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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(青森1~2)
青森
1~2
青森
1
青森
市石江字高間-神明宮境内-
青森
2
青森
市宮田字玉水-念心寺墓地- /
青森
1~2
通史編2(近世1)
(青森町の成立と青森開港)
青森
町の成立と
青森
開港 右のような歴史的な背景の中で、同藩が、外浜(そとがはま)地帯に新たな町づくりと,(本項は、『新
青森
市史』別編1 教育(1)第一章第一節の「
青森
町の成立」一九九八年
青森
市刊に多くをよっている,
青森
の東側、堤川(つつみがわ)にはいまだ橋が架かっておらず(『新編
青森
県叢書 七
青森
市沿革史』一九七三年,図80.
青森
海上泛船船中眺望図 正保二年(一六四五)の「陸奥国津軽郡之絵図」(
青森
県立郷土館蔵,加えて前掲『新編
青森
県叢書 七
青森
市沿革史』の寛永二十一年(正保元年、一六四四)条に、
青森
での越前町成立 /
青森
町の成立と
青森
開港
通史編5(近・現代2)
(青森銀行の誕生)
しかし、八行のうち三行(第五十九・
青森
・佐々木銀行)を除く五行(八戸・津軽・
青森
商業・弘前商業・板柳銀行,、新銀行の商号 株式会社
青森
銀行 一、同本店
青森
市(第五十九銀行
青森
支店跡) 一、合併比率 板柳,』)
青森
銀行の誕生により、県下の普通銀行は
青森
銀行のほか、佐々木・
青森
商業・弘前商業銀行の四行に,十九年六月、
青森
銀行は佐々木、弘前商業銀行を相次いで吸収合併し、県下の普通銀行は
青森
銀行と
青森
商業銀行,図1
青森
県内銀行系統図 図1
青森
県内銀行系統図 /
青森
銀行の誕生
通史編3(近世2)
(青森商社の設立)
青森
商社の設立 このような実態を踏まえて、この項ではそれに続く維新期の商品流通の様相を
青森
商社という,
青森
市刊)に依拠して論を進めたい。 ,藩主導の対蝦夷地交易を目的とした西洋型商社が、
青森
商社である。 ,その後、商社組織は順次固められて行き、
青森
に本局が、弘前に取次所が設置され、六月十六日に
青森
では頭取に,こうして箱館戦争が終結した後、
青森
商社は本格的に活動を開始したのである。 /
青森
商社の設立
通史編1(古代・中世)
(田村麻呂と青森)
田村麻呂と
青森
前項で述べたように、著名な坂上田村麻呂は、史実としては現在の
青森
の地までは来ていない,中央政府の東北経営が、現在の
青森
県域内の地にかかわるようになってくるのは、文室綿麻呂の時代まで待たなくてはならない,しかしながら、現
青森
県域にも、東北地方一般にそうであるように、少なからず坂上田村麻呂伝説が存在する。 / 田村麻呂と
青森
通史編2(近世1)
(青森騒動の経過)
青森
騒動の経過 天明三年七月十九日夜、諏訪(すわ)社(現
青森
市栄町。,当時堤川中州にあった)および毘沙門(びしゃもん)境内(現香取神社、
青森
市長島)にそれぞれ一〇〇人ほどの,図126.騒動勢が集結した
青森
の諏訪神社 その数は三~四〇〇〇人といわれる。,当時の
青森
町の人口が七~八〇〇〇人と推定されるから、まさに惣町を挙げての運動であった。,各所持米・雑穀俵数は『
青森
沿革史』(
青森
市役所蔵版,1909年)。 /
青森
騒動の経過
通史編1(自然・原始)
(一 青森県の気象)
一
青森
県の気象
青森
県の気象変化は、高・低気圧や前線の動向のほかに、日本列島周辺あるいは広い領域の,本州の北端に位置している
青森
県は、地形・海況(かいきょう)などが複雑で、同じ県内であっても毎日の天気や / 一
青森
県の気象
通史編2(近世1)
(青森以外の町の騒動)
青森
以外の町の騒動 天明三年七月以降、
青森
騒動に触発される形で領内各地で打ちこわしが発生した。,
青森
と並ぶ津軽領の主要港である鰺ヶ沢でも、七月二十二日に廻米の停止、米留番所の廃止、小売り米の値下げ(,騒動のプロセスおよび要求の内容など
青森
と共通する部分が多い。,実際に藩領を越えた八戸でも「大南(部脱)野辺地一揆、津軽、
青森
