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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (高杉面)

高杉面 高杉面は岩木川以北に分布し、市街地の城東面に対比される。,面上には鼻和(はなわ)・富栄(とみざかえ)・独狐(とっこ)・前坂・高杉・糠坪(ぬかつぼ)などが点在し、,面の高度は鼻和・富栄付近で約三七~四〇メートル、独狐で約三二~三三メートル、前坂・高杉で約二七~二八メートル,ほとんどりんご園として利用されているが、特に鼻和・富栄と、高杉付近の谷底部では水田として利用している。,後背湿地とは比高一~二メートルの傾斜面で臨んでいる。   / 高杉面
通史編3(近世2) (高徳院)

高徳院 高徳院(こうとくいん)は、天正年間(一五七三~九一)、新岡但馬が新岡(にいおか)村(現中津軽郡岩木町 / 高徳院
通史編3(近世2) (高岡霊社)

高岡霊社 高岡霊社(たかおかれいしゃ)(現高照神社、中津軽郡岩木町)は四代藩主信政を祀る。,同社は藩士から「高岡様」と崇敬された。,現在、高照神社には「御告書付(おつげかきつけ)」が保存されている。  ,明治元年(一八六八)の「高岡祭司下役并御宮附小人共迄人別増減書上帳」(高照神社蔵)によれば、祭司役の配下,図231.高照神社 / 高岡霊社
通史編1(古代・中世) (安倍高丸)

安倍高丸 このことは安藤氏の系譜認識に一貫して見られるものである。,安日から系譜上、数代後に位置づけられた「高丸」なる人物もそれで、高丸とは悪路王とも呼ばれた坂上田村麻呂,鎌倉末期頃から武家風に高丸ないし安倍高丸と呼称されるようになり、天台系の聖(ひじり)によって各地に語り,この安倍高丸を安藤氏の系譜に関連づける史料の初見は、南北朝期の延文元年(一三五六)成立の『諏方大明神画詞,』(史料六一七)で、そこでは安藤氏について「安倍氏悪事ノ高丸ト云ケル勇士ノ後胤ナリ」とされている。 / 安倍高丸
通史編5(近・現代2) (市立商業高校と市立女子高校)

市立商業高校と市立女子高校 市立商業学校は、昭和二十三年の新制高校発足に伴って、弘前市立商業高等学校,しかし、このとき桔梗野にあった市立女子高校が蔵主町の市立商業校舎に移されることになり、市立商はやむなく,ここで二十三年、弘前市立女子高等学校と改称し、普通科の新制高校として発足したが、前述したように、今度は,昭和三十五年、市商高と市女子高は合併して、弘前市立実業高等学校となった。初代校長は小田桐孫一である。,この先見性は、後の実業高としてのスポーツ全盛期につながっていくのである。 / 市立商業高校と市立女子高校
通史編5(近・現代2) (高校進学の問題)

、旧制中学校五学年が学び、同年度から希望者による高校三学年も加えて、新制高校には実質六学年が学んでいる,の場合「県立弘高が第三学年若干名、市立女子高が第一学年と第三学年若干名」となっている。,弘工高を除き、次の県立、市立、私立高校が生徒募集し、入学試験を実施した。  ,△県立女子高校 一年男女各五〇人、二・三年若干名、△市立商高 男二一〇人、△市立女子高校 一年八〇人、,・別科各二一〇人  男子の県立高校志望者は、この年から男女共学となった県立女子高校(現中央高校)に受験 / 高校進学の問題
通史編5(近・現代2) (弘高祭とねぷた)

弘高祭とねぷた 弘高では学校祭を十月六日の開校記念日を中心に行うのが恒例であったが、昭和二十七年には,弘高祭と名称を改めた。,写真135 弘高ねぷたの初運行(昭和28年10月5日)  恒例にする予定ではなかったが、弘高祭の,以来、曲折はあったが、弘高ねぷたとして広く市民に親しまれるようになった。,写真135 弘高ねぷたの初運行(昭和28年10月5日) / 弘高祭とねぷた
通史編5(近・現代2) (新制高校の発足)

