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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (非人小屋の設置と餓死者の処理)

非人小屋の設置と餓死者の処理 領内では九月に入ってしだいに餓死者が多くなり、藩では飢えた者一人一日につき,元禄八年八月より九年八月までの餓死者は一〇万人余とされ、荒田は一万二〇〇〇町歩、空家七〇〇〇軒余に達したといわれる / 非人小屋の設置と餓死者の処理
通史編1(自然・原始) (冷害の歴史)

そこで冷害規模が大きく、餓死者が多いなどの主たる凶饉年の事例を挙げた。,し 元和2 1616 飢 饉 不明  餓死者多し 寛永17 1640 飢 饉 春・夏不照  死者多数,438人余 寛延2 1749 飢 饉 低温  乞食・非人多く餓死者多数 寛延3 1750 凶 作 前年,の余映続く  飢えと寒さで2月・3月に餓死者多数 天明3 1783 大飢饉 低温・長雨  餓死者多数 ,して死者多数 餓死者・病死者3万8000余人 天明の飢饉は,天明2年に始まり,同2~8年および寛政元年
通史編2(近世1) (寛延の飢饉)

寛延の場合は同じ青森県域の八戸藩では俗に「猪飢渇(いのししけがじ)」と呼ばれ、約三〇〇〇人の餓死者を出,して乞食が出て空き屋敷が目立つようになり、特に青森や海辺・下在新田通(現五所川原市・北津軽郡)で乞食や餓死者,御救米を支給するなどの処置を取ったが、翌春になっても弘前では在方から飢人や乞食が入り込み、川原や道端に餓死者,弘前の大圓寺では餓死者の亡骸(なきがら)を供養したが、その数は八九〇人に及んだという(『平山日記』ほか
通史編3(近世2) (先祖供養)

現市内新町)講中の建立になるものは、天明三年(一七八三)・四年の大凶作の時の供養碑であり、『記類』によると、餓死者八万一七,文政十三年(天保と改元、一八三〇)の銘のあるものも、実は天明の餓死者の供養碑であった。,図253.専求院にある卯辰供養碑  専修寺(現市内東和徳町)の享保二年(一七一七)餓死者供養碑には,これは、『記類』によると、元禄八年(一六九五)に三万人の餓死者があり、その餓死者の一三回忌に当たって建立
通史編2(近世1) (有史以来最大級の大量死)

とりわけ北奥諸藩では大量の餓死者を出し、「明治維新前では戦乱や他の自然災害を含め、日本列島上における有史以来最大級,藩の公式記録の「国日記」によると、天明三年九月から翌四年六月にかけての餓死者は八万一七〇二人、うち在方,北奥諸藩も同様で、史料によって違いはあるが、盛岡藩は約四万余、仙台藩は一四万~一五万、八戸藩は約三万人の餓死者,今日でも津軽の各地方にみられる天明の飢饉の供養塔、飢民が倒れたという「ほいど坂」、餓死者を大量に埋めたという,表31 天明の飢饉における東北諸藩の死者 藩名 期間など 餓死者数など 出 典 弘前藩 天明3年9月~
通史編2(近世1) ((一)宝暦の飢饉)

の凶作は全国的な飢饉となり、特に国元では寛延二年の凶作を上まわり、元禄以来の大凶作になったが、領内で餓死者,がよかったからだと、人々はありがたく思った」と述べられているとおり、元禄以来の飢饉と認識されながら、藩の適切な対応で餓死者
通史編3(近世2) (信明)

天明四年(一七八四)から寛政三年(一七九一)に及ぶ「在国日記」(国史津)を書き残しているので、特に大飢饉で餓死者八万人以上,天明の餓死者については、側近の者を在方へ遣わして死体を片付けさせ、最寄りの寺で供養するように指示している,信明の生活をみると、先祖を大切に取り扱うとともに、餓死者の供養や伊勢太神宮への供米を指示している。
通史編2(近世1) (宝暦の飢饉)

他の北奥諸藩でも同様で、盛岡藩では四万九四九五人の餓死者(「篤焉家訓」による。,ほかに遠野通一一五一人)、仙台藩では全体で二万人程度の餓死者(『宮城県史』二二)を出したという。
通史編2(近世1) (天保の飢饉の特徴)

しかし、後半には相次ぐ不作によって藩の対策も息切れがし、ついに餓死者を出したというのが大まかな特徴である,死者の中には病死者も多く含まれるので、必ずしも餓死者の人数を示すものでないが、いずれも大きな数字である,もっとも、わずか二ヵ年に八万一七〇二人(「国日記」)ともいわれる餓死者を出した天明の飢饉と比べると死者
通史編2(近世1) (窮民対策)

