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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

には三六軒(うち空き屋敷七軒)が置かれ、藩の施設である御蔵(二の丸)や御鷹部屋(三の丸・四の郭)、御馬屋,さらに西外の郭には、従来からあった御馬屋の側に馬場が設けられ、屋敷数は六軒減の三〇軒(うち空き屋敷一軒,西外の郭は三五区画の屋敷割のうち、空き屋敷二軒、馬屋・御紙漉所やそれらの附属施設を除けば侍屋敷で占められている,二の丸に住居する家中は既におらず、空き屋敷が一つ、御用地の付箋のある屋敷地が一つ、そして蔵屋敷・馬屋・
通史編3(近世2) (幕末期の市域)

このほかに諸士水練場は岩木川駒越町の土居下、同馬芸習練場は馬屋町の三御馬屋馬場、鉄砲場は春日町の春日神社
通史編4(近・現代1) (県立工業学校)

候補地としては、時敏小学校の隣地、富田、馬屋町の三ヵ所が挙げられたが、選ばれたのは馬屋町の現在地、当時
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

在府町の後ろ通り・在府町新割町・馬屋(まや)町坤の櫓の下・馬屋町橋東の方の行角・馬屋町の中町・荒町(あらまち,藩士が居住していたのを、御目見得以上の藩士に屋敷を与えることとし、代官町・若党町・五十石町・鷹師町・馬屋町,相良町 三〇〇石より一〇〇石まで  馬屋町 三〇〇石より一〇〇石まで  百石町 一〇〇石 ただし鞘師町通
通史編4(近・現代1) (学区の改変)

白銀小学学区は、鷹匠町、江戸町(現中新町地区)、西大工町、駒越町、馬屋町、茂森町、片堀町(旧古堀町)、
通史編5(近・現代2) (子ども会の動向)

鳳鷹会」(代表蝦名良逸)、南横町の「南友会」(代表小野俊夫)、駒越町の「駒越少年会」(代表佐藤逸郎)、馬屋町,紺屋町 桶屋町 下土手町 南横町 笹森町 浜の町 和徳町 馬屋町 鍛冶町 新鍛冶町 銅屋町 南川端町 
通史編3(近世2) (農家の遺構)

農家の遺構 一般農民の家屋は、狭い建坪に田の字型の間取りに土間(どま)と馬屋がついているのが基本型である
通史編3(近世2) (寛政期の城下)

御家中潰(つぶれ)町之事」(前掲『弘前城下史料』上)によれば、城南では在府町後通りと同新割町、城西では馬屋町,その受け入れ先になったのは、元寺町・蔵主町・在府町・相良町・馬屋町・百石町・笹森町・長坂町・森町・若党町
通史編3(近世2) (西坂下御紙漉所)

七右衛門親子の仕事場は、西坂下(現市内馬屋町・藤田記念庭園)の岩木川から和徳堰が分流する辺りで、流人柳川調興
通史編4(近・現代1) (戸長の配置)

石川行正  若党町 小人町 春日町 馬喰町 亀甲町              生駒慶宮  鷹匠町 馬屋町
資料編1(考古編) ((5)塩業)

平内町白砂字白砂 製塩炉,製塩土器,支脚 10C 2 茂浦遺跡  〃 茂浦字向田 製塩土器 平安 3 馬屋尻遺跡, 〃 茂浦字馬屋尻  〃 〃 4 竹達遺跡  〃 藤沢字竹達 製塩土器 〃 5 間木遺跡  〃 東滝字間木
通史編3(近世2) (塵芥捨場の設置)

南溜池東側の土居添の下、西川岸川欠けの所、土手町の土田屋小兵衛家の裏通、御徒町川端川欠けの所、馬屋町の
通史編3(近世2) ((三)住居)

弘前古御絵図」(弘図津)によれば、弘前城を中心として、 城西――本百石町(もとひゃっこくまち)(後に馬屋町
通史編3(近世2) (草創期三代)

調興は当初城内に住んだが、後に湯口村に居住、さらに馬屋町の南隅(旧藤田別邸の庭園内)に移住し、八十四歳
通史編3(近世2) (家屋の規模と構造)

また家屋の内部はみえないが、構造は田の字型の間取りに土間と馬屋がついたものであったろう。  
通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

、禰宜町、若党町、小人町、春日町、馬喰町、○亀甲町 亀甲 中初 盈進 中初 下町学区 一 鷹匠町、馬屋町
資料編1(考古編) ((2)9世紀~10世紀前半)

