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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(高杉面)
高
杉
面
高
杉
面は岩木川以北に分布し、市街地の城東面に対比される。,面上には鼻和(はなわ)・富栄(とみざかえ)・独狐(とっこ)・前坂・
高
杉
・糠坪(ぬかつぼ)などが点在し、,面の
高
度は鼻和・富栄付近で約三七~四〇メートル、独狐で約三二~三三メートル、前坂・
高
杉
で約二七~二八メートル,ほとんどりんご園として利用されているが、特に鼻和・富栄と、
高
杉
付近の谷底部では水田として利用している。,ところで、
高
杉
面を構成する駒木浮石流凝灰岩に相当する軽石粒混じり粗粒砂層は、砂沢溜池に注ぐ小谷および前萢川流域 /
高
杉
面
通史編5(近・現代2)
(高杉小学校の創設)
高
杉
小学校の創設 昭和三十八年(一九六三)四月一日、
高
杉
小学校と独狐小学校が合併し、新たに弘前市立
高
杉
小学校,発表し、学校統合整備、危険校舎解消などを五ヵ年の間に積極的に押し進めようというもので、その第一着手が
高
杉
,大正十三年(一九二三)六月再び合併、十五年(一九二五)六月に分離していたもので、両校は同じ
高
杉
村でありながら,両校とも老朽校舎だったため新敷地に校舎を改築することにし、三十八年九月
高
杉
字神原七番地一に鉄筋二階建て,新発足の
高
杉
小学校は一八学級編成、初代校長に大瀬秀四郎が就任した。 /
高
杉
小学校の創設
通史編4(近・現代1)
(玉成高等小学校の創立)
玉成
高
等小学校の創立 明治十九年の小学校令で尋常ならびに
高
等小学校が設置されたが、弘前及び中津軽郡各村,は、郡の中心地たる弘前に
高
等小学校一校を設置して、郡内の
高
等小学校入学希望者を一括して弘前
高
等小学校が,ここにおいて中津軽郡各村では新たに
高
等小学校設置の必要に迫られ、三十二年四月に誕生したのが玉成
高
等小学校,写真105 玉成
高
等小学校校舎 新築校舎は弘前市下白銀町二〇番地(現弘前中央
高
校敷地)に建てられ,、設立者は中津軽郡清水村、
高
杉
村、大浦村(現岩木町)、藤代村、相馬村、岩木村・駒越村(ともに現岩木町) / 玉成
高
等小学校の創立
通史編5(近・現代2)
(弘前実科高等女学校の変遷)
わったのが弘前実科
高
等女学校である。,、女子実業学校から四年制の弘前実科
高
等女学校に昇格した。,写真73 農耕作業に出る弘前市立弘前
高
等女学校生(昭和18年頃) 十八年には弘前市立弘前
高
等女学校,と改められたが、九月にはもう一度変わって、弘前市立
高
等女学校になった。,
高
杉
・独狐の託児所にも出かけている。 / 弘前実科
高
等女学校の変遷
通史編5(近・現代2)
(北辰中学校の開校)
北辰中学校はこれまでの
高
杉
中学校と自得中学校の統合により誕生した。,最初は名目統合で、
高
杉
校舎と自得校舎に分かれて授業、
高
杉
校舎は生徒数三一五人、教員数一五人、九学級編成,統合新校舎は校地を
高
杉
字五反田に定め、鉄筋コンクリート造三階建ての新築工事は、昭和四十五年三月から第一期工事,完成と同時に
高
杉
・自得両校舎から新校舎に移転、実質統合となった。
通史編5(近・現代2)
(総選挙での戦い)
町村名 清水 和徳 豊田 堀越 千年 駒越 岩木 相馬 東目 屋 西目屋 藤代 新和 大浦 船沢
高
杉
, 同 佐藤謙之進 同 今泉銀次郎 同 吉安俊策 同
杉
見惣助 △常任幹事
高
杉
村
高
杉
隆治, 弘前市 工藤五三郎 △幹事
高
杉
村
高
杉
隆治 豊田村 小山内徳進 大浦村 齋藤晋作,
高
杉
金作 東京 工藤十三雄 和徳村 笹森栄 △相談役
高
杉
村
高
杉
隆治 弘前市 大
高
喜八郎,
高
杉
平治 立憲民政党青森県支部の中弘関係者 △支部長 野辺地町 野村治三郎 △顧問
資料編1(古代・中世編)
([付図])
72~106 弘前市中別所字葛野 石仏 107 弘前市中別所字葛野 荼毘館跡 108~110 弘前市
高
杉
字山下,八重山(八重の森) 111 弘前市
高
杉
字山下 南貞院境内 112 弘前市
高
杉
字阿部野 下
高
杉
墓地 113,弘前市
高
杉
字神原 工藤喜久雄氏宅地内 114 弘前市独狐字独狐森 稲荷小祠横 115 弘前市独狐字石田,周辺の中世城館跡 1 笹館 66 大釈迦館 2 小友館 67 真言館 3 種市館 68 持子沢館 4
高
杉
館,109
高
畑城 44 中畑館 ?
