• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 138件
辞書ファセット
/ 3ページ
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

飢饉のその後 津軽弘前藩は幕府に天明三年の作柄を皆無作と届けた。,ともかくも人々は飢饉の恐怖から逃れ、一息つき始めたのである。,飢饉のさなかに津軽信寧(のぶやす)は死去し、信明(のぶはる)が跡目を継いだ。,施行小屋は飢饉の翌年の天明五年まで設置された。,飢饉から津軽の民衆が立ち直るのには今少しの時間を要した。 / 飢饉のその後
通史編2(近世1) (飢饉への対策)

飢饉への対策 宝暦の飢饉では、元禄の飢饉以来北奥諸藩で顕著になった、いわゆる「飢餓移出(きがいしゅつ,津軽弘前藩の場合、いち早く領内の米穀を確保し再分配を行ったので、他領と異なり飢饉の被害を最低限に食い止,飢饉の際、藩政を主導したのは乳井貢(にゅういみつぎ)であったが、彼は前年閏五月に大坂への廻米を止め、国元,宝暦の飢饉対策を特徴づける施策として、在方で備蓄されている穀物の強制的な買い上げが挙げられる。,であったと評価されている(菊池勇夫『近世の飢饉』一九九七年 吉川弘文館刊)。   / 飢饉への対策
通史編2(近世1) (近世最後の大飢饉)

近世最後の大飢饉 幕末に近い天保三年(一八三二)から、同九年(一八三八)まで断続的に続いた「天保の飢饉,」は、北奥諸藩にとって最後の大きな飢饉であった。,この飢饉は明治維新のわずか三〇年ほど前の出来事であったが、天保八年(一八三七)に起こった大塩平八郎の乱,津軽領では目立った一揆は起こらなかったものの、天明飢饉・元禄飢饉に次ぐ被害を出し、復興を遂げていた農村 / 近世最後の大飢饉
通史編2(近世1) ((一)宝暦の飢饉)

(一)宝暦の飢饉 宝暦五年(一七五五)に北日本一帯を襲った宝暦の飢饉は、元禄・天明・天保と並んで、東北,の四大飢饉の一つといわれる。,しかし津軽領の場合、「封内事実秘苑」(資料近世2No.六)に「今年の凶作は全国的な飢饉となり、特に国元,つまるところ政治がよかったからだと、人々はありがたく思った」と述べられているとおり、元禄以来の飢饉と認識 / (一)宝暦の飢饉
通史編2(近世1) (天保の飢饉の特徴)

天保の飢饉の特徴 この飢饉の特徴は、天明三年(一七八三)・四年の二ヵ年に大きな被害が集中した天明飢饉,したがって、俗に「七年飢饉」といわれるが、唯一豊作であった天保五年(一八三四)を挟み前後に分けられる。,津軽領の天保飢饉の様子を伝える『永宝日記』では、「天保四年凶作、同五年豊作、同六年半作、同七年不作、同九年,天保凶耕雑報』(青森県立図書館郷土双書一四 一九八〇年刊)では、天保年間の年貢収納高を挙げているが、飢饉前,の前半において、津軽弘前藩では天明飢饉の後設けられた郷蔵(ごうぐら)が功を奏し、また加賀から緊急に米を / 天保の飢饉の特徴
通史編2(近世1) (飢饉の惨状)

飢饉の惨状 飢饉の悲惨な状況を伝える史料は津軽弘前藩をはじめ、八戸藩(『天明卯辰梁』)、盛岡藩(『飢歳凌鑑,南谿は天明六年春に訪れたが、飢饉後二年がたっても骸骨が路傍に散乱しており、最初は目を背けていた南谿も、,図124.弘前市専修寺の飢饉供養塔 / 飢饉の惨状
通史編2(近世1) (宝暦の飢饉)

宝暦の飢饉 続く宝暦の飢饉でも八戸藩では、史料によって数値は違うが、四〇〇〇人から七〇〇〇人といわれる / 宝暦の飢饉
通史編2(近世1) (寛延の飢饉)

