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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (廃藩置県)

事態は早打で七月二十五日横島彦八が弘前にもたらし、翌二十六日藩士総登城となり、詔書と在京中の大参事西館融,大参事     西館融建哲(たけあき)           山中逸郎泰靖(やすのぶ)   権(ごん,)大参事 杉山龍江           大道寺繁禎(しげよし)           西館孤清(こせい,八戸県、斗南(となみ)県、黒石県、館(たて)県の五県を弘前県に合併する令達を出した。,このときの五県とは本州陸奥国の五県で、北海道の館県(旧松前藩)は入っていなかった。 / 廃藩置県
通史編5(近・現代2) (弘前実業高校の県立移管)

弘前実業高校の県立移管 昭和三十五年(一九六〇)四月、市立商業高校と市立女子高校は合併して弘前市立実業高校,での県立移管という構想に従っての合併であった。  ,合併したての実業高校には、無論統一校舎はなく、とりあえずは旧校舎を使うこととし、原ヶ平校舎を第一校舎、,その後、三十八年の体育館竣工、さらに、和室と礼法室を備えた生徒会館や合宿所が完成されることにより、県立移管,これに伴い、校名は青森県立弘前実業高等学校と改称された。   / 弘前実業高校の県立移管
通史編1(古代・中世) (青森県の古墳文化)

青森県の古墳文化 青森県で古墳文化の影響が明確になるのは、この古墳時代中期に入ってからで、年代的には,注目すべき例として、県東側の天間林村森ヶ沢遺跡の土坑墓(どこうぼ)群からは、続縄文文化後半期の北大(ほくだい,・ヤリガンナ・剣(けん)片・吊り金具状品・環状品など)・玉類(琥珀(こはく)玉・ガラス玉・石製小玉)・漆製竪櫛(たてぐし,津軽地方では青森市細越館遺跡で南小泉式前半期(五世紀前半)の土師器高坏(たかつき)・坩(かん)などが出土,写真2 森ヶ沢遺跡出土の土師器・須恵器・北大式土器 図2 細越館遺跡出土の土師器  青森県 / 青森県の古墳文化
通史編3(近世2) (藩から県へ)

」明治四年十二月一日条 国立公文書館蔵)。  ,の五県と、同じく財政難にあえいでいた館(たて)県(旧松前藩)もこれに加えられ、弘前県は現在の青森県域と,道南地方にまたがる広大な県となった(「県庁進達留」八戸市立図書館蔵、「八戸藩ノ偉材太田広城」『青森県史,」各日条 国立公文書館蔵)。,」明治4年11月(日欠)条(国立公文言館蔵)より作成。   / 藩から県へ
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

二 本章で取り上げる中世城館跡 青森県では、昭和五十五~五十七年度に、青森県教育委員会によって中世城館,の調査が行われ(昭和五十七年度青森県文化財調査報告書『青森県の中世城館』、一九八三年、以下Aとする)、,(1)新和・高杉地区 ①笹館(笹舘字市原)、②小友館(小友字宇田野)、③種市館(種市)、④高杉館(天崎館,(2)船沢地区 ⑥中別所館(城館(しろだて)・隅館・二ツ館・荼毘館の総称、中別所字葛野・宮舘字房崎),(9)東目屋地区 36高野(こうや)館(国吉字耕田)、37坂本館(目屋川新館・古館、館後(たてうしろ / 二 本章で取り上げる中世城館跡
通史編1(自然・原始) (江戸時代~明治十七年(一八八四))

江戸時代~明治十七年(一八八四) 永禄日記(えいろくにっき)(館野越(たてのこし)本)にある、亀ヶ岡城,菅江真澄(すがえますみ)(一七五四~一八二九、三河国〈愛知県〉出身)は、寛政八年(一七九六)四月十四日,(はしけた)と本県の亀ヶ岡出土の土器を比較し、類似点を記述している。,菅江真澄画像 (大館市立中央図書館蔵) 「新古祝甕品類之図」 表紙と一部 (大館市立中央図書館蔵,幕末期は、本県においても続々と文化人が登場し、多くの記録・日誌などを残している。  
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

