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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(ヤマセの風向性)
太平洋側から内陸または
陸奥湾
に流入したヤマセは、ちょうど八甲田山系を迂回して吹いている模様が流線から明瞭,津軽平野に流入するヤマセ経路は、太平洋側から
陸奥湾
を経て青森湾から、北東風で入るのが主流と思われる。
通史編1(自然・原始)
(位置と地勢)
722余km 本県は北に下北・津軽の両半島が各々東部と西部に突き出ており、これらの両半島によって
陸奥湾
,
陸奥湾
に入る川に、青森市内を北流する堤川、津軽半島東部の新城(しんじょう)川、蟹田(かにた)川などがある,下北地域では、下北山地の東部を緩やかに南流して
陸奥湾
に入る田名部(たなぶ)川や川内(かわうち)川がある
通史編1(古代・中世)
(一六世紀の湊)
くらこし)遺跡出土遺物、野辺地町周辺の表採品に一六世紀から一七世紀初頭の陶磁器が多く、一六世紀の段階で
陸奥湾
,太平洋岸までの海運の経路を想定することができ、八戸市根城や南部諸城館に供給された一六世紀以降の陶磁器も、
陸奥湾
経由,きをみると、主体となる交易港は十三湊ではなく、外浜を支配していた浪岡北畠氏を後ろ盾とする大浜の地を想定でき、
陸奥湾
沿岸
通史編1(自然・原始)
(津軽地域の気温と特徴)
18.4 12.5 6.5 1.8 9.7 (イ)津軽地域内の地点別年平均気温は一〇℃台であるが、海峡・
陸奥湾
側,津軽北部地域は二℃くらい高い程度で、東海上から冷湿風の入りやすい海峡側や
陸奥湾
側では、気温差が小さく分布的,同時に偏東風が吹き抜ける低地域の
陸奥湾
周辺では、ヤマセ侵入が大きいことを示している。
資料編1(考古編)
((5)塩業)
製塩土器の出土例は、本県では縄文時代後期(八戸市風張(1)遺跡)にさかのぼり、同晩期には
陸奥湾
沿岸に広,平安時代になると、
陸奥湾
沿岸を中心に一部太平洋沿岸や日本海沿岸に約40余りの遺跡が分布する。,特に
陸奥湾
沿岸の分布密度は東北地方では松島湾沿岸に次ぐ濃厚さを持つもので、我が国の製塩最盛地の一つに数
通史編1(自然・原始)
(津軽平野を覆っていた海)
この〝古津軽湾〟ともいえる大きな内海は、ある時期には大釈迦(だいしゃか)付近にあった狭い水路を通じて
陸奥湾
側,この日本海側と
陸奥湾
側の海を結ぶ海峡には、現在の瀬戸内海でみられるうず潮のように、干潮・満潮に伴って潮流
資料編1(考古編)
((6)漁業)
陸奥湾
内での、タラなどの大型魚のはえなわ漁に用いられたものと想定している。
通史編1(自然・原始)
(津軽山地)
津軽山地 津軽半島は北が津軽海峡、西が日本海、東が
陸奥湾
と三方が海に面し、南西方には岩木火山が位置している
通史編3(近世2)
(松前方面の攻防と青森)
その事件とは、突如
陸奥湾
(むつわん)に現れた旧幕府軍艦回天と蟠龍に関するものだった。 ,七日早朝、青森港付近に現れた二艦のうち、蟠龍は
陸奥湾
を回漕して行方を転じたが、回天へは、弘前藩から安済丸船頭野村惣平,対談を終えた旧幕府勢は、回天に戻り、再び二艦で
陸奥湾
を巡った後、やがて蝦夷地へ戻った。
通史編3(近世2)
(織)
上磯(かみいそ)(現青森市油川から東津軽郡三厩(みんまや)村に至る
陸奥湾
沿いの地域)と下磯(しもいそ),(現青森市野内以東の
陸奥湾
沿いの地域)を巡見の際、からむし(苧麻(ちょま)、茎の皮から採取した繊維(せんい
通史編1(古代・中世)
(特殊な行政区画)
特殊な行政区画 なお津軽半島部は、
陸奥湾
側が外浜(そとのはま)、日本海側が西浜(にしのはま)というように
通史編1(自然・原始)
(台風のコース)
太平洋側の海上、海峡や
陸奥湾
内では大しけになる。
通史編1(自然・原始)
(夏)
夏 この季節の前半は梅雨期で、海峡側・
陸奥湾
側ではヤマセが吹き、朝晩を中心に曇りや霧の日が多くなる。
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の所領)
それに対して、その北方に広がる
陸奥湾
岸から下北地域にかけての外浜・宇曽利・中浜、あるいは日本海岸の西浜,ただし右掲の二点の安藤嫡流家に関する譲状に、津軽半島の
陸奥湾
側である外浜の名がみられないことから、外浜
通史編1(古代・中世)
(県下の諸郡)
津軽半島南部からその南方の岩木川左岸にかけての地域、西浜は津軽半島北部の日本海側外浜は津軽半島北部の
陸奥湾
岸沿
通史編1(自然・原始)
(ヤマセと冷害)
であるが、六月・七月の日照率が津軽地域では平年の八〇%どまりになっているのに対し、太平洋側や海峡・低地の
陸奥湾
側
資料編1(考古編)
((3)10世紀後半~11世紀)
さらに、塩生産は、
陸奥湾
沿岸において集中的に行われており、約30の遺跡が確認されている。 ,また、時代的に重複する岩木山麓を中心とする鉄生産、あるいは
陸奥湾
沿岸に展開する製塩業等の手工業的生産物
通史編3(近世2)
(野辺地戦争の動機)
戦禍がとうとう
