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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

三戸南部氏による領国支配の強化 三戸南部氏の動きについては、一五世紀半ば以降、不明な点も多い。,はるまさ)(同二四代 一五一七~一五八二)の時代には、戦国大名として名実ともにはっきりした姿をみせ、領国支配,これが事実であれば、三戸南部氏が自らの子弟を派遣し、「郡代」として地域支配の中心に据え、津軽地方に対する領国支配 / 三戸南部氏による領国支配の強化
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

本城(根城)の城館跡 当市域内にある城館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の城館跡としては石川城跡,これらの城館跡は、はじめから領国支配をすることを目的に築かれた城館である。,ちなみに南部安信・高信による津軽平定と石川城への拠城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたものである,これらの城館跡を拠点として津軽領国の統一が行われていくことになるのである。
通史編1(古代・中世) (戦国時代の都市(城下町)発生)

戦国時代の都市では、領国の本拠地として戦国大名が領国経済の確立を意図し、いくつかの政策を実行していた。,そのひとつの政策が在地の国人や土豪層を給人(きゅうにん)として家臣団に編成し、商工業者を誘致して、彼らを領国支配
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

しろわ)り、太閤蔵入地・「御鷹場」の設定等、豊臣政権の諸政策を受け入れそれを確実に遂行することによって領国支配,しかし、戦国期と違い、大名が自己の領国支配の安定を図るには、領国に在国して領国統治に当たるだけでは不可能,は、もとは南部氏の被官であり、戦国末期に独立化を進め、天正十八年七月の奥羽・日の本仕置により南部氏の領国,伏見という「日本之つき合」の場は、北奥羽の大名にとって領国支配の維持を左右する重要な場であった。,津軽氏を含む北奥羽の大名らは、領国での居城移転や反対勢力の抹殺、支城への一族・重臣の配置等により、領国支配
通史編2(近世1) (為信の築城計画)

為信の築城計画 津軽統一を成し遂げた藩祖為信(ためのぶ)は、領国経営の中心として高岡(たかおか)(弘前,前川災害復旧関連工事遺跡発掘調査報告書』一九七八年 弘前市教育委員会他刊)、堀越の地は津軽氏にとって領国経営
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

陸奥国では大崎・葛西一揆、和賀・稗貫一揆、九戸一揆が起こり、これらの一揆とその鎮圧を通じて、奥羽の地の領国支配,また、これは大名側からみれば、「御鷹場」を管理し、太閤鷹を政権へ献上し続ければ、その政権の庇護のもと領国支配,奥羽の大名は、太閤蔵入地だけでなく「御鷹場」の設定により、さらに領国支配の安定を図ることが可能になったのである,長吉は天正十八年(一五九〇)の奥羽の仕置後も奥羽の大名の領国支配維持を担当し、また、文禄二年に秀吉から,その際、北国海運の豪商を利用し、豪商の経済力によって領国支配を強化するとともに、京都への交通を握る敦賀
通史編1(古代・中世) (奥羽地方の戦国時代)

守護職補任を契機として、稙宗は領国支配体制の整備・強化に努めた。,このことによって晴宗は、「天文の乱」の敵対勢力を一掃すると同時に、知行制の再編を実現して、領国支配体制
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として,)、三戸の南部氏は市内石川に石川城(石川大仏ケ鼻城)を営み、一族の重鎮南部高信を配置して、津軽地方の領国化,さらには、地域内の城館相互の関係をとらえ、戦国大名の領国支配の在り方を究明する仕事や、「戦国城下町」復元
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、大浦為信(写真197)は反旗を翻(ひるがえ
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

為信は天正十八年(一五九〇)から文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城
通史編1(古代・中世) (複雑化する城館)

また、戦国大名や有力国人領主の領国内で支城制と呼ばれる築城が、組織立てて行われていく。
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

このときの、南部安信・高信による津軽平定と石川居城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたことであった,こうした領国支配の未熟さを克服し、津軽・鹿角地方に対する支配の強化を目的に、この地に送り込まれたのが「
通史編2(近世1) (町年寄の由緒)

これらの開発に従事した松井家は、津軽氏の領国形成に不可欠の要素であった、岩木川舟運・十三湊、ひいては、
通史編5(近・現代2) (完結に寄せて)

藩祖為信公の領国形成、二代信枚公による弘前城下の建設、東奥義塾創設者にして初代市長菊池九郎の奮闘、りんごに
通史編2(近世1) (秀吉の東国への停戦令)

以上の記述は、粟野俊之「東国「惣無事」令の基礎過程―関連史料の再検討を中心として―」永原慶二編『大名領国
通史編2(近世1) (知行安堵と検地)

この時、伊達・最上氏のように、すでに大名権が確立している大名は、惣無事令以前に領国がそのまま安堵され(,の場合、小田原参陣の際にすでに会津・安積(あさか)・磐瀬(いわせ)などの諸郡の没収が決まっていた)、領国
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

また永禄年間以降は、これも領国拡大を目指す出羽の下国安東氏と鹿角地方をめぐり抗争が繰り広げられ、永禄十年,南部領国は分裂し、混乱状態に陥っていたようである。
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

三戸南部氏が、本貫地糠部郡だけではなく津軽地方をも領国内に収めようと一族を配置し、積極的に進出を行っていたのである
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

また相互に離間の動きのないように記した起請文を取り交わし(「譜牒余録後編」)、自らの居城を固めるため領国,一方、先に領国に引き揚げた北奥羽の諸大名のうち、南部利直は、その領内和賀郡から稗貫(ひえぬき)郡において
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

奥羽の大名・小名衆にとって、豊臣政権の庇護がなければ領国支配を実現できない状況下では、たとえそれが大きな
通史編2(近世1) (九戸一揆の背景)

秀吉は、浅野長吉を政権の「取次(とりつぎ)」として、信直の領国支配を支え近世大名として存続できるよう保障
資料編1(古代・中世編) (五 大浦城と「城下」の構造)

戦国大名大浦氏の居城であり、天正十八年(一五九〇)~文禄三年(一五九四)の五年間は、近世大名津軽氏の領国支配
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

このときに破却される城は、伊達領国内のものなのか、当時伊達氏が接収に当たっていた葛西・大崎領のものなのかは
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

このように石川城跡周辺、とくに石川城跡の南側に造られた城館群の大きな特徴としては、交通の要衝地、あるいは領国
通史編3(近世2) (盆踊り)

これ其領国のならはしと云(いへ)り。士分より下賤まで皆踊ることなり。
通史編2(近世1) (糧米確保)

83.3    83.3    注) 但し,領国貨幣
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

これらはいずれも、南部氏・大浦(津軽)氏が領国支配の拠点としたものであり、居住・軍事機能を合わせ持った
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

図11.浅野長政(長吉)画像  このように、信直の領国糠部郡を含む奥羽の地が奥羽再仕置に深く巻き
通史編3(近世2) (諸役と仲間)

次銀は、慶長銀に比べて銀の品位の劣る領国貨幣である。
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