通史編4(近・現代1)
(郡制の施行)
中津軽郡会議員(定員一六人) 駒越村 石郷岡文吉 堀越村 葛西穏 和徳村 川村譲
高
杉
村,新和村 野呂源太 藤代村 未詳 大地主互選議員 笹森清次郎 加藤長幸 小山内雄蔵
高
杉
金作,また、郡長の任用が府県知事に委されていたものが試験制度になり、従来の工藤行幹、笹森儀助、
杉
山龍江らの有力者郡長,藤代村 小山左七 新和村 大
高
喜八郎 船沢村
高
谷貞助
高
杉
村 外崎平八 岩木村 太田惣六 ,相馬村 沢田藤太郎 大浦村 前田俊蔵 駒越村 小
杉
左吉 東目屋村 竹内藤太郎 西目屋村 斎藤弘民
通史編4(近・現代1)
(中津軽郡会)
村会議員互選当選者 駒越村 石郷岡文吉 堀越村 葛西穏 和徳村 川村譲
高
杉
村,大地主互選会当選者 和徳町 笹森清次郎 和徳町 加藤 長章 豊田村 小山内雄蔵
高
杉
村,
高
杉
金作 藤代村 岩谷吉太郎 なお、郡会議員の選挙制度は、明治三十二年九月十五日の選挙から複選法,藤代村 小山左七(憲本) 新和村 大
高
喜八郎(憲本) 船沢村
高
谷貞助(憲本)
高
杉
村
通史編1(自然・原始)
(掘さくの深度)
また、平野西部では、弘前市街地から岩木町付近、弘前市
高
杉
付近の順に深くなる。,同一帯水層からの揚湯と仮定すると、帯水層の形状は田舎館村付近および弘前市
高
杉
付近を中心とする盆状構造を,一方、東部の平賀町・田舎館村・浪岡町付近には、五〇〇メートルより浅い温泉が分布しないし、弘前市
高
杉
より,判断すると、帯水層を形成する地層は南北性に延びた褶曲(しゅうきょく)軸(平賀町-田舎館村地区・弘前市
高
杉
地区,なお、弘前市街地から
高
杉
地区にかけては、掘さく深度が徐々に増加することから、断層の存在は考えにくく、弘前市街地
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
越後
高
田領検地の実施 天和二年(一六八二)三月十九日、津軽弘前藩江戸留守居役は老中阿部正武より越後
高
田領,図90.越後
高
田領検地拝命を伝える書状の写し 目録を見る 精細画像で見る 二十四日には幕府目付
高
木守勝,すなわち新検
高
には人為的な操作が施され、越後
高
田領の石
高
は幕府と検地担当藩との間で、人為的に決定されたものと,田口十兵衛 ○ 6 目付 岩田又五郎 目付 7 賄方 長尾戸左衛門 馬廻組士 8 〃
杉
山田金助,○印は
高
田検地につき,新規召し抱えられた者。△印は
高
田検地下命前の召し抱え。 / 越後
高
田領検地の実施
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
杉
板の廻漕は、主に秋田氏の領内に設定された太閤蔵入地からの収入がその費用に充当させられた。,具体的に慶長三年を例にとってみると、秋田氏の知行
高
五万二四四〇石に対し、同氏が代官として任命された太閤蔵入地,の石
高
は二万六二四四石八斗三升であり、秋田領の二分の一に当たる石
高
がそれに該当した。,津軽氏は、知行
高
三万石に対し約一万五〇〇〇石が太閤蔵入地として設定されていた。,では道川三郎左衛門・
高
嶋屋(たかしまや)次郎左衛門、越中国では柴草屋(しばくさや)六兵衛・氷見(ひみ)
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
-富田村 紙漉町 坂本村 常盤坂村 悪戸村 下湯口村 小沢村 和徳村(大字堅田)-堅田村 和徳村
高
崎村, 津賀野村 百田村 向外瀬村 清野袋村 豊田村(大字新里)-新里村 境関村 福田村 福村 外崎村