陸奥湾
に至ったことには、大きな動揺が走ったが、この攻撃で盛岡藩への打撃はほとんど与えられず,
陸奥湾
も戦場の一部と位置づけられた今、津軽領は苦戦を続けている大館口戦場とに挟まれる格好となった。
通史編1(古代・中世)
(渡嶋の所在)
津軽半島海辺部は、中世になって国郡制が本州の北端にまで及んだ段階でも、「郡」の名がつかない、外浜(そとのはま)(
陸奥湾
岸沿,時代が下れば、
陸奥湾
岸で非常に多くの製塩土器を伴う遺跡が発見されている。
通史編1(古代・中世)
(鬼王・安日)
外浜とは、津軽半島の
陸奥湾
側(東側)の地域であり、中世において、日本国の東の境界と認識され、まさに鬼の
通史編2(近世1)
(青森以外の町の騒動)
野辺地での騒動にも同じ
陸奥湾
岸に面する青森騒動の影響がみられる。
通史編1(古代・中世)
(擦文文化圏との交易)
また、九世紀以降一〇世紀を主体とする
陸奥湾
沿岸の約三十遺跡での製塩土器の出土や、北海道余市(よいち)町大川遺跡
通史編2(近世1)
(外浜の掌握と開発)
特に、戦国末期の油川は、海岸線(
陸奥湾
)に沿って町が成り立っており、そこには、北方への商圏拡大を目指した
通史編1(自然・原始)
(夏)
同じこの期間、津軽海峡側や
陸奥湾
周辺の地方では、濃い霧が侵入する日が多くなり、交通事故や海難・飛行機事故
通史編1(自然・原始)
(気候境界と地域特性)
〇〇キロメートルくらいの範囲内で生じる気候の地域差の原因には、日本海側と太平洋側あるいは津軽海峡側と
陸奥湾
側
資料編1(考古編)
((3)弥生時代の土壙墓)
当該遺構の代表的なものは、津軽半島の突端に近い東津軽郡三厩村宇鉄字下平に所在する宇鉄Ⅱ遺跡と、下北半島の
陸奥湾
通史編4(近・現代1)
(電信事業)
明治五年九月、東京の浅草電信局を起点に、宇都宮・白河・福島・仙台を経て、
陸奥湾
に面する青森県今別に至る
通史編3(近世2)
(公娼と私娼)
公娼と私娼 津軽弘前藩が公娼(こうしょう)(藩より公認された売春婦)の場として認めた地域は、まず
陸奥湾
側
通史編3(近世2)
(繭)
また一疋作りでも在来の国繭は質の点て対象ではなく、きんこ(絹子)繭に限られていたが、津軽半島の
陸奥湾
に
通史編1(古代・中世)
(擦文文化の特徴)
一〇~一一世紀代と推定される盛期の擦文土器の分布は、本県においては県西側の
陸奥湾
沿岸地域、岩木川流域を
通史編1(自然・原始)
(冷害の歴史)
特に太平洋側や海峡・
陸奥湾
側では常襲地帯といってよく、おおむね四年に一回の割合で出現している。
通史編3(近世2)
(宮古湾海戦)
この時、
陸奥湾
周辺へ詰めていた官軍諸藩の兵力は次のように把握されている(『弘前藩記事』二)。
通史編1(自然・原始)
(月別平年気温の都市別比較)
津軽半島
陸奥湾
側の蟹田から北部で九℃くらいである。
通史編1(古代・中世)
(奥大道と文物の流通)
さらに藤崎・浪岡を抜けて、
陸奥湾
に至るルートで、現在の東北縦貫自動車道とほぼ同じルートである。
通史編1(自然・原始)
(真夏日・夏日・真冬日からみた地域特性)
真夏日が少ない西海岸地域でも三〇日を越えるが、東津軽の
陸奥湾
側では三〇日より少なく真夏日ほどの日数差はない
通史編1(古代・中世)
(城館タイプの分類)
下北地方の蠣崎城跡においても、
陸奥湾
を望むような場所に城館を配置しており、まさに「海の城」と呼ぶにふさわしいものである
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
元治元年(一八六四)八月には、青森の三国屋清兵衛が、藩の資金によって
陸奥湾
沿岸の久栗坂(くぐりざか)村
通史編1(古代・中世)
(中世の境界認識)
外浜は、周知のように津軽半島の
陸奥湾
岸部を指す。
通史編1(自然・原始)
(食料)
一方、魚類については種類が豊富で、
陸奥湾
内はもとより、時には津軽海峡のような外海にまで出漁していた。
資料編1(考古編)
(〈注及び参考文献一覧…第3章〉)
橘善光 「下北半島尻屋大平貝塚」(考古学ジャーナル12) 1967年 *70 北林八州晴 「青森県
陸奥湾
沿岸, 沼舘愛三 『南部諸城の研究』(みちのく双書第13集) 1947年 *100 北林八洲晴 「青森県
陸奥湾
沿岸,工藤竹久 「下北半島大平D地点遺跡」(考古学ジャーナル83) 1973年 *109 北林八州晴 「
陸奥湾
沿岸
資料編1(考古編)
((2)太平洋戦争後から現代まで)
平山は津軽平野を*67、橘は下北半島を中心に、また北林は
陸奥湾
沿岸をそれぞれ主なフィールドとして調査した
通史編1(自然・原始)
(昭和時代)
現北津軽郡中里町)の各村長を長年務め、十三史談会の結成にも参画した奥田順蔵(おくたじゅんぞう)が、『うとう』に「
陸奥湾
周圓
通史編1(自然・原始)
(第一節 注および引用・参考文献)
関東地方に於ける縄紋式石器時代文化の変遷」『史前学雑誌』七-三 一九三五年五月 (54)奥田順蔵 「
陸奥湾
周圓
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