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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (音楽教育の先達)

音楽教育の先達 楠美恩三郎(くすみおんざぶろう)(明治元-昭和二 一八六八-一九二七)は東奥義塾に学,び、東京音楽学校師範部を卒業、同校でバイオリンと作曲を教え、邦楽調査員を兼ね、平家琵琶の調査を担当。,青森県女子師範学校を経て、東京女子師範学校を卒業、音楽取調掛の第一回府県派出伝習生として音楽を学んだ。,明治十八年八月から弘前中学校、青森師範学校で音楽を教えた。,弘前市の小学校で音楽を初めて教えたのが和徳小学校であり(明治二十年五月)、傍島万年に学んだ訓導山中嵯峨之助 / 音楽教育の先達
通史編5(近・現代2) (第三節 音楽界の様相)

第三節 音楽界の様相 音楽文化は、明治期にそれまでの様相を大きく変化させた。,学校教育の場で西洋音楽が導入され、五節句の廃止が伝統音楽の衰退の一因となった。,旧弊を改めるべく、学校教育の場が用いられ「祝日祭日儀式規定」によって新たな祭日が設けられた。,大正期には日本の音楽界がたどった潮流と同じく、西洋音楽の定着と、新民謡運動、童謡運動などの流れがあり、,昭和初期は西洋音楽を消化し、そのレベルへ接近しようとした時代であり、また軍国主義に迎合した音楽が鳴り響 / 第三節 音楽界の様相
通史編5(近・現代2) (学校における音楽)

伊沢修二が中心となり音楽取調掛を設立し(明治十二年)、音楽教育の方向づけをしたことは、民謡の項で述べた,それは国家主義的教育の浸透を図る目的で、《君が代》などを教える必要性が叫ばれたためであった(通史近・現代,比較的に記録が残されている東奥義塾の音楽活動を概観すれば、弘前地区の音楽文化の様相が窺い知れる。  ,開校の年の十月には音楽大会が催され、サキソフォーン、フルート、バンジョーの独奏曲などが外人音楽家によって,その伝統が続き、例えば一〇回生の虎谷一郎(とらやいちろう)(元弘前市教育長)や田澤吉郎(たざわきちろう / 学校における音楽
通史編5(近・現代2) (社会教育研究大会)

社会教育研究大会 昭和二十二年(一九四七)七月、文部省と県主催の第一回青森県社会教育研究大会が、青森軍政部指導,参加者はアメリカ進駐軍の青森軍政部民間情報教育部係官、文部省係官をはじめ県関係者、県立図書館長、県社会教育委員,この社会教育研究大会は、アメリカ軍政府の指導に行われたもので、戦後の社会教育の方向を決めたものとして重要,研究大会第一日目 初めに「社会教育の目的」と題して、青森県軍政部教育部長レップローグルの講演があり、次,○芸術祭と音楽祭(講師文部省田名部事務官・木村弦三・葛西覧造)  ○科学教育(講師小和田視学官・内田県農事試験場長 / 社会教育研究大会
通史編5(近・現代2) (弘前聖愛高校の教育と移転)

弘前聖愛高校の教育と移転 昭和四十三年四月、弘前学院は、東北学院大学から新院長として赤城泰を招聘した,新天地の原ヶ平の地は、周囲をりんご園に囲まれた郊外にあり、教育環境としては最適の地と言えるだろう。,五十二年には、教育目標を「キリスト教を学ぶことにより、信仰を求め、正義・愛・献身を体現する人間を育成する,」と定め、各目標を具体化するための教育方針を一貫して追求し、現在に至っている。  ,九十周年には、英語教育と音楽教育の集大成とも言うべき記念英語劇ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が公演 / 弘前聖愛高校の教育と移転
通史編5(近・現代2) (四 民謡)

