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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(青森1~2)
青
森
1~2
青
森
1
青
森
市石江字高間-神明宮境内-
青
森
2
青
森
市宮田字玉水-念心寺墓地- /
青
森
1~2
通史編2(近世1)
(青森町の成立と青森開港)
青
森
町の成立と
青
森
開港 右のような歴史的な背景の中で、同藩が、外浜(そとがはま)地帯に新たな町づくりと,(本項は、『新
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森
市史』別編1 教育(1)第一章第一節の「
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森
町の成立」一九九八年
青
森
市刊に多くをよっている,
青
森
の東側、堤川(つつみがわ)にはいまだ橋が架かっておらず(『新編
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森
県叢書 七
青
森
市沿革史』一九七三年,図80.
青
森
海上泛船船中眺望図 正保二年(一六四五)の「陸奥国津軽郡之絵図」(
青
森
県立郷土館蔵,加えて前掲『新編
青
森
県叢書 七
青
森
市沿革史』の寛永二十一年(正保元年、一六四四)条に、
青
森
での越前町成立 /
青
森
町の成立と
青
森
開港
通史編5(近・現代2)
(青森銀行の誕生)
しかし、八行のうち三行(第五十九・
青
森
・佐々木銀行)を除く五行(八戸・津軽・
青
森
商業・弘前商業・板柳銀行,、新銀行の商号 株式会社
青
森
銀行 一、同本店
青
森
市(第五十九銀行
青
森
支店跡) 一、合併比率 板柳,』)
青
森
銀行の誕生により、県下の普通銀行は
青
森
銀行のほか、佐々木・
青
森
商業・弘前商業銀行の四行に,十九年六月、
青
森
銀行は佐々木、弘前商業銀行を相次いで吸収合併し、県下の普通銀行は
青
森
銀行と
青
森
商業銀行,図1
青
森
県内銀行系統図 図1
青
森
県内銀行系統図 /
青
森
銀行の誕生
通史編3(近世2)
(青森商社の設立)
青
森
商社の設立 このような実態を踏まえて、この項ではそれに続く維新期の商品流通の様相を
青
森
商社という,
青
森
市刊)に依拠して論を進めたい。 ,藩主導の対蝦夷地交易を目的とした西洋型商社が、
青
森
商社である。 ,その後、商社組織は順次固められて行き、
青
森
に本局が、弘前に取次所が設置され、六月十六日に
青
森
では頭取に,こうして箱館戦争が終結した後、
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森
商社は本格的に活動を開始したのである。 /
青
森
商社の設立
通史編1(古代・中世)
(田村麻呂と青森)
田村麻呂と
青
森
前項で述べたように、著名な坂上田村麻呂は、史実としては現在の
青
森
の地までは来ていない,中央政府の東北経営が、現在の
青
森
県域内の地にかかわるようになってくるのは、文室綿麻呂の時代まで待たなくてはならない,しかしながら、現
青
森
県域にも、東北地方一般にそうであるように、少なからず坂上田村麻呂伝説が存在する。 / 田村麻呂と
青
森
通史編2(近世1)
(青森騒動の経過)
青
森
騒動の経過 天明三年七月十九日夜、諏訪(すわ)社(現
青
森
市栄町。,当時堤川中州にあった)および毘沙門(びしゃもん)境内(現香取神社、
青
森
市長島)にそれぞれ一〇〇人ほどの,図126.騒動勢が集結した
青
森
の諏訪神社 その数は三~四〇〇〇人といわれる。,当時の
青
森
町の人口が七~八〇〇〇人と推定されるから、まさに惣町を挙げての運動であった。,各所持米・雑穀俵数は『
青
森
沿革史』(
青
森
市役所蔵版,1909年)。 /
青
森
騒動の経過
通史編1(自然・原始)
(一 青森県の気象)
