)敦賀の出身で、正保元年にこの地に至り、慶安元年(一六四八
通史編3(近世2)
(浄徳寺)
『新撰
陸奥国
誌』は、越後国(現新潟県)出身の仙休が寛永年間(一六二四~四三)にこの地に至り、慶安元年(
通史編3(近世2)
(教応寺)
きょうおうじ)は、正保元年(一六四四)、了春が開基・開山となって創建した(資料近世2No.四〇九)、『新撰
陸奥国
誌
通史編3(近世2)
(明教寺)
『新撰
陸奥国
誌』によると、玄龍は常陸国(現茨城県)鹿島郡高松の出身で、寛永二年(一六二五)、賀田村(現中津軽郡岩木町
通史編1(古代・中世)
(将門の乱との関係)
逸文には、翌天慶三年二月、将門が一万三〇〇〇人の兵を率いて陸奥・出羽両国を襲撃しようとしているという
陸奥国
,この時点では実際には将門はすでに敗死しているが、それを知らない
陸奥国
府は、将門来襲の噂になお戦々恐々としていたのである
通史編1(古代・中世)
(海の民・山の民としての安藤氏)
中世末期の史料ではあるが、安藤氏が、海の民の守護神たるところの
陸奥国
一の宮、塩竃(しおがま)神社(写真,となっていたこと、その塩竃神社の神領が安藤氏と関係の深い外浜に存在していたことなども明らかになってきており、
陸奥国
通史編3(近世2)
(満行院)
『新撰
陸奥国
誌』によれば、明治三年(一八七〇)、受源院に合併されたが、同七年、本行寺二八世日熈が復興した
通史編3(近世2)
(白道院)
『新撰
陸奥国
誌』によると、土手町大橋の下に庵を構えていた欣求が、寛文三年(一六六三)に本堂を建立し、貞昌寺世誉
通史編3(近世2)
(法源寺)
『新撰
陸奥国
誌』は、浪岡から元寺町へは慶長十一年(一六〇六)、新寺町へは慶安三年に移ったという。
通史編1(古代・中世)
(討幕の論功行賞)
建武二年(一三三五)三月の顕家の袖判のある「
陸奥国
宣」によれば、外浜のうち、内摩部(うちまっぺ)(青森市内真部,写真136
陸奥国
宣 なお工藤氏も、鎌倉幕府滅亡に際しては、幕府方と後醍醐方とに分裂したが、多
通史編1(古代・中世)
(清原氏の登場)
戦線の打開を目指して馬に鞭をあて意気揚々と都を出発した経重であったが、
陸奥国
に入ると民衆が皆前司頼義にしたがうという,ここに
陸奥国
軍の主体は清原軍となった。
通史編1(古代・中世)
(奥州惣奉行葛西清重)
二十二日になると、頼朝は奥羽経営のために、葛西清重に対して「
陸奥国
御家人のこと」を奉行するように命じた,
陸奥国
御家人等の頼朝への申し分は、すべてこの清重を通じて奏達するように、とまで言い渡している(『吾妻鏡,いずれにしろ清重は、平泉藤原氏に代わる頼朝の現地代官として、
陸奥国
内御家人の統制と平泉郡内の治安維持といった
通史編1(古代・中世)
(工藤氏の活躍)
写真137
陸奥国
宣案
通史編3(近世2)
(感応寺)
『新撰
陸奥国
誌』は、元文五年、日貞の再興とし、七面堂・日蓮堂・清正公堂があったという。
通史編3(近世2)
(宝泉院)
『新撰
陸奥国
誌』は、この用水を宝泉、村名を鬼沢としたことから、この寺の山号赤倉山、寺号宝泉院もこれによって
通史編1(古代・中世)
(工藤氏の出自)
あるいは奥州合戦の功によって
陸奥国
岩手郡を与えられた工藤行光の系統とも推測されている。
通史編1(古代・中世)
(北畠親房の政権構想)
鎌倉幕府滅亡後、急速に武士勢力を吸収しつつある足利尊氏を押さえるために、関東の背後の
陸奥国
を重視し、奥州武士,そのために
陸奥国
府を「奥州小幕府」的な機構に再建していった。
通史編3(近世2)
(専徳寺)
『新撰
陸奥国
誌』によると、誓円は九州菊池氏の一族で、本願寺蓮如の弟子となり、為信の帰依によって一町田村
資料編1(古代・中世編)
([十一世紀])
陸奥国
の北を蛮夷という。,●寛弘五年(一〇〇八)十二月四日、
陸奥国
交易御馬御覧。,●康平五年(一〇六二)七月二十六日、源頼義の請いにより、出羽国俘囚清原武則が
陸奥国
へ向う。,●治暦元年(一〇六五)、伊予守源頼義、安倍氏残党平定のため、なお
陸奥国
に留る。
資料編1(古代・中世編)
([七世紀以前])
●文武天皇元年(六九七)十月十九日、
陸奥国
蝦夷、特産物を貢上。,●文武天皇二年(六九八)十月二十二日、
陸奥国
