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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(陸軍特別大演習の準備と開催)
陸軍
特別大演習の準備と開催 弘前で開催された大演習は、地元弘前市はもちろん青森県全体でも大いに期待されていた,弘前で実施された
陸軍
特別大演習は、近代総力戦を意識したものとなった。,写真157 通信設備を試す
陸軍
兵 写真158 飛行機を使った演習 /
陸軍
特別大演習の準備と開催
通史編4(近・現代1)
(師団誘致運動)
師団誘致運動 師団拡張にあたり
陸軍
当局が最も憂慮したのは、敷地の獲得だった。,ところが実際には師団新設地の周辺を中心に、全国各地から土地の献納願いが殺到し、
陸軍
当局を驚愕させた。,こうした地域の人々の行動は、
陸軍
当局の予想をはるかに超えるものだった。 ,師団設置を要望する町長の上申書を
陸軍
当局に提出している。,この結果、
陸軍
当局はこれらの願いを許可している。
通史編4(近・現代1)
(軍縮と歩兵第五二連隊の廃止)
こうした世論の流れは当然
陸軍
に対しても向けられた。,当然
陸軍
部内では批判が上がった。,再び
陸軍
の軍縮を要望する世論が高まった。 ,加藤高明内閣の宇垣一成
陸軍
大臣は、四個師団を廃止する思い切った軍縮を実行した。,多数の将校が予備役に編入され、施設・人馬の削減は
陸軍
内に甚大な影響を与えた。
通史編4(近・現代1)
(第一次世界大戦の衝撃)
陸軍
大演習の実施もその一つである。大戦二年目の大正四年、弘前市近郊で
陸軍
大演習が開催された。,
陸軍
は各地で大演習を開催し、軍事作戦上の対策を練りつつも、各地の人々に軍事思想を普及させようとしてきた,写真156 弘前での
陸軍
大演習 大正四年(一九一五)の大演習も同様だった。,今回の大演習は、弘前市民はもちろん、政府や
陸軍
当局にとっても重要な意義をもっていたのである。
通史編4(近・現代1)
(歩兵第三一連隊の移転問題)
そのため
陸軍
省では三一連隊を盛岡ないしその周辺に移転する計画を講じていた。,第八師団設置の際もそうだったように、
陸軍
部隊の設置や移転は地元経済に甚大な影響を与える。,師団司令部のある地元弘前市周辺に連隊がなくなる事態だけは、
陸軍
省も避けたのである。,だが
陸軍
省は解散した五二連隊の跡地に三一連隊を移転することだけは、予定どおり実行に移した。
通史編5(近・現代2)
(野村三郎と五・一五事件)
野村三郎と五・一五事件 五・一五事件には、弘前から
陸軍
士官学校士官候補生野村三郎が参加している。,青森県立弘前中学校(現弘前高校)二年修了で、大正十四年四月一日東京
陸軍
幼年学校に入校、昭和三年三月同校,を卒業し、四月一日
陸軍
士官学校予科入校、昭和五年三月卒業、士官候補生として歩兵第三一連隊(弘前)に入隊,、同年十月一日本科生徒として
陸軍
士官学校に入校、五・一五事件参加のため昭和七年五月二十五日退校、六月十一日士官候補生,その後
陸軍
省の後援で満州へ渡り、満州国軍に入り、中尉に任官、ロシア語が得意だったので、三江省佳木斯(チャムスク
通史編4(近・現代1)
(帝国在郷軍人会の設立)
明治四十三年(一九一〇)、
陸軍
当局は
陸軍
の予備役・後備役の軍人を会員とする帝国在郷軍人会を設立した。,それ以前からも在郷軍人団体は市町村ごとにあったが、
陸軍
当局は軍隊と国民を結合する必要性を痛感し、これらの,帝国在郷軍人会は第二次山本権兵衛内閣の田中義一
陸軍
大臣が、社会運動や労働運動など、社会主義思想に対抗するための
通史編4(近・現代1)
(公園開設)
津軽家でも弘前城跡の払い下げを再三請願したが、
陸軍
省では将来的に必要になる目的があるといって、払い下げは,同年七月十日に
陸軍
軍吏が実地取調べに出張し、翌二十七年九月五日に指令があって、城跡総面積一四万四八三九坪,そのころの様子については、「廃藩後地は
陸軍
省の所轄となって門扉を閉せしこと二十有余年、大達荊棘を茂生し,二十九年になると、
陸軍
ではかねて計画どおり第八師団を弘前市に設置することになったが、その司令部を旧城内,そこで弘前公園も
陸軍