高
田村, 小友村 三和村 笹舘村 船沢村(大字富栄)-富栄村 細越村 折笠村 宮舘村 中別所村 蒔苗村
高
杉
村,(大字独狐)-独狐村 前坂村 薬師堂村
高
杉
村 糠坪村 裾野村(大字大森)-大森村 貝沢村 鬼沢村 ,
高
杉
村-大村
高
杉
村と旧藩時代
高
杉
組の頭村に由来。
通史編3(近世2)
(桐山正哲)
四代正哲は明和七年(一七七〇)に家督(
高
一五〇石六人扶持)を相続し、表医となった。,正哲は前野良沢、
杉
田玄白とともに『解体新書』の翻訳に参画した。,見立てた「洋学者相撲見立番付」(寛政十年〈一七九八〉)には、「東方の年寄」に前野良沢、「西方の年寄」に
杉
田玄白,の名があり、正哲は「東方の行司」に名が挙がっており、蘭学者としての彼の当時の評判の
高
さがおのずと知られる
資料編1(古代・中世編)
(弘前1~133)
106 弘前市中別所字葛野-石仏- 弘前107 弘前市中別所字葛野-荼毘館跡- 弘前108 弘前市
高
杉
字山下,-八重の森- 弘前109 弘前市
高
杉
字山下-八重の森- 弘前110 弘前市
高
杉
字山下-下
高
杉
墓地・,八重の森- 弘前111 弘前市
高
杉
字山下-南貞院境内- 弘前112 弘前市
高
杉
字阿部野-下
高
杉
墓地,- 弘前113 弘前市
高
杉
字神原-工藤喜久雄氏宅地内- 弘前114 弘前市独狐字独狐森-稲荷小祠横
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
小野亀太郎 大川村
杉
山長一郎, 對馬安次郎 笹舘村 (欠落) 旧
高
杉
組, 神半次郎 楢木村 小山内貞助
高
杉
通史編3(近世2)
(長徳寺)
長徳寺 長徳寺(ちょうとくじ)は、享禄年間(一五二八~三一)、
高
杉
(たかすぎ)村(現市内)に創建され
通史編4(近・現代1)
(鬼沢小学開校と「村落小学」)
同 同 二 七〇 同 現船沢小学校 独狐小学 同 独狐村 同 新築 公有 一 七〇 同 現
高
杉
小学校,の前身
高
杉
小学 同
高
杉
村 同 民家 借用 一 四六 一七 同 現
高
杉
小学校の前身 鬼沢小学 同
通史編4(近・現代1)
(民次郎百年忌)
「義民藤田民次郎建碑趣意書」で、差出人は中津軽郡裾野村大字鬼沢の鳴海柾吉、野呂利江次郎、
高
杉
村の藤田重太郎,ニシテ五穀実ラズ下民饑餓ニ泣クモ惨状上ニ達セス人心為メニ恟々(きょうきょう)タリ 時ニ文化十年九月
高
杉
組藤代組広須組木造組等,人名別紙ニ参考ニ供ス 大正三年一月 文化十年九月四組百姓強訴事件ニ関シ処刑セラレシ人名
高
杉
組鬼沢村彦兵衛二男, 仝 弥三右衛門(大赦により十二月廿八日十四里四方追放大場構)
高
杉
組十腰内甚太郎子,上鞭刑拾八村払 忠三郎 藤代組廻関村 鞭刑 拾弐鞭 弥五左衛門
高
杉
組貝沢村
通史編4(近・現代1)
(貴族院議員選挙の概況)
弘前市-藤田謙一・宮川久一郎・中谷熊吉・関清六・宮川忠助、和徳村-笹森栄、千年村-松木純一郎、船沢村-
高
谷貞助,、弘前市-菊池長之・桜庭秀輔・藤田久次郎、
高
杉
村-
高
杉
金作・鳴海傳次郎、関藤吉、石崎定吉の一五人がいる
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
近世大名の領知
高
は、各大名に賦課された大名課役、特に普請役
高
を根幹として、統一政権との間で政治的に決定,秀吉当時の大名の領知
高
を記した各史料と、豊臣政権下で北奥羽の大名に課された役である秋田
杉
板の作事板搬出割,での津軽家の役
高
は本
高