青森市では、青中と青高女が統合して、青森高等学校として発足した。,弘前市でも、弘中と弘高女、市立商業と市立高女との統合が考えられたが、これは実現するまでに至らなかった。,が弘前工業、市立商高、柴田女子、鷹ヶ岡女子の四校である。  ,新制高校が直面した問題点の一つは、男女共学であった。,なお、後には、弘前中央高、八戸東高、青森中央高は、再び女子高に戻ることになる。 / 新制高校の発足
通史編2(近世1) (信寿の高増運動)

信寿の高増運動 江戸時代の武士の世界ではそれぞれの家の有する家格が大きな意味を持っていた。,そういった家格を高めるために、大名たちはさまざまな運動を展開していく。  ,津軽弘前藩では高増願(たかましねがい)を享保八年(一七二三)に行っていた。,これら三点の史料の目的は、高増の実現のため、幕藩体制のなかに当藩の積極的な位置づけを図るとともに、高増,図113.高増に関する信寿の内存を記した書付  しかし幕府は津軽家の高増願を認めなかった。 / 信寿の高増運動
通史編2(近世1) (二度の高直り)

二度の高直り 文化二年(一八〇五)五月、九代藩主津軽寧親(やすちか)は、領知高四万六〇〇〇石が七万石,に上昇する高直(たかなお)りの栄誉を幕府から受けた。,七万石の時と同様、高直りの一〇万石には領地の拡大はなく、これまでどおり、津軽郡一円の領知であった。,藩主寧親は、一〇万石への高直りを機会に、弘前城天守の再興を企図した。,禄高一〇〇石につき一ヵ年に一〇人ずつの割合であった。そのほか下級藩士、町人、百姓がかり出された。 / 二度の高直り
通史編5(近・現代2) (戦時中の弘高女)

戦時中の弘高女 戦争が拡大するにつれて、弘高女もいや応なしに戦時体制に組み込まれていく。,昭和十六年、太平洋戦争に突入すると、弘高女もまた他校と同じように勤労奉仕・農作業・防空演習・防空壕づくりなどが,また、高学年の中には、女子挺身隊として大湊要港部へ出動した一五人もあった。 / 戦時中の弘高女
通史編5(近・現代2) (弘前南高校の誕生)

弘前南高校の誕生 昭和三十年代後半は、高校進学者が急増した。,このため、県としては既設高校での増員のほかに新しい高校を増設することが急務となった。,こうして誕生した高校の一つが青森県立弘前南高等学校である。,弘前南高校では、開校当初から男子生徒の長髪許可に対する関心が高く、市内高校ではすでに長髪の自由化が進んでいた,次いで、四十六年に着任したのは、南高校創設のために補佐役を務めた鈴木忠雄校長である。 / 弘前南高校の誕生
通史編5(近・現代2) (高杉小学校の創設)

高杉小学校の創設 昭和三十八年(一九六三)四月一日、高杉小学校と独狐小学校が合併し、新たに弘前市立高杉小学校,発表し、学校統合整備、危険校舎解消などを五ヵ年の間に積極的に押し進めようというもので、その第一着手が高杉,大正十三年(一九二三)六月再び合併、十五年(一九二五)六月に分離していたもので、両校は同じ高杉村でありながら,両校とも老朽校舎だったため新敷地に校舎を改築することにし、三十八年九月高杉字神原七番地一に鉄筋二階建て,新発足の高杉小学校は一八学級編成、初代校長に大瀬秀四郎が就任した。 / 高杉小学校の創設
通史編4(近・現代1) (弘高女の運動会)

弘高女の運動会 弘前高等女学校の運動会は、その華やかなことで、生徒だけでなく弘前市民の間でも楽しみにされていたが,(前掲『母校今昔』) 写真113 弘高女運動会賞品授与(大正初年)  見物人にはもう一つの,明治四十三年十月には、高等女学校令が改正され、高等女学校にも実科教育に関する規定が設けられた。 / 弘高女の運動会
資料編1(考古編) (9.高長根山遺跡)

9.高長根山遺跡 (遺跡番号 02070)(図22~24) (1)所在地 弘前市大字中別所字向野,(2)遺跡の立地  岩木山の東麓に点在する小丘陵の一つ、標高172.0mを有する高長根山の南東に位置,高長根山遺跡の復元住居 図22 高長根山遺跡(縄文後期)出土土器 台付浅鉢形土器,深鉢形土器 浅鉢形土器 図23 高長根山遺跡出土石器 図24 高長根山遺跡出土,の石器・石製品 ※参考文献 弘前市教育委員会 『高長根山遺跡』 1981年3月 / 9.高長根山遺跡
通史編5(近・現代2) (高度成長の開始)

