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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(革秀寺)
革秀寺
革秀寺
(かくしゅうじ)は、慶長三年(一五九八)に為信が禅の教えを受けた格翁の隠居所として藤崎村,為信が慶長十二年(一六〇七)に京都で死去すると、四条河原で火葬にされ、遺骨は
革秀寺
へ運ばれて格翁が葬式,図215.
革秀寺
/
革秀寺
資料編3(近世編2)
(●革秀寺 藤代一丁目)
●
革秀寺
藤代一丁目 (一)本堂--重要文化財 建立年代についてはさまざまな伝承があるが、慶長年間,図6
革秀寺
本堂平面図 (『県重宝
革秀寺
本堂保存修理工事報告書』より転載) 図7
革秀寺
本堂立面図,(『県重宝
革秀寺
本堂保存修理工事報告書』より転載) (二)津軽為信霊屋--重要文化財 / ●
革秀寺
藤代一丁目
通史編3(近世2)
(江戸時代初期の建築)
慶長期の寺院建築として、
革秀寺
(かくしゅうじ)の本堂、長勝寺の本堂・庫裏(くり)が挙げられる。,『県重宝
革秀寺
保存修理工事報告書』(一九九二年)に詳しく述べられているように、
革秀寺
の本堂は慶長十三年,図234.
革秀寺
本堂 長勝寺については、本堂も庫裏も、年代を示す調査結果は得られていない。,規模が大きくて、側廻(かわまわ)りには三本溝(さんぼんみぞ)の窓を配しており、当初は庫裏や
革秀寺
と同様,
革秀寺
境内にある津軽為信霊屋(たまや)は、慶長十三~十九年(一六〇八~一四)に二代信枚によって造られたとされているが
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
二代藩主信枚は、為信が慶長十二年(一六〇七)十二月五日、京都で死去すると、
革秀寺
を創建して墓所とし、長勝寺,図204.
革秀寺
津軽為信霊屋 信枚は天海僧正に帰依し、江戸では天台宗常福寺を菩提寺として埋葬されたが
資料編2(近世編1)
([口絵])
[口絵] 津軽為信画像 (国立史料館蔵) 津軽為信霊屋(弘前市・
革秀寺
) 為信の霊屋は,「大手町御門より碇ヶ関峠御境迄」 慶長14年7月18日 津軽信長〔信枚〕黒印寺領充行状
革秀寺
宛
通史編2(近世1)
(知行宛行状の発給)
同年七月十八日には、信枚は父為信の菩提寺
革秀寺
(ぼだいじかくしゅうじ)に高一〇〇石の寺領宛行状を発給しており,
革秀寺
を除いては、いずれも小知行の知行宛行状といえよう。,図78.信枚が
革秀寺
に宛てた寺領宛行状 この年には、他にも多くの知行宛行状が発給されており、八月七日,また
革秀寺
には、元和九年(一六二三)三月八日に高一〇〇石の信枚黒印による寺領宛行状が出されている(同前,同日には
革秀寺
へ高一〇〇石(資料近世1No.五五一)、町田村かち右衛門へ高一五石(同前No.五五二)、
通史編3(近世2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
東京都千代田区) 岩木山神社(青森県中津軽郡岩木町) 財団法人開陽丸青少年センター(北海道檜山郡江差町)
革秀寺
資料編2(近世編1)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
沢町教育委員会(青森県鰺ヶ沢町) 岩手県立図書館(岩手県盛岡市) 岩手県立博物館(岩手県盛岡市)
革秀寺
資料編3(近世編2)
(はじめに)
さらに慶長年間の後半には長勝寺や
革秀寺
の本堂が造られ、寛永五年(一六二八)には岩木山神社の楼門、東照宮本殿
通史編4(近・現代1)
(藩祖三百年祭)
九月三日には
革秀寺
で、四日、五日には長勝寺でそれぞれ藩祖の大法会を執行し、十一日には高岡神社で神式祭を