一揆の書付参候而大に驚、風説まち/\なり,野辺地での騒動にも同じ陸奥湾岸に面する
青森
騒動の影響がみられる。 /
青森
以外の町の騒動
通史編4(近・現代1)
(弘前県から青森県へ)
弘前県から
青森
県へ 九月五日野田豁通(ひろみち)が弘前県大参事に任ぜられた。,野田と
青森
県の結びつきは箱館戦争以来である。,伺いは、第一に県庁の
青森
移転、すなわち弘前県が消えて
青森
県が誕生するということだった。,そして、九月二十三日、太政官布達第二号で「弘前県 其県庁
青森
へ相移改て
青森
と可称事」と
青森
県を称することになった,図1
青森
県の成立 それにしても、県庁を
青森
へ移すことへの弘前人士の反対運動があまり表面化しなかった / 弘前県から
青森
県へ
通史編3(近世2)
(青森商社の終末と意義)
青森
商社の終末と意義 経営が長期に続いていけば大きな利益があがると見込まれていた
青森
商社の結末は、ひとつの,それは商社に参加した
青森
側商人と弘前側商人の立場の違いから生まれた。,ところが、
青森
商社が設立されて弘前商人が加担商人として参加するようになると、彼らはそうした
青森
の市場を,さらに、商社は
青森
が本局とされたのに、支局の弘前側が主導権を掌握するのは耐え難いことであった。,廃藩置県によって
青森
商社の活動は停止し、日記を書き連ねた彦太郎も同年病死した。 /
青森
商社の終末と意義
通史編5(近・現代2)
(青森県の賃金動向)
青森
県の賃金動向 昭和五十四年に、
青森
県内の六つの商工会議所とむつ、三沢の商工会は、県内八市につき、,これにより、安定成長過程での
青森
県の賃金動向を見てみよう(以下、『弘前商工会議所会報』二六九による)。,これに対して
青森
県は、初任給の上昇率が六・四%で、前年の六・九%を下回った。,五十四年の初任給上昇率六・四%は、その前に行われた
青森
県の最低賃金の改定率六・五%とほぼ一致していた。,なお、改定された
青森
県の最低賃金は一日当たり二三七三円であった。 /
青森
県の賃金動向
通史編5(近・現代2)
(青森県工業試験場)
青森
県工業試験場
青森
県は、明治四十年(一九〇七)から染織に関する技術員を採用し、染色業の指導奨励のため,タンクを設置して保温設備をすることで熟成期の短縮を図り、造石高は年々増加して、県外移出も増加した(『
青森
県工業試験場要覧,』
青森
県工業試験場、一九三九年および前掲『
青森
県総覧・復刻本』)。 ,そこで、ここに『昭和十四年
青森
県工業試験場要覧』から業務内容を示そう。 /
青森
県工業試験場
通史編1(古代・中世)
(青森県の古墳文化)
青森
県の古墳文化
青森
県で古墳文化の影響が明確になるのは、この古墳時代中期に入ってからで、年代的には,津軽地方では
青森
市細越館遺跡で南小泉式前半期(五世紀前半)の土師器高坏(たかつき)・坩(かん)などが出土,写真2 森ヶ沢遺跡出土の土師器・須恵器・北大式土器 図2 細越館遺跡出土の土師器
青森
県 /
青森
県の古墳文化
通史編3(近世2)
(青森商社と帰田法)
青森
商社と帰田法 帰田法(きでんほう)については前項で詳述したので、ここでは
青森
商社との関連性について,当時、新規家業が認められていたのは弘前・
青森
・鰺ヶ沢の町場にすぎず、土地を強制的に取り上げられる在方の,の阿部賢吉(けんきち)家では、同年閏十月に再三にわたって献田願いを藩に提出し、自分の家は五所川原にも
青森
,蝦夷地に酒を売るためには、結局は藩が経営を操作する
青森
商社の販路に乗らねばならず、その意味では在方地主,もちろん、
青森
商社・帰田法・大規模改修工事といった各施策は開始時期がそれぞれ異なっており、最初から藩が /
青森
商社と帰田法
通史編4(近・現代1)
(青森県立弘前中学校の変遷)
これが
青森
県中学校で、明治十九年一月十一日、
青森
新町に新築、開校された。,その後、明治十九年、森有禮によって公布された「中学校令」によって、
青森
県中学校は発足二年足らずで
青森
県尋常中学校,明治二十二年(一八八九)五月一日、
青森
尋常中学校は弘前側の運動によって、
青森
から弘前市元寺町に移転した,明治二十八年(一八九五)三月、県は告示第三三号をもって、これまでの