一
青
森
県の気象
青
森
県の気象変化は、高・低気圧や前線の動向のほかに、日本列島周辺あるいは広い領域の,本州の北端に位置している
青
森
県は、地形・海況(かいきょう)などが複雑で、同じ県内であっても毎日の天気や / 一
青
森
県の気象
通史編2(近世1)
(青森以外の町の騒動)
青
森
以外の町の騒動 天明三年七月以降、
青
森
騒動に触発される形で領内各地で打ちこわしが発生した。,
青
森
と並ぶ津軽領の主要港である鰺ヶ沢でも、七月二十二日に廻米の停止、米留番所の廃止、小売り米の値下げ(,騒動のプロセスおよび要求の内容など
青
森
と共通する部分が多い。,実際に藩領を越えた八戸でも「大南(部脱)野辺地一揆、津軽、
青
森
一揆の書付参候而大に驚、風説まち/\なり,野辺地での騒動にも同じ陸奥湾岸に面する
青
森
騒動の影響がみられる。 /
青
森
以外の町の騒動
通史編4(近・現代1)
(弘前県から青森県へ)
弘前県から
青
森
県へ 九月五日野田豁通(ひろみち)が弘前県大参事に任ぜられた。,野田と
青
森
県の結びつきは箱館戦争以来である。,伺いは、第一に県庁の
青
森
移転、すなわち弘前県が消えて
青
森
県が誕生するということだった。,そして、九月二十三日、太政官布達第二号で「弘前県 其県庁
青
森
へ相移改て
青
森
と可称事」と
青
森
県を称することになった,図1
青
森
県の成立 それにしても、県庁を
青
森
へ移すことへの弘前人士の反対運動があまり表面化しなかった / 弘前県から
青
森
県へ
通史編5(近・現代2)
(青森県の賃金動向)
青
森
県の賃金動向 昭和五十四年に、
青
森
県内の六つの商工会議所とむつ、三沢の商工会は、県内八市につき、,これにより、安定成長過程での
青
森
県の賃金動向を見てみよう(以下、『弘前商工会議所会報』二六九による)。,これに対して
青
森
県は、初任給の上昇率が六・四%で、前年の六・九%を下回った。,五十四年の初任給上昇率六・四%は、その前に行われた
青
森
県の最低賃金の改定率六・五%とほぼ一致していた。,なお、改定された
青
森
県の最低賃金は一日当たり二三七三円であった。 /
青
森
県の賃金動向
通史編3(近世2)
(青森商社の終末と意義)
青
森
商社の終末と意義 経営が長期に続いていけば大きな利益があがると見込まれていた
青
森
商社の結末は、ひとつの,それは商社に参加した
青
森
側商人と弘前側商人の立場の違いから生まれた。,ところが、
青
森
商社が設立されて弘前商人が加担商人として参加するようになると、彼らはそうした
青
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の市場を,さらに、商社は
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森
が本局とされたのに、支局の弘前側が主導権を掌握するのは耐え難いことであった。,廃藩置県によって
青
森
商社の活動は停止し、日記を書き連ねた彦太郎も同年病死した。 /
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森
商社の終末と意義
通史編1(古代・中世)
(青森県の古墳文化)
青
森
県の古墳文化
青
森
県で古墳文化の影響が明確になるのは、この古墳時代中期に入ってからで、年代的には,注目すべき例として、県東側の天間林村
森
ヶ沢遺跡の土坑墓(どこうぼ)群からは、続縄文文化後半期の北大(ほくだい,津軽地方では
青
森
市細越館遺跡で南小泉式前半期(五世紀前半)の土師器高坏(たかつき)・坩(かん)などが出土,写真2
森
ヶ沢遺跡出土の土師器・須恵器・北大式土器 図2 細越館遺跡出土の土師器
青
森
県 /
青
森
県の古墳文化
通史編5(近・現代2)
(青森県工業試験場)
青
森
県工業試験場
青
森
県は、明治四十年(一九〇七)から染織に関する技術員を採用し、染色業の指導奨励のため,タンクを設置して保温設備をすることで熟成期の短縮を図り、造石高は年々増加して、県外移出も増加した(『
