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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(考古編) (〈2〉津軽地方で生産された須恵器)

〈2〉津軽地方で生産された須恵器 須恵器は、登窯によって1000℃以上の高温でしかも還元状態で焼かれた,なお、青森県では現段階での須恵器窯は、この地域以外には確認されていない。,この窯跡群は昭和42年(1967)に発見され、当時、古代律令体制と密接な関係を持つとされた須恵器生産が,図72 津軽五所川原須恵器窯跡分布図  また、これまで報告書が刊行されているのは、砂田B-1号窯,窯跡名 発掘調査者 発掘年 概要 文献 1 原子山道溜池窯 未 須恵器,窯体壁片散布 村越潔・新谷武 / 〈2〉津軽地方で生産された須恵器
資料編1(考古編) (-五所川原古窯群生産須恵器の供給先-)

-五所川原古窯群生産須恵器の供給先- 9世紀末葉~10世紀初頭の生産開始から、11世紀前葉期まで操業,したと考えられる持子沢系、前田野目系窯跡群で生産された須恵器は、器形を含む製作上の諸特徴のほかに、鉄分含有量,したがって、消費地出土須恵器の産地同定は比較的容易である。  ,図73 津軽五所川原窯産須恵器の出土分布図 / -五所川原古窯群生産須恵器の供給先-
資料編1(考古編) (-各窯跡の構造と出土須恵器の概要-)

-各窯跡の構造と出土須恵器の概要- 〔砂田B-1号窯〕 半地下式無階無段登窯。,図59 鞠ノ沢A窯と出土須恵器 〔持子沢D-1窯〕 半地下式無階無段登窯。,須恵器は、リンゴ箱10箱分ほどで、五所川原古窯跡群内では最も多い量である。,本窯の須恵器各器種の頸部には、高い比率で篦描の「窯印?」が施されている。,図61 砂田D-2号窯出土須恵器(1) 図62 砂田D-2号窯出土須恵器(2) 〔持子沢 / -各窯跡の構造と出土須恵器の概要-
資料編1(考古編) (-津軽五所川原古窯跡群で生産された須恵器の編年と年代観-)

-津軽五所川原古窯跡群で生産された須恵器の編年と年代観- これまで、津軽五所川原窯群の須恵器は各窯ごとの,持子沢系の須恵器は、能代市十二林窯と極めて強い脈絡を持っており、それは特に長頸壺に現れている。,図65 集落遺跡出土の須恵器坏類(7~10世紀) 図66 集落遺跡出土の須恵器坏類(9~10,の須恵器長頸壺(9~10世紀) 図69 集落遺跡出土の須恵器壺類(9~11世紀),図70 集落遺跡出土の須恵器大甕(8~11世紀) 図71 集落遺跡出土の須恵器大甕(9~10 / -津軽五所川原古窯跡群で生産された須恵器の編年と年代観-
通史編1(古代・中世) (五所川原窯跡群の操業)

五所川原窯跡群の操業 九世紀中葉以降、大集落が営まれる津軽平野の大規模開拓の時期に呼応するかのように、五所川原須恵器窯跡群,が操業を開始し、それまでの搬入品の須恵器に取って代って津軽地方を中心とする地域での須恵器の主体を占めるようになる,五所川原須恵器窯跡群の操業期間は、九世紀後半から一〇世紀後半ばごろと考えられているが、一般集落への須恵器,の供給が行われるようになったこの時期、五所川原産須恵器は、津軽地方の各集落を主体としながら青森県内全域,図17 五所川原窯の須恵器編年 図18 五所川原窯産須恵器の出土分布図
資料編1(考古編) ((2)文字資料と文字文化)