の蝦夷、特産物を貢上。
通史編1(古代・中世)
(北畠顕家の死)
北畠顕家の死 この年八月、
陸奥国
伊達郡の自然の要害霊山(りょうぜん)にあった北畠顕家は、ようやく足利郡
通史編1(古代・中世)
(三十八年戦争の時代)
それは天平宝字(てんぴょうほうじ)六年(七六二)に藤原朝獦(猟)(あさかり)によって改修される。ここに
陸奥国
府,・
陸奥国
鎮守府(ちんじゅふ)・
陸奥国
按察使の三官が置かれ、太平洋側の辺境政策の最大の拠点となった。
通史編1(古代・中世)
(前九年合戦の勃発)
今は昔、
陸奥国
に安倍頼時という兵がいた。,胡国というところは唐よりもはるかに北にあると聞いていたが、
陸奥国
の奥の夷の地に隣接しているのであろう。
通史編1(自然・原始)
(三 津軽地方災害年表凡例)
旧記類からの引用文献中、被災対象地は「奥羽諸国」「
陸奥国
」である。
通史編2(近世1)
(一 九戸一揆と動員大名)
陸奥国
では葛西(かさい)・大崎(おおさき)一揆、和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)一揆が起こり、出羽国では
通史編3(近世2)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
大仏院蔵 186 弘前市 長勝寺蔵 187 弘前市 貞昌寺蔵 188 弘前市 弘前神明宮蔵 189 新撰
陸奥国
誌,207 東京都台東区 津梁院 208 同上 209 弘前市 薬王院 210 弘前市 袋宮寺 211 新撰
陸奥国
誌,弘前市 本行寺 222 弘前市 法立寺 223 弘前市 天満宮 224 弘前市 最勝院 225 新撰
陸奥国
誌,東京大学史料編纂所蔵 226 同上 227 弘前市 和徳稲荷神社 228 弘前市 護穀神社 229 新撰
陸奥国
誌, 巻30 東京大学史料編纂所蔵 230 新撰
陸奥国
誌 巻24 東京大学史料編纂所蔵 231 新撰
陸奥国
誌
資料編1(考古編)
(-古代後期Ⅰ期(9世紀初頭~9世紀中葉)-)
甕の製作技法は、隣接の城柵なかでも志波城を含む
陸奥国
に特徴的な在り方を示す。
通史編1(古代・中世)
(三沢安藤四郎の活躍)
ただこの「三沢」は、青森県の三沢ではなく、
陸奥国
刈田(かった)郡三沢郷である。
通史編1(古代・中世)
(津軽曽我氏の所領・名取郡)
津軽曽我氏の所領・名取郡 光弘は宝治元年(一二四七)七月、宝治合戦の勲功の賞として
陸奥国
名取郡土師塚
通史編1(古代・中世)
(阿久利川事件)
阿久利川事件 さてこうして頼義が無事に公務を終えて
陸奥国
府多賀城への帰途に着いたところ、阿久利(あくり
通史編1(古代・中世)
(頼時の死)
為時の拠点でもある閉伊から海岸沿いに北上させ(このルートは八世紀初めには、閇(へい)村の蝦夷が昆布を
陸奥国
府
通史編1(自然・原始)
(第一節 注および引用・参考文献)
」『東洋学芸雑誌』一四六 一八九三年十一月 B 佐藤重紀 「
陸奥国
上北郡の貝塚」『東京人類学会雑誌,佐藤傳蔵 「陸奥亀ヶ岡発掘報告」『東京人類学会雑誌』一一-一一八 一八九六年一月 B 佐藤傳蔵 「
陸奥国
亀,ヶ岡第二回発掘報告」『東京人類学会雑誌』一一-一二四 一八九六年七月 C 佐藤傳蔵 「
陸奥国
亀ヶ,の土偶に就て」『東京人類学会雑誌』一三-一四二 一八九八年一月 C 佐藤傳蔵 「
陸奥国
床舞村発見,)石田収蔵 「石器時代遺物」『東京人類学会雑誌』二五-二八六 一九一〇年一月 (34)笠井新也 「
陸奥国
発見
通史編4(近・現代1)
(鬼沢小学開校と「村落小学」)
設立年 新築 旧屋 公有 借用 教 員 生 徒 授業料 備 考 男 女 男 女 百田小学
陸奥国
津軽郡百田村,明治九年 民家 借用 二 五一 有 現城東小学校の前身 川田小学
陸奥国
津軽郡清野袋村 同 同
資料編2(近世編1)
([口絵])
陸奥国
津軽郡之絵図①(青森県立郷土館) 正保二年十二月二十八日、三代藩主津軽信義が江戸幕府へ提出したものの,(本文史料六七九号)
陸奥国
津軽郡之絵図② 弘前とその周辺拡大図 津軽弘前城之絵図
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