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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (音楽団休)

音楽団休 NHK弘前局が昭和十三年(一九三八)に開局になり、昭和十七年九月には『弘前放送子供会』が誕生,演劇・舞踊・音楽の総合芸術活動により地域の文化の活性化と芸術家育成に効果があった。,後に舞踊部・演劇部・音楽部に分かれて独自の活動を続け、音楽部は昭和二十九年弘前放送児童合唱団と改まって,音楽の指導者として、後に工藤健一なども加わった。ラジオをルーツとして現代のテレビ文化がある。,楽団へと発展しただろうアンサンブルの音楽形態の一つにジンタ(市中音楽隊とその音楽)があり、日清戦争(明治二七 / 音楽団休
通史編5(近・現代2) (音楽教育の先達)

音楽教育の先達 楠美恩三郎(くすみおんざぶろう)(明治元-昭和二 一八六八-一九二七)は東奥義塾に学,び、東京音楽学校師範部を卒業、同校でバイオリンと作曲を教え、邦楽調査員を兼ね、平家琵琶の調査を担当。,青森県女子師範学校を経て、東京女子師範学校を卒業、音楽取調掛の第一回府県派出伝習生として音楽を学んだ。,明治十八年八月から弘前中学校、青森師範学校で音楽を教えた。,弘前市の小学校で音楽を初めて教えたのが和徳小学校であり(明治二十年五月)、傍島万年に学んだ訓導山中嵯峨之助 / 音楽教育の先達
通史編5(近・現代2) (学校における音楽)

伊沢修二が中心となり音楽取調掛を設立し(明治十二年)、音楽教育の方向づけをしたことは、民謡の項で述べた,比較的に記録が残されている東奥義塾の音楽活動を概観すれば、弘前地区の音楽文化の様相が窺い知れる。  ,開校の年の十月には音楽大会が催され、サキソフォーン、フルート、バンジョーの独奏曲などが外人音楽家によって,県立女学校(現弘前中央高校)は明治三十四年(一九〇一)に開校し、第一回音楽演奏会を音楽教室で催した。,まで県立女学校の音楽教諭を務めた。 / 学校における音楽
通史編5(近・現代2) (六 一般人の音楽)

六 一般人の音楽 鉄道唱歌は明治三十三年に作られ、全国を風靡した。,こうした音楽と、ラジオ歌謡とか演歌などを含めたポピュラー音楽との区別はつけがたい。 / 六 一般人の音楽
通史編5(近・現代2) (第三節 音楽界の様相)

第三節 音楽界の様相 音楽文化は、明治期にそれまでの様相を大きく変化させた。,その要因の一つは西洋音楽の流入であり、第二は藩制の解消による他地域との自由な交流である。,学校教育の場で西洋音楽が導入され、五節句の廃止が伝統音楽の衰退の一因となった。,大正期には日本の音楽界がたどった潮流と同じく、西洋音楽の定着と、新民謡運動、童謡運動などの流れがあり、,昭和初期は西洋音楽を消化し、そのレベルへ接近しようとした時代であり、また軍国主義に迎合した音楽が鳴り響 / 第三節 音楽界の様相
通史編5(近・現代2) (音楽家たち)

音楽家たち 水木音彌(みずきおとや)(明治一四-昭和二九 一八八一-一九五四)は大鰐苦木生まれ。,木村弦三(きむらげんぞう)(明治三八-昭和五三 一九〇五-一九七八)は福士幸次郎の地方主義に共鳴し、民俗音楽,同じく、津軽地方の民謡を収集し、合唱曲『津軽の旋律』(陸奥新報社、一九五八年)を刊行して弘前市の合唱音楽 / 音楽家たち
通史編5(近・現代2) (五 洋楽・学校音楽・軍歌)