としてほぼ見なしえよう。 ,領知
高
となる。,に
高
直りするまでの期間に、弘前藩は、「津軽之
高
四万五千石」と飛地領を加えた
高
を本
高
として公役を賦課されたのであって / 津軽家宛ての領知宛行状と領知
高
の変動
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
経緯が、この中央権力の分裂事態に反映し、以前の人脈がそのまま支持勢力となっていったのである(大林太良・
高
木昭作責任編集,らの大名を引き続き上
杉
攻撃に当たらせた。,七月下旬には伊達政宗が自領に接する上
杉
領である刈田郡白石城を落とした。,最上義光は、上
杉
氏の撤兵の後、かつてその領するところであった庄内地方を上
杉
氏から奪回する好機とみて、庄内攻略,表5 動乱後の大名配置 居 城 氏 名 石
高
陸奥 弘前 津軽信枚 47,000 〃
資料編1(考古編)
(3.尾上山遺跡)
3.尾上山遺跡 (遺跡番号 02005)(図3・第2章図18) (1)所在地 弘前市大字
高
杉
字尾上山,、俗称寺屋敷または
高
杉
山 (2)遺跡の立地 岩木山の東北東麓に点在する小丘糠森山(149.3m),の東約1.2kmに所在し、灌漑用の奈良寛溜池に面した標
高
約120mの台地上にある。
通史編4(近・現代1)
(地主制の確立と在村地主の役割)
貴族院議員)、宮本甚兵衛(弘前市、実業家、貴族院議員)、岩谷吉太郎(藤代村、第三代村長、県会議員)、
高
谷貞助,(船沢村、中津軽郡議会議長)、
高
杉
金作(
高
杉
村、衆議院議員、弘前商業会議所会頭)、笹森栄(和徳村、村長,古川忠次郎、岩木村-笹衛之進、東目屋村-西沢茂三郎、藤代村-岩谷吉太郎、新和村-木村弥次郎、駒越村-小
杉
佐吉,(駒越村長)、大浦村-神文之介・笹義幹(大浦村長)、船沢村-対馬源太夫・永野正也(船沢村助役)、
高
杉
村,-
高
杉
金作・藤田重太郎、堀越村-新屋多助(堀越村長)である。
資料編1(古代・中世編)
(七 板碑の発見と保護の状況)
①弘前市
高
杉
の宇気茂都大神の板碑は、工藤喜久雄氏屋敷内へ移転し、奥石神社として祭られている。,②弘前市
高
杉
八重の森の断碑上半は、下
高
杉
墓地で確認(山屋道朗氏の調査による)。,昭和四十年代の城東団地の造成で、
高
崎堤の東にあった板碑二基は外崎三丁目外崎氏地所へ、通称「寺内」の螺喰田圃
通史編2(近世1)
(林政の展開と漆木の栽培)
元禄7(1694).正.24 郡奉行の申し立てにより,松・
杉
・檜・楢の実の採取と松・
杉
・桐・檜・槻その,元禄10(1697).6
高
杉
組大森村(現大森)の大森・せうか森に松1万4000本植林。,宝永元(1704)
高
杉
組鬼沢村(現鬼沢)の野山に松・
杉
等の植林を命じる。,三月十二日条の漆奉行「口上書」によれば、元禄飢饉以来の凶作・不作によって村々に残された数十町歩の荒畑を、
高
無,この政策は、
高
無百姓に対する飢饉後遺症からの救済措置と併せて、新たな形式をとった年貢の確保策と考えられている
通史編4(近・現代1)
(曲物(まげもの)の商況)
曲物(まげもの)の商況
杉
などの薄い木材を加工して作る円形の容器である曲物の取引については、次のように,岩手県各町村ニシテ、此ノ輸出数量ハ千八百個(壱個ニ付百入)、其価格ハ五千四百円ナリ、尤一両年前ヨリ、元料価(
杉
檜木材,)漸次騰貴セシト雖トモ、製造品ハ敢テ
高
価ニ売却スルコト能ハス、然ル所以ハ、該品ハ本市ノ物産ニシテ、所謂国産
通史編4(近・現代1)
(農業団体の発展)
するようになり、同三年(一九一四)には独自に清水・和徳・豊田・堀越・駒越・岩木・相馬・東目屋・藤代・大浦・船沢・