寛延の飢饉 十八世紀半ばには寛延二年(一七四九)と宝暦五年の両度、大きな凶作が続いた。,畑作物が食い荒らされたことによって引き起こされたといわれていたからだが、必ずしも獣害だけでなく、同年の飢饉 / 寛延の飢饉
通史編2(近世1) (四 元禄飢饉と農政の転換)

四 元禄飢饉と農政の転換 元禄八年(一六九五)は、いつもの年よりも雪解けが遅く、東風(ヤマセ)が吹き,そして、七月には胡瓜・茄子の葉がすべて枯れ、稲の葉も梢の色が赤白に吹かれて青立の状態で、このとき、人々は飢饉,奥羽地方の凶作は、こうした冷害が原因となり、時にそれが飢饉となって現れてくるのであった。 / 四 元禄飢饉と農政の転換
通史編2(近世1) (飢饉に至るまでの経緯)

飢饉に至るまでの経緯 宝暦の飢饉でみたとおり、近世の飢饉は単なる自然災害ではなく、凶作下でも江戸や上方,これは、江戸や上方廻米が確立してから初めて起こった大規模な飢饉―元禄飢饉からみられる構図であり、宝暦・,の人口推移  宝暦五年(一七五五)の凶作の際は、前年がたまたま豊作で余剰米があったのも幸いし、飢饉,飢饉の直接のきっかけは異常気象である。,天明の飢饉の惨状を記録した書物は多いが、一様に天明三年の異常低温・日照不足を記している。 / 飢饉に至るまでの経緯
資料編2(近世編1) (第四節 元禄飢饉と家臣召放)

第四節 元禄飢饉と家臣召放 一 元禄飢饉 二 家臣召放 / 第四節 元禄飢饉と家臣召放
通史編2(近世1) (天保飢饉と一揆・騒動)

天保飢饉と一揆・騒動 七年余り続いた天保の飢饉だが、天明の飢饉のように短期集中型の被害でなかったせいか,とはいいながら、津軽弘前藩はじめ北奥諸藩が飢饉により一斉に米の津留や大量の購入を行ったせいで、大消費地,七年飢饉のあと、素行に問題があるとされた藩主津軽信順(つがるのぶゆき)は天保十年(一八三九)五月に幕府 / 天保飢饉と一揆・騒動
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

天保四年の飢饉 前半のピークであった天保四年の飢饉は単純な冷害による生育不良でなく、不安定な天候がもたらしたものといえる / 天保四年の飢饉
通史編2(近世1) (飢饉への対応)

飢饉への対応 藩庁では天明三年九月十日に評定所に在方の有力者約六〇名と、弘前や両湊の御用達(ごようたし,しかし、本格化する飢饉の前には焼け石に水であった。  ,の設定は木材のみならず、苅敷(かりしき)などの肥料や蕨などの山野草を採取させることも目的としており、飢饉対策 / 飢饉への対応
通史編3(近世2) ((一)凶作・飢饉とその対策)

(一)凶作・飢饉とその対策 津軽領の四大凶作といわれるのは、元禄・宝暦・天明・天保年間の冷害による凶作,このような凶作・飢饉による下層民の城下への滞留の状況について、天明期を中心にその様子をみると次のようになる / (一)凶作・飢饉とその対策
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

元禄の大飢饉と家臣召し放ち 元禄八年(一六九五)の凶作は、従来貯蔵していた米穀を売り払ってしまうという,藩の失政も手伝って大飢饉を引き起こし、領内で多数の餓死者を出した(その被害状況や飢饉に対する藩政の対応,この飢饉は領民だけではなく家臣団にも大きな影響を及ぼした。,―特に元禄八年飢饉をめぐって―」『歴史』五二)。  ,さらに藩では、家臣召し放ち(家臣に対して暇を出すこと)によって飢饉とそれに伴う財政難に対処しようとする / 元禄の大飢饉と家臣召し放ち
通史編2(近世1) (天明六年以降の飢饉)