青
森
県工業試験場要覧,』
青
森
県工業試験場、一九三九年および前掲『
青
森
県総覧・復刻本』)。 ,そこで、ここに『昭和十四年
青
森
県工業試験場要覧』から業務内容を示そう。 /
青
森
県工業試験場
通史編3(近世2)
(青森商社と帰田法)
青
森
商社と帰田法 帰田法(きでんほう)については前項で詳述したので、ここでは
青
森
商社との関連性について,当時、新規家業が認められていたのは弘前・
青
森
・鰺ヶ沢の町場にすぎず、土地を強制的に取り上げられる在方の,の阿部賢吉(けんきち)家では、同年閏十月に再三にわたって献田願いを藩に提出し、自分の家は五所川原にも
青
森
,蝦夷地に酒を売るためには、結局は藩が経営を操作する
青
森
商社の販路に乗らねばならず、その意味では在方地主,もちろん、
青
森
商社・帰田法・大規模改修工事といった各施策は開始時期がそれぞれ異なっており、最初から藩が /
青
森
商社と帰田法
通史編4(近・現代1)
(青森県立弘前中学校の変遷)
これが
青
森
県中学校で、明治十九年一月十一日、
青
森
新町に新築、開校された。,その後、明治十九年、
森
有禮によって公布された「中学校令」によって、
青
森
県中学校は発足二年足らずで
青
森
県尋常中学校,明治二十二年(一八八九)五月一日、
青
森
尋常中学校は弘前側の運動によって、
青
森
から弘前市元寺町に移転した,明治二十八年(一八九五)三月、県は告示第三三号をもって、これまでの
青
森
県尋常中学校を
青
森
県第一尋常中学校,三十二年四月には、新たな中学校令が定められ、尋常の二字を削除して、それぞれ
青
森
県第一中学校、
青
森
県第二中学校 /
青
森
県立弘前中学校の変遷
通史編5(近・現代2)
(青森県りんご協会の発足)
青
森
県りんご協会の発足
青
森
県りんご協会の設立は、昭和二十一年(一九四六)三月の苹果振興委員会の答申,そして、同年九月二十四日、りんご祭りの日に創立総会が開催され、
青
森
県りんご協会が発足することになった。,なお、会長には相馬友彦(竹舘村相馬貞一の長男)、専務理事に外崎正義が就任した(前掲『
青
森
県りんご百年史 /
青
森
県りんご協会の発足
通史編5(近・現代2)
(青森師範学校の弘前市移転承認)
青
森
師範学校の弘前市移転承認
青
森
師範学校は昭和十八年の文部省直轄学校官制の改正により、
青
森
県師範学校,と
青
森
県女子師範学校を統合して設置された。,昭和二十年七月二十八日の米軍機の
青
森
空襲によって、同校校舎、附属国民学校校舎を焼失、授業は
青
森
市、弘前市,師範学校当局は
青
森
市に残ることを希望したが、
青
森
市は戦災復興で師範学校存置まで手が回らず、結局、葛原運次郎市長,写真139
青
森
師範学校として使用された旧兵器庫跡 /
青
森
師範学校の弘前市移転承認
通史編4(近・現代1)
(青森県における普通運動)
青
森
県における普通運動
青
森
県においても、納税額によって選挙権を決めることの錯誤は、すでに大正三年の,大正七年九月十六日、
青
森
市公会堂において憲政会
青
森
県支部大会が開かれ、加藤高明総裁ら党領袖(りょうしゅう,これに対し、同年十二月十二日の政友会支部総会の決議の第一は米価の暴落による農民救済、第二は
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森
港改築の,大正十一年二月二十二日、
青
森
市公会堂において
青
森
記者団は普選大会を開いた。,また、五所川原
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年会長外崎千代吉も、
青
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市歌舞伎座で工藤日東とともに普選断行演説会を開いた。 /
青
森
県における普通運動
資料編1(古代・中世編)
(二 青森県の板碑分布)
二
青
森