これには馬屋説、作業場説等があるが確定していない。
通史編3(近世2) (瓦の利用)

「国日記」によると、本城(本丸)の御殿と各蔵、二・三・四各丸の城門計五ヵ所、二の丸瓦馬屋・太鼓櫓・腰掛,以上の中で最も古いのは延宝二年(一六七四)の二の丸瓦馬屋の作事である。  
通史編2(近世1) (諸役と運上)

運上 慶安二年(一六四九)の「弘前古御絵図」によると、城下の家業は、鍛冶九一、銅屋二一、大工三九、馬屋
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

弘前停車場 黒石道 弘前市土手町 代官町、和徳村、豊田村、猿賀村 尾上村尾上 国幣社道 弘前市元寺町 馬屋町
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

なお、城の西坂下(馬屋町)にも三六軒の侍屋敷があった。  ,と在府町)、小人町(現小人町、笹森町、長坂町)、歩者(かち)町(現若党町)、侍町(現四の郭、三の丸、馬屋町
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

また「三馬屋(厩)は原(も)と一隊を戍(じゅつ)せしが、今は稍(やや)減じて僅かに百人のみ」とするのは,が減少したというのは、それ以前の蝦夷地現地派兵が行われていた時代、「物頭一手」が置かれていたころの三馬屋駐留
通史編4(近・現代1) (大区小区制の成立)

中土器丁 上土器丁 代官丁 和徳町 茶畑丁 茶畑新割丁 北横丁 紺屋丁 浜ノ町 五十石町 袋町 鷹匠町 馬屋町
通史編3(近世2) (消防制度)

ち、周辺の寺町(てらまち)・蔵主町(くらぬしちょう)・亀甲町(かめのこまち)・紺屋町(こんやまち)・馬屋町
通史編4(近・現代1) (町財政の展開)

ハサルナリ、依テ後年度ニ於テ、改良ノ見込ヲ以テ、該工事施行セサルト、又物価ノ低落及工事ノ都合ニヨリ、馬屋町橋梁費金
通史編2(近世1) (慶安二年の「弘前古御絵図」)

16 4 2 1 1 2 4 7 中 国 播磨屋 兵庫屋 備前屋 丹波屋 但馬屋
通史編2(近世1) (材木移出)

先にみた、寛文五年(一六六五)三月二十一日付で各沖横目に出された一連の「覚」では、十三・三馬屋・今別・
通史編4(近・現代1) (町並みの推移)

中でも在府町や相良町あたりでは、士官の居宅になった家が二十七、八軒もあって、馬屋からは軍馬のいななきが
通史編2(近世1) (十三小廻しの成立と町の盛衰)

』三九)、鰺ヶ沢・青森沖横目所(同前四一)、平舘・小泊沖横目所(同前四二)、内真部(うちまっぺ)・三馬屋沖横目所
通史編5(近・現代2) (東奥義塾の昭和)

勤労奉仕のために授業どころではなく、馬屋町の畑作業、小比内農場の作業をはじめ、忠霊塔の整地や砂利運びなどに
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

田町 最勝院寺中 同元門前 元禰宜町  右取扱 右同 岩川茂右衛門 同小六区 新町 同川端丁 馬屋丁
通史編2(近世1) (改革推進体制の構築)

山方役所・作事方役所は御調方役所扱い、内分金蔵(ないぶんきんぞう)事務は上納方金蔵事務扱い、紙御蔵・三御馬屋
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

一方、職人集団として鍛冶(かじ)九一・銅屋(どうや)二一・大工三九・馬屋および馬喰(ばくろう)一八・鞘師一一
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の再興なる)

下白銀町の校舎(現追手門広場)に復したのは、県立工業学校が馬屋町の新校舎に移って旧義塾の校舎を明けてからである
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

注目されるのは、この屏風の右隻、第五扇から第八扇に描かれた赤坂家康本陣の入口、馬屋付近に立てられている
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

佐藤英馬の報告を受けた弘前藩は、これを了承して、藤川能登一行の領内通過については、「碇ヶ関ヨリ黒石通リ三馬屋迄通行
通史編3(近世2) (諸役と仲間)

が多いのは、紺屋一二九・鍛冶九一・煙草屋五四・居鯖五一・大工三九・鷹師二九・煙草作り二三・銅屋二一・馬屋
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