高度成長の開始 昭和二十六年(一九五一)にアメリカのサンフランシスコで、アメリカ・イギリスと日本との,このような経過が高度経済成長である。,昭和三十一年の経済白書は「もはや戦後ではない」の言葉を副題に入れ、日本は戦後復興の時代から高度成長の時代,このような高度成長が弘前市の商工業をどのように変えていったのかを見ていこう。 / 高度成長の開始
通史編5(近・現代2) (戦時体制と弘高生)

戦時体制と弘高生 戦時統制が強まる中で、政府は高等学校令を相次いで改正し、昭和十七年四月、修業年限をそれまでの,これにより高等学校の生徒も戦時動員されていくことになる。,このような時局の要請から弘前高等学校では、入学定数においても、昭和十六年以降は理科生の入学枠が拡大され / 戦時体制と弘高生
通史編5(近・現代2) (柴田女子高の活躍)

柴田女子高の活躍 昭和二十三年、柴田女子高等学校が誕生した。,これは、三年課程の普通科・家庭科と別科からなる新制高校で、場所は旧野砲兵第八連隊の跡地である。,当時の柴田学園は、東北女子専門学校・柴田女子高・柴田中学校の学生・生徒合わせて一三〇〇人、教職員六三人,東北女子短期大学開学式で式辞を読む柴田やす学長  昭和二十八年、家庭科教育の指導校として定評のあった柴田女子高は,柴田女子高では早速プロジェクト・チームを組み、まず、二十九年、「十二種の改善作業着」を考案するとともに / 柴田女子高の活躍
通史編4(近・現代1) (弘前高等学校の開校)

弘前高等学校の開校 大正九年(一九二〇)十一月二十六日勅令第五五一号により、鳥取高等農業学校・名古屋高等商業学校,・松江高等学校・富山薬学専門学校・金沢高等工業学校とともに全国で第一六番目の高等学校として弘前高等学校,写真191 初代弘前高等学校校長秋田実  志願者は文科甲類三四五人、文科乙類六八人、理科甲類一一五人,写真190 大正10年8月校舎落成当時の弘前高等学校 / 弘前高等学校の開校
通史編5(近・現代2) (弘前電波高校の開校)

弘前電波高校の開校 昭和三十二年(一九五七)、弘南電鉄南弘前駅の近くに、弘前電波高校の前身たる弘前高等電波学校,四十三年、弘前高校を退職したばかりの庄司初郎を校長に迎えた。,これが高等学校昇格のための布石となって、翌年には高校設置の基準に達したと認められ、電子科四クラスの学校法人弘前電波高等学校,四十四年(一九六九)四月、晴れて電波高校としての第一回入学式が行われ、一二〇人の新入生を迎えた。,なお、高校設置に伴い、各種学校としての電波学校の方はこの年から新入生を募集せず、四十六年、最後の卒業生 / 弘前電波高校の開校
通史編5(近・現代2) (弘前工業高校の変遷)

弘前工業高校の変遷 弘前工業高校の校訓に「品性は力なり、勤労は使命なり」とある。,各科の特性を活かしながら基礎を確立し、校訓の精神にある自己の実現を期し、校風を守りつつ、東北有数の工業高校,昭和三十三年、定員が一三二〇人となり、工業高校としては県内最大規模のマンモス校となった。,ベビーブーム世代が進学の年齢に達したのと、高校進学率の向上によるものであった。,工業系高校は、常に時代の要請とともにその歴史を刻むもののようで、新制高校発足当初、五科からスタートした / 弘前工業高校の変遷
通史編5(近・現代2) (新制中央高校の誕生)

新制中央高校の誕生 昭和二十三年に新制高校が発足すると、校名は弘前高等女学校から青森県立弘前女子高等学校,新制中学校と同学齢にある低学年(二、三年)は併設中学校としたが、これは他高校も同様である。,はようやく新制高校として軌道に乗っていくのである。  ,弘前中央高校では老朽した校舎の改築に先立って講堂を建設した。,写真137 弘前中央高等学校講堂 / 新制中央高校の誕生
通史編5(近・現代2) (昭和初期の弘前高女)

