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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動 軍役を中心とする将軍に対する諸大名の「奉公」が、「御恩」給付、,また、将軍が命じた奉行人が将軍の意を受ける形をとって領知の細目を記した領知目録(りょうちもくろく)が同時,・領知判物・領知目録(資料近世1五三四~五四一頁、および表7、表8参照)が残されている。,表7 津軽家宛領知朱印状・領知判物一覧 資料編 史料No.,その結果として、正徳の領知朱印状・領知目録では津軽家の領知高は四万六〇〇〇石となっている。 / 津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動
資料編2(近世編1) (第六節 領知朱印と家譜家系)

第六節 領知朱印と家譜家系 一 領知朱印 二 家譜家系(「近衛家寄託文書」陽明文庫蔵) 三 近衛基凞 / 第六節 領知朱印と家譜家系
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

北奥羽の領知確定 天正十八年(一五九〇)七月の奥羽仕置は、奥羽の諸大名の領土を確定することが第一の目的,この七月の仕置によって、出羽国仙北郡角館城主戸沢光盛や南部信直は秀吉の領知朱印状を得ることができたが、,されていないが、天正十九年の十月までには両氏に朱印状が発給されたとされており、津軽氏の場合、約三万石の領知,表4 北奥羽の大名・小名の領知高 領 主 場 所 石 高 年 代 南部大膳大夫 南部内七郡 天正18 / 北奥羽の領知確定
通史編2(近世1) (知行安堵)

陸奥の南部信直に南部七郡を安堵する朱印状が(資料近世1No.一七)、翌二十八日には出羽の戸沢光盛にも領知安堵,南部・戸沢の両氏の領知は、奥羽地域の中間域にあり、これにより自動的に隣接諸大名の領域も定まることになり,起きた葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆の影響で、上洛は果たせなかったようであり、奥羽両国の大名に一斉に領知宛行,九戸一揆に対する出陣の催促の朱印状が下されていることから(同前No.三三)、この時までには津軽氏への領知,ここから、津軽氏の領知高は、約三万石であったと考えられる(小野寺氏より若干少ない程度)。
通史編2(近世1) (知行安堵と検地)

また、この朱印状には領知高の記載がなかった。,由利十二頭などの北出羽の諸大小名は、天正十八年(一五九〇)十二月から翌十九年一月にかけて、石高表示の領知高,これらの大名は、大名権の確立が未成熟であったため、豊臣政権によるてこ入れが必要とされ、領知朱印状の発給,たとえば、秋田実季は、天正十八年十二月に上洛し(『新羅之記録』下巻)、翌年一月に領知高五万二四〇〇石の,天正十八年十二月に前田利家とともに上洛しており(資料近世1No.二七)、これらの北出羽大小名と同じ扱いを受け、領知高三万石
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

太閤蔵入地の設定 右にみてきたように、天正十九年十月までに確定された津軽氏の領知高は三万石程度であったと,えられる・高橋富雄『東北の歴史と開発』(一九七三年 山川出版社刊)によると、慶長三年(一五九八)に津軽氏の領知石高,また太閤蔵入地の石高は、出羽国を例にすると、蔵入地の代官を命じた大名の領知高の半分であるといわれる。,津軽地方に太閤蔵入地が設定された場合、さきにみたように津軽氏の領知高が三万石であることから、その石高は,また、冒頭にみた津軽氏の領知高四万五〇〇〇石は、本高に蔵入地分の一万五〇〇〇石が加えられたことによるものと
資料編2(近世編1) (【解説】)

第六節では、「領知朱印と家譜家系」と題して、幕府から津軽家へ下付した領知朱印状と領知判物(はんもつ)(,現在、幕府から下付された領知朱印状や判物で原文書が残っているのは津軽家だけであり、全国的に見てもきわめて
通史編2(近世1) (二度の高直り)

二度の高直り 文化二年(一八〇五)五月、九代藩主津軽寧親(やすちか)は、領知高四万六〇〇〇石が七万石,七万石の時と同様、高直りの一〇万石には領地の拡大はなく、これまでどおり、津軽郡一円の領知であった。
資料編2(近世編1) ([口絵])

(本文史料716号) 寛文四年四月五日 徳川家綱朱印状(右) 領知目録(下) 津軽越中守宛,本文史料八七二・八七三号) 天保十年三月五日 徳川家慶判物 弘前侍従宛(左) 領知目録
通史編2(近世1) (人質徴収)

出羽由利郡の小名衆は十二月末までに上洛し、このときに領知宛行(あてがい)の朱印状が発給され、北出羽の秋田実季,ら天正十九年一月に領知を安堵された大名衆も、同じころに妻子を伴って上洛を果たしたと思われる。
資料編2(近世編1) (はじめに)

文書類等を初めて掲げて参考に供し、第二章では、全国的にも極めて珍しい、徳川将軍家から津軽家へ発給された領知朱印状,(りょうちしゅいんじょう)並びに領知目録の原本を口絵にも掲載した。
通史編2(近世1) (秋田安東実季の名護屋参陣)

図34.秋田実季僧形像  翌文禄二年末に実季は秋田へ帰国したが、この年は「領知方算用年(りょうちかたさんようのとし
通史編1(古代・中世) (乳井福王寺の伝承)

指導して「長崎村より高畑まで」高二千石余を開発した上に、猿賀山神宮寺の別当職も兼帯して、その所領千石も領知
通史編2(近世1) (本村と新田)

〇〇〇石と、他に上野国勢多(こうづけのくにせた)郡(現群馬県)に二〇〇〇石の、合わせて四万七〇〇〇石の領知高,幕府から拝領した領知朱印状の表高と比較して、実質は二倍以上の石高を持ち、さらに領内に広大な開発可能地を
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

ただ、寛文四年(一六六四)、四代藩主津軽信政に対して発給された領知朱印状・領知目録には上野国勢多郡内に
通史編2(近世1) (信寿の高増運動)

の理由で諸藩の願い出が出されることが予想され、一々それに対処しきれないこと、さらに信寿が相続以来元の領知高
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

弘前市立図書館蔵八木橋文庫 51 『参勤交代―巨大都市江戸のなりたち』120頁 1997年 東京都江戸東京博物館刊 52 領知目録, 寛文4年 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 53 領知目録 天保10年 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書
通史編2(近世1) (鷹献上による豊臣政権との折衝)

出羽国の秋田安東氏をはじめとする大名・小名が領知安堵を石高表示でなされるのは、天正十八年末から天正十九年
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

津軽家に課せられた役高は三万石であり、領知高より一万六〇〇〇石分減高されている(以下、この工事については
資料編2(近世編1) (新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次)

第五節 倹約・知行借上の実施  ……………………………………………………………  五三〇  第六節 領知朱印,と家譜家系  ………………………………………………………………  五三四   一 領知朱印  …………
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

三隊の指揮者はいずれも家老・城代であり、この出兵構想は、領知高四万七〇〇〇石の同藩の総力を挙げた、独自
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

………………  15   一 検地・人質徴収・城破り・刀狩り …………………………  15   二 領知安堵
資料編1(考古編) (3.野脇遺跡)

寛永十三(1636)丙子年乳井美作先祖は福王寺といふ、(中略)其子大隅中崎村を開き右三ヶ所にて二千石余領知
資料編3(近世編2) (【解説】)

文化の高直りは、この継続する蝦夷地警備への功によって領知高が文化二年(一八〇五)に七万石に、さに文化五年
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