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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (騒動の意義)

騒動の意義 騒動が一段落すると、藩は首謀者の逮捕を開始した。,頭取層以外は主として中層の町民および借家層で、騒動をあおった者、打ちこわしをした実行犯などに分類されている,惣町騒動(そうまちそうどう)という性格から、首謀者の特定が難しかったという側面はあるが、さらに凶作という,青森騒動は町の構成員の多くが参加し、特権商人と闘った「惣町一揆」の典型として注目されてきた。,天明期には初めて打ちこわしの運動が全国的に展開したが、当騒動は惣町訴願と打ちこわしを中心に、廻米停止・ / 騒動の意義
通史編2(近世1) (騒動のその後)

騒動のその後 藩の廻米強化策にかかわった御用商人山本四郎兵衛は、米穀払底(ふってい)の張本人として領民,津軽領での騒動は、大凶作の兆候がみられる天明三年七月末に集中し、被害が明らかになった八月以降には発生していない,食糧事情の極度の悪化は騒動を起こすエネルギーをも奪ってしまい、本格的な飢餓の状態に入ってしまったのである,その点で騒動に参加した領民たちも、飢饉の悲劇から逃れることはできなかった。,一方、津軽領で始まった騒動は東北地方一帯に飛び火した。 / 騒動のその後
通史編2(近世1) (農村部での騒動)

農村部での騒動 これらはいずれも湊町での騒動であるが、藩主の膝元の弘前では直接的な騒動は起こっていない,年貢強化策として制度化された「芦萱銀」(芦萱の利用にかける税)の撤廃を求めて、弘前城下まで押しかける騒動,騒動に参加した者は約一〇〇〇人で、弘前郊外の石ノ渡の川原で、郡奉行三上理左衛門・勘定奉行石郷岡徳左衛門,この騒動も首謀者五人が捕らえられたが、九月二十九日に至り、藩は貯米の上納の廃止、貯米の分割返却、翌年までの / 農村部での騒動
通史編2(近世1) (二 浅利騒動への加担)

二 浅利騒動への加担 浅利騒動(あさりそうどう)とは、大名秋田実季と、その領主権力から独立を果たそうとする,このような騒動は、近世大名が家臣団統制を図り領主権力を強化しようとしていた近世初期には、日本のどの地域,しかし、この浅利騒動は、単に一地方の大名領内の問題に終わらず、豊臣政権を構成する奉行や有力大名のほか、,周辺の大名津軽為信や南部信直をも巻き込む大きな騒動へと発展したところにその特徴があった。 / 二 浅利騒動への加担
通史編2(近世1) (青森騒動の経過)

青森騒動の経過 天明三年七月十九日夜、諏訪(すわ)社(現青森市栄町。,図126.騒動勢が集結した青森の諏訪神社  その数は三~四〇〇〇人といわれる。,その後騒動勢のうち、名主会所万屋武兵衛方へおよそ七~八〇〇人が押し寄せ、来年春までの公定値段(一匁につき,この騒動は当初町役人など町上層部の参加を得ないで開始されたが、名主会所を巻き込み町名主から町奉行に訴願,町奉行所は緊急に公定価格の堅持などを約束する高札を立てたので、騒動は夕刻にはようやく沈静化した。 / 青森騒動の経過
通史編2(近世1) (青森以外の町の騒動)

青森以外の町の騒動 天明三年七月以降、青森騒動に触発される形で領内各地で打ちこわしが発生した。,騒動のプロセスおよび要求の内容など青森と共通する部分が多い。,この騒動は廻米の一時停止などの処置が講じられたため、打ちこわしまでには至らなかった。,この事件には、青森騒動に触発された集団心理がかいま見え、連鎖的な騒動が起こる誘因となったことがうかがわれる,野辺地での騒動にも同じ陸奥湾岸に面する青森騒動の影響がみられる。   / 青森以外の町の騒動
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