に明け渡し、別に公園を求めねばならないのではないかという心配が起こった。
通史編4(近・現代1)
(ロシア戦への意識と第八師団の設置)
陸軍
当局は外征軍構築のために師団の拡張を意図し、海軍当局は北方警備の拠点を構築すべく軍事力の整備を進めた,戦後、
陸軍
当局は師団の倍増を計画し、明治二十九年(一八九六)三月十六日、
陸軍
管区を改正した。
通史編4(近・現代1)
(公園の払い下げ)
三十一年七月に、三の丸の五万一〇一八坪が
陸軍
兵器支廠用地として
陸軍
省に引き渡された。,これは、地上物件について
陸軍
省の干渉が多く、そのため維持費が増えたばかりでなく、最初に希望した将来の払
通史編5(近・現代2)
(青年学校振興運動)
そのため、昭和十六年三月十日の
陸軍
記念日を期して、青年学校振興運動が開始された。
通史編5(近・現代2)
(弘前市にとっての第八師団)
日中戦争以降、師団が大増設されるまで、
陸軍
部内でも師団長は天皇に直隷し
陸軍
次官や参謀次長より上位とされていた
通史編5(近・現代2)
(忠霊塔の建設)
当時の弘前師団の軍用土地建物係のHは、忠霊塔が一面
陸軍
墓地の性質を帯びているので建設に関係していた。,このときも市長は活躍し、
陸軍
被服本廠の特別協力を得、迎えにいった市民の手で、青山石勝で彫った元第八師団長菱刈大将揮毫
通史編4(近・現代1)
(軍艦見学)
小学生に対する軍事思想の普及は、
陸軍
にあっては軍旗祭への招待や発火演習の見学、海軍にあっては入港の際の
通史編4(近・現代1)
([口絵])
角み宮川呉服店内部 口絵21 川口染工場の染色場 †第八師団創設† 口絵22
陸軍
第八師団,大正7年陸奥鉄道開通 口絵53 青森県初のデパートメントストア「角は宮川」 †大正4年
陸軍
大演習
通史編5(近・現代2)
(誘致賛成論)
旧
陸軍
のように農地を荒らしたり、進駐軍のように婦女子を陵辱したりする恐れもない。,戦前・戦中、
陸軍
大演習で使用された山田野は、演習地として適切であり、道路も改修改良され架橋も増加されて
通史編4(近・現代1)
(不況からの脱却)
このような活況の背景としては、第一次世界大戦時とその後の景気動向の好転があるが、弘前市においては、
陸軍
第八師団
通史編5(近・現代2)
(秩父宮殿下の御来弘)
秩父宮殿下の御来弘 秩父宮雍仁(やすひと)親王殿下には
陸軍
歩兵少佐に御昇任と同時に、弘前歩兵第三一連隊大隊長
通史編4(近・現代1)
(動く写真)
そのフィルムは大日本
陸軍
凱旋大観兵式の様子を映したものであったが、ほかに日本名所巡り、奇術魔術などの娯楽物数篇
通史編5(近・現代2)
(独立校舎への夢)
、昭和二十三年四月、市立高女と同居していた曙町の旧第三一連隊兵舎から、富田町安原(現豊原一丁目)の旧
陸軍
野砲兵第八連隊兵舎
通史編4(近・現代1)
(日清戦争と郷土部隊の出征)
陸軍
当局が軍夫を募集した際にも、軍夫として戦地に赴きたいとする団員が続出した。,けれども
陸軍
当局は正規の徴兵と募集以外に、義勇団員たちを任意に軍夫とすることに否定的だった。
通史編5(近・現代2)
(軍隊と皇室(皇族))
秩父宮(ちちぶのみや)と三笠宮(みかさのみや)は
陸軍
将校、高松宮(たかまつのみや)は海軍将校となっている
通史編4(近・現代1)
(村の実情)
「人民の無事安穏を保障するために政府、県庁、海・
陸軍
、裁判所、警察署、病院、師範学校等があって、その費用
通史編5(近・現代2)
(宗教団体法の成立)
しかし、キリスト教に対する圧迫は強く、昭和十六年十一月東奥義塾は退役
陸軍
中将浅田良逸男爵を塾長に迎えた
通史編5(近・現代2)
(弘前実業高校の県立移管)
第一校舎、蔵主町校舎を第二校舎と呼び、共学とはなったものの、男女分かれての出発となったが、同年九月には旧
陸軍
一六部隊跡地
通史編4(近・現代1)
(弘前女学校)
この年十月には、弘前で
陸軍
特別大演習が行われ、弘前女学校の生徒も天皇以下関係者の歓送迎に毎日忙しい日を
通史編4(近・現代1)
(荒城の桜)
なお、大正四年には、
陸軍
大演習が催され、弘前は空前のにぎわいを呈したが、この際天皇の行幸があったため、
通史編5(近・現代2)
(東亜連盟)
昭和十五年十月十二日召集解除となり、
