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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)
飯詰
村(いいづめむら)(現五所川原市
飯詰
)の飯塚家(いいづかけ)は、北屋の屋号を持つ在郷の商人である。,
飯詰
村は下の切(しものきり)地方(梵珠山地の西麓の地域)の開発の中心であり、藩の代官所(下の切遣、ついで,
飯詰
組)が置かれ、さらに寛文三年(一六六三)には、藩から黒石・板屋野木(いたやのき)(現北津軽郡板柳町,享保十三年(一七二八)、
飯詰
村の三右衛門は、自らに課せられた御用金五〇両のうち、三〇両は藩への返済金を
通史編2(近世1)
(津軽地域の確保と蝦夷荒)
大浦氏は、南部氏との間での
飯詰
(現五所川原市)「伐取(きりとり)」の過程の中で、そこに居住していた「狄,」すなわちアイヌとも戦い、その結果として
飯詰
・喜良市の地域を掌中に収めることになった(「由緒書抜御目見以下之面々,その後、天正十六年(一五八八)には、
飯詰
の町立(まちだて)を行っている。
通史編4(近・現代1)
(地租改正の開始)
津軽地方での地租改正の実施については、北津軽郡
飯詰
村(現五所川原市)での実施の様子が、使用した筆記具に,
飯詰
村では後に、動員された農民が、作業に対する人夫賃の支払いに不満を持ち、県に訴願するに至っている。
資料編1(考古編)
(4.発掘調査以外の遺跡)
さらに県内における消費動向として十三湊、久米川、石上神社、
飯詰
城、野脇、水木館の各遺跡資料と伝世資料を
通史編3(近世2)
(施行小屋)
和徳町の町外れに五間に四〇間(約二〇〇坪)の施行小屋を建て(「国日記」天明三年十月三日条では後潟組・
飯詰
組
通史編3(近世2)
(子供を池に投げ殺害)
沢・深浦・十三(とさ)・青森・蟹田・今別(いまべつ)・碇ヶ関・大間越(おおまごし)・野内(のない)・
飯詰
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
(一六〇六)に家督を継いだ三代目の松井助左衛門のときに、十三湊の再開発に着手し、そのほかにも、小泊・
飯詰
通史編2(近世1)
(天保飢饉と一揆・騒動)
天保五年三月、下
飯詰
村の者五七人が弘前に押し寄せて、庄屋の救米渡し方不明について直訴したのは、その一例
通史編2(近世1)
(天明六年以降の飢饉)
津軽平野南東郡山麓沿いの地域)の辺りでは死者が多く出ているという伝聞があったり(前掲「年中日記」)、
飯詰
通史編2(近世1)
(「人寄せ」と人口流出の禁制)
このような措置により、たとえば享和二年九月の「国日記」の記事のように、盛岡領野辺地から一家六名が
飯詰
・
通史編2(近世1)
(陸上交通網の整備)
結ぶ乳井(にゅうい)通り、同じく下ノ切(しものきり)小道とある下十川(しもとがわ)~原子(はらこ)~
飯詰
通史編2(近世1)
(参勤交代路と街道の状況)
これに対して、弘前~油川間では、貞享四年(一六八七)の「道付」(国史津)に、藤崎の北、
飯詰
(いいづめ)
資料編1(考古編)
(第1節 中世・近世遺跡の概観)
杢沢遺跡 鰺ヶ沢町 17,18 陶磁器 73 16 桑野木田遺跡 柏村 15 陶磁器 82 17
飯詰
城跡
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
飯詰
村(いいづめむら)(現五所川原市)中屋孫七(なかやまごしち)の次男。
通史編2(近世1)
(開発の実行者たち)
一方、新田地方では、
飯詰
(いいづめ)村の新岡仁兵衛は文化元年(一八〇四)から四年までに合計で三三町歩の
通史編2(近世1)
(天保四年における藩の対応)
五所川原市の藤田家文書(『五所川原市史』史料編2下巻)によれば、
飯詰
組・俵元新田組計一八ヵ村から藩に御用金
通史編2(近世1)
(飢饉に至るまでの経緯)
九月十六日の郡奉行の作柄の調査では
飯詰
・金木・俵元(たわらもと)新田・広須(ひろす)・木造新田・油川・
通史編2(近世1)
(農村の再開発)
図119.
飯詰
組広田組絵図の藻川村 目録を見る 精細画像で見る 一方で新規の新田開発も行われた
通史編2(近世1)
(土着対象地と在宅分布)
10 浦町 10 10 横内 10 10
飯詰
通史編2(近世1)
(信義の襲封)
新田開発に関するものとしては、寛永十六年(一六三九)に
飯詰
高野(いいづめこうや)村(現五所川原市高野)
通史編2(近世1)
(廃田復興・新田開発の進展)
浪岡 47.47 307.943 93.55 197.027 浦町 73.11 410.407
飯詰
通史編2(近世1)
(刑罰体系)
・深浦・十三(とさ)・青森・蟹田・今別(いまべつ)・碇ヶ関・大間越(おおまごし)・野内(のない)と、
飯詰
通史編1(自然・原始)
(昭和時代)
このころ本県では、
飯詰
(いいづめ)村(現五所川原市)や内潟(うちがた)村(現北津軽郡中里町)の各村長を
資料編1(考古編)
(〈注一覧…第4章〉)
青森県教育委員会 『中崎館遺跡』(青森県埋蔵文化財調査報告書第129集) 1990年 71) 半沢紀 「
飯詰
高楯城址採集
通史編1(自然・原始)
(発掘調査の成果)
製鉄に関する遺跡は多く(131)、津軽半島の脊梁(せきりょう)である中山山脈西麓においても、五所川原市
飯詰
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
(21) 常光寺 同右 同右 (22) 月峰院 同右 同右 (23) 長円寺 同右 同右
飯詰
村
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●寛永十六年(一六三九)、この年、
飯詰
高野村、開かれる。
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