舟橋騒動 寛永十一年(一六三四)六月二十日、三代将軍家光は上洛のため江戸を出発した。,藩主信義を巻き込んだこの家中騒動を「舟橋騒動」と呼んでいる。,舟橋騒動について、幕府評定所(ひょうじょうじょ)で尋問があったのは翌十三年(一六三六)八月二十日のことであった,このうち国書改竄事件は、藩主宗義成(そうよしなり)と重臣柳川調興の対立によるお家騒動であるが、一歩間違,さて、舟橋騒動の方であるが、寛永十三年十一月二十一日、幕府評定所において公事が決着し、乾と舟橋は松山( / 舟橋騒動
通史編2(近世1) (騒動の要求と結果)

騒動の要求と結果 訴願の内容は、翌二十一日にまとめられ、「惣町中」の名前で町奉行に提出された。  ,これによると、騒動が具体的に何を要求していたかがわかる。,図128.騒動の様子を伝える津軽徧覧日記の記事  しかしながら、藩は再騒動を恐れて一時的に廻米船,騒動にかかわらず、廻米は藩の基本政策として堅持されたのである。,販売に当たっては米改めを受けた豪商たちの保有米五二六九俵のうち、五〇四俵が騒動直後に補助米・夫食(ふじき / 騒動の要求と結果
通史編2(近世1) (騒動の背景)

騒動の背景 藩財政の自立を目指す宝暦改革が失敗したあと、藩は再び家老森岡主膳、側用人大谷津七郎・山口彦兵衛,米相場は、騒動の直前の七月十八日には、一匁につき米八合(一俵当たり五〇匁)まで上昇している。,騒動の願書によると(資料近世2No.五四。,以下騒動の主要部分については同書による)七月十八日から翌日にかけては米売場にも米がなくなり、町内の店の / 騒動の背景
通史編4(近・現代1) (米作振興と米騒動)

米作振興と米騒動 大正期にりんごが米に匹敵する生産額を上げるようになるが、農産物の中心はやはり米であった,特に、大正七年(一九一八)七月から九月にかけて起きた米騒動が、社会全体に与えた影響は大きなものがあった,広がり、参加者は数百万人を数えたという(労働運動史研究会編『米騒動五十年』一九六八年)。,米騒動は、全国において米商人や高利貸しが放火、打ち壊しに襲われるなど、当時の社会状況に不満を持つ民衆が,青森県・弘前市においては、大きな騒動は見られなかったが、米価は全国と同様に高騰した。 / 米作振興と米騒動
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

浅利騒動の停戦命令 慶長元年(一五九六)二月十六日、浅利氏と秋田氏が比内で対峙(たいじ)していた時、,これは浅利騒動の件を聞いた秀吉が、騒動に関する調査と処断を行うと決定したからであった。,時秀吉は、かつて南部領の九戸一揆鎮圧以来、日本国中は私戦が堅く禁止されていたにもかかわらず、このような騒動,この伏見において、浅利騒動は次のような裁定が下された。,(4)浅利騒動が起こってから新たに築城した城を破却すること。   / 浅利騒動の停戦命令
通史編2(近世1) (天明三年に頻発した騒動)

天明三年に頻発した騒動 天明の飢饉の直前、天明三年(一七八三)七月、津軽領では、藩最大の湊町であった,青森をはじめとして弘前・鰺ヶ沢などの城下町や湊町で、打ちこわしや騒動が相次いで発生した。,津軽領でこのように凶作による騒動が短期間に集中したことは初めてで、「飢餓移出(きがいしゅつ)」を招いた / 天明三年に頻発した騒動
通史編2(近世1) (天保飢饉と一揆・騒動)

天保飢饉と一揆・騒動 七年余り続いた天保の飢饉だが、天明の飢饉のように短期集中型の被害でなかったせいか,このように天保期の全国的な一揆・騒動には密接な相関性がみられるのである。  ,陸揚げされた米の払い下げをめぐって、青森町民が弘前駄送に反対して竹槍で武装し、青森御蔵を取り巻くなどの騒動,特に凶作の後半においては、藩が事実上救済策を放棄しているような状態にかかわらず、騒動は意外と少ないが、,その代わり、藩の仕事を代行していた村役人層に対する村方騒動(むらかたそうどう)が頻発するようになる。 / 天保飢饉と一揆・騒動
通史編2(近世1) (浅利騒動と津軽氏)