天明六年以降の飢饉 天保五年は幸い一転して豊作となり、一息ついた状態で、藩士の面扶持(めんぶち)も停止,天保七年の飢饉は全体に太平洋側の被害がひどく、秋田へは仙台・南部領からも多く飢民が流入した。 / 天明六年以降の飢饉
通史編2(近世1) (有史以来最大級の大量死)

飢饉であった。,水田単作地方の津軽弘前藩は、周知のとおり最も飢饉の被害が大きい藩の一つであった。,「いこく穴」などの伝承、これらが飢饉の記憶を現在に伝える。,近世日本は五〇年後に再び天保の飢饉を経験するが、天明の飢饉が飢饉の代名詞として、後世に語り継がれていったのである,天明飢饉録」 過去帳推計(宮城県) 20万人 飢饉死者 『宮城県史』22 中村藩 天明3年初秋~ 天明
資料編3(近世編2) (第一節 後期藩政の展開と社会状況)

第一節 後期藩政の展開と社会状況 一 宝暦・天明期の社会状況  (一)宝暦飢饉  (二)天明飢饉, (三)飢饉への対応  (四)廃田開発・大庄屋制  (五)農村の掌握  (六)諸色高値  
通史編2(近世1) (耕作地の放棄と荒廃田)

飢饉下において、藩が十分な窮民対策を行えないと判断すると、人々は生き残りをかけて食料のありそうな所へ逃,飢饉により多くの人々が死亡し、開発のために他領からやってきていた人々が本国へ帰ることにより、当然荒廃田,飢饉後には、この荒廃田の復旧が課題となったことは当然というべきであろう。  ,畑方でも、四六・二パーセントが飢饉で荒廃した畑方で、「無作主分」も一六パーセント存在していた。,これによると、元禄八年の飢饉の結果、田方・畑方ともに、全耕作面積の四六パーセントほどが荒廃し、二年を経
通史編1(自然・原始) (冷害の歴史)

そのうち、元禄、天明、天保の凶作群は、持続性や災害の深刻さから、弘前藩の三大飢饉に挙げられる。,表20 災害年表にみられる主たる凶作年 年 西暦 災害名 備  考 元和元 1615 大飢饉 低温・長雨,まる 元禄8 1695 大飢饉 低温・長雨  餓死者3万余人 その後元禄9年,12年,15年,16年,,寛延3 1750 凶 作 前年の余映続く  飢えと寒さで2月・3月に餓死者多数 天明3 1783 大飢饉,・長雨  餓死者多し 天保の飢饉は,天保3年~7年および9年~10年と続いた天保年間の凶作群 天保4
通史編2(近世1) (二七 ためし草)

二七 ためし草 津軽領で起きた飢饉の惨状や稲作関係の記事。著者は郡奉行山形宇兵衛。,飢饉史料はほかに「耳目心痛(通)記(じもくしんつうき)」(弘前市立図書館蔵)、「天明卯辰日記」(青森県立郷土館蔵
通史編2(近世1) (農書の成立)

農書の成立 宝暦の飢饉の後には、凶作に備えるため津軽の気候に合わせた農書の成立がみられる。,宝暦五年の飢饉に際しては、津軽の農書の草分けといえる蒲田(がまた)村(現南津軽郡尾上町)の一戸定右衛門,同書は元禄の飢饉の後に書かれたものであるが、宝暦までにはおよそ五〇年以上が経過しており、その間に大地主,宝暦の飢饉の後には、安永五年(一七七六)に津軽における北限の稲作の技術を集大成した「耕作噺(こうさくばなし,彼らは飢饉の際には藩の求めに応じて飢民扶助も行っており、その農書の記述は、自らの体験によって裏付けされたものであった
資料編3(近世編2) (第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)

国産の奨励  (三)文化の高直り  (四)相馬大作事件  (五)黒石藩の成立   三 天保の飢饉,とその後の藩政  (一)天保の飢饉  (二)財政の窮乏  (三)漆の増殖  (四)商人統制と商品流通
通史編2(近世1) (天保期の人返し)