昭和初期の弘前高女 昭和五年は弘前高等女学校の創立三十周年記念の年に当たり、記念式典が行われた。,折からの不景気風をよそに弘高女にとっては躍進の年であった。,弘高女の学校行事の中で、最も華やかであったのは運動会であった。,弘前歩兵第三一連隊大隊長として秩父宮殿下が赴任した年には、妃殿下も弘前へ来られ、弘高女の視察をされたこともあり,、この年の運動会はことのほか人気が高まり、入場者が一万人を超えるという未曾有の盛況ぶりであった。 / 昭和初期の弘前高女
通史編4(近・現代1) (県立弘前高等女学校)

県立弘前高等女学校 大正時代、県立弘前高等女学校の校長は三人いるが、第二代の永井直好は明治三十六年(,弘高女への合格はなかなかの難関だったことがこれでよくわかる。  ,写真186 弘高女初めてのセーラー服(大正11年)  弘高女のスポーツの夜明けは意外な形でやって,参加校は、弘高女・青高女・青女師・青森女子実業・八高女の五校であったが、試合は問題なく弘高女が他校を圧,スキー大会に弘前高女が参加するようにと私に勧めた。 / 県立弘前高等女学校
通史編1(自然・原始) (水系と等高線の配置)

水系と等高線の配置 図7には岩木火山周辺の水系および等高線の配置を示した。,まず等高線の配置をみると、標高約五〇〇メートルを境にしてその間隔に違いが認められる。,五〇〇メートル以高では間隔が密であり、南西側で三五度、北東側で二五度と急傾斜をなしている。,なお、標高一〇〇〇メートル付近には爆裂火口跡が存在し、放射谷の谷頭となっていることが多い。,これらの放射谷は、図8の断面に示したが、岩木火山体の高度約五〇〇メートル以高にあっては比高五〇メートル / 水系と等高線の配置
通史編5(近・現代2) (柴田女子高校の繁栄)

柴田女子高校の繁栄 昭和三十年、創立者の次女でもあり、生粋の家庭科教育人として世人から認められていた,今村校長就任後の昭和三十年代は、校内施設の改善とともに、柴田女子高校が家庭科教育推進校として面目躍如たるものがあった,豊原にあった柴田女子高校は難を免れたが、中学校が引っ越してきた。,まもなく本部と短大は北瓦ヶ町に、中学校は高校敷地内に再建されたが、時を同じくして起こった高校生急増対策,三十八年、県内でも珍しい円形四階建ての瀟洒な建物が柴田女子高校の新校舎として完成し、四十一年には保育科 / 柴田女子高校の繁栄
通史編5(近・現代2) (弘前高等学校と市民)

弘前高等学校と市民 弘前高等学校が主催した一般市民を対象とした講演会としては、大正十四年(一九二五),昭和二年(一九二七)には、弘高が成人教育講座を開催した。,八月から十月までの毎週火・木・土曜日の午後六時半から九時半まで弘高講堂において、一般市民を対象に実施したものであった,このように弘高は、国の社会教育振興の施策に協力する形で、当時における弘前市民の文化的渇望の一部を満たしたものといえる / 弘前高等学校と市民
通史編5(近・現代2) (新制弘前高校の誕生)

新制弘前高校の誕生 『二世紀への旅立ち-弘高百年の歩み』と題された記念誌に『東奥日報』の記事として男女共学,質実剛健を校風に明治十七年八月二十日、士族とわずかな平民でスタートした弘高は、ここに男女席を同じくしたのである,女生徒は非常に積極的でしたよ」と話すのは弘高五回生の作家・長部日出雄。,弘高に新風を吹き込んだ女生徒だが、学校側には必ずしも歓迎の空気があったわけではなかった。   / 新制弘前高校の誕生
通史編4(近・現代1) (玉成高等小学校の創立)