青森
県尋常中学校を
青森
県第一尋常中学校,三十二年四月には、新たな中学校令が定められ、尋常の二字を削除して、それぞれ
青森
県第一中学校、
青森
県第二中学校 /
青森
県立弘前中学校の変遷
通史編5(近・現代2)
(青森師範学校の弘前市移転承認)
青森
師範学校の弘前市移転承認
青森
師範学校は昭和十八年の文部省直轄学校官制の改正により、
青森
県師範学校,と
青森
県女子師範学校を統合して設置された。,昭和二十年七月二十八日の米軍機の
青森
空襲によって、同校校舎、附属国民学校校舎を焼失、授業は
青森
市、弘前市,師範学校当局は
青森
市に残ることを希望したが、
青森
市は戦災復興で師範学校存置まで手が回らず、結局、葛原運次郎市長,写真139
青森
師範学校として使用された旧兵器庫跡 /
青森
師範学校の弘前市移転承認
通史編5(近・現代2)
(青森県りんご協会の発足)
青森
県りんご協会の発足
青森
県りんご協会の設立は、昭和二十一年(一九四六)三月の苹果振興委員会の答申,そして、同年九月二十四日、りんご祭りの日に創立総会が開催され、
青森
県りんご協会が発足することになった。,なお、会長には相馬友彦(竹舘村相馬貞一の長男)、専務理事に外崎正義が就任した(前掲『
青森
県りんご百年史 /
青森
県りんご協会の発足
通史編5(近・現代2)
(青森医学専門学校の弘前市移転)
青森
医学専門学校の弘前市移転 昭和二十一年(一九四六)七月、文部省は医学教育の振興充実を図るため、医学専門学校,の医科大学昇格を決定して、県や
青森
市に大学昇格の準備方を依頼してきた。,ここにおいて
青森
医学専門学校の
青森
市存続運動、弘前市の誘致運動、加えて八戸市も医専誘致の意思のあることを,写真140 第18代・19代・21代市長 岩淵勉 文部省では
青森
医専を設備不十分ということで、,こうして昭和二十二年二月二十二日、
青森
医学専門学校は弘前市への移転が決定し、同二十六日の閣議で、
青森
医専 /
青森
医学専門学校の弘前市移転
通史編4(近・現代1)
(青森県における普通運動)
青森
県における普通運動
青森
県においても、納税額によって選挙権を決めることの錯誤は、すでに大正三年の,大正七年九月十六日、
青森
市公会堂において憲政会
青森
県支部大会が開かれ、加藤高明総裁ら党領袖(りょうしゅう,これに対し、同年十二月十二日の政友会支部総会の決議の第一は米価の暴落による農民救済、第二は
青森
港改築の,大正十一年二月二十二日、
青森
市公会堂において
青森
記者団は普選大会を開いた。,また、五所川原青年会長外崎千代吉も、
青森
市歌舞伎座で工藤日東とともに普選断行演説会を開いた。 /
青森
県における普通運動
通史編5(近・現代2)
(官立青森医学専門学校の開学)
官立
青森
医学専門学校の開学 大正期以降、国民の上昇する進学要求の充足を目指して量的拡大を続けてきた専門学校教育,対米開戦後には医学専門学校の新設が相次ぎ(前橋〔昭和十八年〕、松本〔同十九年〕)、米子・徳島〔同二十年〕)、
青森
県,においては
青森
医学専門学校が「戦時要員としての医師養成」を目的に昭和十九年三月二十八日に
青森
市に設立された,写真75 創立のころの
青森
医学専門学校 / 官立
青森
医学専門学校の開学
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
一
青森
開港と初期海運 慶長八年(一六〇三)、江戸幕府が成立した後、海運を通じた北奥地方と上方との経済的関係,津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか近世初期に
青森
・鰺ヶ沢・深浦等の湊も / 一
青森
開港と初期海運
通史編4(近・現代1)
(後藤象二郎の青森県遊説)
後藤象二郎の
青森
県遊説 後藤象二郎は、明治二十一年八月二日、秋田県大館を発して弘前に至り、酔月楼に投宿,それなのに「嗚呼鹿鳴夜会の燭光は天に冲するも重税の為に餓鬼道に陥りたる蒼生を照すことは出来ない」とし、
青森
県民,後藤は翌五日弘前を発し、
青森
へ至る途中浪岡で旧大杉地区の政治結社博愛社の招待を受け、一場の演説を試み、,博愛社は明治二十一年の市町村制の公布を受けて、大杉村(のち浪岡町、現