通史編3(近世2)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
作成 200 作成 201 作成 202 作成 203 中津軽郡岩木町 高照神社蔵 204 弘前市
革秀寺
,東京大学史料編纂所蔵 212 弘前市 貞昌寺 213 弘前市 真教寺 214 弘前市 長勝寺 215 弘前市
革秀寺
, 東京大学史料編纂所蔵 232 弘前市 巖鬼山神社 233 弘前市 新寺町稲荷神社 234 弘前市
革秀寺
通史編3(近世2)
(館神)
この秀吉の木像は明治になって東京の津軽家へ移され、昭和三十二年(一九五七)より、
革秀寺
の津軽為信霊廟に
通史編3(近世2)
(江戸時代後期の建築)
革秀寺
の津軽為信霊屋は、一間に一間の小規模なものであり、正面に軒唐破風を付けた入母屋造こけら葺の屋根で
通史編3(近世2)
(為信)
信枚は葬式の導師に格翁を頼み、廟所の
革秀寺
を建立して開山に推した(資料近世2No.四一四)。
通史編2(近世1)
(飢饉のその後)
図125.天明卯辰日記 藩は城下の長勝寺・
革秀寺
等に餓死者供養の施餓鬼(せがき)を命じる一方、
通史編3(近世2)
(二代信枚)
革秀寺
(かくしゅうじ)は父為信の菩提寺として慶長十三年(一六〇六)創立し、寺領一〇〇石を寄進した。
通史編3(近世2)
((二)年中行事と生活)
四月中…藩主、
革秀寺
(かくしゅうじ)・高岡(たかおか)(現高照神社)・岩木山へ参詣。
資料編3(近世編2)
(●長勝寺 西茂森一丁目)
規模が大きく、側廻りには三本溝の窓を配しており、舟肘木で一軒の垂木を受けているが、当初は、長勝寺庫裏や
革秀寺
本堂
通史編1(古代・中世)
([付図])
(S,60年11月15日 堀越城跡追加) 下白銀町1ほか 弘前市ほか 2 市 〃 曹洞宗津軽山
革秀寺
,18,807.41m2 S,60年1月24日 藤代1丁目4の1 (宗)
革秀寺
3 〃 〃 吉田松陰来遊,館後字村元 畑 城館跡 鎌倉 112 出間舘 銅屋町 境内 〃 平安 安土桃山・江戸 113 津軽山
革秀寺
庭園遺跡
通史編2(近世1)
(本村と新田)
このうち、土堂(つちどう)村は元和九年(一六二三)三月八日の
革秀寺
(かくしゅうじ)宛ての二代藩主信枚の
通史編2(近世1)
(二代信枚の動向)
図61.津軽信枚画像 一方、領内に目を向けると、慶長十三年(一六〇八)に為信の菩提寺である
革秀寺
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
備考 (16) 清安寺 曹洞宗 長勝寺 清安寺の末寺に、赤石村の松源庵、中野目の村庵あり (17)
革秀寺
,同右 同右 慶長年中 (18) 梅林寺 同右
革秀寺
(19) 龍淵寺 同右 梅林寺 板屋野木村
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 77 津軽為信墨付 慶長9年 弘前市立博物館蔵 78 知行之目録
革秀寺
宛
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長十三年(一六〇八)、この年、
革秀寺
建立。八幡宮を高岡の丑寅の方角へ移転させる。,●慶長十四年(一六〇九)七月十八日、津軽信枚、
革秀寺
をはじめ、家臣へも知行充行の黒印状を下付する。,●元和九年(一六二三)三月八日、津軽信枚、
革秀寺
へ知行目録を下し、寺領百石を充行う。,●寛永十一年(一六三四)正月十一日、津軽信吉、家臣岩橋木工助をはじめ、
革秀寺
等へも黒印状を下し、知行を
資料編1(考古編)
([付図])
弘前市大字国吉字村本 城館跡 鎌倉 02112 出間館 弘前市大字銅屋町 城館跡 安土桃山,江戸 02113 津軽山
革秀寺
庭園遺跡
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