玉成高等小学校の創立 明治十九年の小学校令で尋常ならびに高等小学校が設置されたが、弘前及び中津軽郡各村,は、郡の中心地たる弘前に高等小学校一校を設置して、郡内の高等小学校入学希望者を一括して弘前高等小学校が,弘前高等小学校は校舎の狭隘を告げ、中津軽郡児童の入学を拒絶するのやむなきに至った。,ここにおいて中津軽郡各村では新たに高等小学校設置の必要に迫られ、三十二年四月に誕生したのが玉成高等小学校,写真105 玉成高等小学校校舎  新築校舎は弘前市下白銀町二〇番地(現弘前中央高校敷地)に建てられ / 玉成高等小学校の創立
通史編5(近・現代2) (弘高通信教育部の誕生)

弘高通信教育部の誕生 昭和二十三年、弘前高等学校に「通信教育部」として通信制の課程が発足した。,そこでなされたのが弘高通信教育部懇談会である。,中弘南地区(弘高)・青森地区(青森女子高〔のち青森高校と統合〕)ご西北地区(木造高)の三地区で行われた,」は「高校卒業の資格を得たい」に変わってきた。,弘前高校通信教育が実施されてから八年目にして、最初の卒業生が二人誕生した。 / 弘高通信教育部の誕生
通史編5(近・現代2) (鉄道の高速化)

鉄道の高速化 自家用車の普及に伴う鉄道利用客の減少に歯止めをかけるため、輸送サービスの質的向上を目的 / 鉄道の高速化
通史編5(近・現代2) (高度経済成長の終焉)

高度経済成長の終焉 昭和四十六年(一九七一)に、アメリカのニクソン大統領は、金とドルの交換停止を主な,このことによりドルの円に対する価値が下がり、円高となり、日本の輸出が不利となって景気が後退した。,この影響は、ニクソン・ショックと重なり、日本経済に深刻な影響を与え、高度経済成長は行き詰まった。,こうした経過は日本の高度経済成長を終焉させ、安定成長への転換を促した。  ,昭和六十年のアメリカでの五ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議におけるプラザ合意による円高の容認は、日本にバブル / 高度経済成長の終焉
通史編4(近・現代1) (高等学校誘致運動の展開)

高等学校誘致運動の展開 明治二十七年(一八九四)に制定された高等学校令により、明治四十一年までに全国,(東京)、第二高等学校(仙台)、第三高等学校(京都)、第四高等学校(金沢)、第五高等学校(熊本)、第六高等学校,(岡山)、第七高等学校(鹿児島)、第八高等学校(名古屋)があった。,冠する高等学校の増設が図られるようになった。  ,弘前市においても高等学校誘致運動がいっそう盛んになり、同年七月には石郷岡文吉市長から市会に提出された高等学校設置 / 高等学校誘致運動の展開
通史編5(近・現代2) (弘前高校の生徒自治会)

弘前高校の生徒自治会 昭和二十四年四月に文部省から出された「新制中学校・新制高等学校望ましい運営の指針,その頃の弘高生は、生徒大会を心から楽しみにしていた。,当時の弘高は、ある意味で「民主主義」の実験室だった。  ,さらに「三無主義」は全国の高校を巻き込み、それにつれて教育の荒廃が社会問題にまで発展した。,明治十三年の開校以来、昭和五十八年は弘高の創立百年の年であった。 / 弘前高校の生徒自治会
通史編4(近・現代1) (弘前高等女学校の開校)

弘前高等女学校の開校 県内には弘前女学校があるだけで、高等女学校を設置しようという動きが生まれてきたのは,弘前市は市勢振興の一環として、早くから高等女学校設置に名乗りを上げていたが、県は臨時県会で、本県初の県立高等女学校,本県最初の高等女学校として、その開校式は華麗を極めたものであったという。,四十二年(一九〇九)四月一日、青森県立第一高等女学校は「青森県立弘前高等女学校」に改称された。,写真112 弘前高等女学校生徒 (明治40年ごろ) / 弘前高等女学校の開校
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