五 洋楽・学校音楽・軍歌 平尾魯仙(ひらおろせん)(文化五-明治一三 一八〇八-一八八〇)は安政二年,(一八五五)六月に函館に赴き、西洋人について調査し、音楽についても記述している。,「船から聞こえてくる音楽は笙(しょう)・ひちりき・笛・太鼓の音がして美しい。,音楽は娯楽のためばかりでなく、軍楽としても用いる」と記している。 / 五 洋楽・学校音楽・軍歌
通史編5(近・現代2) (四 民謡)

民謡は士族階級の音楽ではなく、庶民の音楽であり、町民よりは農民・漁民の音楽であった。,雅楽と西洋音楽を折衷して作られた『小学唱歌集』は明治十五年に発行されて音楽教育が始められ、明治二十年に,開設された音楽学校は洋楽へと傾斜していった。  ,日清戦争が始まる明治二十七年(一八九四)には《勇敢なる水兵》などが歌われ、「音楽学校は西洋音楽の奴隷にあらざるべく,、日本音楽の仇敵にもあらざるべし」などの意見も出てくる。
通史編5(近・現代2) (一 古典邦楽)

音楽を奨励した藩は萩藩以外稀(まれ)であったといわれる。,前出の『弘藩明治一統誌』には「幸いに明治開新以来別(わけ)て音楽は流行招魂祭学校開筵式部での快楽部楽に,音楽を主とする世態となり再栄を萌(めぐ)みたるは社会の鴻福なり」とある。,明治初年には音楽が祭礼や学校行事にかかわって余命を保ったことがわかる。,しかし、学校教育で独自の音楽が行われるようになると、活動の場を失い衰退せざるを得なかった。
通史編5(近・現代2) (わらべ歌)

これは当時の方言矯正(きょうせい)思想と呼応して、「わらべ歌は卑猥(ひわい)であり、それを避け、善良な音楽,童謡運動は大正七年(一九一八)児童雑誌『赤い鳥』が創刊されてから具体的に始まり、「俗悪な読み物と貧弱低劣な音楽,この「貧弱低劣な音楽」とされたのは文部省の唱歌であった。,戦後の「わらべ歌教育」運動の中には、文部省の検定による固定された音楽教材・指導法への反省が含まれていた,くどうけんいち)によって『青森のわらべ歌』(柳原書店、一九八四年)としてまとめられ、録音は前述の『青森県の民俗音楽目録
通史編5(近・現代2) (津軽三味線)

しかしながら、音楽の需要と供給の関係、とくに享受者が誰であったかを検証すれば、ボサマたちの音楽であったとするよりは,、庶民、とりわけ農民たちの音楽であったと理解した方がよいであろう。,山田千里は昭和五十年代から他分野の音楽ジャズ、ロック、クラシック、現代音楽、タンゴ、邦楽などとの融合を
通史編5(近・現代2) (ねぷた)

廃止の通達後の運行の様相、灯籠の変遷、ネプタ喧嘩、七日のネプタ流しなど、把握すべき事柄があるが、音楽のみについて,音楽は行き(行進)の採譜を譜例3として挙げた。 図20 ねぷた囃子
通史編5(近・現代2) (三 民俗芸能(無形民俗文化・年中行事))

広義には演劇・舞踊・音楽を伴う民間習俗である。,年中行事、民間宗教としての百万遍(ひゃくまんべん)、イタコ、虫送り、ねぷた等の習俗であるが、いずれも音楽
通史編5(近・現代2) (新民謡)

それを背景として、大正から昭和初期にかけて「新民謡(創作民謡)」といわれる様式の音楽が起こる。,文学における北原白秋、野口雨情、音楽における中山晋平(明治二〇-昭和二七 一八八七-一九五二)などによる
通史編5(近・現代2) (金賞に輝く合唱)

金賞に輝く合唱 明治三十四年の開校から昭和の弘高女の時代まで、音楽担当として在職した教諭のほとんどは,東京音楽学校(東京芸術大学の前身)の出身であった。,こうした音楽教育の伝統は戦後の弘前中央高校にも引き継がれ、その頂点ともなったのが音楽クラブの活躍である
通史編5(近・現代2) (平家琵琶)