民謡は士族階級の音楽ではなく、庶民の音楽であり、町民よりは農民・漁民の音楽であった。,明治以降の学校教育で、新たな日本の音楽教育がいかにあるべきかを思索した伊沢修二(嘉永四-大正六 一八五一,雅楽と西洋音楽を折衷して作られた『小学唱歌集』は明治十五年に発行されて音楽教育が始められ、明治二十年に,日清戦争が始まる明治二十七年(一八九四)には《勇敢なる水兵》などが歌われ、「音楽学校は西洋音楽の奴隷にあらざるべく,「平家琵琶」の項目で述べた館山漸之進は音楽教育における邦楽の軽視、洋楽偏重の風潮に対する抗議を明治天皇
通史編5(近・現代2) (一 古典邦楽)

音楽を奨励した藩は萩藩以外稀(まれ)であったといわれる。,前出の『弘藩明治一統誌』には「幸いに明治開新以来別(わけ)て音楽は流行招魂祭学校開筵式部での快楽部楽に,音楽を主とする世態となり再栄を萌(めぐ)みたるは社会の鴻福なり」とある。,明治初年には音楽が祭礼や学校行事にかかわって余命を保ったことがわかる。,しかし、学校教育で独自の音楽が行われるようになると、活動の場を失い衰退せざるを得なかった。
通史編5(近・現代2) (検定教科書の採用)

連合国軍総司令部は、わが国が国定教科書制度をとり、一種類の教科書を全国の小学校で使用している統制教育を,それが六・三制実施とともに断行されたもので、戦後の教育改革の中でも、検定教科書の採用は、最も注目された,検定教科書制度は教育民主化の最高の措置として、学校現場には歓迎された。,東京書籍  「新しい社会」  算数  東京書籍  「新しい算数」  理科  二葉    「理科」  音楽,  教育出版  「標準小学校の音楽」  図工  光村図書  「小学校の造型」  ローマ字 開隆堂  
通史編5(近・現代2) (わらべ歌)

これは当時の方言矯正(きょうせい)思想と呼応して、「わらべ歌は卑猥(ひわい)であり、それを避け、善良な音楽,童謡運動は大正七年(一九一八)児童雑誌『赤い鳥』が創刊されてから具体的に始まり、「俗悪な読み物と貧弱低劣な音楽,この「貧弱低劣な音楽」とされたのは文部省の唱歌であった。,戦後の「わらべ歌教育」運動の中には、文部省の検定による固定された音楽教材・指導法への反省が含まれていた,くどうけんいち)によって『青森のわらべ歌』(柳原書店、一九八四年)としてまとめられ、録音は前述の『青森県の民俗音楽目録
通史編5(近・現代2) (国民学校令)

国民学校令 昭和十二年七月、日華事変が勃発すると、政府は教育審議会を設置して、当面する情勢に応ずる教育,国民学校の教育は教育全般にわたって皇国の道の修練を目指したといってよい。  ,これまでの小学校教育は「児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並ニ其ノ生活ニ必須ナル知識技能,このような教育目的に沿って、教育内容の構成も大きく変化した。,(科目、算数・理科)、体錬科(科目、武道・体操)、芸能科(科目、音楽・習字・図画・工作・裁縫〈女子〉家事
通史編5(近・現代2) (軍歌)

軍歌 軍歌は軍人のための音楽であったが、一般市民も歌い、また学校教育の中でも軍歌が扱われたのが「和徳小学校資料,」でわかる(明治期に好まれた軍歌については、通史近・現代1、第二章第五節第一項「初等教育」を参照)。
通史編5(近・現代2) (金賞に輝く合唱)

金賞に輝く合唱 明治三十四年の開校から昭和の弘高女の時代まで、音楽担当として在職した教諭のほとんどは,東京音楽学校(東京芸術大学の前身)の出身であった。,こうした音楽教育の伝統は戦後の弘前中央高校にも引き継がれ、その頂点ともなったのが音楽クラブの活躍である
通史編5(近・現代2) (女性校長第一号)