高
杉
,さらに、船沢村青年団・
高
杉
村強行青年団が、品評会を開催した(「各村農会開催、農作物品評会一等の受賞者」,小野貞助、川村三太郎、加藤喜久衛、阿保満吉、対馬豊、千年村の古川一英、藤代村の石戸谷左五郎、駒越村の小
杉
佐吉,明治十三年(一八八〇)、清水村
高
田の果樹園においてブドウ及びりんごなどの栽培を始めた。
通史編2(近世1)
(民次郎一揆)
民次郎一揆 文化十年(一八一三)九月二十八日、藤代組(ふじしろぐみ)(現弘前市・北津軽郡鶴田町)・
高
杉
組,判然としなかったようであり、最終的には、工藤仁右衛門に願書を手渡しし、終始首謀者であることを主張した「
高
杉
組鬼沢村彦兵衛次男民次郎,このほか、
高
杉
組立石村(たていしむら)(現西津軽郡鰺ヶ沢町)庄屋作太郎と木造新田山田村(やまだむら)(,要求内容が、いずれも不熟作を背景とした年貢の減免であったため、各強訴を総体としてとらえている可能性も
高
い
通史編4(近・現代1)
(道路改修問題と佐和知事)
中津軽郡 定員三人 当選 一五票 寺井純司(弘前・改進) 一五票
高
杉
金作(,
高
杉
・改進) 一三票 村谷有秀(富田・中立) 弘前市 定員二人 当選 二三票,20 弘前市関係各道路線表 名称 起線 経過市町村 終尾 第41号国道 青森市長島 滝内村、新城村、大
杉
村
通史編4(近・現代1)
(護憲を巡る動き)
する者、板垣退助・尾崎行雄・岡崎邦輔・犬養毅をはじめ貴衆両院議員・新聞記者・実業家など三千余人、座長
杉
田定一,会する者、
高
杉
金作、川村譲、藤田重太郎、小山内正作、大
高
喜八郎、佐藤昇一、小
杉
佐吉、岩谷吉太郎、斎藤晋作
通史編3(近世2)
(討庄応援兵の派遣)
これに対して国元では、早速家老
杉
山八兵衛の仙台派遣を決め、応援兵派遣へと準備しはじめることになる。,
杉
山八兵衛の仙台派遣は、西館宇膳より諸藩が次々と総督府に使者を送っている様子が伝えられたことに基づく判断,四月十六日、
杉
山八兵衛は、弘前を出発して仙台へ向かった。,をみせていた藩執政の三好監物と坂本大炊を藩中枢から退けるという動きを示す中、総督府は世良修蔵らを中心に
高
圧的,弘前を出発した
杉
山八兵衛は、新庄へ到着して滞陣中の沢副総督に会い、その様子を四月二十五日付の書状の中で
通史編5(近・現代2)
(一 小学校教育)
七 5 小学校 三和 三和字川合二五一の二 田中豊広 一二 四一五 一〇 6 小学校 新和 種市字
高
瀬九五,工藤武衛 一一 四三三 一〇 7 小学校
高
杉
高
杉
字神原二六四 松山正 一三 五一二 一二 8 小学校,27 小学校 城西 五十石町一九 坂本平三 二四 九五二 二〇 28 小学校 第一大成 土手町一五七
高
橋芳一
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
(大鰐)(注、( )は旧組名) 薬師堂 乳井 大沢 石川 吹上 三目内 森山 居土 鯖石 八幡舘
高
畑, 福村 小比内(さんぴない) 清水森 新里 門外 取上 松木平 小栗山 堀越 大和沢 大清水 外崎
高
田,国吉 紙漉沢 五所 水木在家 坂市 相馬 藤沢 大助 藍内 沢田 黒土 吉川 米袋 中野 中畑 番館
杉
ヶ,小山 中畑 船水 藤代 土堂 石渡 鳥町 町田 藤内 八代 外瀬 大川 桂 川村 笹舘 第二四区(
高
杉
, 中別所 第二五区(
高
杉
) 鬼沢 独狐 蒔苗 薬師堂 前坂
高
杉
糠坪 楢ノ木 大森 藤井 貝沢
通史編5(近・現代2)
(夏季オリンピック)
