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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (預け・入牢・護送)

預け・入牢・護送 なにか怪しいふしがあって吟味が始まると、入牢(じゅろう)(吟味中牢屋に入れる)とまでいかないものは,、その居住場所によって村預けや町預け(刑罰としての預けとは異なる)となる。,しかし、預けとなる容疑の軽重の程度やその期間ははっきりしないが、村預けや町預けの期間が長くなると、村や / 預け・入牢・護送
通史編5(近・現代2) (弘前無尽会社の相互銀行への転換)

第七条(操作資金の運用) 操作資金は他の銀行への預ヶ金とし、左記事項に限り使用する。,場合は、その超過金額をその月十五日迄に本部に現送して本部預ヶ金とする。,第十条(本部預ヶ金の運用) 本部預ヶ金は、日本銀行預ヶ金若しくは重役会の決議により、日銀見返となるべき,第十一条(本部預ヶ金の返還) 本部預ヶ金は、支店の請求により直ちに本部より現送するものとする。,第十二条(分担金、操作資金並びに預ヶ金の管理) 本部経費分担金、操作資金並びに本部預ヶ金は社長自ら之
通史編4(近・現代1) (郵便事業)

沢中津軽郡弘前南津軽郡黒石上北郡野辺地七戸下北郡田名部三戸郡五戸八戸各郵便局ニ於テ駅逓局貯金方法開設本月二十五日ヨリ施行相成候条当県甲第百四十五号ヲ以テ預ケ,金致度者ノ心得書ヲ添諭達ニ及候次第モ有之候得共猶一般人民徹底シ節倹ノ余金預ケ方注意可致此旨布達候事
通史編3(近世2) (草創期三代)

幕府から津軽家にお預けとなったそうした人々が、津軽弘前藩の濫觴(らんしょう)期の文運に少なからず影響を,信枚の代には、左大臣藤原定煕(さだひろ)の次男で、宮中での艶聞(えんぶん)事件で罪を得て津軽家にお預けとなった
通史編3(近世2) (施行小屋の閉鎖)

病人一七人は馬に乗せられ、自分の生まれた村へ送り届けられ、あるいは乞食頭丁助(こじきがしらちょうすけ)に預けられたのであった
通史編3(近世2) (御用染屋堀越屋)

また弘前草創の際、紺屋町一円を預けられ紺屋一〇〇戸の取り立て方に功をなしたと伝えている。
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

二代藩主信枚が死去した時、罪により前橋(現群馬県前橋市)の酒井家に預けられていた最上(もがみ)家の旧臣本城満茂,への国書改竄(かいざん)事件により処罰された、対馬の宗家(そうけ)重臣柳川調興(やながわしげおき)を預けられたり,寛永十三年十一月二十一日、幕府評定所において公事が決着し、乾と舟橋は松山(現愛媛県松山市)藩の松平隠岐守定行にお預けとなり,、津軽美作と津軽伊豆は長府(ちょうふ)(現山口県下関市)藩の毛利甲斐守秀元にお預けとなり、打越主殿(うてつとのも
通史編3(近世2) (捕虜となった庶民)

庄内藩側も町人一人の命を奪うことまでは考えておらず、五日で牢屋から出し、一ト市町の美濃屋という商人に預けて,ではこれを放置すれば士気にかかわると判断し、腰縄つきで小湊村(現東津軽郡平内町)の弥助という農民にお預け
通史編3(近世2) (大社の神仏分離)

次に深沙宮(現南津軽郡尾上町)は神宮寺が別当を免じられ、本社の仏像は神宮寺に預けられ、社号を猿賀(さるか,免じられ、岩木山山頂御室(おむろ)に安置されていた仏像と、麓の下居宮(おりいのみや)の仏像は百沢寺に預けられた
通史編3(近世2) (浄土宗)

新寺町に創建(現新寺町稲荷神社)し、別当白狐寺(びゃっこじ)を新たに造り、貞昌寺隠居入誉と弟子澄水に預けた
通史編2(近世1) (刑事責任能力)

」『大阪経済法科大学法学論集』六号 に番号を付してあるのでこれを使用した)に、放火は十五歳までは親類預けとし
通史編1(古代・中世) (一族の分裂)

写真135 熊野奥照神社板碑  また降人の半分近くは、安藤氏一族に預けられており、ここから安藤氏
通史編2(近世1) (刑罰体系)

④自由刑――追放・戸〆(とじめ)・徒刑・預けなどがあった。,預けは未決・既決の者を特定の者に預託する刑で、町預け・村預け・親類預けなどがある。
通史編3(近世2) (藩営紙漉座と蘭医星弘道)

その結果が良かったので安政四年(一八五七)五月、藩ではさらに一五町歩の楮畑を作人から引き上げて吉五郎に預けた,栽培するとともに楮仕立てをも試みたところ、楮の生育が極めて良好だったので、残る一五町歩の畑をも吉五郎に預け
通史編4(近・現代1) (村制度の変貌)

「農民ハ旧封建ノ時ハ年間農事ニ忙シキ故ニ日暮後ニ庄屋ノ内ニ願届ヲ持チ行キ、庄屋不在ナレバ庄屋ノ妻ニ預ケ
通史編5(近・現代2) (イタコ)

「弘前近所如来瀬村巫女金米銭を家にふらせ候由とりはやし夥敷事にて弘前聞へ郡役人検分に被遣其後村預け成」
通史編1(古代・中世) (大河兼任の乱)