青森
市)の若手の指導者たる工藤善太郎 / 後藤象二郎の
青森
県遊説
通史編3(近世2)
(松前方面の攻防と青森)
松前方面の攻防と
青森
蝦夷地における旧幕府軍は、箱館府軍勢を退けた後、十月二十六日、無人の五稜郭を占拠,同七日中には
青森
にいた杉山上総(かずさ)らからも、三厩(みんまや)から報知された五日の松前城落下における,同月十日、三厩に派遣されていた斥候が松前城陥落とその後の城下の様子を報告し、翌十一日には軍議が
青森
において,既に斥候隊が派遣され、兵糧米などを送っており、
青森
に滞在していた各藩兵の出兵準備が整えられつつあった。,弘前藩は
青森
港の警備を一手に任されていたが、総攻撃の際、江差への出兵に自藩が除かれては「北門之御任」が / 松前方面の攻防と
青森
資料編1(古代・中世編)
(二 青森県の板碑分布)
二
青森
県の板碑分布 県内で最も古い板碑は、弘前市鬼沢字二千苅にある文永四年(一二六七)の板碑である,
青森
県内の板碑は、津軽地方に圧倒的に多く見られる。,なお、
青森
湾岸には
青森
市内に二基あり、そのうち石江神明宮の板碑は、菅江真澄の写生画が正しいとすれば第一 / 二
青森
県の板碑分布
通史編1(古代・中世)
(青森県内の田村麻呂伝説)
青森
県内の田村麻呂伝説 東北地方には田村麻呂建立といわれる観音が多くあるが、
青森
県内にも、小金山(こがねやま,)神社の入内(にゅうない)観音(現
青森
市)・海満寺(かいまんじ)観音(現小泊村)・春日内(はるひない),このあたり、
青森
県域の独自の伝承といえようか。 /
青森
県内の田村麻呂伝説
通史編4(近・現代1)
(青森県の農民運動)
青森
県の農民運動 大正十年(一九二一)十一月六日、浪岡労働組合が発足した。実態は農民組合である。,当日は村の休み日になって居る為に集まる者百余名、
青森
大沢、弘前丸尾・殿村・本多・瀬尾・鳴海の政治研究会支部員臨席,岩淵家にお世話になって、車力村を中心に附近の農村をみて廻りましたが、あまりの実情に、
青森
県農民の姿としての,労農党員 石岡彦一
青森
県中津軽郡清水村大字下湯口 日本農民組合総本部御中 石岡彦一 /
青森
県の農民運動
通史編5(近・現代2)
(青森県における恐慌の影響)
青森
県における恐慌の影響 昭和は憲政会の第一次若槻(わかつき)内閣で迎えた。,その結果、昭和七年の五・一五事件で政党政治が終焉(えん)を告げるわずか五年半の間に、
青森
県知事は六人の,昭和二年三月、蔵相片岡直温(なおはる)の失言をきっかけに金融恐慌が始まるが、
青森
県の恐慌状態が本格的になるのは,また、失業者は、昭和四年から五年にかけての
青森
・弘前・八戸三市とその付近の月々の統計では、一般労働者およそ /
青森
県における恐慌の影響
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
対蝦夷地政策と
青森
商人の商業活動 商業や貿易の面からみると、通商条約締結による外国貿易開始は、津軽地方,安政三年(一八五六)四月、
青森
の廻船問屋滝屋善五郎は、同じく
青森
の廻船問屋である藤林源右衛門とともに、,(現
青森
市)大浦で製塩業を営むことを願い出た。,
青森
商人の大村屋庄蔵・西沢善兵衛らは、箱館の外国商人との間に材木の売買契約を結んだ。,文久二年(一八六二)の
青森
町年寄の藩への建白では、次のように述べている。 / 対蝦夷地政策と
青森
商人の商業活動
通史編5(近・現代2)
(国土総合開発計画の進展と青森県の位置)
国土総合開発計画の進展と
青森
県の位置 国土総合開発計画審議の本格化に伴い、
青森
県でも審議会が設けられた,(
青森
県総合開発審議会『
青森
県総合開発五ケ年計画』一九五一年) また、同審議会は次の基本構想を立てた,(同前) このような
青森
県総合開発審議会の報告を受けて、
青森
県は総合開発計画書を作成した。,なお、これと並行して、陸上に連絡する東北、奥羽両線の複線化をも考慮した(
青森
県『
青森
県総合開発計画書』,(
青森
県企画部『昭和六十年度版
青森
県の姿』
青森
県統計協会、一九八六年) この後、
青森