佐藤校長の出現は、戦後の民主教育と、男女同権を具現したものとして歓迎され、新聞もまた好意をもってこれを,佐藤は往事を回想して「学校の主要努力目標に音楽と社会科をかかげましたが、先生方はみな一生懸命で、郡下研究会
通史編4(近・現代1) (藩祖三百年祭)

これは、弘前教育会の要請により大道寺繁禎が作詞し、弘前出身の東京音楽学校教授楠美恩三郎が作曲したものである
通史編5(近・現代2) (掲載写真の典拠・所蔵一覧)

当市史編纂事務局が平成2年の事業開始以来集積してきたもの、企画課広報係が撮影・保管してきたもの、さらに『弘前市教育史,』(弘前市教育委員会、上巻1970年 下巻1979年)編纂にあたって収集したもの、市制施行90周年記念,弘前市蔵 写真112 『青森県警察史』下 青森県警察本部 1977年 写真113 東奥日報社提供 日本音楽著作権協会,1994年) 写真287 青森県立弘前中央高等学校蔵 写真288 同 上 写真289 『弘前大学教育学部教科教育研究紀要第,18号』弘前大学 1993年 写真290 『弘前市の洋風建築』弘前市教育委員会 1986年 写真291
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の再興なる)

藩校稽古館の流れをくみ、明治期の北方教育界において輝かしい光芒(こうぼう)を放った東奥義塾は、一時その,教育界では今井富士雄、羽賀与七郎、塾長を務めた新谷武四郎、医師の鳴海修、直木賞作家の今官一、「津軽の旋律,再興東奥義塾は私立学校令によったが、礼拝への出席はさておき、笹森塾長は市民教育にも意を用い、英語夜学校,大正十一年の再出発以来、いろいろな困難を乗り越え、独特な校風によって地方教育界に新風を吹き込んだ義塾が,日ごとの礼拝を行ったのは当然として、語学を重視しての外国人教師による英会話の必修、一年から五年までの音楽
通史編5(近・現代2) (新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)

の様相 ………………………………………………  154   一 昭和初期の初等教育 ………………………,…………………  154   二 国民学校令下の初等教育 ……………………………………  168   ,…………  878   四 昭和期の美術(戦後) ………………………………………  881 第三節 音楽界, 898   四 民謡 ……………………………………………………………  902   五 洋楽・学校音楽,・軍歌 ………………………………………  909   六 一般人の音楽 ………………………………………
通史編4(近・現代1) (弘中生気質)

むしろ大正四年に制定された教育勅語の精神を説く「生徒心得」の方の「進取ノ気性ヲ鼓シ勤倹尚武ノ気風ヲ養フベシ,△観劇の件△生徒処分の件△生徒教唆の件△校長失言の件△学校教育に関する件  しかるに校長は、これに対, 新しい大正期の空気のなかで質実剛健の弘中の校風にも微妙な変化が起こりつつあったが、開校以来初の音楽会
通史編4(近・現代1) (新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)

…………  382   二 地主制度の確立と農事改良 …………………………………  392 第五節 教育,の発展と充実 ……………………………………………  397   一 初等教育 ………………………………,三 幼稚園教育 ……………………………………………………  440   四 社会教育 ……………………,の拡充 ……………………………………………………  629   一 初等教育 ………………………………,  第八章 近現代弘前市の文化活動  第一節 文学活動  第二節 美術界の様相  第三節 音楽界
通史編4(近・現代1) (キリスト教)

弘前教会(元寺町・明治19年)  キリスト教は、弘前において単なる宗教としてだけではなく、女子教育,飢饉のときには教会を挙げて救済活動を行い、着任した宣教師夫人による市中での音楽会も開催するなど、その活動
通史編4(近・現代1) (草創期の外国人教師たち)

ほかにもキリスト教の人権思想から来る男女平等思想や、讚美歌をはじめとした西洋音楽を伝え、それまで津軽地方,まさに宣教と教育に尽くした人生だった。
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