天保期の人返し 飢饉で荒廃した農村を立ち直らせるためには、城下に流入した飢民を農村に帰らせ、荒廃田の,天明の飢饉の際には天明五年(一七八五)の四月に弘前城下の施行小屋が解散され、収容されている飢民約三〇〇,天保の飢饉の際には、特に天保六年(一八三五)から始まる飢饉の後半で再び弘前に飢民があふれた。
通史編2(近世1) (天保四年における藩の対応)

天保四年における藩の対応 天保四年の凶作では、天明飢饉の教訓から藩の対応は比較的素早く、被害を最小限,同じく青森町人の請願にもかかわらず、廻米を強行して飢饉の被害を広げた天明飢饉とは対照的な対応であった。,また、天保四年には、天明飢饉以来強化された貯米制度が功を奏した。,天保四年については、津軽弘前藩より秋田藩のほうが飢饉の被害が深刻であった。,よって、天明の飢饉にみられなかった秋田領から津軽領へ逃散する飢民の流れがみられる。
通史編2(近世1) (蝦夷地への人口流出)

蝦夷地への人口流出 天保期の農村荒廃が天明期と異なるのは、飢饉による流出が一時的なものでなく、在所への,立ち帰りを希望しない、永住的な移動がそれ以前の飢饉よりも多くなった点である。,))、天保の改革(天保十二年の人返し令)の際にそれぞれ人返しの法令を出したことは有名であるが、天保の飢饉,人口の移動とそれに伴う農村の荒廃は、飢饉のあるなしにかかわらない、貨幣経済の進展に伴う構造的なものであったといえる,特に天保の飢饉後は、合法・非合法を問わず、蝦夷地に向かう人々が急増した。  
通史編2(近世1) (飢餓対策における殖産政策)

飢餓対策における殖産政策 宝暦の飢饉では、民間からも飢饉に対する経済対策を提案する者が現れた。,理念はともかくとして実際には特記するような産物は生まれず、次の天明飢饉に生かされることはなかった。,その上皮肉なことに、樋口の産物導入のため、安永初年から行われてきた貯米の大半が流用され、飢饉の備えの役,藩が再び産業振興策をとるのは、天明の飢饉の復興も進んだ文化年間以降のことである。
通史編2(近世1) (騒動のその後)

たまたま青森に出張していた四郎兵衛の弟が、生命の危険を感じて米俵に隠れて命からがら弘前に逃げ帰ったことや、飢饉,その点で騒動に参加した領民たちも、飢饉の悲劇から逃れることはできなかった。,この年は不作であったが、奥羽諸藩は飢饉には至らず、打ちこわしもほとんど起こっていない。,皮肉なことに天明三年の飢饉で懲りた奥羽諸藩が一斉に廻米を減少させた結果であった。
通史編2(近世1) (二 寛政改革の実施)

具体的には、特に天明飢饉に特徴的にみられるように、もはや年貢増徴を強力に押し進めるのは不可能に近い状況,両改革とも、宝暦飢饉と天明飢饉に大きく規定されながらも藩財政窮乏の克服を目指した改革といえるが、両者は
通史編2(近世1) (災害の続発とその影響)

この時期の代表的な凶作・飢饉としては、寛延二年(一七四九)から翌年にかけての飢饉が挙げられよう。,大圓寺が引き取った死体の数でもこれだけであるから、飢饉による人的被害は推して知るべしである(菊池勇夫『,近世の飢饉』一九九七年 吉川弘文館刊)。,水害 平川・十川・岩木川流域 田畑冠水 11月17日 火災 島村・関村(赤石組) 32軒焼失,凶作・飢饉,飢饉によって藩財政もダメージを受けた。
通史編2(近世1) (農村部での騒動)

図129.木造新田の者たちが町奉行と対峙した石渡川原  「貯米」は元来、飢饉対策として安永期から,せっかくの飢饉対策の貯米が実際には年貢同様の扱いになり、本来の役割を果たさなかったのである。,飢饉の被害が明らかになり他領への逃散が発生している状況下において、藩も農民の要求を無視するわけにいかなくなったのである
通史編2(近世1) (乏しい国産品)