陸軍
伍長で営門を出た。
通史編5(近・現代2)
(柴田女子高校の繁栄)
と短大は北瓦ヶ町に、中学校は高校敷地内に再建されたが、時を同じくして起こった高校生急増対策として、旧
陸軍
通史編5(近・現代2)
(バス事業の復興・伸展)
そこで、同社は、幹線道路の除雪のために昭和二十七年に旧
陸軍
の中型戦車を二台購入し、その前部に除雪板を取
通史編5(近・現代2)
(日中戦争の勃発への着手)
もともとこの法律自体は、時の
陸軍
大臣宇垣一成が行った軍縮政策にちなんで制定されたもので、徴兵令では兵役義務,そのなかに弘前師団司令部が弘前
陸軍
病院からの申し出を受けて、勤労奉仕を要請している文書がある。
通史編4(近・現代1)
(初めての常設館・慈善館)
ここは、富田の師団通りにつながっていたので開業当初から繁盛し、翌四年の
陸軍
特別大演習の人出に備えて増築
通史編4(近・現代1)
(出家と禅画)
次兄正雄が
陸軍
将校という家庭環境で、忠三も中学卒業後、進学のため上京した。
通史編5(近・現代2)
(市立商業高校と市立女子高校)
蔵主町の市立商業校舎に移されることになり、市立商はやむなく原ヶ平中野(現中野一丁目、文京小学校敷地)の旧
陸軍
被服倉庫跡
通史編5(近・現代2)
(開校時の学習)
ニメートルほどの通路があり、その左右は寝台用に一段床が高くなっており、隅には旧軍の銃架が残っていて、旧
陸軍
内務班
通史編3(近世2)
(箱館の攻防)
箱館の攻防 十一日未明、有川・七重方面から三手に分かれて進軍をはじめた政府
陸軍
は旧幕府軍の必死の防御
通史編4(近・現代1)
(町の様子)
旧城地は全部
陸軍
省用地となってからは、旧城の御殿を初め各建物や門・塀・柵・橋梁を其朽腐任して仕舞ふた。,まんまと旧城地全部十五万坪に外濠を加へたもの如何なる名義で借かれ(ママ)たかは筆者の知る所でないが、
陸軍
省
通史編4(近・現代1)
(東奥義塾の再興なる)
このころ、
陸軍
大臣から在学中の徴兵延期、卒業後の
陸軍
幹部候補生としての資格が与えられるなど、公立中学校
通史編5(近・現代2)
(虚弱な少年時代)
十六年と十八年に
陸軍
報道班員としてフィリピンに派遣される。
通史編4(近・現代1)
(『曠野の花』に描かれた笹森儀助)
このころの笹森の面目躍如たる姿は、当時
陸軍
大尉で諜報(ちょうほう)活動に従事していた石光真清の手記『曠野
通史編5(近・現代2)
(秩父宮夫妻と弘前市民)
秩父宮夫妻と弘前市民 秩父宮は
陸軍
内での階級と身分こそ少佐であり大隊長だった。
通史編4(近・現代1)
(生い立ち)
重治は四歳にして父を失ったが、長兄久吉(きゅうきち)が東奥義塾から明治八年
陸軍
教導団に入って働く母とともに
通史編4(近・現代1)
(大正天皇の来迎と弘前市民)
しかし
陸軍
当局は第一・第七・第八・第一四師団による大演習を十月中旬に実施するよう決定している。
通史編4(近・現代1)
(日露戦争と小学校)
また、弘前予備病院(後の
陸軍
病院)に入院した負傷兵の慰問、あるいは戦地の将兵を励ます慰問文も児童たちの
通史編4(近・現代1)
(大正期の弘中)
この年に軍事教練が正課となり、市内中学校には現役の
陸軍
将校が配属されている。
通史編3(近世2)
(政府軍の乙部上陸)
その情報により、政府軍はあらかじめ決められていたとおりの順番で
陸軍
部隊が上陸を果たしたのであった。
通史編5(近・現代2)
(歩兵第三一連隊移転問題)
歩兵第三一連隊移転問題 昭和四年(一九二九)六月、盛岡市では歩兵第三一連隊の移転を求める決議をなし、
陸軍
当局
通史編5(近・現代2)
(在府町に生まれる)
イングの影響力は強く、羯南は同窓の一戸兵衛(いちのへひょうえ)(
陸軍
大将)、伊東重(いとうしげる)(医師
通史編5(近・現代2)
(市民の政治意識の変化)
政友派は七十二歳の石郷岡文吉元市長を立て、後れて民政派は弘前出身で東京居住の予備役
陸軍
少将三浦真を候補
通史編3(近世2)
(藩兵の整理)
「常備兵」が編成されるまでの「予備軍」と呼ばれ、教官吉野芳次郎が招聘(しょうへい)されて、フランス式
陸軍
操法
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