県は、政府の第三次全国総合開発計画 / 国土総合開発計画の進展と
青森
県の位置
通史編4(近・現代1)
(県立弘前医学校(県立青森医学校))
県立弘前医学校(県立
青森
医学校) 明治九年(一八七六)二月二十五日、
青森
県参事塩谷良翰は、県会での医学生教育,医学生の指導者として、東京医学校卒業の中村良益を招聘し、十年三月一日
青森
県立弘前医学校を親方町に開設した,西に偏在していて、県内各地から在学するのに不便だということで、一年足らずで翌十一年十二月二日をもって
青森
浜町,ところが県令が山田秀典になると、これまでのことは一切廃して、医学校の設置地を
青森
に変更したのである。,魚住校長は「(一)
青森
ハ土地卑湿(二)飲水悪シ(三)海港ノタメ風俗淫猥(四)物価高シ」とし、「弘前ハ皆是 / 県立弘前医学校(県立
青森
医学校)
通史編1(古代・中世)
(青森県下の情勢)
青森
県下の情勢 この「三十八年戦争」の間、比羅夫の時代に服属したはずの渟代・津軽地方の人々は、いつのころからか /
青森
県下の情勢
通史編5(近・現代2)
(青森県における小作人組合)
青森
県における小作人組合 本県は、日本経済の中で低位な東北六県の中でもさらに経済的に最低である。,昭和元年の所得金額では、
青森
県を一〇〇とすれば、福島一六八、山形一六三、宮城一六〇、秋田一三三、岩手一 /
青森
県における小作人組合
通史編5(近・現代2)
(全農青森県連合大会)
全農
青森
県連合大会 昭和八年二月二十五日、全農
青森
県連合大会が北津軽郡金木町(現五所川原市)金木劇場 / 全農
青森
県連合大会
資料編1(考古編)
(2.青森県の旧石器時代(図1))
2.
青森
県の旧石器時代(図1)
青森
県に関する旧石器時代の研究は、発見した遺跡等が少ないために進展していない,
青森
県では、旧石器を出土する遺跡は20か所ほどあり、それらはすべて後期旧石器時代ないしそれ以降に属するものである,表1
青森
県旧石器出土遺跡一覧表 遺跡 番号 時代 遺跡名 遺跡所在地 出土遺物 1 旧石器 物見台,18 〃 大森勝山 弘前市大森字勝山 ナイフ形石器・彫器・スクレパー(掻器)ほか 19 〃 三内丸山
青森
市三内字丸山,尖頭器 20 〃 三内
青森
市三内字丸山 石刃 21 〃 淋代平 三沢市三沢字淋代平 ナイフ形石器 / 2.
青森
県の旧石器時代(図1)
通史編4(近・現代1)
(青森県の社会運動の始まり)
青森
県の社会運動の始まり ところで、
青森
県において労働問題、社会問題が社会運動となり、政治運動になるには,
青森
県の『東奥日報』はそれを極めて好意的に紹介した。 /
青森
県の社会運動の始まり
通史編4(近・現代1)
(青森県立弘前女子師範学校)
青森
県立弘前女子師範学校 明治十年(一八七七)十二月五日、県は弘前に女子師範学校を設置するが、入学者,その後入学者が増えたものか、十三年度『
青森
県学事年報』によると生徒数三五人になっていて、卒業者は一二人 /
青森
県立弘前女子師範学校
通史編4(近・現代1)
(青森県における衆議院議員選挙)
青森
県における衆議院議員選挙 第一回衆議院議員選挙は明治二十三年七月一日に行われたが、小選区制、連記法,
青森
県の総人口は五四万七〇五五人で有権者は四九七二人、その比率は〇・九%にすぎなかった。,)、第二回自由党三人・改進党一人(工藤卓爾(改進)、工藤行幹、榊喜洋芽、菊池九郎)、第三回革新党(旧
青森
県自由党,明治三十五年八月の第七回から大正六年四月の第一三回までは大選挙区で、
青森
市と弘前市を独立させ、市部は定員各一人,大正九年五月の第一四回及び大正十三年五月の第一五回総選挙は、選挙権は直接国税三円以上となり、選挙区は第一区
青森
市 /
青森
県における衆議院議員選挙
通史編5(近・現代2)
(第三回青森県鉱産物品評会)
第三回
青森
県鉱産物品評会 昭和四年(一九二九)九月十五日から一週間、弘前市時敏小学校において、第三回
青森
県工産物品評会,この品評会は、
青森
県内各地の製造業者が各種生産物を出品し、また、県外からの出品があった。 / 第三回
青森
県鉱産物品評会
資料編1(考古編)
(5.青森県における弥生時代の終局)
5.