越後高田領検地の実施 天和二年(一六八二)三月十九日、津軽弘前藩江戸留守居役は老中阿部正武より越後高田領,図90.越後高田領検地拝命を伝える書状の写し 目録を見る 精細画像で見る  二十四日には幕府目付高木守勝,このような中で、現地の幕府代官から渡された清書の帳面の石高と、江戸で下付された高割帳のそれが相違し、検地条目,すなわち新検高には人為的な操作が施され、越後高田領の石高は幕府と検地担当藩との間で、人為的に決定されたものと,○印は高田検地につき,新規召し抱えられた者。△印は高田検地下命前の召し抱え。   / 越後高田領検地の実施
通史編5(近・現代2) (高度経済成長と出稼ぎ)

高度経済成長と出稼ぎ わが国の農業・農村は昭和三十年代以後の高度経済成長で大きな変貌を遂げるが、昭和三十五年,また、昭和三十五年(一九六〇)から四十八年(一九七三)までは、日本の高度経済成長期である。,同時に、都市過密化、物価上昇、公害問題など高度経済成長のひずみも発生した。  ,高度経済成長は、日本の産業構造、特に農業構造を大きく変貌させた。,その多くは農家からの出稼ぎであった(高田浩稔『青森県出稼労働史』、一九九九年)。 / 高度経済成長と出稼ぎ
通史編5(近・現代2) (輝く弘前工高のスポーツ)

輝く弘前工高のスポーツ 弘前工業高校の歴史をひもとくとき、工業界における活躍はもとより、スキー、ボクシング,昭和五十一年、創部五十年目にして硬式野球部が甲子園初出場を果たした五十一年春の選抜高校野球選手権大会では,五十二年に全国高校バレーボール選手権大会で初優勝を飾り、さらに全国高校総体、あすなろ国体でも優勝し、前人未踏,その他、紙幅の都合で書き切れないほどの活躍が弘前工業高校には燦然と輝いている。,写真204 弘前工業高校あすなろ国体で優勝(昭和52年10月6日) / 輝く弘前工高のスポーツ
通史編5(近・現代2) (弘前実業高校の県立移管)

弘前実業高校の県立移管 昭和三十五年(一九六〇)四月、市立商業高校と市立女子高校は合併して弘前市立実業高校,弘前市が二つの高校を抱えることの財政負担を軽減すべく、廃校か県移管かの選択のなかから、両校が統合した上,合併したての実業高校には、無論統一校舎はなく、とりあえずは旧校舎を使うこととし、原ヶ平校舎を第一校舎、,しかし、翌三十六年からは、徐々に高校としての体裁が整えられていき、四月には新校舎の一部が落成して使用が,これに伴い、校名は青森県立弘前実業高等学校と改称された。   / 弘前実業高校の県立移管
通史編1(古代・中世) (安藤高季の活躍)

安藤高季の活躍 高季は、建武方に加わって大光寺合戦にも参戦し、新たに平賀郡上柏木郷(現平賀町柏木町付近 / 安藤高季の活躍
通史編5(近・現代2) (弘前中央高校の環境整備)

弘前中央高校の環境整備 弘前中央高校が、校舎の改築に先立って講堂を建設したことはすでに述べたところであるが,そこで、弘前中央高校では、隣接していた和徳中学校(三十三年、市村合併により第一中学校へ統合)の敷地を買収,、図書館(独立棟)、特別教室棟、体育館が順次竣工し、さらに四十一年にはプールも完成し、これで弘前中央高校,四十九年、北西側に残っていた木造校舎に代わって鉄筋四階建ての新校舎が建てられ、ここに弘高女時代からの校舎,式典では、弘前中央高校八十年の歴史を中心とした高谷勝敬校長の式辞に始まり、旧校歌の合唱され、歴代校長・ / 弘前中央高校の環境整備
通史編5(近・現代2) (禅林街・太平高等学校)

禅林街・太平高等学校 西茂森町の禅林街に太平中学があった。,昭和二十三年には太平高等学校と校名を改めたが、課程は普通科と仏教科に分かれており、一般人の入学も認めた,仏門の繁栄とそのための後継者の育成、そして戦後の荒廃を仏教で乗り切って救済しようと発足した太平高校ではあったが,太平高校が廃校となったのは、昭和四十三年のことである。 / 禅林街・太平高等学校
通史編1(古代・中世) (高麗氏から伝領した所領)

高麗氏から伝領した所領 曽我氏は姻戚関係を通じて高麗氏からも所領を伝領した。,泰光夫人慈照の母蓮阿は高麗景実の女子で、宝治二年(一二四八)に武蔵国高麗郡東平沢の内を景実から譲渡された / 高麗氏から伝領した所領
通史編5(近・現代2) (高速交通体系の整備)