県の板碑分布 県内で最も古い板碑は、弘前市鬼沢字二千苅にある文永四年(一二六七)の板碑である,
青
森
県内の板碑は、津軽地方に圧倒的に多く見られる。,もっとも三沢市の玉泉寺、七戸町字町の
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岩寺などにも板碑が保存されているが、他の地域からの移入であり、古,なお、
青
森
湾岸には
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森
市内に二基あり、そのうち石江神明宮の板碑は、菅江真澄の写生画が正しいとすれば第一 / 二
青
森
県の板碑分布
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
一
青
森
開港と初期海運 慶長八年(一六〇三)、江戸幕府が成立した後、海運を通じた北奥地方と上方との経済的関係,津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか近世初期に
青
森
・鰺ヶ沢・深浦等の湊も / 一
青
森
開港と初期海運
通史編5(近・現代2)
(青森医学専門学校の弘前市移転)
青
森
医学専門学校の弘前市移転 昭和二十一年(一九四六)七月、文部省は医学教育の振興充実を図るため、医学専門学校,の医科大学昇格を決定して、県や
青
森
市に大学昇格の準備方を依頼してきた。,ここにおいて
青
森
医学専門学校の
青
森
市存続運動、弘前市の誘致運動、加えて八戸市も医専誘致の意思のあることを,写真140 第18代・19代・21代市長 岩淵勉 文部省では
青
森
医専を設備不十分ということで、,こうして昭和二十二年二月二十二日、
青
森
医学専門学校は弘前市への移転が決定し、同二十六日の閣議で、
青
森
医専 /
青
森
医学専門学校の弘前市移転
通史編4(近・現代1)
(後藤象二郎の青森県遊説)
後藤象二郎の
青
森
県遊説 後藤象二郎は、明治二十一年八月二日、秋田県大館を発して弘前に至り、酔月楼に投宿,それなのに「嗚呼鹿鳴夜会の燭光は天に冲するも重税の為に餓鬼道に陥りたる蒼生を照すことは出来ない」とし、
青
森
県民,後藤は翌五日弘前を発し、
青
森
へ至る途中浪岡で旧大杉地区の政治結社博愛社の招待を受け、一場の演説を試み、,博愛社は明治二十一年の市町村制の公布を受けて、大杉村(のち浪岡町、現
青
森
市)の若手の指導者たる工藤善太郎,衆議院議員となり、憲政会・民政党の県下の指導者となり、西村も村会議員、郡会議員となり、天内も郡役所吏員、村
青
年会会長 / 後藤象二郎の
青
森
県遊説
通史編5(近・現代2)
(官立青森医学専門学校の開学)
官立
青
森
医学専門学校の開学 大正期以降、国民の上昇する進学要求の充足を目指して量的拡大を続けてきた専門学校教育,対米開戦後には医学専門学校の新設が相次ぎ(前橋〔昭和十八年〕、松本〔同十九年〕)、米子・徳島〔同二十年〕)、
青
森
県,においては
青
森
医学専門学校が「戦時要員としての医師養成」を目的に昭和十九年三月二十八日に
青
森
市に設立された,写真75 創立のころの
青
森
医学専門学校 / 官立
青
森
医学専門学校の開学
通史編4(近・現代1)
(青森県の農民運動)
青
森
県の農民運動 大正十年(一九二一)十一月六日、浪岡労働組合が発足した。実態は農民組合である。,当日は村の休み日になって居る為に集まる者百余名、
青
森
大沢、弘前丸尾・殿村・本多・瀬尾・鳴海の政治研究会支部員臨席,岩淵家にお世話になって、車力村を中心に附近の農村をみて廻りましたが、あまりの実情に、
青
森
県農民の姿としての,労農党員 石岡彦一
青
森
県中津軽郡清水村大字下湯口 日本農民組合総本部御中 石岡彦一 /
青
森
県の農民運動
通史編3(近世2)
(松前方面の攻防と青森)
松前方面の攻防と
青
森
蝦夷地における旧幕府軍は、箱館府軍勢を退けた後、十月二十六日、無人の五稜郭を占拠,同七日中には
青
森