浅利騒動と津軽氏 文禄三年、秋田方は比内の浅利領へ兵を進め、物成の差し押さえを行い、さらに岩脇村(いわわきむら,これがいわゆる浅利騒動である。,ところがこの八月と決定した秋田氏と南部氏との祝言は、前年から起こっていた浅利騒動によって延期を重ね、翌文禄五年,南部信直から独立を果たす際に秋田実季と講和し、実季が比内から南部勢を排除する際に支援していたが、この浅利騒動 / 浅利騒動と津軽氏
通史編4(近・現代1) (騒動の発端)

騒動の発端 明治二十一年(一八八八)七月、官報第一五二四号の「府県事務並景況 自明治二十年一月至同六月,彼は日記にこの騒動を次のように記録している。   / 騒動の発端
通史編4(近・現代1) (シベリア出兵と反戦デモ)

大正七年(一九一八)、米価が前年の一石当たり一九円八四銭に対し、三二円七五銭に暴騰して、ついに米騒動,昭和の大宰相として有名な吉田茂は、『日本を決定した百年』の中で、古い日本社会の崩壊する象徴として米騒動,このとき、全国四二道府県の中で米騒動が起きなかったのが、青森・秋田・岩手・栃木・沖縄の五県だった。
通史編1(古代・中世) (北方の蝦夷の乱)

蝦夷の反乱と重なって、津軽は鎌倉幕府滅亡の一原因ともされるような大乱(「安藤氏の乱」「津軽大乱」「津軽騒動
通史編4(近・現代1) (普選運動の胎動)

普選運動の胎動 普選運動は、大正七年(一九一八)夏の米騒動と原内閣の成立を境に二つの時期に分かれる。,普選運動の後期は、大正七年の米騒動と翌年早々のパリ平和会議の影響で始まる。
通史編2(近世1) (堀越城の限界性)

慶長七年(一六〇二)に家臣天藤(てんどう)氏による天藤騒動が起こった時も、天藤氏らが「堀越城内へ駆けつけ,しかし、慶長年間の度重なる堀越城での家中騒動や水害により、軍事的・地形的欠陥が明らかになってきた。
通史編4(近・現代1) (地租改正の開始)

この騒動は人夫賃の不足分を支払うことで和解に至った。,この騒動自体は地租改正そのものに反対しているのではないが、地租改正の後も地租額の支払いに苦しむ農民(小前層
通史編2(近世1) (民次郎一揆)

ただし、天明三年(一七八三)の青森騒動が四〇〇〇人、弘前での騒動が二〇〇〇人規模であるとされることから
通史編5(近・現代2) (石川町、弘前へ合併)

三十四年二月十四日、石川中学校に押しかけ、四部落から通学している同校生徒五六人を、全員大鰐中学校に集団転校させる騒動
通史編2(近世1) (越後加増説)

越後加増説 信枚の越後転封は結局沙汰やみになったが、この騒動の最中に津軽弘前藩にとって一つの重要な点
通史編1(古代・中世) (鳥取越えの奇襲と安藤次)

から敵があらわれるとは夢にも考えていなかった奥州軍は、搦手(からめて)が破られたものと信じて、城中大騒動
通史編2(近世1) (正保の信義排斥事件)

正保の信義排斥事件 津軽伊豆が死去した翌正保四年(一六四七)、また騒動が持ち上がった。
通史編2(近世1) (流民の発生と施行小屋の設置)

もはや八月以降は津軽領では一揆や騒動は起こっていない。,飢饉に至るまでのプロセスとして、一揆や騒動の段階ではまだ民衆は飢饉への道を必死に回避しようとしているのであり
資料編2(近世編1) (【解説】)

福島正則改易(ふくしままさのりかいえき)に伴う福島正則の津軽への転封(てんぽう)と津軽氏の越後への転封騒動,、大熊(おおくま)騒動をはじめとする家中騒動などである。
資料編1(古代・中世編) ([七世紀以前])

●景行天皇五十六年、御諸別王、蝦夷の騒動を鎮圧。 ●応神天皇三年、蝦夷朝貢。
通史編4(近・現代1) (第八師団のシベリア派遣)

出兵を決定した寺内正毅内閣が米騒動で倒れ、後を受けた原敬内閣は、シベリア出兵が何ら戦果を挙げられないと
通史編3(近世2) (青森商社の終末と意義)