それでも当藩の場合、上方(かみがた)市場からの自立を目指した宝暦改革の失敗後、郡奉行樋口弥三郎の主導により飢饉,の備えを兼ねて、国産奨励策(こくさんしょうれいさく)が実施されたが、天明の飢饉に生かされることなく挫折,いずれも、飢饉の時からいくらか時間をおいてなされているのが特徴である。
資料編3(近世編2) (二 人々の生活)

る人々の生活 (二)城下・農村の通行 (三)町・村と商業 (四)防火と治安対策 (五)災害と飢饉
通史編2(近世1) (流民の発生と施行小屋の設置)

流民の発生と施行小屋の設置 飢饉の発生が決定的になった八月の下旬から、秋田方面への流民が発生し出した,しかし、北奥一帯が飢饉状態にある以上、たとえ他領に逃散しても状況はあまり変わらなかった。,飢饉が起こると彼らは領民の誹謗の的になり、結局十一月の末に至り免職となるが、政務担当者が代わったといっても,施行小屋が設置された場所も、かつての寛延の飢饉の際、行き倒れの者を埋葬するために乞食頭に与えられた土地,飢饉に至るまでのプロセスとして、一揆や騒動の段階ではまだ民衆は飢饉への道を必死に回避しようとしているのであり
通史編3(近世2) (飢餓の状況)

飢餓の状況 天明三年の大凶作による飢饉の様子を概観すると、城下では毎日七、八人ないし一〇人の餓死者がたちまち,図14.飢饉の惨状
通史編2(近世1) (「人寄せ」と人口流出の禁制)

「人寄せ」と人口流出の禁制 廃田を復興し、荒廃した農村を復興させるには、飢饉のため人口が減少した農村,天明の飢饉は餓死・病死による減少以外に、他領への逃散(ちょうさん)という形で多くの人口流出を招いた。,特に天保の飢饉後は廃田復興よりも、手軽に現金収入の道が得られる他領稼ぎのほうが指向され、藩では労働力の,人寄せの必要は飢饉の被害を受けた他領でも同様であり、さらに幕府の蝦夷地開発政策もあいまって、労働力の確保
通史編2(近世1) (在宅制度廃止以前の廃田・新田開発)

在宅制度廃止以前の廃田・新田開発 天明の飢饉で荒廃した田畑の面積はどの程度だったのだろうか。,廃田の復興は飢饉の直後から進められ、天明五年二月二十八日に藩は「当仕込世話役」として、在方七六名、城下五五名
通史編2(近世1) (窮民対策)

餓死者、そして、その後の疫病の流行による死者などを合わせると、三分の一ほどの領民がこの飢饉の犠牲となったともいわれる,非人小屋では、一人一日につき一合四勺から二合の御救米が支給されたというが、飢饉中にはわずか一四四石余りが,、その根を叩いて雑炊に入れて食べさせようと考えており(「国日記」元禄八年十月四日条)、実際には、藩は飢饉状況
通史編2(近世1) (農政の転換)

つまり、元禄八年の飢饉は、単に米穀の生産の不足や備蓄の不足のみから起こったのではなく、上方への廻米を余儀,なくされた藩経済の在り方そのものが、飢饉時には「飢餓移出(きがいしゅつ)」を必然化させる、構造的な飢饉体質,さて、この元禄八年の飢饉を転換点として、津軽地方は荒廃現象の時期へ向かい、不安定な生産状況下に置かれることとなった,しかし、こうした種籾・銭の貸し付け政策も、飢饉後には大きく転換することを余儀なくされた。  ,飢饉後の廃田畑の復興政策、なかでも廃畑における植林政策は、「高無」の「成立」とともに、このような農法の
通史編3(近世2) (非常時の服装)

非常時の服装 飢饉・火事・地震などの非常事態の際における服装については、男子が羽織を着用する時にはく,「国日記」によれば、凶作による飢饉の年である天保四年には御目見以下の者が袴を着用せずに勤務することが許
通史編2(近世1) (恒常化する知行借り上げ)