それは、墨書土器や刻書土器と呼ばれるもので、前者は土師器や須恵器に墨で文字や記号類を書いたもの、後者は,この大半は、10世紀初頭から11世紀中葉にかけて生産された津軽五所川原窯須恵器である。,この須恵器に書かれた文字や記号は、明らかに須恵器工人によるものである。,南津軽郡浪岡町浪岡字五所 集落跡 須恵器壺 〃 26 〓  〃  〃    〃  〃 須恵器長頸壺,なお、山元(3)は石製の専用硯、小友・古館のものは須恵器甕の破片を打ち欠いた転用硯、鳥海山のものは須恵器皿
資料編1(考古編) ((2)4世紀後半代~5世紀代)

の北海道系遺物としては、続縄文文化の北大Ⅰ式土器と黒曜石製石器であり、古墳文化の遺物としては土師器・須恵器,また、三日市では初期須恵器直口壺、槻ノ木では土師器小型壺が出土している。  ,この時期の特徴の一つとして、初期須恵器(5世紀)の流入が注目される(6個体)。,中でも、森ヶ沢遺跡では大阪陶邑産、三日市の須恵器は仙台市大蓮寺産であり、畿内政権や仙台平野の古墳造営者,の土器(2~4土師器、1須恵器)
資料編1(考古編) ((1)東北地方南部以南との交易・交流)

この時期、律令支配地から、津軽地方に搬入された文物には、各種須恵器・鉄製品・ガラス玉などがある。,須恵器には坏・高台付坏・大甕・横瓶(べ)があり、一般的な農村集落や終末期古墳群から出土している。,須恵器は産地が特定できないものの、出羽国支配地内の国営の窯業地であろう。,ただ7世紀代の須恵器は少なく、8世紀後半代に下るにしたがって増加する。,しかも、この地方で生産された須恵器は津軽地方のみならず、北緯40度以北の各地に搬出されている。
資料編1(考古編) (資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)

図59 鞠ノ沢A窯と出土須恵器 図60 持子沢D-1号窯と出土須恵器 図61 砂田D-2号窯出土須恵器,峰窯跡 図65 集落遺跡出土の須恵器坏類(7~10世紀) 図66 集落遺跡出土の須恵器坏類(9~10,世紀) 図67 集落遺跡出土の須恵器鉢類・堝(9~10世紀) 図68 集落遺跡出土の須恵器長頸壺(,9~10世紀) 図69 集落遺跡出土の須恵器壺類(9~11世紀) 図70 集落遺跡出土の須恵器大甕,(8~11世紀) 図71 集落遺跡出土の須恵器大甕(9~10世紀) 図72 津軽五所川原須恵器窯跡分布図
資料編1(考古編) (7.小友遺跡)

〔平安時代〕 堀跡・溝跡・柱穴列・井戸跡・鍛冶遺構等の各遺構と、土師器・須恵器・擦文土器・鉄製品・羽口,また、井戸跡は素掘りで、中からは土師器甕・同坏・須恵器坏・同壺・砥石・鉄器が出土している。,各遺構及び遺構外から出土した平安時代の土器には、土師器では坏・甕・把手付土器・小型土器、須恵器では坏・,須恵器は、坏・甕・長頸壺とも五所川原窯産であり、中でも特徴をよく残す長頸壺は前田野目系窯産を示す。,また、須恵器甕の胴部片を再加工した転用硯もある。  
資料編1(考古編) (-古代後期Ⅲ期(10世紀中葉~10世紀後葉)-)

一方、須恵器では10世紀中葉に前田野目系窯が本格的に操業され、多量の須恵器が各集落に供給される。
資料編1(考古編) (-古代後期Ⅱ期(9世紀後葉~10世紀前葉)-)

47 9・10世紀の土師器堝(2)  10世紀前葉には五所川原窯のうち、持子沢系の窯群が開窯され須恵器生産,が本格的に開始され、集落への須恵器供給量が飛躍的に増加する。
資料編1(考古編) (5.荼毘館遺跡)