青森
県における弥生時代の終局 東北地方北部の弥生文化も、中期後半の田舎館式期を境にして衰退したのであろうか,かつて渡島半島沿岸の漁民が、せいぜい
青森
県沿岸の集落で入手し得た物資が、集落の激減により、かなり南下した / 5.
青森
県における弥生時代の終局
通史編4(近・現代1)
(地租増徴問題と青森県)
地租増徴問題と
青森
県 地租軽減運動は、初期議会で地価修正を要求する西日本議員と税率軽減を主張する東日本議員 / 地租増徴問題と
青森
県
通史編3(近世2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
(
青森
県弘前市) 加福不動寺(
青森
県弘前市) 巖鬼山神社(
青森
県弘前市) 環境省京都御苑管理事務所,(
青森
県弘前市) 津梁院(東京都台東区) 誓願寺(
青森
県弘前市) 専求院(
青森
県弘前市) 泉光院,(
青森
県弘前市) 専修寺(
青森
県弘前市) 仙台市博物館 宗徳寺(
青森
県弘前市) 袋宮寺(
青森
県弘前市,弘前市立博物館 弘前神明宮(
青森
県弘前市) 弘前八幡宮(
青森
県弘前市) 普門院(
青森
県弘前市,
青森
県弘前市) 松前町郷土資料館 薬王院(
青森
県弘前市) 蘭庭院(
青森
県弘前市) 隣松寺(
青森
県弘前市
資料編3(近世編2)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略)
青森
銀行記念館(
青森
県弘前市)
青森
県立郷土館,(
青森
県
青森
市) 熊野奥照神社(
青森
県弘前市) 国文学研究資料館史料館(東京都品川区) 最勝院(,) 宗徳寺(
青森
県弘前市) 高照神社(
青森
県中津軽郡岩木町) 大円寺(
青森
県南津軽郡大鰐町),弘前市立博物館(
青森
県弘前市) 弘前市教育委員会(
青森
県弘前市) 弘前大学附属図書館(
青森
県弘前市,(北海道札幌市) 小山秀弘(
青森
県弘前市) 北畠顕文(
青森
県黒石市) 工藤文宏(
青森
県弘前市
資料編1(古代・中世編)
(協力者及び協力機関一覧(敬称略))
) 北畠顕文(
青森
県板柳町) 小井田幸哉(
青森
県八戸市) 清水修智(秋田県鷹巣町) 清水清一郎,山屋道朗(
青森
県弘前市)
青森
県立郷土館(
青森
県
青森
市) 秋田県公文書館(秋田県秋田市) 秋田市立中央図書館,(秋田県秋田市) 鰺ヶ沢町教育委員会(
青森
県) 鰺ヶ沢町郷土文化保存伝習館(
青森
県) 田舎館村村誌編,さん委員会(
青森
県) 茨城県立歴史館(茨城県水戸市) 岩木町教育委員会(
青森
県) 岩手県立図書館,) 大円寺(
青森
県大鰐町) 大日堂(秋田県鹿角市) 長勝寺(
青森
県弘前市) 鶴岡市郷土資料館(
通史編1(自然・原始)
(《引用・参考文献》)
の地震と火山』
青森
地方気象台(一九六九) -第二部関係- 『
青森
県気象月報』
青森
地方気象台,(~一九八九) 『
青森
の気象百年』
青森
地方気象台(一九八六) 『
青森
県六〇年間の異常気象,』 気象庁(一九七〇) 『下北の気象五〇年』 むつ測候所(一九八六) 『災害記録』
青森
県,(一九六八) 『
青森
県災異誌(現代篇)』
青森
県気象対策連絡会(一九五六) 『
青森
県気象災害誌,(昭和三十一年~五十二年)』
青森
地方気象台 (一九七八)
通史編5(近・現代2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順)
青森
銀行 (
青森
市) ,斉藤昌美顕彰会 (弘前市)
青森
空襲を記録する会 (
青森
市) 社団法人弘前観光協会, (弘前市)
青森
県 正傳寺 (弘前市)
青森
県警察本部,東奥日報社メディア本部調査部 (
青森
市)
青森