八月十日ころから、人々は蕨(わらび)の根を掘って飢えをしのぎ(同前No.八五五)、さらに、この月末には餓死者,が出るようになっており(「平山日記」)、十月から十二月までに三万人の餓死者が出たという(資料近世1No,餓死者、そして、その後の疫病の流行による死者などを合わせると、三分の一ほどの領民がこの飢饉の犠牲となったともいわれる
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

七月二十四日に降った大雨は餓死者の汚穢(おえ)を洗い流し、人々は「飢饉流し雨」と呼んだという(同前)。,図125.天明卯辰日記  藩は城下の長勝寺・革秀寺等に餓死者供養の施餓鬼(せがき)を命じる一方、,九月には藩主の名代として近習・小姓らが領内を廻郷し、餓死者の供養をした。,名代らは餓死者の墳墓の前で、藩主自筆の祭文を読み上げ、死者の亡魂を弔うとともに生存者の息災も祈った。
資料編3(近世編2) (●蘭庭院 栄螺堂 西茂森二丁目--市指定文化財)

栄螺堂 西茂森二丁目--市指定文化財 東長町の豪商であった中田屋嘉兵衛(賀兵衛)が、天保の飢饉での餓死者
通史編3(近世2) ((一)凶作・飢饉とその対策)

とその対策 津軽領の四大凶作といわれるのは、元禄・宝暦・天明・天保年間の冷害による凶作であるが、多くの餓死者
通史編3(近世2) (飢餓の状況)

飢餓の状況 天明三年の大凶作による飢饉の様子を概観すると、城下では毎日七、八人ないし一〇人の餓死者がたちまち
資料編3(近世編2) ([口絵])

稽古館本(弘前市立図書館蔵岩見文庫) 金木屋日記(弘前市立図書館蔵八木橋文庫) 餓死者供養名号塔
通史編4(近・現代1) (村制度の変貌)

村制度の変貌 この時期に乞食、餓死者、犯罪者が著しく増加し、伝染病、離婚、身代限りが続出、村が大きく
通史編3(近世2) (武士に不相応な行為と食料奪取)

餓死者が増え、毎日七、八人ないし一〇人がたちまち数百人となり、城下に約三メートル四方の穴を七ヵ所掘って
通史編2(近世1) (樋口善兵衛の報告書)

、しかも、米価が高騰する端境期に米を売り払ってしまった藩の判断が、領内の米払底をもたらし、八月末には餓死者
資料編3(近世編2) (【解説】)

八代藩主信明の「在国日記」からは、大飢饉で餓死者八万人以上といわれる天明四年(一七八四)を取り上げた。,ここには藩主として餓死者供養を命ずるほか、個人的には生活習慣となっている庚申・甲子両信仰が見られる。
資料編2(近世編1) (第二節 乳井貢の思想【解説】)

同五年の大飢饉に際しては、果断の対応により領内からはひとりも餓死者を出さなかったと、一・二の史料(「内山旧記
通史編2(近世1) (天明六年以降の飢饉)

新田地方では餓死者はなかったが、東根(ひがしね)(津軽平野南東郡山麓沿いの地域)の辺りでは死者が多く出
通史編2(近世1) (飢饉の惨状)

年を越した天明四年(一七八四)の一月から三月が餓死者のピークで、後潟村・郷沢村・目屋の沢・白沢村(現在
通史編3(近世2) (薬王院)

天明四年(一七八四)には、天明大飢饉の餓死者供養の施餓鬼も行われた。  
通史編3(近世2) (施行小屋の設置と犯罪防止)

八九匹、廃田九四八四町といわれ、長年にわたりかつ深刻なものであったにもかかわらず、天明の飢饉に比較して餓死者
通史編2(近世1) (天明期の借り上げと寛政期までの状況)

『天明卯辰日記』によると、餓死者がピークを迎えた天明四年閏正月に、二〇〇〇石を用立てるよう弘前の蔵持ちの
通史編2(近世1) (天保四年における藩の対応)

その一方で、津軽領では餓死者は一人もなく、「近国にはない仁政」とまでいわれ、津軽に戻ってきたら平穏で安眠
通史編2(近世1) (流民の発生と施行小屋の設置)

施行小屋を管理する非人らは、一方で餓死者の死体処理などの作業に携わっていた。
通史編2(近世1) (乳井の略歴)

ほうご)の凶作」、すなわち宝暦五年(一七五五)、奥羽地方一帯を襲った大飢饉においても、津軽領内からは餓死者
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

凶作は、従来貯蔵していた米穀を売り払ってしまうという藩の失政も手伝って大飢饉を引き起こし、領内で多数の餓死者
通史編2(近世1) (災害の続発とその影響)

建てて救米の支給などを行ったが、一人一日一合、一ヵ月一〇日分、一〇歳以上の支給に限定したため、子供の餓死者
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

翌年にかけ餓死者続出すると伝えられる。
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

多数の餓死者あり。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

翌年にかけ餓死者続出すると伝えられる。
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