機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 41件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
通史編2(近世1)
(上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)
飯
詰
村(いいづめむら)(現五所川原市
飯
詰
)の
飯
塚家(いいづかけ)は、北屋の屋号を持つ在郷の商人である。,
飯
詰
村は下の切(しものきり)地方(梵珠山地の西麓の地域)の開発の中心であり、藩の代官所(下の切遣、ついで,
飯
詰
組)が置かれ、さらに寛文三年(一六六三)には、藩から黒石・板屋野木(いたやのき)(現北津軽郡板柳町,享保十三年(一七二八)、
飯
詰
村の三右衛門は、自らに課せられた御用金五〇両のうち、三〇両は藩への返済金を
通史編2(近世1)
(津軽地域の確保と蝦夷荒)
大浦氏は、南部氏との間での
飯
詰
(現五所川原市)「伐取(きりとり)」の過程の中で、そこに居住していた「狄,」すなわちアイヌとも戦い、その結果として
飯
詰
・喜良市の地域を掌中に収めることになった(「由緒書抜御目見以下之面々,その後、天正十六年(一五八八)には、
飯
詰
の町立(まちだて)を行っている。
通史編3(近世2)
((二)食事)
二)食事 全国的にみると、大名に近いレベルの上級武士とは別に、中・下級武士は米七分・麦三分ほどの麦
飯
を,家計はかなり初期から慢性的な赤字状態に陥っていた者が多く、家計切り
詰
めのしわ寄せを受けやすいのは食生活
通史編4(近・現代1)
(地租改正の開始)
津軽地方での地租改正の実施については、北津軽郡
飯
詰
村(現五所川原市)での実施の様子が、使用した筆記具に,
飯
詰
村では後に、動員された農民が、作業に対する人夫賃の支払いに不満を持ち、県に訴願するに至っている。
資料編1(考古編)
(4.発掘調査以外の遺跡)
さらに県内における消費動向として十三湊、久米川、石上神社、
飯
詰
城、野脇、水木館の各遺跡資料と伝世資料を
通史編3(近世2)
(施行小屋)
和徳町の町外れに五間に四〇間(約二〇〇坪)の施行小屋を建て(「国日記」天明三年十月三日条では後潟組・
飯
詰
組
通史編2(近世1)
(騒動の背景)
これ以前、天明二年暮れに、藩は払底気味の
飯
米の流通・価格管理を強化すべく、青森に二軒の米売場を開設して,凶作の予兆もあいまって、米価高騰に歯止めはかからず、買受所により自由な商売も妨げられ、流通も閉塞し、
飯
米,一方、このころには青森町人への十分な
飯
米の確保も困難になっていた。,まで、青森米留番所が許可する月二〇〇〇俵、計一万四〇〇〇俵という総量のうち、実際には四~五〇〇〇俵しか
飯
米,として販売されていないことがわかり、米売場を
詰
問したところ、手形通り一万俵余の米が青森に搬入されていることが
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
(一六〇六)に家督を継いだ三代目の松井助左衛門のときに、十三湊の再開発に着手し、そのほかにも、小泊・
飯
詰
通史編3(近世2)
(子供を池に投げ殺害)
沢・深浦・十三(とさ)・青森・蟹田・今別(いまべつ)・碇ヶ関・大間越(おおまごし)・野内(のない)・
飯
詰
通史編3(近世2)
((一)年中行事と生活)
朝
飯
(雑煮・
飯
・酒)。 三日、うたい始め。 四日、門松の取り払い、かり(仮カ)松を立てる。,
詰
市。 節分、年男、裃を着て大豆を煎り、午後六時ころより撒(ま)き始める。
通史編2(近世1)
(土着対象地と在宅分布)
31 ⑰ 広 田 14 10 29 ⑱ 広 須 9 7 62 ⑲
飯
,
詰
20 9 28 ⑳ 金 木 11 3 25 ㉑ 横 内 6 6 45,10 浦町 10 10 横内 10 10
飯
詰
通史編3(近世2)
(城下での生活)
夕
飯
(昼食のこと)をともにして帰っていった。 ,昼
飯
後に触状が来た。,十四日、朝