県立郷土館 日本基督教団弘前教会,
青森
県近代文学館 弘前カトリック幼稚園 (弘前市)
青森
県りんご
通史編4(近・現代1)
(協力機関一覧(五十音順))
協力機関一覧(五十音順)
青森
銀行(
青森
市)
青森
銀行記念館(弘前市)
青森
県
青森
県議会図書室,
青森
県史編さん室
青森
県近代文学館
青森
県立図書館 鬼沢ねぷた同好会(弘前市) 学校法人柴田学園,弘前市内各県立高等学校 弘前市立郷土文学館 弘前市立図書館 弘前市立博物館 みちのく銀行(
青森
市,) 陸上自衛隊
青森
駐屯地防衛館
通史編2(近世1)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順)
青森
県立郷土館 秋田市立佐竹史料館 安盛寺(,
青森
県弘前市) 圓覚寺(
青森
県西津軽郡深浦町) 大阪城天守閣 大阪歴史博物館 尾山神社(石川県金沢市,) 海蔵寺(
青森
県弘前市) 巖鬼山神社(
青森
県弘前市) 国文学研究資料館史料館 国立公文書館内閣文庫,) 仙台市博物館 高照神社(
青森
県中津軽郡岩木町) 種里八幡宮(
青森
県西津軽郡鰺ヶ沢町) 長勝寺,(
青森
県弘前市) 天徳寺(秋田県秋田市) 藤先寺(
青森
県弘前市) 東京国立博物館 東京大学史料編纂所
資料編1(古代・中世編)
(参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く))
』 (2)中村良之進『
青森
県中津軽郡大浦村郷土史』 (3)中村良之進『
青森
県中津軽郡藤代村郷土史』,「五輪堂遺跡発掘調査報告書」(
青森
県埋蔵文化財調査報告書60集) (22)
青森
県教育委員会「独狐遺跡,」(
青森
県埋蔵文化財調査報告書99集) (23)
青森
県教育委員会「境関館遺跡」(
青森
県埋蔵文化財調査報告書,102集) (24)
青森
県教育委員会「荼毘館遺跡」(
青森
県埋蔵文化財調査報告書110集) (25),
青森
県教育委員会「鶴ヶ鼻遺跡」(
青森
県埋蔵文化財調査報告書122集) (26)『大鰐町史』・『平賀町誌
資料編2(近世編1)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略)
青森
県立郷土館(
青森
県
青森
市)
青森
県立図書館,(
青森
県
青森
市) 秋田県公文書館(秋田県秋田市) 鰺ヶ沢町教育委員会(
青森
県鰺ヶ沢町) 岩手県立図書館,(岩手県盛岡市) 岩手県立博物館(岩手県盛岡市) 革秀寺(
青森
県弘前市) 巌鬼山神社(
青森
県弘前市,) 京都府立丹後郷土資料館(京都府宮津市) 熊野奥照神社(
青森
県弘前市) 国立国文学研究資料館史料館,) 長勝寺(
青森
県弘前市) 敦賀市立図書館(福井県敦賀市) 東京大学史料編纂所(東京都文京区)
通史編4(近・現代1)
(掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧)
』資料編近現代2
青森
県 2003年 写真76 『
青森
県軍隊写真帖』弘前市立図書館蔵 写真77 『
青森
県写真帖,』弘前市立図書館蔵 写真78 「
青森
衛戍第五聯隊第二大隊雪中行軍遭難写真」
青森
県立図書館蔵 転載:『
青森
県史,』第一巻
青森
県 1969年 写真152
青森
県立図書館蔵 転載:『太宰治』
青森
県近代文学館 1995,』弘前市立図書館蔵 写真157 『
青森
県史』資料編近現代3
青森
県 2004年 写真160 『
青森
県史,」陸上自衛隊
青森
駐屯地防衛館蔵 転載:『
青森
県史』資料編近現代3
青森
県 2004年 写真164 同上
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