学校行事に参加出演したのは雅楽と同じであり、和徳小学校が明治二十三年に購入した風琴(オルガン)の披露の音楽会,館山の大著『平家音楽史』(一九一〇年)は歴史、曲、奏法などが詳しい。
通史編5(近・現代2) (子ども会の動向)

これは音楽、舞踊、演劇活動を中心としたもので、昭和二十一年五月、市内国民学校の教員千葉寿雄(第一大成国民学校,子ども会には演劇、音楽、舞踊の三部門があり、演劇部は島村喜美(和徳国民学校)と千葉が担当し、音楽部は小島正雄
通史編5(近・現代2) (津軽神楽)

平維茂、牛若丸、弁慶、鬼女、恵比須舞、猩々、能坂長範、狐、西ノ宮大神、紅葉狩、兼平、わらび折 等)  音楽,としては各演目に用いる楽器(笛、太鼓、手拍子)の音楽フレーズがあり、それらが配分される仕方も定められている
通史編5(近・現代2) (検定教科書の採用)

東京書籍  「新しい社会」  算数  東京書籍  「新しい算数」  理科  二葉    「理科」  音楽,  教育出版  「標準小学校の音楽」  図工  光村図書  「小学校の造型」  ローマ字 開隆堂  
通史編5(近・現代2) (後藤健次の手紙)

七月には北方詩風社詩話会を開き、一戸玲太郎、桜庭芳露をはじめ、今官一ら「わらはど」のグループや、郷土音楽研究家
通史編5(近・現代2) (秩父宮の歩兵第三一連隊赴任)

十三日午後七時半からは仙台放送局が「秩父宮殿下奉迎の夕」と題するラジオ放送を行い、講演や音楽を流した。,放送では知事が県民を代表して奉迎の言葉を述べ、奉迎音楽ではマンドリンの演奏や津軽民謡などが流された。
通史編5(近・現代2) (民謡の種目と曲数)

これに他の資料も追加して整理し、『青森県の民俗音楽目録』(笹森建英編、一九九八年)としてカタログが刊行
通史編5(近・現代2) (弘前文化センター(弘前文化会館))

弘前文化センターは、地域住民が身近に音楽・演劇・舞踊などの舞台芸術を鑑賞したり、自ら制作・発表活動を行
通史編5(近・現代2) (市民会館の設置)

これまで弘前には、音楽・演劇・舞踊等の文化団体が数多く活動しながら、その発表の場がなかった。
通史編5(近・現代2) (女性校長第一号)

佐藤は往事を回想して「学校の主要努力目標に音楽と社会科をかかげましたが、先生方はみな一生懸命で、郡下研究会
通史編5(近・現代2) (軍歌)

軍歌 軍歌は軍人のための音楽であったが、一般市民も歌い、また学校教育の中でも軍歌が扱われたのが「和徳小学校資料
通史編5(近・現代2) (戦時中の弘高女)

修学旅行も運動会も中止となり、音楽会も規模を縮小して行われている。  
通史編5(近・現代2) (昭和初期の弘前高女)

建築費三〇〇〇円は、卒業生からの寄付とバザーや音楽会の収益で賄われた。
通史編4(近・現代1) (伝道の日々)

中田は福音音楽隊を帯同して、昼は行進、夜は奏楽と説教をして大活躍だった。,写真130 福音音楽隊、弘前教会前にて  明治三十七年二月十日、日露戦争が始まった。
通史編5(近・現代2) (錦風流尺八(きんぷうりゅうしゃくはち))

じんにょどう)の弟子であった玉田如萍(たまだにょひょう)に学び、一九三〇年代に尺八の曲を作曲しており、日本音楽,根笹派・錦風流の全曲を含む尺八の古典本曲、一五四曲を集大成し、邦楽史上で重要な音楽家であり、如道が錦風流
通史編4(近・現代1) (蓬萊館から大和館へ)

