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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(御軍政局の発足と組織)
明治1.6 二等銃隊頭 25 秋元伝三郎 〃 御使番 50石4人扶持 御
馬廻組
26 小林忠之丞,30 会田熊吉 御軍政局調方副役 御手廻組 50石 御
馬廻組
・砲術調方 31 篠崎進 〃 御手廻組,10両5人扶持 西洋操練教授・銃隊教授・砲書取扱砲隊頭 32 菊池礼吉 〃 御
馬廻組
7両3人扶持,御馬廻格人別調役 明治1.4 武芸取扱数年精勤につき2人扶持勤料増 33 伊東広之進 〃 御
馬廻組
,まず、御軍政局御用掛の職掌は局内事務の総轄であり、御手廻大番頭山田十郎兵衛・御
馬廻組
頭木村繁四郎が任命
通史編2(近世1)
(元禄の大飢饉と家臣召し放ち)
さらに、元禄九年四月十三日・十七日・五月九日には
馬廻組
・手廻組などの与力七一人(同前No.八六四)、八月二十三日,には留守居組四一人(同前No.八六五)、同二十四・二十六・二十八日には手廻組・
馬廻組
に属する家臣に対して,さらに、手廻組、
馬廻組
、留守居組の中には、組頭のいない組もあった。 ,
馬廻組
士の二〇人が組士からはずれて代官となり、郡奉行の支配に入ったことも支配機構上見逃せない(「国日記,
馬廻組
士が代官を務めるということは従来もあったが、それは一時的に務めるという場合で、
馬廻組
士があくまでも
通史編3(近世2)
(戦局の展開と兵員の不足化)
さらに、同十一日にはこれまで二等銃隊に入っていた長男の中で、御手廻・御
馬廻組
に入るべき者は、以後これを,つまりこれは、本城と藩主の守衛をする御手廻・御
馬廻組
の人員に不足が生じないようにするためである。,また、八月三十日には御手廻を御書院番(ごしょいんばん)銃隊、御
馬廻組
を表御書院番(おもてごしょいんばん
通史編3(近世2)
(養老礼)
この時は「三老」が堀蓮水(御家老隠居 八十余歳 病欠)、「五更」は山野十右衛門(御
馬廻組
頭 七十余歳)
通史編3(近世2)
(第二次藩政改革)
・500石) 山野茂樹(同上格用人兼・300石) 山田誠(御手廻組頭・500石) 佐藤源太左衛門(御
馬廻組
頭,沢与左衛門(同上・300石) 高倉六郎次郎(同上・800石) 白取務(同上・300石) 木村千別(御
馬廻組
頭用人兼,・300石) 森岡金吾(御
馬廻組
頭用人兼・600石) 楠美太素(御
馬廻組
頭格・200石外100石) 山崎主計,特に反首脳部の急先鋒であったのは元用人で長い間無役の冷遇を受けていた山田登で、彼は旧御
馬廻組
頭津軽平八郎
通史編3(近世2)
(二等銃隊の創出)
〃 28 小寺清蔵 〃 〃 買物役格三郎(3両1歩2人扶持) 〃 29 八木沢文左郎 〃 〃 御
馬廻組
文之助,(禄高不明) 〃 30 織田将次郎 〃 〃 御
馬廻組
直司(40俵2人扶持) 〃 31 羽賀五左衛門,一六人で、御手廻組が一三人と圧倒的に多く、伝令士も五九人の内、不明の三人を除いては全員が御手廻組・御
馬廻組
番士
通史編3(近世2)
(軍制への戸惑いと浸透)
まり、弘前藩もその世論を無視できなくなってきたこと、および二十二日に発表された陣触では大隊長の一人に御
馬廻組
頭山本三郎左衛門,が予定されていたが、彼の言説は過激で、「御
馬廻組
頭山本三郎左衛門脱藩、三位様(奥羽鎮撫総督府沢為量(さわためかず
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
検地役人には
馬廻組
に属する藩士も多い。,財津久右衛門 ○ 5 〃加役 田口十兵衛 ○ 6 目付 岩田又五郎 目付 7 賄方 長尾戸左衛門
馬廻組
士,手廻組士 32 〃 横嶋彦太夫 〃 33 〃 森久右衛門 (不明) 34 〃 薗崎弾右衛門
馬廻組
士,今次兵衛 〃 4 〃 樋口嘉右衛門 〃 5 〃 津島万右衛門 〃 6 〃 佐藤理兵衛
馬廻組
士
通史編3(近世2)
(薬王院)
貞享四年(一六八七)、客殿から出火して焼失し、再建されたが、翌五年に藩は手廻組頭・
馬廻組
頭に廟所の火消番
通史編2(近世1)
(支配機構の整備)
延宝七年(一六七九)正月十一日、それまでの御本参・新参を改組し、手廻組五組・
馬廻組
七組を置き、また留守居組二組,手廻組頭には津軽政朝・津軽為玄(ためもと)・梶川政順(まさより)という藩主信政の弟たちが命じられ、
馬廻組
頭
通史編3(近世2)
(二等銃隊の補充と特質)
そしてこれは何も二等銃隊以外の戦力が生み出されたわけではなく、また、御手廻・御
馬廻組
等、従来からある番方本役
通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
カラフト島事件・エトロフ島事件を契機に、津軽弘前藩は蝦夷地に兵を増派するとともに、五月二十四日には、青森へ
馬廻組
頭
通史編3(近世2)
(醍醐忠敬の弘前転陣)
まず、本城守衛のため、それまで一等銃隊として藩主の親衛隊に位置づけられていた旧御手廻・御
馬廻組
は、八月三十日
通史編2(近世1)
(貞享検地への影響)
高田領検地の場合、竿奉行は手廻組・
馬廻組
に属する藩士が務めることが多かった。
通史編3(近世2)
(勤務の状況)
最初に部屋の警備については、玄関を入って左側の奧の御広間・上ノ間には、御手廻(おてまわり)・御
馬廻組
頭
通史編3(近世2)
(一〇代信順の治世)
かわりに家老には大道寺玄蕃繁元(げんばしげもと)が任じられ、笠原は御
馬廻組
頭兼用人(天保五年に家老就任
通史編2(近世1)
(林政の展開と漆木の栽培)
の実の採取は最初は足軽組頭などが農民を使役して採取していたとみられるが、その後漆実取奉行には手廻組や
馬廻組
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