そのため翌五年には道南一帯で大規模な漁民一揆の檜山騒動(ひやまそうどう)が勃発(ぼっぱつ)したのである
通史編2(近世1) (豊臣政権の奉行衆)

しかし、翌文禄二年には秀吉の奉行として中央集権化を目指す集権派グループの長束正家や、浅利騒動において秋田氏
通史編2(近世1) (有史以来最大級の大量死)

月~ 天明4年8月 10万2000人 3万人 8万人 餓死 時疫 他国行 「天明癸卯年所々騒動留書
通史編2(近世1) (一揆の要因と結果)

「大平家日記」(同前No.五七)においても、今度の各地の騒動の原因は、単に今年が凶作であったからではなく
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

、この堀越城では、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原出陣の際の尾崎・板垣・三目内三将の反乱や、同七年の天藤騒動
通史編2(近世1) (津軽信英による後見政治と法令の整備)

を信政の後見としたのは、藩主が幼少で自ら政務を執ることが不可能なことに加えて、三代藩主信義時代が家中騒動
通史編1(自然・原始) (明治時代)

新政府は三月二十八日に神仏分離の太政官布告を発したが、それによって起こった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の騒動
通史編2(近世1) (浅利頼平の怪死)

りかかる危機を回避するため、阿部伊予守を介して徳川家康に慶長四年閏三月二十七日の申状(秋田家文書)で、浅利騒動
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

として編成されることを拒否したとも、また、この時期津軽氏が庇護していた比内の浅利氏と秋田実季との間に浅利騒動,慶長三年は、浅利騒動の裁定のため津軽氏が庇護していた浅利頼平と秋田氏が伏見にやって来ており、このような
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

地方の国々に隠密に調査に出向いたり、また将軍徳川家慶(とくがわいえよし)の内命を受けて、天保期の御家騒動,として有名な仙石騒動(せんごくそうどう)の調査にも当たったという。
通史編1(古代・中世) (異類の来襲)

にも触れたように、寛平五年(八九三)には渡嶋狄(てき)が奥地(出羽の北に広がる郡制未施行地域)の俘囚と騒動
通史編5(近・現代2) (昭和初期の恐慌と冷害凶作)

昭和初期の恐慌と冷害凶作 大正七年(一九一八)の米騒動を契機に、政府は米増産政策をとった。
通史編3(近世2) (新しい指導者)

上京して権令を辞職し、中央政界に官職を求めようと考え、八月二十二日に東京に到着したが、新政府は弘前の騒動,旧弘前藩の行った帰田法により田地を取り上げられた農民が経営難に陥っており、菱田を辞職に追いやった士族の騒動
通史編2(近世1) (大名の改易と幕領検地)

としての性格を色濃く有していたが、支配関係上変遷がみられた地域すべてが対象となるわけではなく、①家中騒動
通史編2(近世1) (検地の実施)

しかし、三月十九日、越後騒動で改易された、松平光長(みつなが)の領地であった越後高田領の検地を命じられたため
通史編2(近世1) (貞享検地)

貞享検地は、越後高田検地(天和元年〈一六八一〉の越後騒動の結果、幕府に収公された松平光長旧領の検地)に
通史編2(近世1) (金木屋日記にみる対外危機)

さらに嘉永六年の大晦日では、江戸表の異国船騒動に関しての戯(ざ)れ唄が記載されているが、「一、阿部(老中阿部正弘
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

長束正家は、この伏見作事板の朱印状の取次だけではなく、文禄三年以降の浅利氏と秋田氏との抗争である浅利騒動,伏見作事板の朱印状が、すなわち比内の浅利領を含む秋田領の領有権を保障するものであり、長束正家としては、浅利騒動
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

…………  80   一 伏見杉板の賦課 ………………………………………………  80   二 浅利騒動,  一 築城と都市高岡の形成 ………………………………………  182   二 三代藩政の動向と家中騒動
通史編2(近世1) (飢饉に至るまでの経緯)

沢で廻米の停止を求めて暴動が起こり、弘前郊外では木造新田(きづくりしんでん)の者が貯米の返却を求めて騒動
通史編2(近世1) (津軽人のみた開港場箱館)

課役を省き、米価を引き下げ、御救米を支給して貧民を援助し、異国船が来航しても処置宜(よろ)しきをもって騒動
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