翌二月六日には、多賀国府にあった「新留守所・本留守」の二人が、兼任与同の嫌疑をかけられ、その身柄が葛西清重に預けられた
通史編2(近世1) (正保の信義排斥事件)

われる盛岡采女(うねめ)と北村久左衛門に宛てた山田勝重と杉山吉成(よしなり)の書状によれば、当時富岡が御預け
通史編3(近世2) (箱館戦争の終結)

青森口総督清水谷公考も箱館へ戻り、降伏した旧幕府軍のうち六一〇人は弘前藩へしばらく預けられることとなった
通史編3(近世2) (民衆の精神世界)

」に事寄せて色々な神の託宣(たくせん)を言いふらし、人々を不思議がらせているので、師匠に身柄と道具を預け,、今もって態度を改めず、奇怪な神を祀っているのは不埒(ふらち)だとして、「大平神」を取り上げ、神官に預けるように
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

命じた江戸幕府老中連署奉書 目録を見る 精細画像で見る  幕府から罪人として身分のある人物を預けられて,かざんいんただなが)(資料近世1No.二七三~二八一、五八一~五八三)をはじめとして、それぞれ寛永年間に預けられた,さがらそうどう)の相良頼兄(同前No.六一六~六一九)などの著名な事件に関与した人物も含まれ、津軽家に預けられたものの
通史編2(近世1) (窮民対策)

が派遣され、薬による治療が行われたが、毎日五人から一〇人が小屋から出され貞昌寺・大圓寺・誓願寺などに預けられ
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・平賀郷)

として法師脇郷(比定地不詳)を得(史料六六四)、暦応四年(一三四一)には加土計郷(現弘前市門外付近)も預けられている
通史編5(近・現代2) (第五十九銀行の復活)

年末資金需要も重なり、払い戻しが超過したのはやむをえないが、一方で預け入れもあり、営業再開は一応成功した
通史編4(近・現代1) (女学生の岩木山登山)

ただし百沢に一泊して物品を預けて行くにより同村までは普通の服装にてもよろし▲携帯品は讃美歌(小形本)県内地図
通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

以後、寛文六年(一六六六)十月三日に素行が播磨赤穂藩浅野家に御預けとなるまで、両者の往来の記事が『素行日記,素行が御預けになっていた時期にも信政は連絡を取り続け、延宝三年(一六七五)素行が赦免されると、親交はいよいよ
通史編3(近世2) (農民意識の変化)

庄屋弥三郎が他出差留(たしゅつさしとめ)となり、同村の弥九郎・辰・左之(さの)の三人が腰縄付のうえ、親類預けの
通史編4(近・現代1) (出生の真実と仏苗学園)

愛蔵は湊迎寺から父のもとにやってきたが、父は養家や妻の心を思いやって、今度は愛蔵を深浦の曹洞宗宝泉寺に預けた
通史編1(古代・中世) (曽我貞光の奮戦)

同じ左衛門尉に昇格し(史料六八三)、また同四年七月には平賀郡加土計(かどけ)郷(現弘前市門外付近)を預けられ
通史編3(近世2) (二代信枚)

また、幕府から一三年間預けられていた天台宗の僧慶好院(金勝院)の意見を取り入れ、最勝院を大寺とし五山の
通史編2(近世1) (鉱山の開発)

山を預けられた弘前の商人竹内勘六は、大坂の商人に銀主を依頼して山の経営を継続させ、享保十一年(一七二六
通史編1(古代・中世) (治承・寿永内乱下の秀衡)

父義朝(よしとも)の死後、鞍馬寺に預けられていた義経が、平泉の秀衡のもとに下ったのは承安四年(一一七四
通史編2(近世1) (改革の終焉と成果)

結局、乳井は上方から帰った翌日の同八年三月十七日退役を命じられ、知行・家屋敷を召し上げられて、息子に御預けとなった
通史編2(近世1) (青森騒動の経過)

また,他家への預け米は含んでいない。  
通史編3(近世2) ((二)富籤興行)

慈雲院は、この金を耕春院の普請料と同じように御用達商人へ預け、その利息で寺務に充てたいとした。
通史編3(近世2) (盆踊り)

町同心・町目付が上町・下町を巡回したり、同九年の盆前には町奉行が無頼の徒九人を捕らえ、町内の月行事に預けたが
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長十六年(一六一一)、この年、津軽信枚、幕府より佐々木道運、柄木田勘十郎を預けらる。,●慶長十七年(一六一二)、この年、津軽信枚、大久保主膳を預けられる。,●元和二年(一六一六)、この年、幕府、津軽信枚へ加藤庄三郎を預ける。,●元和七年(一六二一)九月十八日、幕府、美濃国代官栗原加賀の孫泰藝を、津軽家へ預ける。,●寛永三年(一六二六)、この年、幕府、津軽家へ慶好院(金勝院とも言う)を預ける。
通史編2(近世1) (鷹献上による豊臣政権との折衝)

それが秀吉の怒りを買い、天正十八年(一五九〇)七月十三日、領地を没収されて佐竹氏に預けられ、その際剃髪
通史編2(近世1) (支配機構の整備)

)・大道寺為久(ためひさ)・津軽為節(ためとき)・杉山吉成(よしなり)の四人に、それぞれ騎馬五〇騎が預けられた
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●延文四年(一三五九・南正平十四)三月十八日、光海、岩楯殿の文書一六通を高道祖殿に預け置く。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

南部家文書 216 ●延文四年(一三五九・南正平十四)三月十八日、光海、岩楯殿の文書一六通を高道祖殿に預け
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