第三章第一節でみたように、元禄飢饉で財政が窮乏した元禄八年(一六九五)には、知行の半知借り上げを実施し,その後も藩は飢饉や天変地異による財政窮乏のたびごとに借り上げを実施している。
通史編2(近世1) (茨木屋の苦悩)

さらにその翌年寛延二年は飢饉の年で、津軽から西館織部らが借金のため大坂まで出向き交渉を行い、断り切れなくなった,寛延二年の飢饉では、弘前藩は鴻池・佐藤からも併せて二〇〇貫を越える借金をしているが、両者とも延享年間から,しかし、翌宝暦五年の飢饉は、再び新たな借金を生じさせた。,しかし、翌年の天明の飢饉においては藩の要請に対して再び融資に応じ、結局藩との関係は以後も続くのである。,「国日記」宝暦七年十一月二十日条(資料近世2No.三〇)によると、宝暦五年(一七五五)の飢饉が蔵元の好意
通史編2(近世1) (天明期の借り上げと寛政期までの状況)

天明期の借り上げと寛政期までの状況 天明三・四年の大飢饉は藩士の生活をも直撃した。,面扶持の支給は当主だけであるが、飢饉という状況下で、つてを頼って手当をもらおうとした藩士の「親類人数」,飢饉は藩士を一層困窮させたが、それでも農民が餓死するなかで藩士の生計維持が優先されたことはいうまでもない,この面扶持の制度は、時代が下った天保の飢饉の時も採用された。  
通史編2(近世1) (農村の再開発)

農村の再開発 元禄八年の大飢饉、同十五年の飢饉を境に、津軽領の農村では天災などによる荒廃と積極的な再開発,飢饉後の津軽弘前藩における最大の課題は、荒廃田畑の復旧であった。,しかしその後、水害で五一軒に滅じ、再び百姓を呼び寄せたものの、飢饉によって打撃を受けた。,特に元禄八年の飢饉の際には、開発した田畑五一町歩余のうち、三九町五反歩が荒れ地となり、百姓も逃散してわずか
通史編2(近世1) (中期農政と農村構造の変化)

中期農政と農村構造の変化 元禄の大飢饉を機に津軽弘前藩の前期農政が転換を迫られ、中期農政へと移っていく,飢饉の犠牲となって亡くなったり逃散してしまった中下層の農民は、検地帳に耕作者として名前の載らない「高無,その結果、飢饉の後には高持百姓(検地帳に名の記された百姓。
通史編3(近世2) (盗賊の横行)

一三、四人をいつでも派遣できるよう警備態勢を強化しているほどであった(同前天明三年十月十九日条、前掲『飢饉,翌年になっても農村や港町では放火が多く、城下では藩士・町人および寺社の蔵へ盗賊が侵入するのが目立ち、飢饉
通史編3(近世2) (施行小屋の設置と犯罪防止)

失馬共一万九〇八九匹、廃田九四八四町といわれ、長年にわたりかつ深刻なものであったにもかかわらず、天明の飢饉,比較して餓死者が少なかったのは、八代藩主津軽信明(のぶはる)以来、備荒貯蓄(びこうちょちく)(凶作・飢饉,津軽領において、このような大凶作の後の大飢饉では、農村の下層民(水呑百姓など)はなんとか生き延びるために
通史編2(近世1) (染織技術の導入政策)

染織技術の導入政策 貞享検地以降、元禄の大飢饉に至るまでの農政は、藩による年貢収納の強化に主眼が置かれたが,、元禄中期以降はそれによって引き起こされる不作―凶作―飢饉という農業経営の破綻の危険を避けて、安定した,元禄の大飢饉以来困窮する家中・町在を救済することを主たる目的とし、織物技術の伝習ということにとどまらず
通史編2(近世1) (御用金の賦課)

さらに寛延二年(一七四九)の飢饉の後には、弘前・両浜・在方の一〇五人に御用金合計八三二〇両と米三〇〇〇,図132.国日記の御用金賦課の記事 目録を見る 精細画像で見る  天明の飢饉後のことであるが、,さらに天明の飢饉では少しでも余力のある町人・豪農に御用金の上納が命じられた。
/ 3ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました