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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(青森師範学校の弘前市移転承認)
青森師範学校
の弘前市移転承認
青森師範学校
は昭和十八年の文部省直轄学校官制の改正により、青森県師範学校,弘前市に移った
青森師範学校
は二十一年八月十七日、弘前公園三の丸旧兵器庫跡の新校舎に移り授業を開始し、十一月十五日,写真139
青森師範学校
として使用された旧兵器庫跡 /
青森師範学校
の弘前市移転承認
通史編5(近・現代2)
(児能花幼稚園廃園と附属幼稚園)
児能花幼稚園廃園と附属幼稚園 二十年十月、官立
青森師範学校
は弘前市に移転した。,児能花幼稚園は明治四十二年に設置された仏教を基本とする幼稚園であったが、同幼稚園は
青森師範学校
に貸与され,、二十三年四月六日から
青森師範学校
附属弘前幼稚園となった。,翌二十四年三月、
青森師範学校
はこれを買収して正式の附属幼稚園としたので、児能花幼稚園は三九年の歴史に終止符
通史編5(近・現代2)
(朝陽・時敏校の貸与)
朝陽・時敏校の貸与 二十年七月二十八日の米軍機による青森大空襲で、官立
青森師範学校
は跡形もなく焼失した,また、師範学校の弘前移転に伴い、附属国民学校を必要としたが、弘前市は朝陽国民学校を同校児童とともに、
青森師範学校
附属国民学校,二十一年四月六日朝陽国民学校は、
青森師範学校
男子部同女子部附属国民学校として発足したが、ここで由緒ある,
青森師範学校
附属国民学校となっていた朝陽校舎は、二十二年三月十五日、弘前に移転した青森医学専門学校にさらに,なお、二十三年四月、
青森師範学校
附属小学校は、独立校舎を弘前公園内に設置し、児童を公募して新発足することになった
通史編5(近・現代2)
(仮用附属と第四中学校)
仮用附属と第四中学校 朝陽小学校の卒業生三三八人を収容した第四中学校は、当時の
青森師範学校
長・同附属小学校長,昭和二十三年一月二十六日、
青森師範学校
長から岩淵勉市長に差し出された「貴市朝陽国民学校返還について」という,これてみる限り、第四中学校は昭和二十二年度の一年間だけ、
青森師範学校
仮用附属中学校の存在であったことがわかる
通史編5(近・現代2)
(弘前大学設置認可申請)
弘前大学設置認可申請 弘前医科大学を別として、
青森師範学校
、青森青年師範学校、官立弘前高等学校はいずれも,しかし、四校合併の総合大学については、各校ともその態度が定まらず、二十三年四月九日に至って、
青森師範学校
通史編5(近・現代2)
(新制大学の制度化)
昭和二十二年当時、本県内にあった高等教育機関は、官立弘前高等学校、
青森師範学校
、青森青年師範学校、青森医学専門学校,弘前高等学校では法経学部、文学部、理学部、農学部のほか民俗研究所、馬産研究所を含めた弘前文理大学建設を、
青森師範学校
通史編4(近・現代1)
(児能花(このはな)幼稚園の設立)
児能花幼稚園は昭和二十一年(一九四六)まで続いたが、
青森師範学校
の弘前移転と同時に、同校附属幼稚園として
通史編5(近・現代2)
(新制中学校の開校式)
第二中学校の場合も市立商業の校舎を借りていたので同校講堂で、また、第四中学校は
青森師範学校
の仮用附属になることが,二大小 第四中学校 須貝清一 一四 1 二七一 六 弘前市元町一 朝陽小 2 三〇
青森師範学校
附属小学校
通史編5(近・現代2)
(音楽教育の先達)
明治十八年八月から弘前中学校、
青森師範学校
で音楽を教えた。
通史編5(近・現代2)
(現職教員の市議当選)
現職教員の市議当選 昭和二十二年四月三十日、戦後第一回の県議会ならびに弘前市議会議員の選挙が行われたが、
青森師範学校
附属小学校教官工藤為弥
通史編5(近・現代2)
(社会教育研究大会)
講師小和田視学官) ○学校拡張(講師青森軍政部レップローグル・田代弘高教授・弘前キリスト教会中村牧師・須貝
青森師範学校
長,) ○体育(ワンアウトボールーソフトボールの実習) 第四日目 須貝
青森師範学校
長の司会で開会、
通史編5(近・現代2)
(子ども会の動向)
昭和二十一年五月、市内国民学校の教員千葉寿雄(第一大成国民学校)、小島正雄(第一大成国民学校)、伊藤秀俊(
青森師範学校
女子部附属国民学校,と田中志摩子(田中舞踊研究所)がそれぞれ指導に当たり、第一回の発表は、その年の夏休み(八月十八日)に
青森師範学校
附属国民学校講堂
通史編4(近・現代1)
(県内中学校の概況)
これは
青森師範学校
に次ぐもので、同年七月十九日に校旗樹立式を挙行している。
通史編5(近・現代2)
(弘前大学の誕生と市民の熱意)
しかし弘前大学誕生までには青森市との対抗関係だけでなく、教育設備、教員人事、
青森師範学校
生の身分保障問題
通史編4(近・現代1)
(中国革命の義士)
良政は、東奥義塾から
青森師範学校
へ進んだが中退、羯南を頼って上京、その勧めで水産講習所へ入り、明治二十三年北海道昆布会社
通史編4(近・現代1)
(明治時代の市史編纂)
担当したのは元弘前藩士で、
青森師範学校
を卒業、小学校教師、東奥義塾教師を務めた小野士格(おのしかく)である
通史編5(近・現代2)
(市立商業高校と市立女子高校)
一方、終戦時、元寺町にあった市立高女は、戦災に遭った
青森師範学校
を受け入れるために山道町の旧家政女学校校舎
通史編5(近・現代2)
(青森医学専門学校の弘前市移転)
医専問題総合委員会」を組織し、医専受け入れ態勢について検討を始めたが、医専校舎として在府町の朝陽国民学校(当時は
青森師範学校
通史編5(近・現代2)
(個人作家の活躍)
写真281 天野邦弘『AFTER IMAGE42(残像42)』 戦前
青森師範学校
で教鞭をとった
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