飯
すぎ長勝寺へ参詣し、隣松寺へ立ち寄り話をして帰宅。昼
飯
後八幡宮へ参拝。,今日素庵登城、栗原泰芸(ママ)が初御目見(はつおめみえ)、そのため正午まで城へ
詰
める。,昼
飯
すぎ(時刻不明)に青沼与四右衛門宅で以前からの約束で昼
飯
をご馳走になる。
通史編2(近世1)
(天保飢饉と一揆・騒動)
天保五年三月、下
飯
詰
村の者五七人が弘前に押し寄せて、庄屋の救米渡し方不明について直訴したのは、その一例
通史編5(近・現代2)
(昭和初年の弘前の商業)
行き
詰
まったといふことが日常茶
飯
事の挨拶のなかにまで屡々用ひられるといふ事はいかに社会が不景気のドン底
通史編2(近世1)
(天明六年以降の飢饉)
津軽平野南東郡山麓沿いの地域)の辺りでは死者が多く出ているという伝聞があったり(前掲「年中日記」)、
飯
詰
通史編3(近世2)
(二 藩主の日常生活)
八ツ時すぎ(午後二時すぎ)夕
飯
(昼食)。六ツ半時すぎ(午後七時すぎ)夜食(夕
飯
のこと)。,午前九時すぎ朝
飯
。,午前十時朝
飯
。,午前十時朝
飯
。,
詰
座敷において初御目見(はつおめみえ)を受ける。終わって麻裃に着替え神拝。
通史編2(近世1)
(「人寄せ」と人口流出の禁制)
このような措置により、たとえば享和二年九月の「国日記」の記事のように、盛岡領野辺地から一家六名が
飯
詰
・
通史編4(近・現代1)
(城西小野球部全国大会出場)
両校相譲らず息
詰
まる投手戦を展開したが、城西が一対〇で勝利を得た。 ,一塁 田沢貞助、二塁 川崎健一、三塁 館田義憲、遊撃 山口勇造、左翼 小嶋正夫、中堅 秋田重蔵、右翼
飯
塚直
通史編2(近世1)
(開発の実行者たち)
一方、新田地方では、
飯
詰
(いいづめ)村の新岡仁兵衛は文化元年(一八〇四)から四年までに合計で三三町歩の
通史編2(近世1)
(陸上交通網の整備)
結ぶ乳井(にゅうい)通り、同じく下ノ切(しものきり)小道とある下十川(しもとがわ)~原子(はらこ)~
飯
詰
通史編2(近世1)
(参勤交代路と街道の状況)
これに対して、弘前~油川間では、貞享四年(一六八七)の「道付」(国史津)に、藤崎の北、
飯
詰
(いいづめ)
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
飯
詰
村(いいづめむら)(現五所川原市)中屋孫七(なかやまごしち)の次男。
資料編1(考古編)
(第1節 中世・近世遺跡の概観)
杢沢遺跡 鰺ヶ沢町 17,18 陶磁器 73 16 桑野木田遺跡 柏村 15 陶磁器 82 17
飯
詰
城跡
通史編3(近世2)
(災害と生活)
四ツ目の屋敷では八月一日の午後二時すぎに床上浸水となり、
飯
米が水に漬かったため、ここに住んでいる藩士へ,そして江戸
詰
の藩士は無事であることを国元へ連絡するよう飛脚を出発させている。
通史編4(近・現代1)
(食生活の変化)
在来の弘前の一般的な食生活といえば、
飯
はともかく、汁は朝晩二度の味噌汁、その実は大根・ねぎ・菜葉(なっぱ,三十九年、住吉町に開業した長谷川牛乳店では、上方のように瓶
詰
蒸気消毒の方法で配達するという新販売法を始,子供の間食に与えるものでは、のりかす餅、かる焼、豆を入れたこごり豆、ごま味噌をつけたたんぽ焼やさなご
飯
などがあった
通史編2(近世1)
(天保四年における藩の対応)
五所川原市の藤田家文書(『五所川原市史』史料編2下巻)によれば、
飯
詰
組・俵元新田組計一八ヵ村から藩に御用金
通史編2(近世1)
(文化~文政期の藩財政)
#160; ⑬ 弘前・青森貯米 1,644.999 0.65 ⑭ 御手山入用賄米,杣子
飯
料,1,032 0.41 ⑮ 松前
詰
人数賄米,手船方糧米 900 0.35 ,常用金は藩主の家族の生活費、江戸
詰
めの藩士・足軽・女中等への金給や諸手当、交際費・進物費などに充てられる,ほかに江戸
詰
めの藩士への扶持米が六六二五石あり、この両者が江戸藩邸の運営費というべき性格のものであった
通史編2(近世1)
(農村の再開発)
図119.
飯
詰
組広田組絵図の藻川村 目録を見る 精細画像で見る 一方で新規の新田開発も行われた
通史編2(近世1)
(飢饉に至るまでの経緯)
九月十六日の郡奉行の作柄の調査では
飯
詰
・金木・俵元(たわらもと)新田・広須(ひろす)・木造新田・油川・
通史編2(近世1)
(「標符(通帳)」通用の実態)
「上は勝、下は次第に
詰
将棋、何(イツ)か標符ハ金となるやら」という狂歌は、標符によって藩庫が潤ったにもかかわらず,また
飯
料や翌年の種籾も取り上げられたにもかかわらず、手当も貸し出しもなく、農村では「飢渇に及ぶ者」も出
通史編2(近世1)
(信義の襲封)
新田開発に関するものとしては、寛永十六年(一六三九)に
飯
詰
高野(いいづめこうや)村(現五所川原市高野)
通史編2(近世1)
(元禄の大飢饉と家臣召し放ち)
さらに十月朔日には、知行取に対しても
飯
米を与える措置が取られており、状況が深刻化したことがうかがえる。,消費都市である江戸
詰
めの家臣たちは、国元より優遇されているものの、知行、俸禄は減額して支給された(「国日記
通史編2(近世1)
(廃田復興・新田開発の進展)
浪岡 47.47 307.943 93.55 197.027 浦町 73.11 410.407
飯
詰
通史編4(近・現代1)
((一)北洋の出稼ぎ農民たち)
広い道路を掃いてから台所で朝
飯
をいたゞく。,翌大正八年の春にはカムチャツカの缶
詰
工場に出稼ぎする同年輩の少年労働者三百人の小頭見習いという役で漁場
通史編1(自然・原始)
(発掘調査の成果)
昭和四十三年(一九六八)五月に、立正大学の坂
詰
秀一(さかづめひでいち)を担当者として、近辺の砂田窯跡とともに,なお坂
詰
は、昭和四十七年(一九七二)十月、同市持子沢(もっこざわ)窯跡B地点、翌年十月は同窯跡D地点において,製鉄に関する遺跡は多く(131)、津軽半島の脊梁(せきりょう)である中山山脈西麓においても、五所川原市
飯
詰
通史編2(近世1)
(刑罰体系)
・深浦・十三(とさ)・青森・蟹田・今別(いまべつ)・碇ヶ関・大間越(おおまごし)・野内(のない)と、
飯
詰
通史編1(自然・原始)
(昭和時代)
このころ本県では、
飯
詰
(いいづめ)村(現五所川原市)や内潟(うちがた)村(現北津軽郡中里町)の各村長を
通史編3(近世2)
((二)相撲興行)
堀太左衛門家来遠藤権八 奥内村有兵衛 懸橋 唐崎 奥内村有兵衛 小 結 浮雲 後潟村弥兵衛 同人 同人 脇
詰
,藩主より行事善三郎に麻裃、力士には赤
飯
が与えられ、相撲場所は、夏は東、秋は西を上位と定め、御旗の者・寄
資料編1(考古編)
(〈注一覧…第4章〉)
青森県教育委員会 『中崎館遺跡』(青森県埋蔵文化財調査報告書第129集) 1990年 71) 半沢紀 「
飯
詰
高楯城址採集
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
(21) 常光寺 同右 同右 (22) 月峰院 同右 同右 (23) 長円寺 同右 同右
飯
詰
村
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●寛永十六年(一六三九)、この年、
飯
詰
高野村、開かれる。
/ 1ページ