6基のうち、平安時代のものは第41号井戸、20号井戸であり、前者からは比較的まとまった土師器坏、甕、須恵器,⑤出土遺物 土師器、須恵器、古銭、鉄鍋、坩堝、羽口、鉄製品、砥石等が出土している。,須恵器は長頸壺、大甕であるが個体数は少ない。,号井戸跡・出土遺物(木製品・土師器) 図81 荼毘館遺跡第41号井戸跡・出土遺物(土師器・須恵器,) 図82 荼毘館遺跡出土土師器・須恵器 図83 荼毘館遺跡出土陶磁器
資料編1(考古編) (6.独狐遺跡)

、縄文時代早期・中期・後期・晩期の土器・石器が、また平安時代後半期(10世紀~11世紀代)の土師器・須恵器等,竪穴内からは、10世紀代の土師器甕・同坏・須恵器甕が出土している。  ,また、この時期の土壙や溝跡あるいは遺構外の出土遺物には、10世紀後半~11世紀代の土師器甕・坏・須恵器甕,次調査分) 図87 独狐遺跡掘立柱建物跡平面図 図88 独狐遺跡出土遺物(土師器・須恵器
通史編1(古代・中世) (陸の道・海の道)

器種としては四耳壺・甕・鉢であり、古代須恵器の焼成技法を踏襲していることから中世の須恵器といえるのかもしれない
通史編1(古代・中世) (青森県の古墳文化)

続縄文文化後半期の北大(ほくだい)Ⅰ式土器と五世紀後半の土師器坏(つき)および大阪陶邑(すえむら)編年Ⅰ期の須恵器高坏,このほか県東側では十和田湖町三日市(みっかいち)遺跡の須恵器直口壺や平内町槻ノ木(つきのき)遺跡の土師器小型壺,写真2 森ヶ沢遺跡出土の土師器・須恵器・北大式土器 図2 細越館遺跡出土の土師器  青森県
通史編1(古代・中世) (東北地方北部の群集墳)

調査成果では、規模・位置・遺物の内容などから集落の中心的な住居跡や切子玉(きりこだま)・耳環(じかん)・須恵器長頸壺,遺構外の出土ではあるが、八世紀前半に流通の最盛をみた静岡県湖西(こさい)地方産の須恵器と同質の胎土をもつ,須恵器が出土していることも、年代推定の傍証となるであろう。,四号墳と五号墳では盛土が検出され(図4)、五号墳と六号墳の周溝内からはガラス製丸玉・須恵器横瓶・高台付坏
通史編1(古代・中世) (擦文文化圏との交易)

擦文文化圏との交易 岩木山麓に展開した大規模な鉄生産も年代的にはこの須恵器生産とほぼ軌(き)を一にしており,って膨大な量の製鉄関連遺物(鉄製品・鉄滓(てっさい)・砂鉄・羽口(はぐち)など)や生活遺物(土師器・須恵器
資料編1(考古編) (-古代後期Ⅳ期(10世紀末~11世紀末)-)

この段階では、須恵器は完全に消滅している。,Ⅲ期で盛行した須恵器生産も、本時期ではほとんど消滅し、伝世品として残る貯蔵具も稀少となるが、これに代わるものとして
資料編1(考古編) ((3)葬制(終末期古墳))

首長層を中心とする人々と見られ、副葬される文物には直刀や蕨手刀のほか、ガラス玉を含む各種玉類、あるいは須恵器,埋葬施設である主体部は確認できなかったものの、周湟内からは葬送儀式の際に用いたと思われるガラス製小玉・須恵器堤瓶
資料編1(考古編) ((3)10世紀後半~11世紀)

しかし、遺跡から出土する同時期の産物である窯業製品、すなわち須恵器の交易内容を通して、その軌跡をうかがうことができる,10世紀初頭から11世紀中葉期まで操業した五所川原市持子沢系・前田野目系窯跡群の須恵器は、器形及び胎土,あるいは陸奥湾沿岸に展開する製塩業等の手工業的生産物はもちろんのこと、農業生産物の中でも、とりわけ米なども須恵器
資料編1(考古編) (-古代前期Ⅰ期(7世紀代)-)

また、須恵器は末期古墳では一定量見られるが、集落内ではまれに存在する。
資料編1(考古編) (-古代後期Ⅰ期(9世紀初頭~9世紀中葉)-)

須恵器の量は集落によって大きな違いがある。
資料編1(考古編) (-古代前期Ⅱ期(8世紀代)-)

また坏の平底化や小型化、須恵器の供給量も一部ではあるが増加することも本時期の特徴の一つである。
資料編1(考古編) (-中世Ⅰ期(12世紀代)-)

内真部・蓬田大館・浪岡城内館・矢立廃寺においては、大小2種類で、2技法をもった在地及び京都系かわらけ、須恵器系及
資料編1(考古編) ([付図])

国吉館遺跡 弘前市大字国吉字坂本142 台地上平坦面 城館跡 縄文(後期),平安 縄文土器,土師器,須恵器,02061 堂ヶ平遺跡 弘前市大字大沢 丘陵西斜面 包含地 縄文(前期),平安 縄文土器,土師器,須恵器,泉田遺跡 弘前市大字楢木字用田231 小低地 包含地 縄文(前・中期) 平安 縄文土器,土師器,須恵器,平安 縄文土器(後期十腰内Ⅲ・Ⅳ群,晩期大洞BC式),弥生土器(前期五所式・二枚橋式),土師器,須恵器,弘前市大字小友字宇田野199 低台地上 城館跡 縄文(前・後・晩期) 縄文土器,擦文土器,土師器,須恵器
資料編1(考古編) (1.12世紀の様相)

渥美と推定される甕及びかわらけ、高館遺跡では中国製白磁小皿、浪岡城内館では中国製白磁四耳壺・合子・碗と須恵器系甕
資料編1(考古編) ((2)9世紀~10世紀後半)

さらに、10世紀初頭においては、官営的色彩の濃い須恵器生産が津軽地方においても開始され(津軽五所川原窯
通史編1(古代・中世) (古墳文化及ばぬ北の世界)

この遺跡では、終戦直後に五世紀後半のものと思われる須恵器(すえき)が出土していたが、近年の発掘調査によって,森ケ沢遺跡から同時に出土した須恵器は典型的な古墳文化の遺物であるし、同じくそこから出土した玉のなかには
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

昭和42年(1967)には、本県の須恵器研究で画期的な発見があった。,五所川原市在住の秋元省三・新谷武らによる五所川原市前田野目地区における、本州最北の須恵器窯跡の発見である,当時我が国の須恵器研究の第一線で活躍していた立正大学坂詰秀一らによって調査が行われ*327*328、窯構造,や出土須恵器の内容が明らかにされた。,平山は須恵器67、橘は擦文や続縄文土器*82*88*102~*104で、北林は製塩土器*70*109で
資料編1(考古編) (11.牧野Ⅰ遺跡)

半円状扁平打製石器などのほか、土師器(平安時代後期11世紀後半~12世紀)の長胴甕・小型甕・高台付甕等の破片、須恵器
資料編1(考古編) ((4)漆器・木器生産)

(4)漆器・木器生産 古代における、一般的な食膳具は、土師器・須恵器の坏(椀)・皿類であるが、このほか,それまで、一般民衆の食膳具の主体を占めていた土師器や須恵器製の坏・皿類の生産が減少し、代わって木製椀・,輪高台を持つ漆器の出土例は、このほか黒石市高館遺跡、青森市細越遺跡のなどで、共伴する土師器・須恵器は11
資料編1(考古編) (1.沢部Ⅱ号遺跡)

では発掘調査の結果、縄文時代後期に属する十腰内Ⅰ群(式)土器と平安時代(10世紀)の土師器(甕と坏)・須恵器
資料編1(考古編) ((1)明治時代から太平洋戦争まで)

これには古代の竪穴住居の構造が具体的に示され、しかも各遺跡の炉(かまど)の構造や素材上での分類、あるいは須恵器
通史編1(古代・中世) (地方色を顕す古代の津軽地方)