赤石光生は昭和四十年、弘前市
高
杉
に生まれた。弘前市立第一中学校から八戸光星学院
高
等学校へ進学。,
高
校二年のとき、すなわち昭和五十六年に、初めての国際試合ジョリエット・ジュニア世界選手権で二位に入賞して
通史編4(近・現代1)
(農会の設立と農事改良)
千年一一九、相馬一三八、東目屋一一一、西目屋一五八、岩木一五〇、大浦二六二、船沢一七五、駒越一七四、
高
杉
一二六,(堀越村)、稲-木村要作(豊田村)・木村長五郎(同)、大豆-清野長二郎(清水村)、株大豆-象潟皓一(
高
杉
村,堀越九九、千年八九、相馬九三、東目屋八八、西目屋一四七、岩木一一六、大浦二三六、船沢一一三、駒越一一三、
高
杉
九六
通史編4(近・現代1)
(小学校令と中津軽郡)
尋常小学校となったもの五校 強行尋常小学校(十六年六月
高
杉
・独狐小学校が合併したもの。,現
高
杉
小学校) 富栄尋常小学校(二十年五月鼻和・富栄小学校が合併。
通史編2(近世1)
(廃田復興・新田開発の進展)
二万七二五二石余に及ぶ面積が開発された(「享和三年より文政二年迄開発田畑
高
反別組寄調帳」国史津)。,新田地方が多く、藩の穀倉である現在の南津軽地域は少ない傾向がみられるが、現在の弘前市域に当たる藤代・
高
杉
組,67.41 378.689 藤代 120.21 877.590 152.49 373.214
高
杉
,開発が見込まれている土地は一二九六町八反歩で、現在の弘前市域に限っても、小友村のほか、和徳組津軽野村、
高
杉
組
高
杉
村,分米
高
より二〇〇石以上の増加をみせている。
通史編5(近・現代2)
(経済更生運動と計画)
経済更生計画は全村ぐるみで行われ、同計画に基づいて、新和村、船沢村、豊田村、和徳村、堀越村、大浦村、
高
杉
村,1,199 大浦村 516 423 241,245 570 船沢村 524 515 274,212 532
高
杉
村,経済更生計画は全村ぐるみで行われ、同計画に基づいて、新和村、船沢村、豊田村、和徳村、堀越村、大浦村、
高
杉
村
資料編1(古代・中世編)
(第二節 五輪塔)
水輪 三世寺神明宮疱瘡神の堂内 風輪・空輪 中崎字川原田(俗称五輪)の畑 火輪・地輪
高
杉
八重,また、
高
杉
の八重の森の五輪塔も確認できない。,『陸奥古碑集』に見える五輪塔 二(右上)は中崎,七(右下)は
高
杉
八重の森,十一(左)は乳井の五輪塔
資料編1(古代・中世編)
(一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)
記録に伝えられた「十二人屋形城衆」の名は、①桜庭太郎左衛門、②中畑惣助、③村市与七郎、④大秋彦次郎、⑤
高
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孫二郎,桜庭太郎左衛門初名兵助信正、(中略)国吉関惣右衛門、弟黒土近江ヲ分知ス、蒔苗八右衛門、村市形部、(中略)
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杢左衛門
通史編3(近世2)
(建坪と住宅平面図)
建坪と住宅平面図 藩士の役(禄)
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による家屋の新築基準が、「御用格」寛政十年(一七九八)七月二十九日条,図96.間宮市三郎宅平面図 ○
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形左衛門宅 建坪が三六坪二歩五厘というもので、当時の家宅,図97.