大正期はまだ無声映画の時代であり、映画のシーンに合わせて、生の音楽が流れ、弁士が七色の声を使い分けながら
通史編5(近・現代2) (イタコ)

音楽の骨格をなす旋律、その旋律の構造を規制する音組織を譜例1として挙げる。
通史編5(近・現代2) (獅子踊(舞))

音楽は、笛、太鼓、鉦、音頭からなる。
通史編5(近・現代2) (国民学校令)

科目は修身・国語・国史・地理)、理数科(科目、算数・理科)、体錬科(科目、武道・体操)、芸能科(科目、音楽
通史編5(近・現代2) (昭和弘前市民の一側面)

現在の我々と同様、当時の市民にとっても演劇や音楽の鑑賞は格好の趣味だった。,写真11 弘前座  弘前市だけのことではないが、当時の音楽を語る際に津軽三味線の隆盛も見逃せない,音楽コンクールやピアノ・声楽なども盛んに行われた。
通史編4(近・現代1) (初めての常設館・慈善館)

その際、屋上にトンガリ帽子の音楽堂を載せ、毎夕そこから楽隊がジンタを流して客寄せを始めた。
通史編4(近・現代1) (藩祖三百年祭)

これは、弘前教育会の要請により大道寺繁禎が作詞し、弘前出身の東京音楽学校教授楠美恩三郎が作曲したものである
通史編5(近・現代2) (弘前聖愛高校の教育と移転)

九十周年には、英語教育と音楽教育の集大成とも言うべき記念英語劇ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が公演
通史編5(近・現代2) (社会教育研究大会)

○芸術祭と音楽祭(講師文部省田名部事務官・木村弦三・葛西覧造)  ○科学教育(講師小和田視学官・内田県農事試験場長
通史編5(近・現代2) (官立弘前高等学校赤化事件)

一五共産党事件後、解散を命ぜられて非合法化されたが、旧社研メンバーは新聞雑誌部をつくり、映画、演劇、音楽
通史編5(近・現代2) (美術団体の発足と展開)

(文学者)、木谷末太郎、小林喜代吉、西館栄子、石戸谷津南、鹿内芳洲、三国花影らを中心に、美術、文学、音楽
通史編4(近・現代1) (弘中生気質)

 新しい大正期の空気のなかで質実剛健の弘中の校風にも微妙な変化が起こりつつあったが、開校以来初の音楽会
通史編5(近・現代2) (戦時生活の諸側面)

戦時生活の諸側面 戦争が本格化するまでの弘前は映画・演劇・音楽など、都市文化が展開し文化的生活が華やかだった
通史編4(近・現代1) (キリスト教)

飢饉のときには教会を挙げて救済活動を行い、着任した宣教師夫人による市中での音楽会も開催するなど、その活動
通史編4(近・現代1) (黒溝台の死闘)

記念行事が定期的に挙行されるのと併せて、新聞や雑誌、音楽や演劇などで、日露戦争の激戦や悲劇は繰り返し国民
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の再興なる)

日ごとの礼拝を行ったのは当然として、語学を重視しての外国人教師による英会話の必修、一年から五年までの音楽
通史編5(近・現代2) (掲載写真の典拠・所蔵一覧)

弘前市蔵 写真112 『青森県警察史』下 青森県警察本部 1977年 写真113 東奥日報社提供 日本音楽著作権協会
通史編5(近・現代2) (新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)

…………  878   四 昭和期の美術(戦後) ………………………………………  881 第三節 音楽界, 898   四 民謡 ……………………………………………………………  902   五 洋楽・学校音楽,・軍歌 ………………………………………  909   六 一般人の音楽 ………………………………………
通史編4(近・現代1) (草創期の外国人教師たち)

ほかにもキリスト教の人権思想から来る男女平等思想や、讚美歌をはじめとした西洋音楽を伝え、それまで津軽地方
通史編4(近・現代1) (新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)

  第八章 近現代弘前市の文化活動  第一節 文学活動  第二節 美術界の様相  第三節 音楽界
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