けられる高館遺跡・古館遺跡・砂沢平遺跡の主体的遺構群が知られており、煮沸具としての土師器甕がほとんどで、須恵器
資料編1(考古編) (14.尾上山(2)遺跡)

縄文時代各期のものが出土し、それらは第Ⅰ群(早期)~Ⅴ群(晩期)に分類され、ほかにⅥ群として平安時代の土師器・須恵器
資料編1(考古編) ((1)祭祀と仏教文化の波及)

22 田面木平(1)遺跡 八戸市 大字田茂木字田茂木平 竪穴住居跡 床面 水晶製切子玉 土師器 須恵器,第63号住居跡 23 史跡根城跡 八戸市大字根城字東構 竪穴住居跡 床面 土製勾玉1 土師器 須恵器,また、本住居床面からは土師器・須恵器のほかに4点の手捏ね土器も出土しており、その特殊性が看取される。
資料編1(考古編) (-鉄生産遺構と製鉄炉の性格-)

しかも、各遺構に伴う製鉄関連遺物(鉄器・鉄滓・砂鉄・羽口等)や生活遺物(土師器・須恵器・擦文土器・土錘,製鉄関連遺構や工人集団の住居跡は、出土した土師器・須恵器・擦文土器の年代観や、白頭山降下火山灰(10世紀第
資料編1(考古編) (15.尾上山(3)遺跡)

出土した土師器は、坏・甕・小型甕・須恵器は短頸壺・甕・坏などである。
通史編1(古代・中世) (古墳文化と続縄文文化の交流)

特徴をもつ墳墓から、北大Ⅰ式土器と黒曜石の小破片という北海道系遺物と、供献具である五世紀後半の土師器・須恵器
通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

美濃・常滑・瀬戸・猿投(さなげ)といった東海地方の釉を施した陶器や、能登半島の珠洲(すず)で生産された須恵器系,一方でそれに伴って五所川原市の持子沢・前田野目窯で生産された須恵器が衰退している。  
資料編1(考古編) ((1)7世紀~8世紀)

土器生産においては、須恵器は北陸や東北地方南部以南地域からの移入品で需要を満しているものの、土師器は全
通史編1(古代・中世) (擦文文化の特徴)

深鉢と台付坏がそれぞれセットをなすという特徴が認められるのに対して、本県では深鉢(甕)のみで、土師器・須恵器
通史編1(古代・中世) (本州の擦文文化の実態)

北海道地方と津軽地方の交流関係は、九世紀後半から一〇世紀後半の操業とされる五所川原須恵器窯跡群から供給
資料編1(考古編) (第7節 出土遺物と生活)

平賀町鳥海山遺跡から出土している「大佛」とヘラ書きされた須恵器の皿(硯として使っていたらしい)や、尾上町下安原遺跡出土
資料編1(考古編) (1.古墳時代の概観)

岩手県南部地方全域を支配下に収めたことは想像に難くないが、この時期、青森県内にもガラス玉、石製模造品、鉄器、須恵器
資料編1(考古編) (8.砂沢遺跡)

のほかに、地区を異にして縄文時代前期・同時代中期・同時代後期並びに平安時代(10世紀ころ)の土師器・須恵器
資料編1(考古編) (4.中崎館遺跡)

〔平安時代後期〕 11世紀代のものとしては、土師器・須恵器・擦文土器がある。,図62 中崎館遺跡SD01堀跡出土かわらけ(3) 図63 中崎館遺跡出土土師器・擦文土器・須恵器
通史編2(近世1) (本村と新田)

この地は古代に須恵器が焼かれた地であり、近年発掘調査が行われている。  
通史編1(古代・中世) (津軽地方の古代信仰)

されていないが、細越遺跡の土壙からは「寺」の墨書土器、平賀町鳥海山遺跡の竪穴住居跡からは「大佛」の刻書がある須恵器転用硯
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