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形左衛門宅平面図 ○堀口安兵衛宅 建坪が一八坪と記される小さなものであるが、外
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
寛永十二年次の条文に変更が加えられていないことから、寛永十五年の条文解釈が維持されたものと考えられる(
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柳真三,また、
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山・津軽為節・大道寺は大頭(本節一「四代信政政治の動向と支配機構の整備」参照)であり、加勢編成,三隊の指揮者はいずれも家老・城代であり、この出兵構想は、領知
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四万七〇〇〇石の同藩の総力を挙げた、独自,七月二十三日、江戸からの飛脚が弘前に着き、在府中の藩主信政の御意として、松前に津軽為節・
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山吉成が大頭,この派兵人数の中核をなしたのは
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山が大頭として支配する組であった。
通史編1(自然・原始)
(市街地の地形区分)
これらの河川は岩木山東方の黄金山、
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長根山、
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地山などからなる丘陵を開析し、ほぼ東流して岩木川に注いでいる,この台地は鼻和および富栄付近で標
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四〇メートル、独狐および
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付近で約三〇メートル、そして北方の小友付近,で一五メートルであって、南側ほど
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く北に向かって緩く
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度を下げている。,なお、火砕流台地とは比
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三~四メートルの急崖が存在する。,開析扇状地と下流側の氾濫原とに大別し、その構成層から判断して、上位から桔梗野面・松原面・原ヶ平面・城東面(
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面
通史編5(近・現代2)
(計画案の修正)
③ 藤代中学校と第二中学校、自得中学校と
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中学校、千年中学校と第三中学校、草薙中学校と新和中学校、これらの
通史編2(近世1)
(伏見木幡山城の築城)
運上を命じられたのは文禄四年(一五九五)のことであったが、それ以降、秀吉の死去の翌年である慶長四年まで
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板,なお、文禄四年には伏見指月城の
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板廻漕が秋田氏単独であったものが、翌慶長元年の伏見木幡山(こはたやま),兵庫・赤宇曽(あこうづ)孫次郎・滝沢又五郎・内越(うてつ)孫五郎・岩屋(いわや)孫太郎らもそれぞれの石
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に,
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板は、文禄四年当初は「御橋板」というように、伏見指月城の対岸にある向島に架かる橋の用材に使用するための,伏見木幡山城の築城がすでに始められていた慶長二年からは「伏見御作事為御用」「公儀御板」「天下御作事之
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板
通史編2(近世1)
(伏見築城と奥羽大名)
上
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景勝(うえすぎかげかつ)は秀吉から「於伏見惣拇堀普請」のため人足四〇〇〇人を、佐竹義宣(さたけよしのぶ,実季は、文禄三年に敦賀(つるが)城主大谷吉継(おおたによしつぐ)の家臣と考えられる
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橋次郎兵衛に「橋板,実季は、伏見城の普請役を免除される代わりに、その用材である
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板を豊臣政権から賦課されていたのであり、これは,秀吉は奥羽仕置と同時に秋田領の
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に目をつけ、それを朝鮮出兵や政権の中枢である伏見城の普請・作事に利用しようとしており,、秋田の
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板は豊臣政権を支える一大要素として位置づけられていたのであった。
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
一八ヵ村) 黒滝村 湯口村 下湯口村 悪戸村 常盤坂村 坂本村 小沢村 原ヶ平村 富田村 和徳村
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崎村,清野袋村 津賀野村 堅田村 撫牛子村 三小区(一七ヵ村) 菅野村 境関村 福田村 福村 新里村
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田村, 大助村 沢田村 相馬村 藍内村 国吉村 黒土村 吉川村 桜庭村 米ヶ袋村 中野村 番館村 中畑村
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ヶ,小山村 青女子村 大川村 種市村 桂村 小友村 川村 中畑村 笹舘村 七小区(一七ヵ村) 熊島村
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屋村,山科村 小島村 鶴田村 三ッ森村 四戸ノ沢村 八小区(一三ヵ村) 蒔苗村 薬師堂村 独狐村 前坂村
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村
通史編4(近・現代1)
(地券の発行準備)
惣而(そうじて)一村限絵図面差出候積ニ候得共、積雪之時節絵図面ヲ製候義難相成ニ付、村方ニ而当時相用候持
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帳之類,ハ、総而東京府下地券規則之通候事 第十一条 一、拝借又者貸渡地等低価払之義、地方相当代価之半
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積, 元弘前 第弐拾壱区 元駒越組 第弐拾弐区 元駒越組 第弐拾三区 元藤代組 第弐拾四区 元
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組, 第弐拾五区 元
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組 伊藤正良 平出清 ,今般、従来持来之分、地券御渡ニ相成候ニ付、村々田畑屋敷地、山林等、都而(すべて)持主之候地所者、反別
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、
通史編2(近世1)
(正保の信義排斥事件)
一味連判をしたものは、津軽信隆(のぶたか)・津軽権之丞・
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山八兵衛・大道寺宇左衛門・富岡武兵衛・大野甚右衛門,この年の十二月二十八日に出されたと思われる盛岡采女(うねめ)と北村久左衛門に宛てた山田勝重と
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山吉成(,ちなみに、信隆はこの時点で一三〇〇石の
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禄となったのである。
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