高速交通体系の整備 昭和四十一年七月、東北地方の高速交通体系の整備として、東北縦貫自動車道建設(岩槻,津軽平野東端の丘陵地帯を北上する計画(昭和四十二年十一月決定)であったため、昭和四十四年四月、黒石市では高速自動車道交通対策特別委員会,結局、青森県議会議長が、弘前市側から要望された西・北津軽郡地方と高速道路を結ぶバイパス建設の促進等の四項目実現,その実現に向けて弘前市の強い意気込みがあったが、結局はその誘致合戦において一歩譲る形をとることになり、高速交通体系 / 高速交通体系の整備
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

城下高岡の形成 当時、弘前は「二石(についし)」と呼ばれており、築城後は、「高岡(たかおか)」と呼ばれた,なお、「高岡」の地名由来は「鷹が営巣(えいそう)する岡」にあるらしく、慶長十五年八月幕府の鷹匠三橋但馬,築城当時の城下高岡がどのような状況であったのかは、資料がなく不明である。 / 城下高岡の形成
通史編5(近・現代2) (女子高等教育機関の整備)

女子高等教育機関の整備 弘前市における女子高等教育機関は、戦後、初めてその発足をみた。,同校卒業者には、生活科は家庭科家政及び保健、被服科は家政科被服の中学校、高等学校の教員資格が与えられることになっていて,また、昭和二十一年六月、弘前女子厚生学院が、弘前女子厚生専門学校に昇格し、中学校、高等学校の保健体育の,に弘前教会内に創設された来徳(ライト)女学校を母体とする私立弘前女学校は、昭和二十一年四月、弘前聖愛高等学校 / 女子高等教育機関の整備
通史編5(近・現代2) (弘前工業高校の動向)

弘前工業高校の動向 終戦による混乱は弘工も例外ではなかった。食糧難は生徒にも深刻な影響を与えた。,昭和二十三年四月、青森県立弘前工業高等学校と改称された。,新制高校の発足と時を同じくして、定時制が開設された。,定時制は、地域的に通えるように分校を設置したこともあるが、生徒の確保が難しく、大浦分校は短期間で弘前中央高校 / 弘前工業高校の動向
通史編5(近・現代2) (弘前聖愛高等学校の歩み)

弘前聖愛高等学校の歩み 昭和二十一年、弘前女学校を改め、校名を「弘前聖愛高等女学校」とした。,昭和二十三年四月、新制高校が発足すると、校名は「弘前聖愛高等学校」と改称された。,それと並行して校舎も整備され、二十四年に図書館が完成、二十九年には老朽化した高谷記念館を解体し、その跡地,昭和二十五年六月、法人名を弘前学院としたことに伴い、校名を弘前学院聖愛高等学校とした。 / 弘前聖愛高等学校の歩み
通史編5(近・現代2) (弘前実科高等女学校の変遷)

わったのが弘前実科高等女学校である。,、女子実業学校から四年制の弘前実科高等女学校に昇格した。,写真73 農耕作業に出る弘前市立弘前高等女学校生(昭和18年頃)  十八年には弘前市立弘前高等女学校,と改められたが、九月にはもう一度変わって、弘前市立高等女学校になった。,高杉・独狐の託児所にも出かけている。 / 弘前実科高等女学校の変遷
通史編5(近・現代2) (官立弘前高等学校赤化事件)

官立弘前高等学校赤化事件 いわゆる「赤い太鼓事件」については、『虚空に羽ばたき-弘前高等学校五十年史,大正末年ごろから弘前高等学校には「弘高社会科学研究会」(弘高社研)が組織された。,「弘前高等学校盟休生一同の声明書」が出され、この活動の中心的役割をなしたのが新聞雑誌部員であり、実質的,私ら八年組は、昭和七年六月、弘高「赤い太鼓」事件として、全協・共産青年同盟などの団体と連繋し、学内及び,され、[   ]、[   ]、[   ]、私の四名は、中心人物ということで起訴保留処分を受け、八月、弘高は / 官立弘前高等学校赤化事件
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