にいた杉山上総(かずさ)らからも、三厩(みんまや)から報知された五日の松前城落下における,同月十日、三厩に派遣されていた斥候が松前城陥落とその後の城下の様子を報告し、翌十一日には軍議が
青
森
において,既に斥候隊が派遣され、兵糧米などを送っており、
青
森
に滞在していた各藩兵の出兵準備が整えられつつあった。,弘前藩は
青
森
港の警備を一手に任されていたが、総攻撃の際、江差への出兵に自藩が除かれては「北門之御任」が / 松前方面の攻防と
青
森
通史編1(古代・中世)
(青森県内の田村麻呂伝説)
青
森
県内の田村麻呂伝説 東北地方には田村麻呂建立といわれる観音が多くあるが、
青
森
県内にも、小金山(こがねやま,)神社の入内(にゅうない)観音(現
青
森
市)・海満寺(かいまんじ)観音(現小泊村)・春日内(はるひない),このあたり、
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森
県域の独自の伝承といえようか。 /
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県内の田村麻呂伝説
通史編5(近・現代2)
(青森県における恐慌の影響)
青
森
県における恐慌の影響 昭和は憲政会の第一次若槻(わかつき)内閣で迎えた。,その結果、昭和七年の五・一五事件で政党政治が終焉(えん)を告げるわずか五年半の間に、
青
森
県知事は六人の,昭和二年三月、蔵相片岡直温(なおはる)の失言をきっかけに金融恐慌が始まるが、
青
森
県の恐慌状態が本格的になるのは,また、失業者は、昭和四年から五年にかけての
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森
・弘前・八戸三市とその付近の月々の統計では、一般労働者およそ /
青
森
県における恐慌の影響
通史編1(古代・中世)
(青森県下の情勢)
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森
県下の情勢 この「三十八年戦争」の間、比羅夫の時代に服属したはずの渟代・津軽地方の人々は、いつのころからか /
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森
県下の情勢
通史編5(近・現代2)
(全農青森県連合大会)
全農
青
森
県連合大会 昭和八年二月二十五日、全農
青
森
県連合大会が北津軽郡金木町(現五所川原市)金木劇場 / 全農
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森
県連合大会
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
対蝦夷地政策と
青
森
商人の商業活動 商業や貿易の面からみると、通商条約締結による外国貿易開始は、津軽地方,安政三年(一八五六)四月、
青
森
の廻船問屋滝屋善五郎は、同じく
青
森
の廻船問屋である藤林源右衛門とともに、,(現
青
森
市)大浦で製塩業を営むことを願い出た。,
青
森
商人の大村屋庄蔵・西沢善兵衛らは、箱館の外国商人との間に材木の売買契約を結んだ。,文久二年(一八六二)の
青
森
町年寄の藩への建白では、次のように述べている。 / 対蝦夷地政策と
青
森
商人の商業活動
資料編1(考古編)
(2.青森県の旧石器時代(図1))
2.
青
森
県の旧石器時代(図1)
青
森
県に関する旧石器時代の研究は、発見した遺跡等が少ないために進展していない,
青
森
県では、旧石器を出土する遺跡は20か所ほどあり、それらはすべて後期旧石器時代ないしそれ以降に属するものである,表1
青
森
県旧石器出土遺跡一覧表 遺跡 番号 時代 遺跡名 遺跡所在地 出土遺物 1 旧石器 物見台,弘前市大
森
字勝山 ナイフ形石器・彫器・スクレパー(掻器)ほか 19 〃 三内丸山
青
森
市三内字丸山,尖頭器 20 〃 三内
青
森
市三内字丸山 石刃 21 〃 淋代平 三沢市三沢字淋代平 ナイフ形石器 22 / 2.