同盟軍が北上を続ける中、今度は盛岡藩が不意をつく形で秋田藩の北側に位置する十二所(じゅうにしょ)(現秋田県大館市,また、山館(現秋田県大館市)近辺においても応援に駆けつけた弘前藩兵が加わって、盛岡藩兵との戦闘が繰り広,時参加した弘前藩対馬官左衛門率いる銃隊は、対庄内戦へ出兵する途中で盛岡藩兵の襲来を知り、荷揚場(現秋田県北秋田郡二,大館を退いた諸兵は荷揚場まで撤退した。  ,こうした状況に、弘前城下からは家老西館宇膳(にしだてうぜん)や杉山上総(かずさ)などをたて、藩境碇ヶ関
通史編4(近・現代1) (不平の源流)

歴代県令は彼らに時代錯誤を説き、主流派との和解を策したが、効果なかった。,この運用が家令・家扶の西館孤清や神盛苗によってなされたため、自派の勢力拡張に使われていると勘繰り、その,う者として、飯田巽(たつみ)・三浦清俊・手塚義彦・成田五十穂・岡兵一・工藤行幹・櫛引英八・長尾義連・館山漸之進,そして、青森県が難治県と言われるのは「旧君側ニ基ヒセリ」、「戊辰後、勤王佐幕ノ相分ルルニ原因シテ」と明治二年,の藩政改革人事の怨を、山田登も森岡鶴翁も他の多くの当事者が没してしまった明治十五年段階になおも述べたて
通史編1(古代・中世) (伊治公呰麻呂の乱)

首長呰麻呂は、俘囚(ふしゅう)の軍を率いて反乱し、伊治城を攻めて広純と牡鹿郡大領道嶋大楯(みちしまのおおたて,(宮城県築館町)  呰麻呂の反乱の理由について『続日本紀』は、広純に対してはもともと何か含むところがあり,征東大使は中納言藤原継縄(つぐただ)、副使は大伴益立(おおとものますたて)・紀古佐美(きのこさみ)である
資料編1(考古編) ((1)貝塚に見る食生活)

本県において貝塚を残した人々が捕食した貝類には、海水性(鹹水性とも書く、貝の大半が含まれる)、汽水性(,表5 青森県内遺跡出土の貝類(斧足類) 出土貝類名 コベルトフネガイ サルボウ アカガイ タマキガイ,ムラサキイガイ イガイ エゾイガイ サザナミマクラ アズマニシキ アサザルガイ ザルガイ エゾニシキ ホタテガイ,エゾホタテガイ イタボガキ マガキ イワガキ スミノエガキ カラスガイ イシガイ カワシンジュガイ,他県の例を引用すると、縄文時代前期前葉に属する福井県三方郡三方町の鳥浜貝塚(貝塚を伴う低湿地遺跡)では
資料編1(古代・中世編) (六 板碑の調査・研究史)

岩木町新法師の板碑 「やをら高岡を出でて新法師の村のかた岨に、高館の城のあるじ、なにがしの塚の石ぶみは,かくて外崎(トノサキ)村の池のほとりを過るに、建武のとしなるいしぶみたてり」 (都介路迺遠地) 弘前市中別所,の板碑 「この中別所と宮館といふやかたありけるあはひに、(中略)石仏ヶといふ田のあぜ、畑中、木の下、草,昭和五十年代に入ると青森県立郷土館が板碑の調査を行い、『青森県の板碑』が刊行された。,岩手県北部から秋田県鹿角地方を通り、津軽平野に入る板碑の流入経路の一つが確認されたわけであり、板碑研究
通史編1(自然・原始) (平安時代の降下火山灰)

平安時代の降下火山灰 県内各地の遺跡発掘調査で、特に平安時代の遺構埋土中に鍵層としての広域火山灰が二枚確認,竪穴(たてあな)住居跡内の埋土(黒色土壌)には数センチメートルの厚さで堆積していることがある。,秋田県から北海道全域にかけて確認されている。,溶岩ドーム(御倉山)の噴火活動によるもので、十和田湖を中心に厚く堆積し、津軽半島および下北半島を除く県内,の敷地に立地する胡桃館(くるみだて)埋没建物遺跡が埋積された(内藤、一九六六)。
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

弘前の民衆 さて、青森県の県政が本格的に出発する中で、弘前市域の民衆は具体的にどのような生活を送っていたのだろうか,旧藩主津軽承昭(つぐあきら)は東京横川の邸宅に移住し、西館融(とおる)・杉山龍江・西舘孤清(こせい)・,このためか、明治四年(一八七一)十一月には城内に桑や茶を植えて士族授産の補いとし、廓内の建家(たていえ,)・雑木を売りに出すべしとの稟議(りんぎ)が朝廷に出され(「青森県歴史」明治四年十一月四日条 国立公文書館蔵,」五 国立公文書館内閣文庫蔵)。
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

には「晴」字を乞うた相手を信玄(しんげん)として知られる武田晴信(たけだはるのぶ)、あるいは現在の岩手県南,から宮城県北にかけての領主葛西晴信(かさいはるのぶ)か、としているが誤伝であろう〉)。,一方、同じ年、晴政は、居館の聖寿寺館(しょうじゅじたて)(本三戸城、三戸郡南部町)の焼失を機に、三戸城,ごろまでには北上川流域地帯へ進出を図り、志和郡に和賀氏を破り、岩手郡滴石(しずくいし)(雫石)城(岩手県岩手郡雫石町,)を攻略し、城主の戸沢(とざわ)氏は出羽国仙北郡角館(かくのだて)(秋田県仙北郡角館町)に移っていった
通史編3(近世2) (帰国の旅)

午後三時粕壁(かすかべ)(現埼玉県春日部市)へ到着。宿泊(以下省略)。  ,館岡(たておか)で昼の休憩、午後二時すぎ尾花沢(おばなざわ)へ到着。,二十日、つつれこを夜の内(早朝)に出発、大館(おおだて)で昼の休憩。,杉峠(すぎとうげ)(矢立(やたて)峠)でしばらく休み、藩主はお菓子を召し上がる。
通史編2(近世1) (烏帽子山紛争)

、やむをえない場合、評定所等で裁許を下した(笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』一九九四年 吉川弘文館刊,たとえば、秋田藩との間では、矢立峠(やたてとうげ)の帰属と日本海側の領境をめぐる境論が、佐竹家が秋田に,)(現秋田県八森町)と津軽岩崎(いわさき)(現西津軽郡岩崎村)の間とほぼ決定し(資料近世1No.三五五,さらに七月にかけて、合わせて五通の書状が送られた(これらの書状はいずれも盛岡市中央公民館蔵)。,盛岡市中央公民館蔵)。
資料編1(考古編) ((1)祭祀と仏教文化の波及)

番号 遺跡名 所在地 出土遺構 祭祀関連遺物 伴出遺物 時期 備考 1 甲里見(2)遺跡 黒石市大字高館字甲里見,8C前葉 第95号住居跡 24 塩入遺跡 八戸市大字新井田字塩入 土玉2 採集遺物 25 蓬田大館遺跡,甲里見(2)遺跡のものは、首から上の頸部だけのため、裸馬かどうかは不明であるが、耳・目・鬣(たてがみ),本県での2体の土馬の出土は特筆される。,種の祭祀が本県でも行われていたことを示すものである。
通史編1(古代・中世) (埋納銭の出現)

写真85 浪岡城跡出土の埋納銭  弘前市域の遺跡でも、中崎館遺跡では元豊通宝(げんぽうつうほう),(北宋、一〇七八年初鋳)・景祐通宝(けいゆうつうほう)(北宋、一〇二四年初鋳)など五枚、荼毘館(だびだて,荼毘館・独狐遺跡などの発見事例は、境関館遺跡の井戸跡出土例(写真86)を除けばほとんどが遺構を確認した,同じような埋納年代を示す平賀町館山(たてやま)・青森市奥内(おくない)・尾上町猿賀(さるか)をみても神社領域,銭貨とともに発見された石川県鶴来町清水町の木箱には、神仏に奉納したという「佛供箱 金釼宮行所方 天文廿四年十二月日
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

①縄文時代以前の遺跡・遺物の発見…昭和五十一年(一九七六)から三ヵ年にわたる県立郷土館の東津軽郡蟹田(,大畑町にある二枚橋(にまいばし)遺跡、昭和四十四年(一九六九)脇野沢村瀬野遺跡の調査を行い(119)、県立郷土館,学術調査では、青森市後潟(うしろがた)の尻八(しりはち)館(一九七七・七八年青森県立郷土館が発掘、十四,ほかに、時代は若干古いとみられる組石石棺墓が、同年五月に西津軽郡鯵ヶ沢町建石(たていし)町の餅ノ沢(もちのさわ,さらに、県外の研究者に対しては人名を記述しているのに対し、県内の人々については多数にのぼるために記載していない
通史編2(近世1) (九戸一揆の始まり)

天正十八年三月、大浦(津軽)為信が南部家からの独立を図り、浪岡(なみおか)城を囲み城代楢山帯刀(ならやまたてわき,為信自身、その出自について九戸政実方についた七戸系久慈氏出身だという説が有力であり(長谷川成一他『青森県の,天正十九年三月十三日の夜、櫛引清長、七戸家国らと同心し、糠部郡の一戸・苫米地(とまべち)・伝法寺(でんぽうじ)の城館に
通史編3(近世2) (松前徳広の領内落去)

また、松岡四郎次郎率いる二五〇人が館城(たてじょう)を落とすべく進発を始めた。,これが十五日のことであり、さらに同日館城までも陥落し、焼却処分となった。,こうして箱館戦争が始まったが、相次ぐ出兵と官軍の滞陣、戦争の長期化で、既に弘前藩の国力は限界に近づいていた,ではないかという疑いをかけられた弘前藩にとっては、野辺地(のへじ)戦争の敗戦がいまだ尾を引いており、箱館戦争,進軍する際には渡海も行う意向があることを表明(『青森縣史』第三巻)して、十八日まで青森に滞在した。
資料編1(考古編) (-文献リスト-)

) 日曜の地学3 青森・日本海側をめぐって.築地書館, 142p,地質調査所月報, Vol.2, No.4-5 ◇16 井上武・川尻茂三・上田良一(1960) 秋田県大館,通産省,P.23 ◇97 久野久(1953) 十和田湖の地質図および説明・模型など.十和田科学博物館所蔵,東北大学地質学古生物学教室卒業論文 ◇176 町田洋・新井房夫・森脇広(1981) 日本海を渡ってきたテフラ,年学術大会講演要旨,P.242 ◇180 松山力・大池昭二(1986) 十和田火山噴出物と火山活動.十和田科学博物館No
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

この七月の仕置によって、出羽国仙北郡角館城主戸沢光盛や南部信直は秀吉の領知朱印状を得ることができたが、,ほかに約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地の管理を任された(長谷川成一『近世国家と東北大名』一九九八年 吉川弘文館刊,17日 小野寺孫十郎 出羽国仙北之内上浦郡三分二 31,600石 天正19年正月17日 注) 『秋田県史,津軽為信が、千徳(せんとく)氏を慶長二年(一五九七)に滅亡させ(資料近世1No.六六)、津軽建広(たてひろ
通史編4(近・現代1) (アメリカに伝える禅の心)

それは野の一草たろうとしたからであって、時には金門橋で冥想し、またサンフランシスコ公共図書館で勉学にいそしんだ,〝草の葉一枚でもよく三世にわたって仏塔をたてうる〟如幻は一日一日怠ることなく生きつづける限り四誓願の精神,如幻は南北朝時代の禅僧寂室元光を尊敬し、その語録を英訳、昭和三十一年の五〇年ぶりの帰国の際もまず滋賀県の
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……………………………… 吾妻鏡 139 ●文治五年(一一八九)八月二十二日、源頼朝、藤原泰衡平泉館の,………………………… 天台座主記 145 ●建暦二年(一二一二)十二月廿四造立の滋賀県玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書中,… 岩手県葛巻町八幡神社鰐口銘文 225 ●明徳三年(一三九二)正月、奥羽両国が鎌倉府の管轄とされ、奥羽,残兵は深浦館を築きたてこもるという。,館、蝦夷の攻撃により陥落。
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