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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (武士と庶民の喧嘩)

今と川元は武士としての身分は定かでないが、事件の顛末を取り調べられ、家老の笠原八郎兵衛宅で隠居を申し渡,江戸時代の武士の隠居には、罪科(ざいか)隠居・願出(ねがいで)隠居の別があった。,この判決例にみえる隠居は、刑罰として強制的に隠居を命じられる罪科隠居のことである。
通史編3(近世2) (天徳寺)

貞昌寺三世良城が隠居所とし、信枚へ茶道を教え、御目見寺院の列に加えられた。,寛永十七年(一六四〇)、信義が来寺し、隠居料五〇石を与えようとしたが辞退し、下屋敷一軒を願い出たという
通史編3(近世2) (養老礼)

招請者は無役隠居の身で六十歳以上、徳行の高い者であった。,この時は「三老」が堀蓮水(御家老隠居 八十余歳 病欠)、「五更」は山野十右衛門(御馬廻組頭 七十余歳)
通史編3(近世2) (全昌寺)

全昌寺 全昌寺(ぜんしょうじ)は、京徳寺四世松室の隠居所として海蔵寺と宝積院の間に創建された。
通史編3(近世2) (誓願寺)

)の創建を「津軽一統志」は慶長元年(一五九六)とするが、「山崎専称寺並末寺由緒記」は同十九年に岌禎が隠居所,慶長十九年(一六一四)の隠居と、同十四年の寺領の寄進に矛盾があるが、ここではいずれも慶長のころとみたい
通史編3(近世2) (遍照寺)

「浄土宗諸寺院縁起」は、承応三年(一六五四)、貞昌寺六世無角が隠居所として創建したとする。
通史編3(近世2) (革秀寺)

革秀寺 革秀寺(かくしゅうじ)は、慶長三年(一五九八)に為信が禅の教えを受けた格翁の隠居所として藤崎村
通史編2(近世1) (一 伏見杉板の賦課)

秀吉は、翌文禄元年(一五九二)早々に関白の政庁としての聚楽第(じゅらくだい)を秀次に譲り渡し、自らの隠居
通史編3(近世2) (一一代順承の治世)

順承はすでに天保十年(一八三九)に隠居した一〇代信順の後を受けて藩政を主導していたが、以後安政六年(一八五九,)の隠居まで、二〇年間にわたって幕末期藩政の舵取りを行った。  ,しかしこの段階になって隠居中の信順がそれを拒否したことから騒ぎは始まった。,一一代順承(ゆきつぐ)は安政六年(一八五九)に隠居したが、時代はまさに文久・慶応の激動期を迎えようとしていた
通史編3(近世2) (藩主の位牌を盗む)

藩主の位牌を盗む 曹洞宗盛雲(せいうん)院(現市内西茂森一丁目)隠居、海中(かいちゅう)の弟子である
通史編3(近世2) (清安寺)

清安寺 清安寺(せいあんじ)は、天正二年(一五七四)、長勝寺三世密田が赤石村(現西津軽郡鰺ヶ沢町)に隠居所
通史編3(近世2) (稲荷宮)

弟子の貞昌寺隠居入誉が、貞昌寺内に勧請したところ、この稲荷を祀る所が繁栄するというので、宝永五年(一七
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

えんよ)の図  文化五年(一八〇八)十二月、表高一〇万石に高直りした当藩では、家格が高まったとして隠居中,この事件に先立つ天保三年七月、信順の庇護(ひご)者であり、隠居の身だった前藩主寧親(やすちか)が他界すると,内容は生産性の上がらない鉄山・銀山・塩田・牧場などの開発運営の中止などが中心であったが、一部に寧親の隠居料一万石,津軽多膳は信順が隠居した天保十年(一八三九)に再び家老になるが、これに先立つ天保七年(一八三六)九月、,蝦夷地警備遂行は困難と判断した幕府が圧力をかけたため、信順排除の運動が広まり、天保十年五月、ついに信順は隠居
通史編3(近世2) (白狐寺)

弟子の貞昌寺隠居入誉が貞昌寺内に勧請したが、信政が宝永五年(一七〇八)新寺町に稲荷宮を創建し、別当を白狐寺
通史編3(近世2) (津梁院)

津梁院 常福寺本祐は、藩の所有する上野の菜園に隠居所を建て、信枚の法号により津梁院(天台宗、現東京都台東区
通史編2(近世1) (近世中期の三人の藩主)

享保十六年(一七三一)に隠居した祖父信寿の跡を継いだ信著(のぶあき)(一七一九~一七四四)の代における
通史編3(近世2) (浄土宗)