青
森
県の旧石器時代(図1)
通史編5(近・現代2)
(青森県における小作人組合)
青
森
県における小作人組合 本県は、日本経済の中で低位な東北六県の中でもさらに経済的に最低である。,昭和元年の所得金額では、
青
森
県を一〇〇とすれば、福島一六八、山形一六三、宮城一六〇、秋田一三三、岩手一 /
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森
県における小作人組合
通史編5(近・現代2)
(国土総合開発計画の進展と青森県の位置)
国土総合開発計画の進展と
青
森
県の位置 国土総合開発計画審議の本格化に伴い、
青
森
県でも審議会が設けられた,(
青
森
県総合開発審議会『
青
森
県総合開発五ケ年計画』一九五一年) また、同審議会は次の基本構想を立てた,(同前) このような
青
森
県総合開発審議会の報告を受けて、
青
森
県は総合開発計画書を作成した。,なお、これと並行して、陸上に連絡する東北、奥羽両線の複線化をも考慮した(
青
森
県『
青
森
県総合開発計画書』,(
青
森
県企画部『昭和六十年度版
青
森
県の姿』
青
森
県統計協会、一九八六年) この後、
青
森
県は、政府の第三次全国総合開発計画 / 国土総合開発計画の進展と
青
森
県の位置
通史編4(近・現代1)
(県立弘前医学校(県立青森医学校))
県立弘前医学校(県立
青
森
医学校) 明治九年(一八七六)二月二十五日、
青
森
県参事塩谷良翰は、県会での医学生教育,医学生の指導者として、東京医学校卒業の中村良益を招聘し、十年三月一日
青
森
県立弘前医学校を親方町に開設した,西に偏在していて、県内各地から在学するのに不便だということで、一年足らずで翌十一年十二月二日をもって
青
森
浜町,ところが県令が山田秀典になると、これまでのことは一切廃して、医学校の設置地を
青
森
に変更したのである。,魚住校長は「(一)
青
森
ハ土地卑湿(二)飲水悪シ(三)海港ノタメ風俗淫猥(四)物価高シ」とし、「弘前ハ皆是 / 県立弘前医学校(県立
青
森
医学校)
通史編4(近・現代1)
(青森県の社会運動の始まり)
青
森
県の社会運動の始まり ところで、
青
森
県において労働問題、社会問題が社会運動となり、政治運動になるには,
青
森
県の『東奥日報』はそれを極めて好意的に紹介した。 /
青
森
県の社会運動の始まり
通史編4(近・現代1)
(青森県立弘前女子師範学校)
青
森
県立弘前女子師範学校 明治十年(一八七七)十二月五日、県は弘前に女子師範学校を設置するが、入学者,その後入学者が増えたものか、十三年度『
青
森
県学事年報』によると生徒数三五人になっていて、卒業者は一二人 /
青
森
県立弘前女子師範学校
通史編4(近・現代1)
(青森県における衆議院議員選挙)
青
森
県における衆議院議員選挙 第一回衆議院議員選挙は明治二十三年七月一日に行われたが、小選区制、連記法,
青
森
県の総人口は五四万七〇五五人で有権者は四九七二人、その比率は〇・九%にすぎなかった。,)、第二回自由党三人・改進党一人(工藤卓爾(改進)、工藤行幹、榊喜洋芽、菊池九郎)、第三回革新党(旧
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森
県自由党,明治三十五年八月の第七回から大正六年四月の第一三回までは大選挙区で、
青
森
市と弘前市を独立させ、市部は定員各一人,大正九年五月の第一四回及び大正十三年五月の第一五回総選挙は、選挙権は直接国税三円以上となり、選挙区は第一区
青
森
市 /
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森
県における衆議院議員選挙
通史編5(近・現代2)
(第三回青森県鉱産物品評会)
第三回
青
森
県鉱産物品評会 昭和四年(一九二九)九月十五日から一週間、弘前市時敏小学校において、第三回
青
森
県工産物品評会,この品評会は、
青
森
県内各地の製造業者が各種生産物を出品し、また、県外からの出品があった。 / 第三回
青
森
県鉱産物品評会
通史編4(近・現代1)
(地租増徴問題と青森県)
地租増徴問題と
青
森
県 地租軽減運動は、初期議会で地価修正を要求する西日本議員と税率軽減を主張する東日本議員 / 地租増徴問題と
青
森
県
資料編1(考古編)
(5.青森県における弥生時代の終局)
5.
青
森
県における弥生時代の終局 東北地方北部の弥生文化も、中期後半の田舎館式期を境にして衰退したのであろうか,かつて渡島半島沿岸の漁民が、せいぜい
青
森
県沿岸の集落で入手し得た物資が、集落の激減により、かなり南下した / 5.
青
森
県における弥生時代の終局
通史編5(近・現代2)
(青秋林道建設計画)
青
秋林道建設計画 白神山地に広がるうっそうとしたブナの
森
が大規模に伐採されたのは、昭和四十七年(一九七二,が秋田県八
森
町で結成された。,これに八
森
町を含む四町村長は副会長となり、本県の田沢吉郎代議士と秋田県の石田博英代議士は顧問となった。,八
森
町と西目屋村を結ぶ
青
森
県境奥地開発林道は、すでに八
森
町から同町の濁川林道まで一二キロが完成しているほか,を承認し、八月、秋田工区、
青
森
工区がそれぞれ着工した。 /
青
秋林道建設計画
通史編4(近・現代1)
(私設市連合青年団)
私設市連合
青
年団 明治末期から大正初期にかけて、弘前市の主な町内には
青
年会や
青
年団が、続々と結成されるようになった,益子は市内笹
森
町の人、明治二十五年渡米留学して神学を学んで帰り、母校東奥義塾で教壇に立ったが、転出して,
青
森
県
青
年団弘前支部の発会式が行われた。,この時点で
青
森
県
青
年団の実体は存在していなかった。,
青
森
県
青
年団第一回総会が開催された。 / 私設市連合
青
年団
通史編1(自然・原始)
(大森勝山遺跡)
大
森
勝山遺跡 昭和三十八年(一九五八)より弘前市教育委員会が実施した、岩木山麓の開拓事業に伴う事前の,埋蔵文化財緊急発掘調査の一環として、翌年には岩木山東麓の大
森
勝山遺跡が調査され、大型の竪穴住居跡・環状列石,
青
森
県は、他県などに比べて旧石器の発見は少ない。,弘前市大
森
勝山遺跡出土の旧石器(岡田康博実測) / 大
森
勝山遺跡
通史編5(近・現代2)
(弘前市青少年団)
弘前市
青
少年団 県
青
少年団の下に各郡市の
青
少年団の統合もなされ、団長も任命された。,弘前市
青
少年団長は市長乳井英夫、副団長は助役木立猛のほか神英造、笹
森
テサ、事務局長兼総務部長伊藤得治、,
青
年部長土屋直好、女子部長山屋不二夫、少年部長嘉瀬英夫が任命された。,このように
青
少年団は統合されたものの、実際の活動単位としては、小学校ごとに設置した団体であることは従前,ちなみに統合時の団員数は八八〇六人(
青
年団一〇九一、女子
青
年団一三七三、少年団六三四二)であった。 / 弘前市
青
少年団
通史編5(近・現代2)
(弘前青年学校の発足)
弘前
青
年学校の発足 時局の進展に伴い、
青
年学校の振興は急務とされた。,と専任教員を置いた独立
青
年学校の設置が要望された。,文部省ならびに県もそれを推進したが、独立した
青
年学校の設置は市町村が財源を確保しなければならず、
青
森
県内,その状況の中、昭和十七年(一九四二)四月一日、弘前
青
年学校が開校された。,写真63 高杉
青
年学校合宿訓練(茂
森
禅林において、昭和18年) / 弘前
青
年学校の発足
通史編4(近・現代1)
(県内青年の政治的自覚)
県内
青
年の政治的自覚 普選運動は本県でも
青
年の政治思想を刺激し、その普選の波に乗って現れたのが
青
森
の,そして、それまでの単位
青
年団が、助役や学校長を団長とする官制的なものであったのに対し、
青
年団は
青
年団自身,ロシア革命以後の時代風潮もあって、大正八、九年ごろから黒
森
山浄仙寺で南郡下の
青
年団中堅幹部の講習会が開,彼らの「自主化」は一部から
青
年団の赤化と言われた。大正十二年、黒石革新