熊谷(くまがい)稲荷を新寺町に創建(現新寺町稲荷神社)し、別当白狐寺(びゃっこじ)を新たに造り、貞昌寺隠居入誉
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

三戸南部氏は高信を大将に、小本隠居(おもといんきょ)(入道)・金浜隠居(かなはまいんきょ)という二人を,小本隠居(船越修理)は、閉伊郡小本(おもと)(岩手県下閉伊郡岩泉町)の、金浜隠居(通称円斎または円松斎
通史編3(近世2) (毛内宜応)

宝暦八年家督三〇〇石を継ぎ、足軽頭を務めたが、天明二年に病身を理由に御役御免を願い隠居を申し出た。,隠居後も経世への志は薄らぐことがなく、その方面の著述が少なからずある。
通史編2(近世1) (伏見指月城の普請)

普請当初は隠居所にふさわしく小規模のものであり、また当時朝鮮出兵も重なって、その造営はあまり進んではいなかった
通史編2(近世1) (天保飢饉と一揆・騒動)

七年飢饉のあと、素行に問題があるとされた藩主津軽信順(つがるのぶゆき)は天保十年(一八三九)五月に幕府から隠居
通史編3(近世2) (為信)

さらに隠居のため誓願寺を創建し、開山となった(同前No.四〇八)。
通史編2(近世1) (刑罰体系)

⑥栄誉刑(名誉刑)――役儀取上(やくぎとりあげ)・叱(しかり)・隠居である。,隠居には自発的なものがあるが、武士が刑罰として強制的に隠居を命じられる閏刑を意味する。
通史編3(近世2) (一二代承昭の襲封)

同十二月土佐守に任官、翌五年十二月四品(しほん)(従四位)に叙され、安政六年(一八五九)に一一代順承の隠居
通史編2(近世1) (藩政の転換と家臣団統制の動き)

文武奨励、礼の重視、異風の身なりの禁止、職務精励等、藩士としての心構えを定めたものであり、藩主信寿が隠居
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

基本的に上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三屋敷があり、上屋敷は藩主やその家族が住む公邸、中屋敷は隠居,二十八日、今朝、明番となったが、御隠居様が下屋敷へおいでになるので付き従うよう命じられ、午前八時出発する
通史編2(近世1) (相馬大作事件)

秀之進はこのことに不満を抱き、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには江戸城
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

つまり、伏見城は、当初の秀吉隠居城という性格が完全に払拭(ふっしょく)され、木幡山城の段階には、明確に
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

(3)頼平は比内に隠居。
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

清安寺 同右 長勝寺 天正年間 (一五七三~九二) 為信の室の清安 密田 同右 長勝寺三世密田和尚の隠居庵,岩城専称寺 慶長元(一五九六) 為信 岌禎 大光寺 (平賀町) 新町 為信が貞昌寺を建立したとき、岌禎の隠居所
通史編2(近世1) (金木屋日記にみる対外危機)

老中阿部正弘)の御世話で水戸さん(水戸斉昭(なりあき))が出たよ、(中略)一、あまり騒かしさのまゝに、水戸の隠居
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

そして、藩主信政が隠居した場合、隠居料の確保は「御譜代之侍」の召し放ちによるような状況で、新藩主が跡を
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

明治七年九月二十七日隠居し、明治十年(一八七七)六十三歳で生涯を終えた。  
通史編2(近世1) (文久の面改め)

特に武士の商売は藩にとっても望ましいことでなく、隠居や子弟が「田屋所(たやしょ)」(農地の耕作・管理のために
通史編4(近・現代1) (町の様子)

御社参や、御墓参や、旧藩士の当主、長男、隠居したものにまで一同拝謁を賜はった。
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

5月28日 幕府,神奈川・長崎・箱館を開港 8月27日 徳川斉昭を永蟄居,同慶篤に差控え,同慶喜を隠居謹慎処分
通史編2(近世1) (公家との関係)

宝永元年(一七〇四)、「家門譜代」の由緒から基熈(もとひろ)の隠居領分という名目で、以後一〇〇〇石分を
通史編3(近世2) (第一次藩政改革と特色)

たとえば、七四の役職が廃止になったといっても、同時に藩は「役免并隠居嫡子准席定(やくめんならびにいんきょちゃくしじゅんせきさだめ
通史編3(近世2) ((二)相撲興行)

この黒塚は、沖ノ石・稲妻とともに、隠居した平戸藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ)が信政より借りて相撲をとらせたこともあった
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――留守居組杉山田万之助病身につき隠居申
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