青
年団は郡
青
年団から脱退した。,大正十四年になると、「未来は
青
年のもの」というキャッチフレーズで、無産
青
年運動が全国的に起こるようになった / 県内
青
年の政治的自覚
通史編5(近・現代2)
(青少年団の動向)
青
少年団の動向 時局が険しくなっていくにしたがって、全国の
青
年団、女子
青
年団、少年団に対し、統合強化,そのため、文部省は指令を与えて、昭和十六年(一九四一)一月十六日、大日本
青
年団、大日本女子
青
年団、大日本少年団連盟,、帝国少年協会といったすべての
青
少年の組織体は一つに統合されて、「大日本
青
少年団」が結成された。 ,参加した団体は、県単位の団体一、郡単位の団体八、市単位の団体三、町村単位の団体ほか、
青
年学校単位の
青
年団,
青
森
県
青
少年団長は上田誠一知事、副団長は進藤憲三(予備役大佐)、中野四郎県労務課長が当たった。 /
青
少年団の動向
通史編5(近・現代2)
(弘前相互銀行と青和銀行の合併)
弘前相互銀行と
青
和銀行の合併 弘前相互銀行は
青
南信用組合を吸収合併すると、今度は
青
森
市に本店を持つ普通銀行,
青
和銀行は
青
森
貯蓄銀行(大正十年十二月設立)が昭和二十三年(一九四八)十二月、普通銀行に転換して発足した,銀行で、その後、三十三年九月に
青
森
商業銀行と合併し、県下における普通銀行は
青
森
銀行と
青
和銀行の二行体制,弘前相互銀行と
青
和銀行の合併に向けた話し合いは、弘前相互銀行の
青
森
市への本店移転計画がきっかけと言われ,をはじめ、岩手銀行
青
森
支店、秋田銀行
青
森
支店が次々と開設され、その上、仙台市の七十七銀行の
青
森
進出が取 / 弘前相互銀行と
青
和銀行の合併
通史編5(近・現代2)
(笹森順造の偉業)
笹
森
順造の偉業 弘前市の剣道の歴史に、もちろん明治維新以降の歴史であるが、この北辰堂の果たした役割は,例えば、笹
森
順造(ささもりじゅんぞう)(明治一九-昭和五一 一八八六-一九七六 弘前市)は次のように述,明治二十年代幼少七・八才の頃から弘前市北辰堂道場で旧津軽藩の指南役対馬健八等に一刀流の手ほどきを受け、続いて
青
年,笹
森
順造が昭和四十年、八十歳のとき著した『一刀流極意』の緒言の一節であるが、剣道の歴史について、日本の,写真304 笹
森
順造 / 笹
森
順造の偉業
通史編5(近・現代2)
(青年学校の移転と廃止)
青
年学校の移転と廃止 昭和二十二年三月十五口、在府町の朝陽小学校校舎は、弘前市に移転した
青
森
医学専門学校,そのため朝陽小学校は本町一丁目の
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年学校ならびに弘前国民学校の校舎に移転した。,弘前国民学校は学制改革(新制中学校発足)で廃校になるので問題はなかったが、
青
年学校は校舎を失い、上白銀町,公会堂時代の
青
年学校は一年限り、教室は階下の広間を使用し、授業は午後から夜にかけて行った。 ,
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年学校は、学制改革によって昭和二十三年三月三十一日をもって廃止され、弘前
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年学校も昭和十七年四月からの /
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年学校の移転と廃止
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